トンネルの楽しみ
 トンネルを掘っている。
 美の山トンネル。全長1600m、そのうちの912mが我々共同企業体が受け持つ戦場工区である。当初設計では、かなり固い山であるとされた。現在の山岳トンネルの掘削は、大きく二つの工法に分けられる。のしかかる山の圧力を強固な支保で突き返す在来工法。そして、山そのものが自立しようとする力を補助することでバランスを保とうとする新しいナトム工法。我々が採用したのは後者である。
 掘削を終えた断面に地山の強度に応じた支保工を施す。吹付コンクリート、鋼製支保工(H鋼)、ロックボルトなどだ。ナトムにおいて最も重要なポイントが計測工となる。掘削し、支保工を終えたトンネル断面のその後の動きを追っていく作業だ。力で押さえつける在来工法とは違い、ナトムの場合、掘削を終えて通りすぎた山はしばらく動きつづける。掘削によってゆるんだ山が落ちつくまでに時間が掛かるからだ。落ちついて動きが止まることを収束と呼ぶが、その収束を計測工によって確認し、ややあってコンクリートの巻き立てを行って(覆工)トンネルの作業は終了する。
 昨年の10月に掘削を始めて、この12月で約710m。あと200mを残し、今、我々はトンネル掘削の中断に踏み切った。一日遊べば、その一日で数十万の設備費が飛んでいくと言われる中で、あえて中断に踏み切ったのはかなり勇気の要ることだった。
 この7月辺りから山の動きが激しくなり、あらゆる補助工法を行ってさえ、その動きが止まらなくなってしまった。山の動きとは沈下であり、内側への縮みである。20センチを超えて変形した箇所は、設計されたトンネル断面の内空を犯すことになるから、やりかえが必要になる。変形が進めば、吹付コンクリートにクラックが入り、鋼製支保工がねじまがり、ロックボルトが切断される。あまつさえ掘削する前方の地山(切羽)が崩壊する事故も発生した。幸い人身事故は免れてきたし、変形の大きな箇所も手当てして凌いできたが、ここにきて一日に20センチという大きな変形が発生するようになって、ついにいったん掘削を中止する決意を迫られた訳だ。
 計測を担当する私は、内心でほっとしている。
 山の動きを終日追っている身にとって、提出するデータ以上に山の怖さを痛感しつづけたここ数ヵ月だった。
 今、あらゆる調査でこの山が、当初予想された以上に手強く脆いものであることが明らかになりつつある。最新技術を結集してさえ、事前の予測はかくも頼りのないものなのだ。掘ってみなければ分からず、幾度困難なトンネル工事をこなしてきたトンネル屋にとっても、それは未知の世界であって、これまでの常識が通用しない。
 予算のことを考えれば、繰り返してきた補助工法、中断による設備費のロス、工期の遅れ―どれをとっても泣きたくなるようなことばかりであるが、不思議とトンネルのベテランからなる企業体の面々は、活き活きと奔走している。表立っては見せられないが、楽しくてしようがないという風だ。
 どうやってこの先の山を押さえつけてやろうか―これから採用していく工法は彼らにとって、まったく未知のものだ。それを模索する毎日が彼らの毎日に不思議な張りを与えている。常識の通用しない山に、これから我々が取り組んで生み出していく工法が、新しい常識となる。我々が、そして私が残していくデータの全てが、未来のトンネル工事の教科書となるのだから。
 土木工事の多くは、設計図書通りの施工を100%以上おこなってなんぼの世界だ。それ以上の新しいことを、多くの施主は望まない。せめて工法に工夫をこらして、経費の節減に努めるところまでが限度である。トンネルの場合、先にも述べたとおり、設計はあってもそのとおりの施工に留まることはない。山との知恵比べを施主が容認し、必要とあれば、追加予算の獲得も可能である。公共投資削減に動きだしている昨今にあって、そこまでしてトンネルを作る必要があるのかという議論は、もちろんあってしかるべきだろう。環境に与える影響も無視できないし、計測の現場に居る私などは「山は生き物である」というトンネル屋の金言をつねに肌身に感じているくらいだから、これ以上、山を刺激して身をよじらせるようなことはしない方がいいのではないかと、およそ非科学的なことを考えているほどだ。
 ただ、掘りはじめたトンネルは堀り切らねばならず、動きだした山は止めなければならない。
 あらゆる検証が行われて、山の動きのメカニズムが明らかにされていくだろうが、しかし、本当のことは最後まで誰にも分からないのではないかと、私は不遜にも感じている。膨張性鉱物のいたずらであるとか、山の地層のゆるみが極端に大きいのだとか、先行してトンネルの先に生まれるゆるみが後方に影響をあたえるのだとか、それらはすべて正しいかもしれないが、しかし、それらが事実のすべてではない。人知とトンネル屋の常識を超えたなにかが隠されていて、それはこの先も隠されたままでいくに違いない。
 思えば、それが人類の歩みそのものではなかったか。
 とんでもなく広い未知の領域にほんの少しずつ足を踏み出して、踏み出した分だけが事実となり常識となるのだ。そうやって少しずつ人類は自分たちの知的世界を拡大してきたが、およそ彼らの知らぬ広大な世界がまだ外に広がっている。そして、トンネルのベテランたちではないが、その未知の世界に新たな足跡を記すことこそが、人類にとってかけがえのない知的な喜びを生み出すのだろう。
 かくして旧い常識は新しい常識にとって変わられる。安穏として暮らしたいものはその旧い常識世界に落ちついてしまえばいいし、先を急ぐものはいつか自分が旧い常識世界を過去のものとしてしまっていることに気づくだろう。固執することは要らないし、ことさら否定することもない。
 今日もまた計測に追われ、あまりの量に途方に暮れながら、私は地中160mの穴のなかでそんなことを考えている。
   
1997.12.15.