少年、老い易く
「少年老い易く学成り難し」で始まる朱熹の七言絶句は以下のように続く。
   一寸の光陰軽ろんず可からず
   未だ覚めず池塘春草の夢
   階前の梧葉すでに秋声
 月日がたつのは早く、まして人の老いる速度はあっと言う間であって、それに対して学問の成就は困難を究める。つとめて時間をおろそかにしてはいけないという、教訓的ともとれる著名な詩である。
 しかし、転句と結句に見られる叙情はどうだろう。
 池の堤で春の草花を眺め楽しむうちについ我を忘れ、いつしか階(きざはし)の前の青桐の葉が秋風にそよぐ頃となってしまっている―。「偶成」と呼ばれるこの絶句はその題のとおり、一般に理解されているほど、教訓的なテーマの作品ではなさそうだ。
 朱熹、南宋時代の人で1130年から1200年までを生きている。後、尊称として朱子と呼ばれた人である。朱子学といえば江戸時代の御用学問とされ、儒学でも特に先鋭的のように思われるが、これは官学として特にその道徳的な思想を広められたせいもあるだろう。朱子学の基本は「格物致知」とされている。物の道理を究め、学問、知識を極限にまで到達させること―。むしろ、朱熹の学問、知識に対する渇望が、時の過ぎていく速さに対する焦りを生んだとしたほうが、先の絶句の叙情も理解できる。彼は儒学の古典に新しい解釈を示したことで知られるが、一方でそれまで政治的風刺詩とされてきた古代歌謡に新解釈を施し、むしろ純粋な愛情を歌ったものであるとした点での功績が大きいとされる(「詩集伝」)。
 こうした彼の在り方を知った上で、改めて「偶成」を読み返す時、後半の二句の持つ重みが自然と増す。在り方は在り方として学問や知識を究めようとしながら、いや、究めようとしたからこそ、自然の事物に向ける眼差しは柔らかくもなり、また、人生の味わいを求める思いも深い。おそらく、現に彼も時のたつのも忘れて春の草花を愛でるうち、ふと我に返って過ごした時間を惜しんだ経験を持つのだろう。学問に振り向ける時間を惜しみつつも、「春草の夢」は「未だ覚め」ないのだ。美しい転句と結句を読み返すにつけ、彼がそのことを一方で受入れ、決してその上位に学問を置いたのではないことが容易に想像される。
 少年は老い易い。が、老いたればこそ、味わえる―味わいとして受け止められる人生の妙がある。が、そこには少年の持つ瑞々しい感性がかけがえないものとなるだろう。老いた少年でもなく、幼い老人になるのでもなく、人生全体を通しあますことなく成長をし続ける、ある意味で受け皿としての少年を自分の中に保ちつつ生きていけるのがひとつの理想だろう。そして、そのうえでなお、物事を味わうゆとりを持った大人でありたいとするなら、やはり、「一寸の光陰」を軽んじてはならないということだろうか。
                             
1997.9.18.