リュックの中身
 今回の震災ではたいした被害のなかったわが家ではあるけれど、しかし、うずたかく本の積まれた書棚や倒れれば足元を直撃するに違いないビデオラックなど、次の大きな余震に備えて大部分を片づけてしまった。転居の予定もあるので当面必要のない品物はすべて段ボール箱に押し込み、さながら仮設住宅のようなありさまだ。
 そのように片づけたうえで、いざ大きな余震が来た時のために、特に大切な品物はバッグにしまい、出口付近に置いてある。懐中電灯に携帯ラジオ。電池に保存食に医薬品。銀行の通帳や賃貸契約証、土地の権利書、生命保険証書といった重要書類。
 たかだかこの程度の紙切れで一括されてしまうわが家の財産なのだ。
 問題は、その次だ。もしさらなる余裕が有ったとしたら、その次に何を優先的に運び出そう? 金目のものと言えば先頃買ったジャンセンのリトグラフは、なかなか手離しがたい。金で買えるものなら諦められようが、すでに廃盤のレコード、絶版の書籍、苦労してダビングしたビデオテープなどは、それぞれ未練が残るに違いない。カオスの財産も忘れてはいけない。他のものはともかくも、神戸で編集してきた会誌の原本だけは燃やす訳にはいくまい。コスモ200号リストの入ったフロッピーもそうだ。
 まだ来ぬ余震を前にして、わたしは執着の固まりとなってしまっている。
 いっそ、最初の本震で家屋が倒壊するなり、焼失していたなら、よほど諦めもついていたことだろうと思う。生命だけは助かり、まして直下型地震の恐怖すら体験せずに済んだだけでもみっけものだと思う。五千数百人の死者と比べるまでもなく、避難生活をしている人たちを思えば、今さら本だのレコードだのと、未練たらたらの自分が情けなく思えてくる。せめて、リュックひとつで考えようと―だからそう決めた。
 背中にしょって逃げるひとつのリュックの中につめられるもの。―その中に自分の財産を絞り込んでみよう、と。当面の生活に必要な非常品と貴重品は先に挙げた通りだとして、まだ、半分ほどのゆとりがある。―いろいろ考えて、結局貴重な資料や作品の入った十数枚のフロッピーと読みかけの文庫本を入れて終いにした。
 生きていれば、また作り出せる。買うこともできる。生きてさえいられるのなら、本当に大切なものはリュックにも入らない、担いで持ち出すこともできない、自分のものでさえないものだ。
 だから、実を言えば何一つ持ち出す必要などない。
 本当に大切なものは自分の外にある。家族や友人や仲間たち。世の中の理想像や、社会の歴史や、人間が延々と築いてきた思想や理念などだ。
 或いは、自分の内側にある。曲がりなりにもこれまで生きてきた時間の中で培ってきたもの。
 だから、少しは自分を大切にしてければいけない。生き続けなければいけない。
 ぎりぎりの状況に追い込まれる機会を、人間はたまには持ったほうがいい。それは結構ためになることを教えてくれる。無理をして維持しつづける日常や世間や社会の仕組みは、人間に大切なことを忘れさせてしまう。
 うかうかしているうちに大地震がやってきて、倒れた家屋の下敷きになってしまわないうちに。
   
1995.2.9-10.