見続ける、夢
(「ライフワーク」をテーマとした投稿作品)
 明確な将来に対する指針、などというものを、かつて僕は持てなかった。大人たちの暮らし振りが正に脅威で、同様のことが自分にも出来るなどとは、到底信じられなかった。中学生活前半までの、僕である。
 仕事に就くということが、まず考えも及ばなかったし、結婚、育児など、人間技とは思えなかったものだ。基本的には、それは今でも変わりない。ただ、同世代の人間が易々とやってのけるのを見て、おっかなびっくり、真似をしているようなところがある。どうも、今ひとつ社会人としての自覚が足りない。どうにかやって来れたのが不思議な位だ。
 そうした、自分の将来に対する不安、焦燥といったものを、何だか随分長い間引きずっていたような気がする。あれは小学校を卒業する前だったか。担任が、将来の希望などというものを調査した。僕は特に無かったので、「サラリ−マン」と答え、担任に呼び出された。もう少し大きな夢を持て、と言われ、どうしてサラリ−マンだといけないのか、判らず憤慨したものだ。
 その僕が中二の時、友人や、本や、テレビなどの影響で、農業を志すことに決めた時は、夢を見出した事に対する喜びよりも、とにかく方向性を発見した事が何よりも嬉しかった。胸を張って、ようやく自分の将来の指針を語れるのだ。発想が安易であろうが、計画性に欠けようが、大した問題ではなかった。
 が、いつかは問題になる時が来る。中三ともなれば、当然、長い将来を見越した進路決定が要求されてくる。だから、本も読んだし経験者に意見を聞いたりもした。農高進学は周囲の反対も有って断念したが、あくまで、さらに勉強を重ね、もっと多くの人に会う為という点を確認した上で、普通校に進んだ。
 ここで、カオスと出会った訳だ。当時はその前身であった創造の会と、その仲間たちによって、僕は僕の夢に対して(そう、この段階ではまさに夢でしかなかった)、数々のアンチ・テ−ゼを投げ掛けられた。結局、仲間の一人であるM氏の紹介で、那須の自然農場に就職することになったが、カオスは、さらに僕に対して、疑問を投げ掛けていくことになる。特に、D氏との間で紛糾した「都市と農村」論争、K氏の「自然(農法)の不自然さ」に関する指摘など、半ば頑なに農業にしがみついていた僕を、突き動かす物も多かった。そうした前提も有って、僕はもっと納得のいく形で自分の農業をやる為、那須農場を出た。その後のインド旅行も、目的はその点に絞ったつもりだった。あちらでも、有機農場を訪ね、共同体に交えてもらい、さらに実際、鍬を持っていろいろな体験をした。が、帰国後、ぼくは決定的な打撃を受けることになる。
 インドと日本の、精神的土壌の違いと言ったらいいのか、日本で考え、インドでそれなりに確信できた僕の方法論は、現代の日本においては、どうしようも無く場違いなのだ。周囲に対する目を塞げば、自分だけは納得し満足できるそうした生き方も、やれるだろう。が、誰に対しても何一つ成し得ないのだ。自分と、一部の裕福な家庭と、「知識層」とか「文化人」とか呼ばれる人間だけが満足するような生産活動は、理想だけが偏って高まった僕の意識を、最早、魅了する何物ももたなかった。傲慢と言えば傲慢だし、理想的過ぎると言えば理想的過ぎる。が、思えば、そうした次元の夢でしか無かったのかも知れない。
 日本と、その文化の痛々しいまでの「汚れ」。皆が無条件で引き受けているその十字架を、ただ無意識にではなく、意識的に負うことが、この国のこの時代に生まれた者の、前向きな姿勢であると、僕は信じられた。
 そして、農業を一旦保留にした。
 しかし、意識がやがて無意識となり、「汚れ」の持つ一種麻薬的な魅力に惹かれ、僕自身が「汚れ」の一部になるに至って、僕はいつか、農業に引き返すことの出来ない所にまで来てしまった気がする。
 将来設計に対する、一貫して甘く依存的な姿勢やポリシ−の無さがいけなかったのだろう。が、それでも「ライフ・ワ−ク」と、テ−マを与えられて、僕はまず農業を思い出している。いつか、またきっと、などと言わない方が誠実かも知れない。しかし、一方でそうした夢を捨てたところに、僕を動かす原動力が殆ど無いことを痛感するのだ。おそらく一生引き擦ってことになるだろうこの夢を、 一生引き擦っていくことが、もしかすると僕の「ライフ・ワ−ク」なのかも知れない。
1987.10.16.