終わってしまった戦争
 軍事評論家が、中東評論家が、ニュース・キャスターたちが熱く戦争の先行きや日本国政府の対応や、我が国への経済的波及について語り合っているのを聞きながら、私はひたすら憤り続けていた。戦争が既に始まってしまったという事実は事実として受け入れるべきだが、しかし、あまりに安直にその事実を前提にしすぎてはいやしないか。国際正義などという言葉を声高かに叫ぶコメンテーターも、戦時下の特派員に少しでも多くを語らせようとするキャスターも、また軍事評論家などという輩そのものも、私には許せなかった。
 断じて、人間が胸を張って人間を殺すようなことがあってはならない。当たり前のことではないか。何故、その当たり前のことが前提として語られないのだ。
 刻々と移り変わる戦況を、我々は本当に知り続ける必要があったろうか。戦争は日本シリーズのように中継され、予想され、解説されるが、まさにプロ野球がそうであるように決してその存在が否定されることはなかったような気がする。例えば、戦争を絶対に許さないという意志表示を、映像を一切流さないというような形で表す局があっても良かったではないか。事実を客観的に伝えるだけが、本当のジャーナリズムといえるだろうか。アメリカのネットワークが明らかにイラクに対して批判的であったように、戦争を強引に開始した多国籍軍を非難する報道があってもよい筈だ。公平を期した、そのくせ高試聴率ばかりを求める報道は、それ自体が既に暴力ではなかったか。知らず知らず戦況の大きな変化を求める試聴者の興奮を、いたずらに高めるだけの報道の、どこが公正といえるだろうか。
 終わってしまった戦争の、我々はいったい何を見たのだろうか。我々がテレビを通じて知ったことは、果たしてどこまで真実で、真実のうちのどの程度の割合なのだろうか。
 我々は何ひとつ真実を知らされていなかったのかもしれない。テレビが事実として伝える内容を、試聴者は無条件に真実として受け入れる。それが映像として流れるだけで、皆は信じ込んでしまう。そこから先を考えずに終わってしまう。まわりの人間が戦争について語る言葉は、皆テレビの受け売りだった。滑稽な程に全てがそうだった。
 恐ろしい時代を、我々は生きている。飛び立つ戦闘機を見、飛来するミサイルを見、戦争を正当化するブッシュの演説を見、彼の勝利宣言に狂喜する米国民を見るにつけ、時代の恐ろしさに、背筋が寒くなる思いだ。
 ひとつの戦争の終結とともに到来した新たな時代においては、戦争が国際紛争を解決する効果的な手段であると評価され、我が国の平和憲法が有名無実であることが暴露され、そして、殺し合う一部の人間とそれを観戦する多くの人間とが電波を通じて共存していくのだ。さらに、この時代において既に戦争は恐怖の対象ですらなくなった。我々は今、本当に恐ろしいものが何であるのか、僅かながらも気付き始めているのだから。つまり、我々が何一つ―テレビの映像として伝わってくる「事実」以外の何一つ―真実を知らされていないということのもつ意味にまさる恐怖など存在しないのだということを。
 正直に言う。戦争はもっと長引けば良かった。さらに多くの兵士が死に、日本は金を吐き出し続け、石油が枯渇し、代わる電力源である原発がフル稼働の挙句に事故を多発し、化学兵器が使用され、核さえも使用され、テレビは安全な場所でその映像を流し続け、余りの酷さに食事中の視聴者が嘔吐するほどの映像を流し続け、愚かな解説と討論とが繰り 返され、本当に誰もが嫌になるまで戦争が続けば良かった。不遜である。不遜であるが、まだその先の未来の方が、こんな偽善や馴れ合いだらけの世の中より余程いろんな物事が良く見えるような気がしてならないのだ。

                             
1991.3.8.