聖獣、雑記
 最初に出会ったのは一匹の巨大なライオンだった。彼は、この世と並行して存在しながら異なった時間の流れを有するもうひとつの世界の住人である。言葉を語り、悪に対抗する善の意志の化身であり、生に関する万能の力を持つ神に近い存在ながら、世界の生成から終末に至る流れには支配された、言わば善良なる生き物たちの先導者ともいうべき人格を所有している。C.S.ルイスの描いたこの「ナルニア国ものがたり」という児童文学は、それ自体がキリスト教的な世界観を持っており、そこにおいて、このもの言う偉大なる獣アスランはイエス・キリストになぞらえることが出来ると語る評論家もいた。もとよりそうしたこととは別に、当時小学生だった私には、その世界の神秘とそこに住んで善や美や愛を指向する住人たち―人間や、小人や妖精や、もの言う獣たち―に魅了された。ライオンはその象徴的な存在だった。善と悪とが二元的に分別されたその世界を、こちらの世界からそこに迷い込んだ主人公である少年たちを通して体験することによって、私はこの世の非力な善と隠されたしたたかな悪とを知るに及んだ。そして神や仏とは別の、しかし人間以上の生命の存在を認識するに至った。この後、私は神話や伝説や幻想文学にそうした聖なる存在を探索していくことになるのだが、その中心にはまずそうした存在に対する憧憬が有りながら、潜在的には現実の人間中心で人間が至上の生き物であるとする不遜で愚かな世界観に対する疑問も存在していたに違いない。さらに以前、夢中になって観ていた怪獣ドラマや映画が、知らずそうした人間至上主義に対する不信感を培っていたのかも知れない。

 人間は聖獣や幻獣をどこから造り出した―或いはどこから発見したのだろう。ひとつに明確なのは人間の生を脅かす存在に対する恐れが、やがて畏れに変わったケース。特に蛇に対する信仰は世界各地に存在し、インドのナーガ、ヨーロッパのドラゴン、中国の龍などが登場する。さらに時代が至ればこれに恐龍に対する憧憬が加味され、数々の怪獣さえ人間は生み出すことになった。純粋で無垢な魂をもった者にとって、それらは畏怖の対象であって時に信仰の対象でさえあったのが、近代化された人間社会は彼らを文明の破壊者として疎外しやがて駆逐し始める。思えば怪獣映画もまた現代の神話かも知れない。
 しかし、人間が最も恐れる生き物は、やはり人間だろう。だからギリシア神話には多く、人間と獣の合体した生き物が登場する。女の顔とライオンの体をもったスフィンクス、半人半馬のケンタウロス、半人半羊のフォーン、蛇の髪を持ったゴーゴン―人間が獣の持つさらに強い力を得て、より神格化され、超越した存在になろうとする意志には、どこか肌寒いものがある。
 人間は万物の霊長を自認し、不遜にも万物の支配者であろうとしている。さらにその人間の頂点に立ち、あらゆるものの上に君臨しようとする者さえ存在する。そうした人間の自戒の念が、数多の聖獣たちを産み出してきたのではないかと、私は好意的な解釈を試みる者だ。単に他の生命を慈しむばかりでは人間の傲慢さの消えることはない。本源的な畏怖の念を敬愛にまで昇華させたとき、初めて人間は地球という共同体の構成員たりえると思うのだ。

 かつて、那須の農場にいた時、冬になると必ず鶏を狙って野犬の群れが出没した。鶏たちが騒いでいたのを聞きつけて、ある時私が手近にあった杭をつかんで駆けつけると、逃げ遅れた子犬を庇うようにリーダー格の大きな犬が私の前に立ちはだかった。私は怒りに駆られて杭を振り上げた。犬はうなり声をあげて牙をむいた。私たちはしばらくその姿勢のままで睨み合った。随分、長い間そのようにしていた記憶があるが、実はほんの数分のことだったかも知れない。そこに存在していたのは人間と野犬ではなかった。飛び掛かってくれば叩き殺そうと思いながらも、私は不思議とその犬を憎めなかった。生命の危険さえ感じながら、私はその真剣な対峙を快く感じていた。間違いなく私はその時上下の隔てのない生命対生命の関係性の中に身を置いていたのだ。野犬はやがて、あとじさりして無防備な背中を見せながら仲間のところに戻っていった。彼は私の追撃をまるで恐れていないようだった。もとより私にもその意志はなく、杭を投げ捨て彼の後ろ姿を見送った。遠くの林の影で、野犬の群れはリーダーの帰還を静かに見守っていた。
 あの時の私の心理の変化を説明することは難しい。野犬に感じた思いは、まず愛情ではない。尊敬にも近いが少し違う。強いて表現すれば、それは連帯感のようなものだったろう。同じ地球に身体を張って生きているもの同士―とでも言おうか。そうした感覚が私の中に芽生え、彼の中にもそれが生まれたと私には感じられた。
 そうした経験が前提としてあったせいだろうか。かつて私はインド旅行の際に四度ほど死を予感したことがあったが、どの場合もかろうじて乗り切ることが出来た。一度めの長い下痢は別として、怒り狂った兵士に自動小銃を突きつけられた時も、警官に物陰に連れ込まれてピストル片手に賄賂を請求された時も、砂漠で脱水症状を起こして身動きが出来なくなった時も、私は自らの尊厳を優先させ、逃げ腰になることだけは拒んだ。そうしたやり方はインドでは死につながるのだと、あとでインドの友人に叱られたものだ。しかし、自らの尊厳に生死を賭ける姿勢は、相手にそれだけの意志を充分伝え、何らかの働きを生み出すものだ。よしんばそれが悪く働いて死に至ったにしても、悔いることがなければそれでいい。
 もとより、インド帰国以後この十年の間、私はそうした体験を生かす場を得ていない。ことさらそうした状況の生み出される機会を減らしてきたのが、人間社会の近代化ということであったかも知れない。

 私にとって聖獣とは、人間にそうした生死に関する選択を突きつける存在である。合理的で理路整然として当たり障りのない生き方に彼らの介在する余地はない。人間が生命としての本源に立ち帰って、大いなる自然に向き合う時、彼らは我々の前に蘇る。そして我々人間もまた地球の上に生きる生命のひとつであることを思い出させてれるだろう。
 とは言うものの―。
 私も最近、竜の登場する夢をさっぱり見なくなった。

                          
1992.5.22-24.