地域共同体幻想
 先日、ラジオの放送を聴いていてふと、懐かしい言葉に触れた。
 「呼び出し電話」。今となれば、若い世代には耳慣れない言葉だし、我々の世代でさえ、もうすっかり忘れかけている。
 私の子供のころは、勿論テレビがまだ数軒に一台ほどしかなく、これもよく余所のお宅に上がり込んで見せてもらったものだ。自動車もそう。持っている人間が、ごく当然のように近所の人の便宜の為にタクシーのようなことをしたりした。先の呼び出し電話に至っては、個人の家に他人宛の電話が掛かってきて、その家の者はわざわざその人を呼びに出掛けなければならないのだ。もとより、そのようにして世話をかける側の人間は、常日頃から世話になる家に対して付け届けを怠らないし、それ以前から親身な交流を忘れていなかった。
 現在の都市部では信じられないようなことだし、田舎でさえそう多くは行われていない。それでは、個人のプライバシーなど無いではないか、と言われればそれまでだ。テレビも電話も車も、一家に一台の時代から個人に一台の時代になってきて、そのような付き合いそのものがすでに必要のないものとなってしまっている。
 過去における(それも、つい最近までの)そうした家の垣根を越えた交流があった時代と、そして現在におけるそれらが閉ざされてしまった時代と、その比較において福祉という問題について考えてみたいと思った。
 それがこの文の主旨だ。
 家の垣根がまだ無かった頃、どこの家にどのような家族が住んでいるかということを、誰もが熟知していた。福祉の対象となるような障害者、老人、病人だけではない。軽い痴呆や肢体障害、また、情緒不安定や躁鬱といった直接生活するのに大きな影響のない個人の特質から、さらには細かな性格的な問題に至るまで。知っていたからこそ、それを前提とした付き合い方というものがあって、例えば徘徊癖のある老人や知恵遅れの人については、出歩いている時は誰もが注意を払ったし、身体に不自由のある学童の送迎を買って出たりというようなことがあった。その一方で(勿論、誰もが善良であった筈はないから)家族の人の対応いかんでは強烈な差別や迫害も行われたことだろう。神経の細やかな人にとっては、あからさま過ぎるプライバシーの公開が堪らなかったに違いない。
 だからこそ、物が豊かになり各戸にテレビ、電話、車が普及してこれまでほどの行き来が必要なくなるに従って、プライバシーの保護に注意が払われるようになり、福祉は地域共同体のものから、自治体、国家、さらには民間企業で行われるものになった。同時に、金の掛かるものになった。
 人が人の世話をするということは大変労力の要るものだ。その労力を当然のように無償で行ってこそ、地域共同体における福祉(すでに福祉という言葉さえ適切ではないだろうが)は成立していたのだが、これが資本主義社会において行われるには、どうしてもその労働対価が極めて大きなものとならざるをえない。人件費の高騰が当然、それに拍車を掛けた。
 現代人は、いまだ地域共同体の幻想を捨てきれずにいるのか、このことをまだ十分に理解してはいない。経済が大きく発展して社会そのものがまだ豊かな時代は良かった。福祉行政に対して多大な予算を支出しても、誰もが納得した。が、今、不況が深刻となり、国家予算の支出が経済再建を優先するようになり、税金の個人負担が増えるようになると、なんで各戸でできる筈の福祉に対してそれほどの金を掛けなければならないのかという風潮が生まれる。繰り返すが今は福祉を各戸でできる時代ではない。いや、かつてもそうだった。地域住民の理解無くしてそれはなりたたなったのだし、経済発展の名のもとにその地域社会も、家すらも、すでに解体されて久しいのだ。
 政府も国民全体の共感を得られない(議員にしてみれば票にならない)福祉よりも、本当は気休めでしかないのに、見栄えだけのいい、消費者減税などに予算を振り向けようとする。
 地域共同体による福祉は過去の幻想でしかなくなり、もう、そこには戻れない。絶対に戻ることはできない。これは前提だ。
 なまじ、豊かな時代を経過したことが、この国の福祉を骨抜きにした。ここで言う骨とは、先に触れた無償の労力であり、相身互い、袖触れ合うも他生の縁といった共同体意識だ。いったん金で解決した問題を、いざ金が無くなったからといってやめてしまっては、全てが0に戻ってしまうどころか、それ以上に悪い状態にしてしまう。後に残るのは高額な負担を要求する民間企業と、解体されてしまった地域共同体と、意識はどれほど高くても金の無い、人手もないボランティアの面々だけだ。
 働く人間すら満足な生活が出来ないというのに、そして、その上に膨大な納税を要求されているというのに、社会に対して何ら貢献することのない弱者にどうして―という感覚が、おそらく国民の心の奥にはある筈だ。政府がそう感じるように仕向けている、とまで穿った見方はしないでおくとしても、これがその失政によるものであることだけは確かだ。国家予算を建てる際の思想を誤ってきた、いや、思想をすら持たなかったこれは報いだろう。そのようにして、納税に対する変な見返りを求める国民を育ててきてしまった。そのような誤った平等観を持つ国民にしてしまった。(これはたぶん、政府閣僚や代議士、官僚じたいがそのような価値観しか持てないでいるからだろう。)
 衣食足って礼節を知る―その伝でいくと、この不況の深刻化する現在、ますます福祉行政が貧しいものになっていくことが予想される。この国の将来は暗澹たるものではないか。
 ひと頃、地方分権政策に対する議論がかまびすしく行われていた。
 立ち消えになった訳ではないだろうが、その後、このことに関して内容のある政策論争を聞いた記憶が、私にはない。
 国がろくな管理運営をできないというなら、いっそ、国家予算はそっくり地方自治体に再分配してしまって、施策そのものも地方に委ねてしまってはどうか、というのが私のかねてよりの意見だ。
 公共投資に振り向ける自治体があってもいい。農林水産業や観光といった地域産業の振興に当ててもいいし、交通網の整備にあててもいい。環境問題を優先課題にする自治体も生まれるだろう。
 その中で、全面的に福祉を重視する自治体が誕生したってよいではないか。医療機関を整備し、福祉施設を充実させ、地域社会との垣根は取り外してしまう。福祉の対象となる人を持つ家族は、その社会で貢献できる仕事を選び、例えば障害者雇用に理解のある企業を誘致し、保護もする。専門技術の発展の為に研究機関も作ればよいだろう。障害者や老人や子供の安全性を考えて彼らを隔離するのではなく、社会全体を彼らの住まいとし、彼らが住みやすいように社会の、交通にしても娯楽にしても消費にしても施設をそっくり整備してしまう。そんな地方自治体が誕生することだって夢ではないだろう。
 現にアメリカの一都市では、老人を中心とした行政が行われていて、その他の住民はすべて彼らの生活を支える為に労働するという例もある。
 自分の納得できる施策を実行する自治体を選び、そこに国民は移動し、そこで納得付くの納税を行えばいい。
 物心どちらの豊かさを選ぶか、それはもう国民の意識に委ねてしまってよいのではないか。
 失われてしまった地域共同体幻想の、それが再現となるかどうかは今の私には何とも判断しがたい。が、救いがたい今の状況の中では、もう何一つ生み出せないのだということを、国も国民もそろそろ気づいてよい筈ではないだろうか。
                            
 1998.1.7.