O君のこと、沖縄のこと
 昨今、いじめを原因とする事件が多発し、大きくマスコミに報道されているなかで、恐らく同世代以上の年齢の者の多くが等しく抱く感想のなかに、自分の頃はいじめなど存在しなかったし、あったとしても子供を自殺に導くほどに酷いものではけしてなかった、ということがあると思う。いじめの度が過ぎるようになったのだ、とか、子供たちがずっと脆くなったのだとか、いろいろな理由付けは出来るだろうけれど、そのように声高に言える者にとって、少なくとも自分がかつていじめに加担したことがないという、つよい自負があることだけは確かだろう。
 私は、私を含め、そういった手合いに宣言しておきたい。
 いま、いじめによって死に至らしめられる子供がひとりでもいるのなら、その子供を追い詰め、死に導いた者は、他ならぬあなた自身なのだ、と。

 もう5年ほど前になるだろうか。
 中学時代のクラス会に出掛けたことがある。4年ごとというから、卒業してもう4、5回は開かれていた筈なのに、一度として行ったことのなかったクラス会に、ほとんど初めて参加した。みんな、どれほど変わったろう、名前を覚えているだろうか、今更どんな面下げて出掛けようか、など妙に気負い立って出掛けたものだったが、何のことはなく、心はすっかり中学時代の感覚に立ち戻り、当時の雰囲気そのままにひとりひとりと話が出来て、ひどく嬉しかったのを覚えている。
 やがて幹事から、この日来れなかったクラスメイトのメッセージや近況などが報告された。このクラスは卒業後すぐに二人の仲間を亡くしていて、彼らに関する報告は未だに胸を痛くさせるものがあったが、その中に0君に関する報告があった。
 幹事からの電話に接して、その母親が強い口調で幹事にこのようなことを言ったという。
「息子はクラス会には行きたくないと言っています。その理由は皆さんがいちばんご存じの筈です」
 わたしは一瞬、なんのことか分からなかった。確かに彼は線が細く、一部の男子生徒から馬鹿にされることはあった。発言もおどおどとしたものだった。けれど、成績はそれほど悪いものではなかったように記憶しているし、彼を乱暴に扱う男子生徒たちも彼を名字ではなく下の名前で―つまりはニックネームを呼ぶような親しげな感じで呼んでいた。何をされても彼はいつもニコニコとしていた。―それをいじめ、と呼べるものか? 少なくとも私にはそうした認識はなかったし、だからこそ呆気に取られた訳でもあるのだが、しかし、幹事からのその報告に接して、近くから「そういえば0君、H君やM君やK君にいじめられてたからね」という声が聞こえるに及び、わたしは愕然とした。 
 ―気づいてなかったのは私だけだったのか。彼はその私のすぐ側に居て、いつも傷つき苦しんでいたのに、私はそれに見向きもしないで中学生活を楽しみ、自分のクラスをまとまりのある良いクラスだと、ひとり悦に入っていたのか、と。
 元担任の教師も、それほど酷いことが行われたとは思っていなかったようで、しきりに不審がっていたが、本人が現にそう思い、16年経過したその時でさえその思いが継続している以上、そのことに何ら疑いを差し挟む余地はなかった。

 傷つけ、傷つけられる当人たちは常にその渦中にある。
 痛みや、憎しみや、罪や、悔いから逃れることは出来ない。
 その周辺にいて傍観していた者もそうだろう。そのことと無縁ではない。いや、彼らは歴とした加担者だ。
 しかし、無自覚ゆえ、愚かさゆえ、或いは独善性の強さゆえ、まったくそのことと係わることなく傍らに存在した者というのはなんだろう。
 もとより、その者も0君の母親の言う、「皆さん」の中に含まれている。むしろ、0君が会いたくなかったのは彼らたちではなかったか。私ではなかったか。
 同じ海中に溺れる者がいて、それを知りながら何の対処もできない者より、知らず遊泳を心から楽しんでいる者の方が、よほど罪深いのではないか―ということを私は考えている。
 だって知らなかったのだから仕方ないじゃないか、という当然聞こえてきそうな声は即座に却下しよう。いま、私は知らなかったこと、そのこと自体の罪を問題としているのだから―。なにをもって罪とするか、を、単に人間による裁きに頼ろうとは思っていないのだから―。
 彼を傷つけた者たちは、本人の意識するとしないに関わらず、同時に傷ついている。傍らでそれを看過した者たちもひどく傷ついてる筈だ。一人の人間が傷ついたということについて、その罪の多寡をそのことからどれほどの痛みを引き受けたか、という点において判断するなら、いちばん罪深いのは一切、痛みを身に受けなかった人間である。これは間違いない。

 沖縄の基地問題に関して、例の特別措置法が衆院で可決された。
 私はかねてより、一切の国防策を必要ないと主張してきたものだが、これはそうした問題の以前に、わたしをして絶望的な気分にさせた。少なくとも政治の表舞台で一地域住民の一切の感情は議論されることなく、ただ政党間の取引の材料にされたに過ぎなかった。いや、議会制民主主義の建前は建前としても、こうした決議の背景には国民の総意が確実に反映されている。そのことに絶望を感じる。
 「地域エゴ」などという言葉がそろそろ市民権を得てきたようだが、そうした言葉で一地域の住民を糾弾する人々は、揃って自分の住む地域にゴミ処理場や汚水処理場や原子力発電所や米軍駐留基地を持たない人々だ。そうした人間に限って、公共の利益の為には誰かが犠牲にならなければならない、などという残酷な発言を平気でする。そうした「正義」を臆面もなく振りかざす。
 誰しも、綺麗に、静かに、おだやかに暮らしたいと願う気持ちに変わりはない。少なくとも日本の国は、万人にそうした生き方を保証する国ではなかったか。
 だから、私は私の特定の思い入れや感情を交えた上で、沖縄が日本政府に、或いは日本国民に受けている仕打ちは「いじめ」に他ならないと主張する。
 沖縄という特定の地域で江戸時代から明治時代にかけて、戦中、そして戦後から日本復帰、現代に至るまで、なにが行われてきたか、なにが行われてこなかったか、そのことを良く知る者ならば、少しはこのことを理解するかもしれない。沖縄が近世まで日本に属してはいなかったことさえ知らぬ人々もいる。そうした無理解が今回の決議を生んだ背景にあるとするなら、さらに沖縄に基地の9割方を押しつけて自分たちは安穏と暮らしたいという身勝手があるとするなら、これがいじめでなくて、何だろう。
 ここにおいても、知らないこと、見過ごすこと、無知であることはすべて罪である。
 そして、前述の意味において、われわれ日本国民はその大多数がその罪に加担している。安穏に、平和に、楽しく暮らしたい、人生を過ごしたいと願うことで、人は誰かを傷つけ、眠れぬ夜を過ごさせ、時に自殺にさえ追い込む。
 政治家は確かによくない。あらゆる意味で、これほどレベルの低い政治家を生み出した国も少ないだろう。さらに、われわれには、どれだけその首をすげ替えたところでこの質は一向に良くならないだろうという確信がある。自分の加担する罪に対してあくまでも無自覚な人々に、その代表を選出させることじたいに、無理がある。
 衆院解散や内閣総辞職のその前に、われわれ日本国民はそろって国民総辞職をしなければならないだろう。
1997.4.13-15.