透明な時間
  学ぶ、ということを考える時に、かねてより思い出す一人の青年がいる。彼は幕末の長州藩に生まれ、叔父と書と旅に多くを学び、やがて時代を見つめて救国の志を立てる。海外渡航を企てて中途挫折した彼は、そして安政の大獄に連座して処刑された。名を吉田松陰寅次郎という。
 天性の明るさと優しさ、純粋さを持ったこの若者は、すでに死を覚悟した牢内でも読書をやめず、また囚人たちを説き伏せ互いを師と仰いで学習会を催しさえもした。その後、一時自宅蟄居となった際に開いた「松下村塾」から多くの志士を輩出し、その彼らが藩を勤皇攘夷の最先鋒とし、やがて明治維新を実現していくことは周知の事実である。
 その彼が正に死を予感しながら牢の内に居た時、弟子に書を与え孔子の言葉を引用しながら語った。
「朝に道を開いて夕に死すとも可なり。− それと同じだ。我々は遠からず死罪になる。今の読書こそ、功利を排した真の学問である。学問とはこういう時期の透明な気持ちから発するものでなければならないのだ」
(「世に棲む日日」司馬遼太郎著・文芸春秋 社刊より)
 この余りに純粋で透明な心を持った青年は、それ故に僅か二十九歳の若さでその生涯を閉じた。

 学ぶという作業は、実のところ漠然と行うことも可能である。学校で教師の指導のもとに受ける授業に、例えば私は過去にどれだけ真摯な姿勢で臨んできただろうか。勿論、松 陰のように死に直面しなければ真の学問は行えないとするのは、極論である。が、功利を排した透明な気持ちということには、共感出来るものがある。受験の為の、受験だけに対応した学習が、合格後にいかほどの成果も残さないように、頭に記憶されるだけでなく身の内に深く沈み込んだ知識こそが、人間の資質を高め実生活において多く役立つものなのだろう。いや、効能はやはり問題ではない。知識を身の内に沈め、それを材料に考察し、実験し、定理を求め、或いは新たな疑問に基づいて別の知識を求めていく、そうした作業が人に喜びを与え、充足感を味わわせてくれ る。それだけで充分ではないか。
 が、時間と生活に追われる現代人、ことに職業人にとって、純粋に学問と向き合える時間と空間は稀少価値である。それは、非日常的な行為と言えるかも知れない。時としては反社会的でありさえするだろう。だから、あ えて私は勇気ということを問題にしたい。そ うした時間と空間に我が身を投ずる勇気。もとより、これから記す私の体験が私の勇気を意味する訳ではない。私は偶発的に三度、過去に透明な時間を得た。私は学び、充足し、人の生きる意味をおぼろげながら感じ取った。何者がそれを私に与えてくれたかは判らないが、ありがたいと思っている。そして、私がいま問題にしなければならないのは、現在の私の勇気なのである。

 十五年前、受験戦争と呼ばれたそれは最初のピークを迎えようとしていたように思える。私たちはいくばくかの疑問と反発を覚えながら、高校受験に臨んでいた。焦りも有ったし恐れも有った。しかし、それが人生における最初の大きな選択である以上、悔いを残すようなことはしたくなかった。
 私と幾人かの友人が受験だけの為の受験勉強をすまいと決めたのは、そうした緊張感と焦燥感とが最も高まった時だった。受験だけの為なら何もこれまでに学んだ全てを復習する必要は無い。出題範囲は限定されていたし、教科も限られている。だから、あえて私たちは全ての教科の全ての内容を学び直すという形で、受験勉強を始めた。焦りも有ったし、無力感を感じた時も有った。が、同時に私たちの中に満ち足りてくるものを、私たちははっきりと知ることが出来た。九年間に私たちが学習してきたことには、どのような意味が有ったのか。どのような意識が授業の流れを作り出していたのか。そして、今私たちが最低限、知識として留めておかねばならないのは何と何なのか。そうしたことが何となくではあったが、理解出来るようになったのだ。そう、例えば地理の学習は受験にとって何ら役に立たなかったが、その時覚えた日本と世界の有り様は未だに基礎知識として私の中に残っている。

 私は農業者になりたいと考えていた。が、普通高校に入学したのは勿論専門教育を受ける為ではなかった。「そこで人に出会え」と教えてくれたのは中学校の教師だった。
「専門知識はいつでも学べる。まだ時間も充分に有る。だから今は、今しか出会えない人間と関わり、その中で勉強して、自分の道をもっと明確に見定めることに専念した方がいい」
 そして、私はその言葉通りに高校の三年間を過ごした。生徒会やサークル活動で様々な人間を知り、それぞれの持つ価値観の多様さに驚き、議論し、時に決裂し、影響を受け、途方に暮れた。二度めの受験は放棄した。何より時間が惜しかった。今、新たに学べることが山のように有るのに、どうして勉強部屋や図書館にこもらなければならないのか。勿論、大学受験ともなれば単なる復習で済ませられる筈がない。要求されるものの中には受験の為の技術も有った。数年後の学歴よりも、私は今という時間を選択した。現にこの時知り合った友人の紹介で、私は自然農法の実験農場に就職した。
 農場での生活は、文字通りの晴耕雨読だった。机に向かえる雨の日と夜の時間を使って、私は貪るように農業を学んだ。農場に揃えてあった本を片端から読み、訪ねてくる専門家の言葉を傾聴した。が、あの虚無感は何だったのか。自分は進みたいと考えた道に進んだ。そこにおいて必要な知識も身に付けつつある。しかし、もっと別の部分で学ぶべきことも有ったのではないか。自分の学ぶ対象と姿勢とを、余りに早く限定しすぎたのではないか。充足感が焦燥感に変わり、飢餓感となった。今にして思えば若かったということになる。若さゆえの鮮烈な欲求が一つのところに留まることを拒んだのだろう。善し悪しは判らない。そこにあえて留まれば、より専門的な知識を身に付けられたかも知れない。そうした努力も人間には必要であった筈だ。しかし、私は欲求のままに外に飛び出してしまった。
 そうなると、かつては拒絶した筈の大学がひどく魅力的な場所に思えてくる。月に一度の休暇は友人を頼って聴講生となり、大学生と議論し、その時々のテーマに合わせて専門書を買い漁って農場に持ち帰った。興味の対象は取り留めがなかった。芸術、教育、福祉、哲学、社会科学− 。しかし、その時に再び体験した焦燥感は前回以上のものだった。
 自分は何者だろう。大学生ではなく、今や農業者でもない。本当に学びたいことも判らない。欲張って取り込みすぎて、何ひとつ身についてこないではないか。最初の大きな挫折感だった。大袈裟に言えば、自分の人生を担保にした大きな賭けに敗れたような、そんな喪失感だけが残った。二十歳の頃である。
 数ヵ月に渡る虚無の暴風雨をやり過ごした後、ある晴れた日に仕事の手をふと止めた私は、畦に腰を降ろしてぼんやり空を眺めた。良い心持ちだった。何ひとつ考えずともこれだけ良い気持ちになれるのに、自分はこれまで何を焦って答えを急いでいたのだろう。自分の人生が大したものだと思うのは、実のところ自分だけで、この田畑や空や鳥たちにとってはどうという問題でもないのだ。そう思ったら突然楽になれたのだ。
 それからは、何を読み何を聞いても素直に受け入れられるようになった。知識が、最早知識というレッテルさえ付けずにうっすらと、そう、さながら川が運んで来た砂が浜辺の海底にゆっくり堆積していくように、身体の中に積もっていくのが判った。それをどう使い、何に変えていくかは、時間と何年か先の自分に任せておけば良いのだ。今はこの満ち足りた時間を味わい尽くして自分をもっと豊かにしていこう− 。
 これが、透明な心持ちになれた二度めの経験である。

 数年後、農場を出た私は再度自分の人生を問い直すべく、インドに半年の旅に出た。この時も気負いが大きかったが、余りに許容量の大きなインドの風土によって、それはすぐに呑み込まれてしまっていた。何を学ぶかなどというこちらの都合はまるで無視され、インドは無秩序に、取り留めも無く、全く一方的に私を翻弄した。私はただ、口をあんぐりと大きく開けて、そこに飛び込んで来るものをひたすら消化するよりなかった。ゆっくりと時間を掛けて、つまり町中に寝そべる聖なる獣− 牛のように反芻を繰り返しながら。
 ある時は力車ひきの男が、丸一日掛けて本当に美味いラッシー(ヨーグルト・シェイク)を作ってくれた。荒野で脱水症状に陥った私は、死と直面しつつ自然の持つ測り知れない存在感にむしろ感嘆した。釈迦が座った岩の上に立ち、釈迦の語り掛けた木々を眺め、釈迦の沐浴した川に入って、二千年という時間の流れを自分の縮尺の中に初めて取りこめた。日本寺で修行をしつつ、僅かばかり手に入れた自由時間に読んだ書物は、まるで乾いた砂に染み込んでいく水のように私の身体に入り込み、すぐさま血となり肉となるのが判った。私はそこでガンディーについて学び、やがてそのただひとり生き残った弟子の門下に入った。また、仏教の慈悲について学び、経文を唱えながら仏跡を訪ねて廻った。
 何もかもが矛盾することなく私の中に堆積していった。インドは訪ねていった始めの数日で私を空にしていたのだ。気負いはもとより、先入観、驕りや見栄、恥や外聞、日本人であることすらどうでもいい、何も所有するなと教え、それらを奪ってしまった。何ひとつ無かったから、何でも受け入れることが出来た。日本ではかつて経験出来なかったことだ。ここで行えたことが、どうして日本で行えない筈があるだろう。このようにして過ごせる人生ならどれほど幸福だろう。
 そう考えて帰国の途についた。

 そして、勇気を持てない現在の私が居る。そう、かつての私には勇気など無くても学ぶ心− 透明な心を持つことが出来た。それはごくごく自然に日常性から逸脱出来たことを意味する。若かったから− としてしまうのは安易すぎる。本当はそうではないのだ。若くて純粋で透明な心持ちは、何歳になっても持ち得た筈なのだ。が、私はどうやら失ってしまったらしい。あえて失ったと言っても良いだろう。それが帰国後の私の結論だった。純粋な心を持った人はそれだけで救われる。彼らにとって私の力は必要無いだろう。しかし、人は時として社会や人間の暗がりを覗き込み、それから眼を逸らせないまま純粋な心を擦り減らしていかざるを得ない。それが現代に生きる人間の多くなら、自分だけ充足感に甘んじる訳にはいかない。これもインドが私に教えてくれたことの一つだった。
 そのようにして私はまた自分の中を、虚偽や気負いや見栄や欲望で満たしてしまった。役に立つことしか学ぶ気になれず、実際そんな時間もそうそう無い。周囲は財テクや賢い消費者たることに余念が無く、受験教育は巨大産業化し、就職の為のベルト・コンベアはますます高性能化しつつある。学ぶことを純粋に楽しんでいるのは、今や余暇を持て余した高額所得者と大学の研究所だけかも知れない。いやいや、あっさり割り切ってくれるな− またインドに叱られるかも知れない。
 私は、今や知っている。どのような状況下にある人も、少しばかり自分の殻を打ち破り欲得や見栄を捨て去る勇気を持ちさえすれば、もう一度あの透明な時間を所有することが出来ることを。何物でも快く受け入れられて、そのことに純粋な喜びを感じられる、あの透明な心持ちに立ち帰られることを。
 三十歳、既婚、職歴十二年− こんな私でも、まだまだ未知の可能性を持ち得ることを− 。

 最後になったが、もう一度この回想の契機となった吉田松陰寅次郎に立ち戻り、その愛弟子であった高杉晋作の辞世を記しておきたい。
「おもしろき こともなき世を おもしろくすみなすものは 心なりけり」