ラジギールの時計さん
  もう十年になるが、インドのラジギールで二ヵ月ほど日本寺のお世話になったことがある。朝夕のお勤めの傍ら、新しい寺院の建立工事を手伝い、夜は法華経を中心とした仏教や、ガンディーの後継者たちの活動について勉強していた。仏跡巡礼をしてこの地に落ち着き、自分が実は仏教徒であったことを思い知らされて、新しい地平で自分の将来を見つめ直そうと試みていた頃の事である。
 世話になって半月ほどしたある日、ひとりの大麻中毒の日本人青年が寺を訪れた。寺は麻薬にひどく敏感だった。かつてヒッピーの溜まり場となっていた頃、インド政府の取り締まりを受けて廃山寸前まで追い込まれた経緯があったらしい。その時、上人は皆外出していた為、私ともうひとり、寺の財布を預かっていたKさん− 彼も修行目的の旅行者だった− が対応した。Kさんは始めから青年を追い出しに掛かっていた。私はもとより青年が麻薬中毒であることなど看破できる筈もなく(K氏は最初から直観したらしい)、むしろ目を輝かせて素直に自分を表現する青年の純粋さに惹かれるものを感じて、K氏の排他的な対応に釈然としないものを覚えた。話くらいいいじゃないですか− 私はK氏をなだめて、しばらく青年と話し込んだ。
「インドに僕の家を建てたいんです」− 青年の話はそんな風に始まった。もともと普通の旅行者だった彼は、パスポートも含めた全ての所持品を盗まれ、大使館に届けることもせず、そのまま乞食の仲間に入ってインドに住みついてしまったのだ。だから、自分の家を建てて、本当にここに住んで、インド人になりたいという。ラジギールは釈迦が教えを説いて教団が発展した場所だ。ビンビサーラ王の庇護を受けたが、王と息子のアジャセの間に確執が生じて悲劇も生まれた。この土地の山や木や、川や土は、みなそれを覚えているんだと彼は言う。僕も百姓をして、自分の土地を探しているんだ− 私は応えた。生きた土がいとおしい。「どうです。インドで百姓、やっていきませんか」、上人の言葉でこの寺にやっかいになることに決めたのだ。全ての事象の中に神や仏が住んでいるんだという彼の言葉に同感する。インドに居るとそれがよく判る。ガンジスの水を飲んだ時の話をする。巡礼用の舟に乗った。聖水だから飲めと言われて飲んだ。傍らに死体が浮かんで禿鷲がそれをついばんでいた。それから、やっと別のインドが見えてきた。「それは何です」、彼は私の腕時計を示した。「あなたがそれによって時間に縛られるなら、そんなもん捨てた方がいいですよ」− 時計は時計であって時計ではない。何だかカオスみたいな問答が始まった。彼はイメージの世界に生きていた。それが現実からの逃避と呼ばれるなら、確かにその通りだ。しかし、異民族である彼は旅行者であることをやめた時から、カーストの枠外のハリジャンとなった。すでに彼はインド社会では人間として認められない存在なのだ。そうした彼の現実に、私は愕然となった。それでもイメージの世界に生き続ける彼を私は愛した。別れ際、箸をプレゼントしてくれた時の笑顔が美しかった。私は露店で買ったオームの刻印の指輪を渡した。
 彼が帰ったあとでK氏が私を非難した。あの青年は麻薬患者であると。薬に逃避する人間なんかに接するべきではない− 現実に立脚している人間は、そのことにしがみつかない限りひどく脆い側面を持っている。彼らは現実や常識を無視して生きる存在に対してはとても無力だ。だから、それらを恐れる。排除する。私も、そうした側に生きている。だから何も言えなかった。
 全ての存在に仏性を見よと、法華経は教えている。そしてそれに礼拝せよ、と。私が寺の修行と勉強の末に始めた但業礼拝行は、そこから始まっている。出会う人ひとりひとりに合掌して歩く行は、私の中の差別意識との戦いだった。私のどこかがインド人の無知や愚かさをを軽蔑し、差別していた。しかし、合掌した相手ははち切れんばかりの笑顔で応えてくれた。「ナマステー、ババ」− 下層民ほどその笑顔は明るかった。私の足元に跪いて、汚れた足の甲に接吻する老女も居た。思えば、最初にそのことを教えてくれたのは、法華経でも上人でもなく、あの時計さんだった気がする。
 その夜、寺の使用人に起こされ、時計さんが私を訪ねてきていると告げられた。寺は夜には門を閉ざしている。その門の向こうで彼が憤慨していた。「何故、あなたはこんな鳥かごの中に自分を縛るんですか」、と。こんな閉ざされた空間で仏陀の教えを説ける筈がない。ここは自然の全てが仏陀を覚えている場所だ。この土地の全てが仏陀の教えを説いているのに、どうして自らを縛らなくてはいけないのか。インド人は寺がなくても二十四時間プジャ(礼拝)をしているんだ。門を挟んで二人仰向けに寝ころがって話し込む。「あなたが将来百姓になるなら、あなたの畑には、まず最初に人間を植えなさい」、時計さんはそう言い残して消えていった。
 これはしばらく後のことだが、私が夕のお勤めをしていた時、村の子供たちが大勢押し掛けたことがあった。彼らは堂内を走り回り、供物を我先に求め、プジャの最中ずっと騒ぎ続けた。あとでK氏にどうして静かにさせなかったのかと叱られたが、私はそれが彼らのプジャなのだと答えるよりなかった。祈りに形を求めるのは信仰の薄い証拠だ。それなら形が無くなれば信仰も消えるのだろうか。子供にとってプジャは神様の前の遊戯。彼らはとてもいい顔をしていた。形にはめることで、その笑顔が失われることの方が、私には怖かった。法楽という言葉がある。好きな言葉だ。
 翌日、新寺院の建立工事から戻ると、寺の前で、裸の時計さんが泣きわめいていた。何があったのかと駆け寄る間も無く、彼はN上人に杖で打ち叩かれて逃げて行った。全裸の彼に村の人間たちは追いながら石を投げつけた。子供たちは木の棒で彼を叩きつけ、彼は頭を抱え、転がるようにして走って行った。彼を見た、それが最後だ。
 あとでN上人に事情を聞いた。彼は大麻をやって寺を訪れたらしい。私をこの寺から解き放ってやって欲しいと要求して。上人が出直してくるように言うと衣服を脱ぎ捨て暴れ出したという。何が彼を追いつめたのだろうか。惨めだった。情けなかった。そして、悲しかった。何より、彼の愛したインドの人たちから石を投げられ追われたのが、余りに哀れだった。せっかく、一緒に彼の家を作る約束をしたのに− 。
 麻薬に救いを求めることの是非を云々するだけの勇気を、残念ながら未だに私は持てずにいる。一切、逃げの手を打つことなく生涯を送れる人は稀ではないだろうか。まして、人に他人の弱さを非難するだけの権利があろう筈がない。励ますことと、共に苦しむことができるばかりだ。しかし− そうじゃない、と、私の中の何かが訴えていた。麻薬ではいけないんだ、と。麻薬を使わなくとも、この土地がその全てをもって語り掛けてくる声は聞こえる筈だ。
 N上人もかつてはヒッピーとしてこの寺を訪れた旅行者だった。寺の人たちの力で麻薬中毒を克服し、その時に髪を下ろしたという。しかし、今はこの寺を潰す訳にはいかないのだと、なお不満顔の私に説き聞かせてくださった。インドの地に仏法を広めて世界平和の礎にする為に、この寺を廃山に追い込む訳にはいかないのだ− 。私はそれでも、彼を救う手段は他にもあった筈と主張した。ひとりの青年を救うことすら出来ぬ寺が、万人を救い得る筈などなかろうとまでは、さすがに言えなかったものの。
 私には失うものが多すぎる。何もかも捨てた先に、真の自由が存在すると、私は十年前のあの旅行で思い知った筈だった。自分の所有物を守ろうとする為に人は争い、戦々恐々として生を過ごさねばならない。その執着心が人を不自由にするのだ。私のインド旅行は荷物を減らしていく旅だった。たったひとつのラジオが、私と友人を断絶させた。たったひとつの腕時計が私を定められた時間の中に閉じ込めた。盗まれまいとする余りに、荷物に目を光らせて眠れなかった夜もある。それでも、その荷物のひとつひとつをインド人に分け与えて私の心は軽くなっていった。旅の終わりに、私は土産の他はカメラとフィルムと衣類しか所有していなかった。しかし、人生という旅において、私の荷物はさらに増す一方だ。その荷物の中で、特に重いのが、何よりこの自分だろう。
 解脱、ということを考えた時、一切の所有物を捨てるということは目的でも手段でもなく、出発点のような気がする。国籍や、自分の名前や、あらゆる常識から解放されていた筈の時計さんが、最後の最後で麻薬に寄り掛かってしまったのは、それは彼が自らの弱さから解放されなかったことを意味する。おおいなる真理の光の手前の、最後の扉を彼は開くことができなかった。もとより私などは、その扉に行き着くことすらしばらく叶わぬ身なのだが− 。
 今にして思えば、無心にプジャをする子供たちや、私の足元に身を投げ出した老女や、笑顔で挨拶を返してくれたハリジャンたちこそが、少なくともその刹那、扉の向こうの光の中に居たような気がする。その瞬間、私はとにかく彼らを前にして、救われていたのだから。
1991.9.14-15.