鬼のいた村
 政治や闘争の勝者は、どの時代でも超人的な力を持った英雄として、歴史に名を留めてきた。一方で敗者は多く悪者とされ、同様に人間離れした能力を持っていたにしても、その抵抗や怨念が強いだけに異形の者として恐れられてきた。その怨霊を恐れるあまり、時には神として祭られることさえあった。菅原道真は天神として、平将門は雷神として祭られたが、その動機は畏怖であって崇拝ではなかった。古代において、征服されて山に逃げ延びた人々を―特に異民族を、都に住む人々は畏怖に加えて彼らの異能ぶりから、鬼や河童などの妖怪変化として捉えていたとも言われる。山そのものが闇の領域であった時代、そこに住むことを恐れず、自由に渡り歩く者は、確かに尋常な存在ではなかったに違いない。古代日本の山岳信仰―修験道の祖と呼ばれる役小角もまた異能の者として恐れられ、律令国家から敬われながらも排斥された。彼に従って山を開き、修験道の開設に尽力を尽くした二人の協力者も、前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)と呼ばれている。
 大峰山系のひとつ釈迦ヶ岳のふもとに、その前鬼が修験道を守るために開いたという前鬼村がある。いや、あったと言うべきだろうか。今は無人である。ただ、修験道の行者や登山者の為の宿坊として、村の出身者の手で管理をされている。村の出身者―最後まで村に留まった五鬼助義价(ごきじょよしすけ)氏の甥にあたる義元氏もまた、鬼の子孫ということになる。義介氏は十年前に亡くなられた。そのことを数年前、NHKで放映したドキュメンタリーで知った。
 そう、その鬼の子孫に会うために今からちょうど十年前、わたしはこの村を訪れたことがある。
 ひときわ暑い夏だった。七泊七日の奈良旅行の最後の二日をわたしはその探訪に当てたのだ。奈良市街から特急と各駅を乗り継いで大和上市に着いたのは十時過ぎだった。新宮行きの高速バスが出た直後だ。一日に二本しかないバスの最終は二時発。バスで二時間半、バス停から徒歩で三時間半と聞いていた。村の宿坊に着くのは八時ということになる。鬼の住む里に夜の山道を辿っていくことになるという事実は、それだけでわたしを悄然とさせたものだった。
 上市で時間をつぶして乗り込んだバスは、東熊野街道の狭い道を山肌にしがみつくようにして進んでいく。片側は断崖で、その深い谷底を吉野川の上流が青い水を渦巻かせている。客は次々に降りていき、人里もどんどん少なくなっていく。前鬼口というそのバス停で降り立ったのは、勿論わたし一人だった。山のなかだ。修験道の入口以外、何がある訳ではなかった。四時半。夏とは言え、深い山のなかでは当然ながら日没が早い。あたりはそろそろ薄い闇に包まれつつあった。
 きつい登りの山道を、わたしは夢中で駆け登った。鋭い声の鳥が無き、時折小さな獣が道から藪へと逃げ込んだ。道は登るにつれて勾配がきつくなり狭くなっていく。獣などよりも闇で道を踏み違えることの方が恐ろしく、わたしは重い荷物に耐えながら道を急いだ。それでも傍らのせせらぎは美しく、川底の小石が山の端に隠れる寸前の夕日を受けて輝く様は、この世のものとは思えなかった。ずい道が途中に四つ。そのひとつを抜けるたびにあたりの闇は濃くなっていく。前方の山陰からこちらに掛けてくる足音を聞いたのは最後のずい道を出た直後だった。カツッカツッカツッとその音はひどく高くこだました。人間ではないとすぐに気付いたが、すっと角から飛び出した影は巨大なものだった。恐怖よりも行程を遅らせたくないという焦りの方が大きく、わたしも止まらなかった。相手もわたしの影を発見して驚いたのだろう。わたしたちは四五メートルの距離をはさんで向かい合うようにしてその場に立ちすくんだ。親子連れの、野性の鹿だった。数秒の睨み合いはひどく長く感じられた。やがて鹿の親子が道を逸れ、わたしの全身から力が抜けた。登りはじめて一時間強が過ぎていたが、目安になる道標などはひとつも無かったから、いま自分がどこまで来ているのか、この道が正しいのかさえ判らない。鹿の親子と別れてから、わたしはさらに登りの速度を速めた。
 吊り橋を渡り、ほとんど道とさえ言えない狭い樹木の間をすり抜けるようにして走る。修験道の行がどんなものかは知らなかったが、おそらく、それはこのようなものだったかもしれない。前は見えず、足元の石ばかりに注意しながら駆けていたから、突然あたりの視界が明るく開けた時には、何が何だか判らなかった。荒い息で全身を汗でぐしょぐしょにしていた私は、拍子が抜けたようにその場に座り込んだ。前鬼村だった。低い石垣の上に粗末な小屋が立ち並んでいた。道の反対側には小さな畑もある。
 バス停から一時間と四十五分。ほとんど半分の時間で、わたしは踏破していた。這うようにして宿坊にたどり着き、しかしいくら呼ばわっても五鬼助さんは出てこない。わたしは待ちきれず外の水場で汗を流し、脱いだシャツを洗いはじめた。
 やがて、五鬼助さんが山から降りてきた。
 小太りの身体には不似合いなほどに足腰はよく締まり、ぽってりとした顔はとてもにこやかだ。
「やあ、もう来られないのかと思ってましたよ」
「すいません。勝手に水を使わせてもらいました」
「山の降り口には気をつけてたんやけど、どこから来ました」
「バス停から登ってきたんです」
「バスって―えっ、どれくらいで来れました?」
 彼は一時間四十五分は新記録だと、素直に驚いてみせた。山岳修行者の為の宿坊である前鬼村には、普通大峰山系を巡った行者が、最後に訪れるのであるらしかった。逆コースを来てまた戻るというのは確かに珍しく、だからと言ってわたしは「あなたに会いにきた」とも言えず、返答に窮してしまった。
 素泊まりで1500円である。夕食は弁当を持参していた。
 ランプだけの薄暗く、それでいてやたらと広い部屋の中で、わたしたちは向かい合うようにして食事をとった。五鬼助さんはしきりに話しかけてきたが、わたしは多くを答えられず、単調な会話のままで随分と長い食事だったように記憶している。
 それでも食事を終えた頃にはすこしは打ち解けた雰囲気も出来、彼はしきりと一人住まいの辛さを訴えた。どういう加減だったろうか、わたしは当時働いていた那須農場で教えられたマッサージを、彼に施すことになった。彼はひどく喜び、しきりに気持ちいいと言ってくれた。太ってはいたが筋肉質のよく締まった身体だった。彼はそのうちまどろみ始めたけれど、わたしはしかしマッサージをすぐには止める気にはなれなかった。肩から首筋、首筋から後頭部へと揉みほぐし、頭頂部にまで達しようかというとき、
「へへっ、角でもあるんやないかと思ったでしょ」
 五鬼助さんが振り返った。
 淋しい目をした鬼だった。よく見るとその顔はどこか人間離れしている。鼻の位置と比べて両の目がやや低く、目と目の間隔もやや広い。勿論、先入観が無ければどうということも無いのかもしれない。
「子供の頃は、町の子供によくいじめられました。あいつは鬼の子供や、言うてな。前鬼村には鬼が住んどる言うて、誰も近寄っては来ん。それでも村の人間は何人かおったし、偉い行者さんたちもたくさん来て、可愛がってももらいました。世の中になかなか受け入れられない大切な信仰を守るために、あたしたちは鬼になったんやそうです。山を荒らす悪い人間たちを近寄せない為には鬼が必要なんだそうですな。それならそれでいいと思ってはおりますけど、それもあたしの代でしまいですわ。妹が桜井の木材屋に嫁に行って、もう、この村を守る者はあたしが最後ですわ。いつか、鬼の子孫が居たことなんか、みんな忘れるでしょうな」
 五鬼助さんは、あとは黙ったままだった。わたしも話さなかった。
 山の夜は深い。窓の外にはただ闇が在るばかりだった。その深い闇の中に本物の鬼が潜んでいるにしても、わたしは躊躇無くそれを信じられた。ただ、怖くはなかった。本当に怖いものはもっと別の場所に住んでいる。
 始発のバスに乗るために、わたしは五時に起きた。五鬼助さんはまだ眠っている様子だったので、置き手紙に礼を記してそのまま山を下った。朝の山の風景はどこにでもある爽やかなそれで、昨夜の不思議な感触はもう、どこにも残ってはいなかった。
 数年前のドキュメンタリーは、その裏山にある前鬼村の墓所を紹介していた。小さく開かれた山裾に、苔むした丸石がごろごろと並んであるだけのささやかな、それは墓所だった。二三代以前の墓の主はだからまるで判らないのだと、案内役の義元さんの言葉があった。山から生まれ出て、修験道と小さな宿坊を守ることだけに一生を費やした人々は、また小さな石の下―山のなかに帰っていった。山の下とは、まったく別の時間の流れがそこには存在した。僅かに一晩そこで過ごしただけで確かにそうと感じられる特殊な時間の流れは、いまだにわたしの中に続いている気がする。
 そしてそれは、日常の不毛にわたしが押し流されようとする時、ふいに顔を覗かせて、暗くて深い本当の闇を垣間見せていくのだ。
1993.12.14.