祈りの有る暮らし 
─インド、ポウナル・アシュラムにて─
  共同体としての生活を成り立たしめる最も有効な要素が何かと問われれば、私は迷わず、それが信仰であると答えるだろう。宗教が必要だと言うのではない。何も体系化された信仰を求めるものでもない。言い換えるならば、それは「祈り」である。祈りの─共通の祈りの存在する生活。その祈りと祈りの時間と空間を保とうと、構成員が等しく努力を傾けられる生活。そこにおいて初めて共同体は成立すると私は考える。
 人間には役割があり、性癖があり、得手不得手がある。そうした個性は抑圧されるべきではないが、無秩序に受容していれば社会は成立しない。一定の規範が必要なことは言うまでもないが、しかし、規範はやがて必要以上に個性を抑えつける結果をも生み出しかねない。様々の個性の共通項のその核に、何かしらそのような「祈り」とでも言うべきものが必要なのではないかと思うのだ。

 インドで日本寺を出て―二ヵ月にも渡る修行を中途でとめ、新しい寺の落慶すら待たずに旅の生活に戻ったのは、ひとつにガンディーの意志を今なお受け継いで活動を続けるアシュラムを訪問したかったからだ。総称してサルボダヤ活動と呼ばれるその運動に日本寺(日本山妙法寺)も加担している経緯もあって、上人に紹介状を書いて頂き、東インドのラジギールから中部インドのワルダに向かうその旅は、そのまま祈りの旅だった。ブッダガヤではサマンバヤ・アシュラムで農耕をしながらお世話になり、朝夕近くの河岸や仏陀が悟りを開いたとされる菩提樹の下でプジャ(お勤め)を行った。カルカッタに戻って予約した汽車を待つ毎日もプジャで明け暮れした。私の信仰がそれほど篤かった訳ではない。祈りを中心にした規範の伴った生活を保たなければ、私は私が容易に、堕落した食欲や睡欲に任せた無節操な人間に戻ってしまうことを、寺の修行生活でつくづく思い知ったからに他ならない。
 ワルダのポウナル・アシュラムは、ガンディーの弟子の数少ない生存者であり、インド独立後、民間規模の農地改革とも呼べるブーダーン運動(土地寄進運動)の指導者であったヴィノバ・バーベー氏を中心としたコミューンであって、ガンディーが最後の活動拠点としたセヴァグラム・アシュラムと共にサルボダヤ運動の中心基地である。下層階級の社会参加を訴えて彼らに仕事を与え、教育福祉活動を整備し、近代化の最中のインドにあってその近代化の弊害を訴えて、有機農業や手工業の普及活動などを行っている。ここにユリコさんという日本人女性が居て、彼女を頼って尋ねたものの、ちょうど彼女は普及活動で出掛けており不在だった。それでも快く受け入れて貰い、一週間ほどアシュラムの生活に加えて頂くことが出来た。
 ここでは各自が自分にあったスケジュールで、自分に相応しい活動を行っている。機関誌の発行に従事する者、農作業を行う者、食事の世話をする者、各種活動の為に出掛けて行く者―食事の時間も自由であり、活動時間も自由でありながら、祈りの時間だけは全員が顔を揃える。祈り―プレイアは「オーム」で始まり、感謝の気持ちを表す「シャンテ」で終わる。短い期間で判らなかったが、その祈りの中に世界中の全ての宗教が含まれていると言う。私はギリー・ジーと呼ばれる老人と共に農耕に従事した。以下は私の一日のスケジュールである。
  4:00 起床
  4:30 プレイア、掃除
  6:00 ヴィノバ・ジー散歩、農事
  7:00 朝食、農事
 10:30 プレイア
 11:00 昼食
 12:00 休息
  2:00 農事
  5:00 夕食
  6:00 プレイア、自由時間
  8:00 沈黙の鐘(瞑想)
  8:30 消灯
 インド旅行において、最も充実し、満ち足りた時間を私はこのポウナル・アシュラムで過ごす事が出来た。祈りの有る生活がいかに豊かなものとなるか、祈りがいかに暮らしに筋を通し、仲間との連体感を深めさせるかを思い知ったものだ。アシュラムの祈りは世界平和を願うそれである。各自がばらばらに活動し、ばらばらに食事をとりながら、この共通の願いにおいて祈りを行うことが、共同体を共同体ならしめていると思う。誰もが優しく穏やかで、異民族で言葉すら通じぬ私を大切に扱ってくれた。それも、自然に。以前からの仲間のように。
 それでいながら閉鎖的にならず、ユリコさんのようにどんどん外に飛び出して行き、次々と新しい活動を展開させ、インド政府にすら力強い働き掛けを行っているのだ。(これは後で聞いた話だが、当時のインド首相のインディラ・ガンディーも政策に行き詰まるとヴィノバ・ジーを頼って相談に来たという) 私はそこで、私が日本に戻って取り組むべき農業の形を見た。日本のコミューンが妙に宗教がかったり、独善的になったり、営利主義に走ったり、自己満足で終わったりしている中で、自分の農業の指針を見失っていた時だけに、このアシュラムでの生活は大変刺激にもなったし、或る種の光明を見出した思いだった。

 結果において、以前にも述べた通り、「ゆい」という名のその試みは試行以前に挫折してしまったのだが、私の模索は終わった訳ではない。ポウナル・アシュラムへの思いは未だに私の中で息づいている。インド以来、近代という荒波に身を預けたこの十年間は、それはそれでひとつの修行だった。少なくともその過程を踏まなければ、日本に於けるポウナル・アシュラムは砂上の楼閣で終わっただろう。日本の現在の現実を身に染みて学んだこの修行を経て、その魅力に打ち勝って初めて、私のアシュラムは実現の可能性を帯びる。あと5年─そう、あと5年の時間を経て、私はとりあえず借金を返済して新たな事業に身を投じる自由を得る。それだけの時間を、さらに学ぶことに費やし、さらなる忍耐力を養い、我々の「祈り」の対象を明確にしよう。カオスにおける「おむすびコロニー」の提唱は、ひとつの大きな啓示だった。きんとん館の解体は、真の仙人郷建設の出発点となるだろう。
 まず私は、私の中の「祈り」をもう一度呼び起こすことから始めようと考えている。
 ポウナル・アシュラムを去るにあたり、私はヴィノバ・ジーに暇乞いをした。彼は私にこう諭して下さった。
「お前は虎の目を持っている。その目を失ってはならない。デリーに言って猫になるな。文明に飼い馴らされてはいけない」
 その言葉を、今も肝に命じて―。
                             
1992.1.19.