開かれる方角
 娘が生まれた。
 最低でもあと20年、彼女を育てていくことになる。
 もっと長く、かもしれないし、短くなるかもしれないが、20年という歳月をそんな風に考えると、自分の人生が非常に強く限定されていくのを感じる。負担に考えている、というのではない。むしろ、喜ばしくさえある。しかし、家内と結婚した時にはそんな風には感じなかった。別にいつ死んだとしてもそれはそれでいいと思ったし、仮に長生きするにしても自分の人生の上限を見定めることはなかった。
 少なくとも、あと20年は生きるだろうと感じている。
 それはつまり、例えば来年という年を考えるときに、これから生きる20年のうちの1年として捉えていくということだ。何を今更、と言われるかもしれないが、しかし、これまで自分の将来をそんな風に考えたことはなかった。だから、そんなことに感心している。
 これまで、「来年は」か、「いつかは」のどちらかで自分の将来を考えてきた。数年先のことを思うことはあっても、そのためのステップとして来年があるわけではなかった。そう、建設的で発展性のある人生は送ってこなかった。那須農場の時もインドの時も、その先は見なかったし、まして神戸出奔に至っては何もなかった。
 もちろん、娘が生まれたからと言って、段階的に毎年計画を立てて何かを行っていくというわけではないから、外見には代わりばえがしないかもしれないが、それでも20年先にも生きていようという、ささやかな決意(と呼んでよいものやら)を抱いたことは、ひとつの快挙だ。

 農業をやりたい、と願望したのは今から25年前のことだ。
 そのために専門の大学に進もうと考えたこともあったが、ほんの一時のことだった。本は読んだが、しかし、夢を叶えるために努力をしてきたわけではなかった。友人の勧めで那須の農場に就職することになったが、どうも、今にして思うと、それもなりゆきに従ったという感が強い。
 今の住まいにしてもそうで、関東に戻るに当たって、畑が出来る場所を、という選択をしただけに過ぎない。もし、今の住居に出会わなかったらもっと町中に住んでいたかもしれない。
 夢を抱いていれば、いつか道がそちらの方角に広がるだろう。もし道がそちらに続いていなければ、それが自分の進むべき方向ではないのだろう。その程度の姿勢だったから、いまこうしてある自分を不思議に思う。
 とはいうものの、生活の為に土建会社に就職し、さらに新聞配達のバイトを始め、今はトンネル工事の共同企業体に出向となり、どう見ても流されるままに流されている。仕事も多忙となり、最近では畑作業もままならない。それで良しとしている自分を優柔不断と、決めつけて開き直るのはたやすい。しかし、どこからどこまでが自分に示された道で、どこから先が自分の意志でひらいていかなければならない道か、そのあたりの見極めは難しい。
 この世界に何十億という人間が生きていることを思えば、たかが自分ひとりの生き方がどのように変わろうと、大したことではないとさえ思えるのだ。

 それでも、娘が生まれた。
 これはまさに自分の意志とは関係なく与えられた指針である。
 生みたいとおもった時期は過ぎていたし、別に生みたくないなどと考えたわけでとなかった。
 以前にも発言したとおり、ひとりの人間の人生に深く係わることはとても重いことだし、それだけの資質を自分が備えているとも思えない。彼女が自立するまでの間、育てるという一点にだけ専念し、できるだけ毒にも薬にもならない親でいたい。とはいうものの、持って生まれた自分の資質は、少なからず彼女の人生に影響を与えてしまうだろう。それを承知で彼女がわが家を訪れたのだとしたら、諦めてもらうしかない。
 せめて、自分がこんな環境に育ちたかったと思ってきた(それこそが自分の長年抱いていた夢の正体だろうと思うから)家庭と住まいを提供してやろう。彼女にとって大きなお世話であろうがなんであろうが、自分にはそういった指針しかないのだから。これから20年生きる自分の人生の、それが手掛かりとなるだろう。
 その20年のうちの最初の1年目―来年はとりあえず、なにか果実のなる樹を幾本か、植えてみようと考えている。
                           
1996.12.10-15.