色と欲との─
 歌舞伎と、日本人の美意識の問題は、いずれじっくりと考えてみたい主題であるが、ともかくここ数年でようやく歌舞伎を始めとした日本の古典芸能の面白さが判るようになった。様式美―約束事の上で初めて成立し、認知される美しさは、こつさえ上手く掴めれば誰でも容易に味わうことが出来る。それほどに、どれだけの時代を経ても、人間の美意識はさほどに大きな変質を遂げることなく、連綿と受け継がれてきたのだ。もとより、受け継がれてきたのは美意識ばかりでなく、例えば歌舞伎の和事において主要なテーマとなる、人間がその内に秘めた愚かさ、弱さ、欲心や悪心―。それらが絡み合って生み出す無常観や哀切の情といったもの―。それらが純化し、昇華したところに美を見出す感覚は、我々の中にすらも未だに少なからず、残留している。現実の、日常生活の場で顕れればやっかいでもあり、見苦しいばかりの、それら人間の暗部も、ひとたび舞台の上に乗り、優れた人間洞察に基づいた演出を得れば、至上の美とさえなり得る―そのことに私は感動を覚える。
 例えば、近松門左衛門がそうだ。小説化されたその心中物を読んでも、登場する人物がただ愚かで醜く思え、その末路に何ら憐れみすら感ずることが出来なかった。そんな訳で、歌舞伎を鑑賞する中で、近松物は極力避けてきたのだが、しかし、いざ観る機会を得た時の奥深さ、人間の美しさは言語に絶するものだった。「曽根崎心中」「心中天の網島」といった浄瑠璃は心中物だから、主人公の男女には当然、色恋の欲心が存在する。親やつれ合いや主を裏切っての不義、不貞は、決して道義において受け入れられるものではない。心中の引き金となる誤解や行き違い、第三者の悪心にしても、それを受けて自らの命を絶つに至る主人公たちの愚かしさ、弱さに比べれば、単にきっかけでしかない。ところが、近松はそれら、欲や悪、愚かさ、弱さを、人間の必然として説得力を以て饒舌に、観客の前に投げ出してしまう。そして、全ての不幸の要因を、偶発的な事件の経緯に依ってしまい、男女を儒教倫理の束縛から解放してしまう。これが、ひとつの浄化作用を果たす。激しい浄化を経て、美の化身として純化された二人の独壇場が道行きの場となる。さらに揺り返す嘆きと迷い、そして死―破局が、全てを終わりにした矢先、二人の死を知った周囲の人間の嘆きや悔やみが悲劇を完成させ、ここにカタルシスが完了する。
 もとより、現実は舞台でも浄瑠璃でもない。そこに存在するのは当事者と第三者ばかりで、それらを俯瞰し、鑑賞する観客は居ない。演出や脚色に依って美化することも、ドラマとして完成させることも出来ない。欲心はあくまで醜く、悪心は憎まれてしかるべきだ。
 例えば、欲心を人間の本源的な属性のように捉える考え方がある。最も基本的な食欲、性欲、睡欲を三大欲とし、さらに時代の価値基準に基づいて出世欲や名誉欲、金欲、所有欲、支配欲といった際限ののない欲望の追求に、人間はのべつ駆り立てられる。さらに、豊かになった現代日本では、欲望の解放こそが時代の要件として理解され、自由であることと同義とされ、人間性の解放であるとして肯定される風潮すらある。性描写はなしくずし的に解禁され、かつては卑しいとされた金儲けは利殖と呼び換えられて奨励さえされ、食に対して貪欲になることもグルメと称されて流行にまでなり、人生の目的までが、出世や名誉を得ること、家や土地を手に入れることとして多くが理解するようになった。資本主義経済そのものが、人間の欲望を前提とし、またそれを原理に置いて成立する以上、これはむしろ当然の帰結であったろう。
 勿論、そうした数々の欲望から自身を解き放って生存する方法論が存在しない訳ではない。多くの宗教は概して欲望からの解放を、その目的もしくは方法論として位置付けている。優れた聖人は食欲、性欲、睡欲といった本源的な欲望すら制御してのける。まして、その至上の価値観に於いて、世俗的な金銭や名誉や物に対する欲望など埒外に置かれてしまう。それはそれで見事な生き様であり、全ての人間がそのように聖人となれば、世の中は平和になり、住みやすくなるに違いない。が、反面、資本主義は成り立たなくなり、芸術の多くは衰退してしまうことだろう。
 しごく滑稽なことに、人間の欲心が世の中を物騒にし、醜悪にしつつも、一方で極めて面白いものにしていることが、良く分かる。面白い、とそれを楽しむ視点が鑑賞者の目なのだ。
 鑑賞者の居なかった筈の現実に、このような視点を与えたのはすべからくマスコミの功罪に依るところが大だろう。勃発した戦争をテレビでショーとして鑑賞出来る時代なのだ。同時代を―同時代の事象や事件や人間を楽しめるということを、私はどうも人間にとっての本当の幸福とは思えないでいるのであるが、何にせよ、人間の欲望ほど、その欲望が生み出す悲喜劇ほど、面白い見世物は無いのだろう。
 思えば、近松もまた自らの生きる時代を取材して―つまり、実際に起こった心中事件や不貞事件を実地に取材して、浄瑠璃を制作し、舞台に乗せていたのだった。まさに、現代のワイドショー、実録ドラマを地でいっていたと言える。ただ、繰り返す。彼には人間の悪さ、弱さ、脆さを捉え、凝視する深い洞察があった。そうした人間の哀れに、涙を振り絞りながら共感し、やり切れない現実に憤りながらも、それらを題材として突き放し、優れた芸術へと昇華してのける美意識があった。それは武士階級の出でありながら、川原者と貶まれる最下層の芝居小屋の下働きにまで身を落とした、近松自身の人生があったからこそかも知れない。
 色と欲とにまみれて生きる人間を、しかし、かくも純化し、美の極致にまで高めた彼の芸術にこそ、時代の風潮のままに流され、自らの価値まで他者に依存してのほほんと生を貪っている、現代に生きる我々の指標を見出せるかも知れない。例え聖人となって自らの欲望を制御することは出来ないにせよ、せめてそれを対象化し、或いはそれと格闘していく中で、己の人間を純化し、人間の真実を洞察する目を養っていけるかも知れない。
                          
1992.2.19.-3.3.