PKO協力法可決に思う
 政治に関するあらゆる絶望感はこれまでにも充分味わってきたつもりだ。古くは日米安保条約の批准に始まって、成田空港における強制執行、比例代表制の導入、消費税の施行、湾岸戦争後の掃海挺の派遣……。国民の意志よりも政治家や政党の思惑や打算が優先され、国民はいつも見事に騙される。力で押し切られるのではなく、騙され承服させられる、いや一歩進んで喜んで賛同させられる―そのことが恐い。
 今回のPKO協力法についても私の周囲では賛成の声の方が高かった。国際化の中で日本も当然国際協力を惜しむべきではない。金だけの国際貢献では肩身が狭い。それだけの技術を持った自衛隊の他に役に立つ機関が有るのか。
 国際貢献、平和協力の美名に、また今回も多くの世論が騙された。少なくとも国民の半数以上の合意無しに、さすがの自民党も強行採決には踏み切れなかったに違いない。意図的な働きが有ったとしたら、これは見事な世論操作だ。
 しかし、どうして誰も彼も平和と言うことの本質を考えないのだろうか。国連が、こうすれば平和を維持出来ると提示したその方法論を鵜のみにし、何ら自らの方法論を築き上げようとしない。日本が平和だからだろうか。平和に対する概念が余りに希薄になってしまったせいか。
 繰り返す。武装した組織による力の制圧や、武力を背景にした監視によって平和が維持出来るとするのは大国の論理だ。つまりは国民に銃の携帯を認めているアメリカという国の論理だ。そして国連軍の名を借りたアメリカはあの湾岸戦争で見事そのことを実証してのけた。国際平和維持の為に自衛隊という武装集団を海外に派遣するというPKO協力法は、そのアメリカの論理を無批判に容認するものに他ならない。これも繰り返すが、日本は世界的にも稀な戦争放棄をその憲法にうたった国家である。日本には日本独自の平和に関する論理があってしかるべきではなかったか。武力放棄という方法論は、なるほど現に戦時下にある紛争地域に対して大きな説得力を持たないかもしれない。しかし、現実的であるかどうかだけで、その方法論を否定することは出来ない。政治において理想は無力ではあるものの、しかし、理想から始まらない政治はあまりに不毛であり、無意味であると思う。平和を生み出す絶対不可欠の方法論はまさに武装放棄、それだけなのだ。そして、世界において、そのことを声高に主張できる唯一の国家は我が日本だけなのである。何故に、日本はアメリカ主導の国連の要請のままに、自らのポリシーも捨て、安易に不毛な国際貢献策を受け入れなければならないのか。何故に、自らの平和理念を打ち立てて独自の平和維持活動を行わないのか。そう、ポリシーも平和理念も、はなからこの国には存在しなかったのだと思うしかない。
 日本の明治維新から始まる弱腰外交の背景には、常に「後ろめたさ」があったように思える。国際交流の新参者としての後ろめたさ、侵略戦争を行った後ろめたさ、経済大国になってしまった後ろめたさ―そこには自らの非を素直に認め、反省し、その反省に基づいた国家としての理念を打ち立て、その理念において他国に働き掛けていくというプロセスが存在しない。充分な反省が為されないから、ただ後ろめたさだけが継続していく。ドイツはこれに反してナチズムを徹底的に糾弾し、反省を重ね、自己改革を試みてきた。未だに教育活動の場において自らの内なるナチズムに対する自己批判を行っていると聞く。そうした過程があればこそ、ドイツは自らの政治理念を外に向け、誇りをもって発していくことが出来るのだ。しかし、我が国においてはかの太平洋戦争の反省すらまだ充分に為されることなく、未だにそれを非として認めていない。そうした負い目のあるうちは、平和憲法はいつまでたっても御仕着せのもので終わってしまうしかない。政治家の資質に問題がある。その政治家を選出する国民の体質にも問題がある。そして、そうした国民を育てあげる風土に問題があるのだろう。よしんば、日本が選択できる平和貢献の策が自衛隊の海外派兵以外に無かったとして、しかし、何故これほど重大な決定を、国民の意志を問うことなしに行ってしまえるのかが分からない。民間の世論調査でも、民意はあくまで二分している。社会党の半ば自暴自棄ぎみの議員辞職願の提出も、衆院解散総選挙を誘発させてそこで民意を問うという方法論としては評価出来るものだ。自民党が、いや内閣がこの法案に自負を抱きそれを自らの政治理念に基づくものとするのならば、先に内閣総辞職さえ行われてしかるべきだったのだ。しかし、全てが空回りをし、法案が可決されてしまった今となれば、何もかもが空しく思えてしまう。
 勿論、自衛隊が海外で銃を発砲することは暫くの間はないだろう。何せ、彼らは平和維持に赴くのだ。しかし、10年、20年後、この海外派兵の前例が、そして今後予想されるあらゆる絶望的な国際情勢の変化が、彼らをして戦闘に向かわせる可能性は全く無いとは言えない。その時、自民党は国民の合意は得たとうそぶき、公民は自民党に騙されたと言い、社会党は決議の場に居なかったと言い逃れをするのだろうか。そして、そうしたごたごたをしているうちはまだ良い。誰もがやがてそうした状況に慣れ、戦争を日常のものとしてしまうことが恐い。政府やアメリカに騙されているうちは救いもある。自らが自らを騙してしまう状況こそを私は恐怖する。10年後の同胞たちをそして私自身を、現在の私自身が騙しに掛かるその前に、もう一度私は私と私の時代を洗い直したいと考えるものだ。
                             
1992.6.15.