画才
 もちろん、誰にでも画才があるわけではないが、私の画才の無さときたらそれはもう人後に落ちることのないほどのものだ。そのくせ、学校の図画や美術の時間はそれほど嫌いではなかった。2時間の授業のうち最初の30分くらいはむしろ楽しくてしょうがないほどだった。が、1時間たち、授業も終わりに近づくと飽きもするし、上手く出来ない苛立ちや、時間内に仕上げようという焦りでもうパニックになってしまった。およそ、不向きに出来ているのだろうと思う。確かに世に名画とうたわれているような作品に、さほど感興をそそられることもなかった。
 あれは小学校の3、4年生のころだったろうと思う。
 写生大会があって、確か1日をかけてどこかの河原で写生を行ったことがあった。弁当を持っての半ば遠足のようなもので、書く場所をさがすのも遊び半分。それでも最初の2時間ばかりは画板を首に下げて、せっせと竹ペンを走らせたものの、弁当を食べてから先はもう友人とふらふら歩き回ったり、おしゃべりをしたり、人の邪魔をしたりとまるで写生にならなかった。
 案の定、後日の授業のあと、居残りで仕上げをさせられることになった。
 スケッチは出来ていたので、絵の具による彩色だけだったが、もうすっかりその風景を忘れてしまっていたわたしはかなり手こずった。遅くもあったし、出来た者から順次帰っていって、もう数人しか居なくなり、私は大雑把に色を付けて終わらせようとした。そこへ教師が回ってきた。
「なんだ。この森はこんな緑一色だったか」
 わたしはそうだと答えた。
「そんなことはないだろう。濃い緑も、うすい緑も、他の色もいろいろ混じっていた筈だ」
 わたしはちがうと思った。緑は緑だし、よしんば濃淡があったとしても、もうどこが何色かなんて覚えている筈がない。それでもわたしは3種類くらいの色分けをしてみたが、自分でもどうも納得ががいかない。結局、一色で塗りつぶした。
 教師は業を煮やしたらしい。わたしのパレットに赤や黄色の絵の具を絞り出し始めた。なにをするんだ、とわたしは少しばかりむっとした。しかし、教師は意に介せず、あろうことかそれらを混ぜてその筆でわたしの絵に色を付けはじめた。
「よく見ると、緑に見える森にもいろんな色があるだろう」
 軽く叩くようにして色を重ね塗りはじめる。ところどころに赤や黄色まで配色するのだが、わたしにはそんな色の記憶などまったくなかった。わたしがそう言ってささやかな抵抗を試みても無駄だった。そのようにして教師は森のほとんどを塗りつぶした。そして、ひとしきり自分でやってから、わたしにその先を続けるように即した。
 なんか違うと思いながらも、もう時間も遅かったし、間もなく残っているのがわたしともう一人だけになってしまったので、やむなくわたしは教師の指示どおり、と言うより教師のした通りに色を付けはじめた。残りの川面や河原、遠景の山まで、教師を真似ておよそ記憶に無い色を塗り重ねていったのだ。教師は満足そうにもう一人の居残りのところに行き、同じような指導を始めている。
 そのようにして、わたしの絵、というより教師の仕上げた絵は完成した。いやな気分は残ったが、ともかくようやく帰れると思って、それ以上は何も考えずに、わたしはもう一人を残して下校した。
 むしろ、決定的な衝撃は後日訪れた。
 何日かして、写生大会の絵が教室の後ろにずらりと張り出された。その中で優れた作品には金や銀の短冊が張られるのだが、わたしの絵の下に金のそれがぶら下がっていたではないか。信じがたいことだった。もとより、評価をくだしたは先の教師である。不快だった。わたしはわたしの絵に満足してなかったし、自分の書いた絵だとさえ、思ってはいなかった。それは教師の書いた絵だった。褒められても嬉しい筈がないし、むしろ、自分のセンスを完全に否定されたような屈辱を感じた。
 衝撃はさらに続く。さらに1か月ほどして、おまけに、その絵は地区のコンテストにさえ入賞し、全校生徒の前で表彰までされてしまったのだ。わたしがどんな気分で朝礼台に上がったか、今でも思い出せる。私は賞状を渡される順を待ちながら、ちらりと横目で教師をうかがった。
 もちろん、教師は満足そうだった。自分の指導が正しかったのだと思ったろうし、その指導に素直に従って賞を取った教え子にも嬉しかったろう。にこにこと頷きながら、表彰されるわたしに拍手している。
 ただ、わたしの中に大きな禍根が残った。
 後に返されてきた絵は、もちろん下校途中に破り捨てた。

 以来わたしは真面目に絵を書いた記憶を持たない。
                             
1998.2.4.