表紙映画メモ>2012.01.02

映画メモ 2012年1・2月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

トワイライト・サーガ ブレイキング・ドーン Part1 / Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち / ヤング≒アダルト / ものすごくうるさくて、ありえないほど近い / ポエトリー アグネスの詩 / マンマ・ゴーゴー / ドラゴン・タトゥーの女 / マシンガン・プリーチャー / ペントハウス / ハンター / J・エドガー / アニマル・キングダム / ピアノマニア / ジャックとジル / ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬 / 幕末太陽傳 / マイウェイ 12000キロの真実 / 今日と明日の間で / フライトナイト 恐怖の夜 / パーフェクト・センス / 善き人

トワイライト・サーガ ブレイキング・ドーン Part1 (2011/アメリカ/監督ビル・コンドン)

オープニング、暗くじめっとした情景に「ベラ」のナレーションが流れると、大傑作だった一作目「トワイライト〜初恋〜」を思い出し、つい期待してしまう。それには全然及ばないけど、観たら観たで結構楽しかった。思ったことを箇条書きしておく。

・結婚式前夜、吸血鬼仲間とバチェラーパーティに出掛けるエドワード(ロバート・パティンソン)。「呼ぶのはストリッパーじゃなく熊やクーガー(←エドワードの「好物」、本物だろう・笑)」。一方ベラ(クリステン・ステュワート)は、式に友人は呼ぶもののパーティはおろか連絡も取らず。まあ友達がいなくても、男がいればいいって場合もある。
・がっかりしたのは、「トワイライト〜初恋〜」のプロムにおけるベラの格好は個性的で素敵だったのに、本作の結婚式では自身のセンスを全く発揮せず、皆に流されるがままで、単に「無精な人」のように見えたこと。心情の表れとしても寂しい。
・作中数回、突然、腰の重い年寄りが飛び跳ねてるような感じの場面があるのが妙に可笑しい。結婚式における皆のスピーチのくだりや、「初夜」を迎えるにあたってベラが準備するくだりなど。
・「結婚式〜新婚旅行」の前半は、めったに見られないエドワードの笑顔が炸裂。「もっと遠くへ行くんだよ」と答える時の爆笑といっていいほどの顔には驚いてしまった。ベラの「セクシー」な下着姿に向ける笑顔も良かった。あそこであの顔をするところが、いかにも女の子のための物語。ロバート・パティンソンのルックスは全く好きになれないけど、笑うといい。
・吸血鬼は食事をしないから、私からすると一緒に旅行しても全然楽しくない。一応朝食を作ってくれたりはするけど。その点、狼とならがつがつ食べられるからいい。
・「初夜」において、エドワードは(吸血鬼で「パワー」があるから)ベッドはおろか部屋まで破壊してしまう。特に「セクシー」とは感じないけど、「ナイスミドルの男性がうら若き女性の首筋に噛み付く」図よりは女性向け、というか好ましいなと思った(笑)
・なるほどな〜と思ったのは、原作の問題だけど、「妊娠しない」はずなのに特例?で妊娠してしまう、という作りになってるところ。無闇に出したわけではないという言い訳、あるいは「どんな条件下でも」避妊はしましょうってことか(笑)ベラの「決めるのは私よ」の一言が嬉しい。
・監督はビル・コンドン、ホラー映画の監督の晩年を描いた「ゴッド・アンド・モンスター」を撮った人。本作の後半は「モンスター」誕生編とも言えるので、面白い組み合わせだと思う。

(12/02/29・新宿ピカデリー)


Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち (2010/フランス-イギリス-ドイツ/監督ヴィム・ヴェンダース)

ピナと親交のあったヴィム・ヴェンダースによる3D映画。予告編が楽しいので観てみたら、亡きピナの伝記では勿論なく、彼女の舞踊団のドキュメンタリーというわけでもなく、言うなれば邦題通り、ピナの「踊り続けるいのち」を受け継いだ者たちの今、を焼き付けた作品だった。ピナ自身の映像は少ないけど、彼女の真摯さや優しさが伝わってきて、あたたかい気持ちになった。煙草を手にした様子がいい。

まずはステージと空っぽの客席が同時にとらえられる。客席は後に埋まり、そのうち消える。でもその後も、私が実際に座ってるバルト9の劇場の、前方の客席がまるで映画の「ふちどり」のように感じられた。こんなの初めて。

初体験の「センター・オブ・ジ・アース」の時から、3D映画の最中ふとジオラマを見てるような感じに陥ることがある。ジオラマは好きだけど、それはすごく安っぽい感覚だ。本作でも冒頭から何度か感じてたのが、「カフェ・ミュラー」に至ってあまりに強烈になると、直後に団員二人が舞台セットのジオラマを前に語る映像が挿入されるので、見透かされたような気がして面白かった。更に実際「ジオラマ」として踊りが展開する場面もある。
そんな体験を踏まえると、3D映像がジオラマのように見えるのを逆手に取って、箱庭に閉じ込めたものにこそ無限の広がりがある、ということをしたかったのかなと思う。とはいえ非3Dのピナ本人の映像を見る団員たちの様子を3Dで見る、というのは奇妙に馬鹿馬鹿しく感じられた。

団員それぞれがピナに対する思いを語る映像が挿入されるが、彼らは言葉を発せず、その「思い」に即した、あるいは即していないかもしれない顔をしてみせる。ちょっとした「顔の踊り」だ。こうした「内容」を考えるのは監督なのか彼らなのか、表現者が表現者を撮ってる場合、そういうところが気になる。
表現者による表現者の映画である本作は、ほぼ全篇が表現のぶつかり合いだ。織り込まれている4作品のうち、始めの「春の祭典」においては、ダンスを撮るにしてはあまりに「映画」的な映像(赤いドレスを捧げる女性のカットと、受ける男性のカットが交互に入るなど)に驚いたけど、以降はもう少し「ダンス」に寄り添った形になる。解釈をフィルムに焼き付けていく「映画」の作り手側と、その中でそれを超越するダンサーのせめぎ合い。しかしそれがゆえに「面白い」かというと私にはそうでもなくて、ラスト、客席、ステージ、その奥のスクリーンに映し出される、陳腐な言い方をすれば「素材そのまま」のピナの姿の方がよほど良かった。

舞踏団の踊りはどれも見ていて楽しい。団員によればピナは水や石など自然界のものを取り入れるのが好きだったそうで、舞台にそれらが活かされるのは勿論、屋外での踊りもふんだんにある。乗り物好きとしては、ドイツの懸垂式モノレールが何度も出てくるのが嬉しかった(一度など乗ってる視点も!あれだけでも見たかいがあった・笑)
彼らは踊りにおいてやたら「男女」に分かれたりペアになったりする。私はそういうの苦手で、例えばインド映画など、それがダメであまり観ないんだけど、本作では全然気にならない。根底にある自由のようなもの、のせいだろうか。

(12/02/28・新宿バルト9)


ヤング≒アダルト (2011/アメリカ/監督ジェイソン・ライトマン)

「彼とよく古着屋でLLサイズのTシャツを探しまくったものよ」
「それこそ90年代ね!」


「恋」とか「女」とかいうより、まずは故郷を出た者の物語。広義には、自分の立ち位置は自分にしか決められないって話。自分を見ているようで、最初から最後まで胸がいっぱいだった。仕事や美は無いし、あんな汚い部屋、我慢できないけど(笑)それでもやっぱり、そこに私が居た。

オープニングからタイトルが出るまで、音楽は無い。窓辺には缶の跡の輪っか、クローゼットには不揃いなハンガー、昨夜の男の横で目覚めたメイビス(シャーリーズ・セロン)がある決意をすると、音が鳴り始める。タイトルバックにはカセットテープ。彼女は車の中で、「彼」からもらったTeenage Fanclubの「The Concept」を何度も巻き戻して聴く。

メイビスの暮らすミネアポリスがどういう都市か、私は知らない。「故郷」のマーキュリーまで車でどのくらいなのか分からないし、見ていても距離がつかめない。そう遠くないように思われる。物理的には、たったあれだけの距離。
車窓から立ち並ぶ店(ケンタ!タコベル!ピザハット!合わせて「ケンタコハット」)を横目に、メイビスは慣れた様子で一軒のバーを選ぶ。店頭にはgo wild!なんて書いてある。Lemonheadsの「It's a Shame about Ray」が流れている。今時なぜ?と思っていると、後に「彼」やメイビスの従兄弟いわく「あの店はもう古い」。でもメイビスと、高校時代にとある「被害」を受けたマット(パットン・オズワルト)は幾度もそこを訪れる。二人の時は、違う風に止まっている。
都会で「最先端」の暮らしをしているはずのメイビスが、「古い」言い方を周囲に何度も突っ込まれる。彼女こそがどこかで止まっているのか、あるいは故郷に戻ると認識を上書きする気がなくなってしまうのか。同様にマットも「止まっている」が、それは事情が違う。彼の「エッチの森」(戸田奈津子のすごい字幕)での「君がヤった男たちが…」、自室での「あの頃は史上最高の僕だったのに」というセリフと飾ってある写真には、作中最もショックを受けた。

パトリック・ウィルソンによる「彼」の、ただかっこいいだけの男ぶりがいい。散々呼びつけてるマットのことを「キモい」と言ってのけるメイビス(この時のシャーリーズ・セロンの顔の醜さが素晴らしい)に同調する、あの感じ。「彼」はメイビスにとって聖域、お守りだったんだろう。触れてはならないものなのに、ぶつかっていってしまった。久々に再会して飲んだ後、帰ろうとする車に寄りかかって誘うメイビスの姿には、セックスが日常である生活をしてると、そうじゃない相手の方が「変」に感じられるものだ、ということを思い出した。
終盤、メイビスが「彼」の家のパーティでぶち切れる場面は、私にとって、そのこと自体よりも「彼」や周囲の反応が見ものだった。「皆きみのこと、おかしいと思ってるよ」…あれ?と突然足元がぐらついて、こいつらだって同じじゃない?信じるに足るものって、別に無いんじゃない?と、考えたら当たり前のことを思う。最後には更に違う立ち位置の者が出てきて、その感覚が強固になる。あの、傍から見たら何の解決にも前進にもなってないラストが、私には好ましく思われた。だってそうでしかいられないもの、ムリすることない。日頃の「またダメ男ものかよ!」という鬱憤が晴れた感じ、私は「女が頑張らない」映画が観たいんだもの。容色がいいだけマシだろと思う(笑)

故郷に居るのに実家に寄らずホテルに泊まる!私も何度かやった(笑)しかし「ママ」の車に見つかって一緒に「帰る」はめに。家に入ったメイビスの後ろのドアは開けたまま。もしかしたらそういう土地柄なんだろうか。
食卓に座るなり「私、アルコール依存症かも」と口にするメイビス。言えるんだからいい。両親の、彼女の過去の結婚についての見解が良かった。メイビスが「もう別れたんだから結婚写真は外してよ」と不満を漏らすと、母「いい経験だったじゃない」父「いいやつだったじゃないか」。しかしメイビスは自分に「味方」してくれないことに文句を付け、物語の最後にやっと「味方を見つけ」て安堵する。こういうふうに、彼女の弱さが貫かれてるところがいい。

メイビスがホテルに落ち着いてすぐ買い込むアイスが、4月に「日本初上陸」するベン&ジェリーズのものなのがタイムリーだ。食べ物といえば、始めに触れた「ケンタコハット」がやはり印象的で、昔読んだ「デブの帝国」や「ファストフードが世界を食いつくす」などを思い出した。ケンタッキーで「ヤケ食い」するメイビスが、暗い窓の方を向いて山盛りのトレイを前にしてる姿が心に残った。そっち向くんだと。

観賞後に同居人と話してたら「(500)日のサマー」が例にあげられた。いわく「『サマー』は、男目線の物語でありながら女の方にも一生懸命寄り添ってる感じ、『ヤングアダルト』は、女目線で男に寄り添う感じは全くない、でもそれがクールで、映画のプロが作ってるって感じ」。なるほどそうだなと思った。

(12/02/25・新宿武蔵野館)


ものすごくうるさくて、ありえないほど近い (2011/アメリカ/監督スティーヴン・ダルドリー)

「パパは言ってた、真実を知ることは解放されることだって」
「そのパパはもういないのよ…」


原作未読。少なくとも映画においては、オスカーのキャラクターが全てだと思った。例えば昨年末「マーガレットと素敵な何か」を観た際には、7歳の子があんなもん作れるわけないだろ!と白けてしまったけど、本作ではオスカーのキャラクターもあり、あの活動や創作物の数々が割とすんなり受け入れられた。そういうのって大事だ。彼の「探検」に、子どもの頃、教育テレビの社会や理科の番組が好きで、近所を一人でぶらついて「探検」ごっこして遊んだのを思い出した。彼はそんなレベル、軽々と越えてるけど。

オープニングは、空を舞う人間に続いてオスカーの真正面の顔のアップ。墓地に停まった車の中のオスカーが、飛び出してくると武道着姿だったり、パパとの回想シーンで拡大鏡?を着けたままで目がでかかったり、原作通りなんだろうけど、まずはぱっと見の楽しさがあっていいなと思う。「8分が無くなってしまう」などのナレーションも悪くない。ただ私の好みとしては少々辛気臭く、もうちょっと軽やかな方がよかった。加えて、こちらがまだ物語に乗っていない冒頭からいきなりクライマックスという感じを受け、あまり心が沿わなかった。

中盤、オスカーとサンドラ・ブロック演じる母親がぶつかるシーンが良かった。ああいう「ぶつかり合い」を観るの、久々な気がした(「久々」じゃないんだろうけど、そんな気がした)。「本気じゃない」と言われる時のサンドラの顔と、その後の一言。
もっとも映画としては、「間借り人」のマックス・フォン・シドーが出てきてぐんと面白くなる。二人の関係がああじゃなくても、きっといいことができたろう、と思わせられた。まあ、シドーのような役者使ってるんだから当たり前という気もするけど。

(12/02/18・丸の内ピカデリー)


ポエトリー アグネスの詩 (2010/韓国/監督イ・チャンドン)

オープニングは川辺で遊ぶ子どもたち。遠くから何やら流れてくる。うつぶせに浮かんだ少女の体の横に「詩」とタイトル。
場面は換わり、病院の椅子には不似合いな格好の女性。薄い水色の帽子に白いストール、白い靴。その後もとっかえひっかえされる花柄の上着。外に出てから電話で「やっと腰を上げて来た」というようなことを言うので、わざわざ着飾ってきたのかと思うも、そうではないらしい。彼女はどんな人間なのか、心惹かれる冒頭だ。

主人公ミジャ(ユン・ジョンヒ)のアルツハイマーは、医師に「言葉を忘れる」と話したことから発覚する。彼女が同時期に、本格的に「詩」に取り組み始めるのは偶然だと思えない。数日前に観た「マンマ・ゴーゴー」に、アルツハイマーを発症した母親に向かって主人公が「ママはどこに行っちゃったんだ」と泣き崩れる場面があったけど、アルツハイマーが「自分」を失う症状とも言えるとすれば、本作は、「言葉」を使うことで「自分」を失うのを食いとめようとする過程の物語であると言えるかもしれない。

詩の教室の初日、講師はりんごを取り出し「あなたがたはこれを本当に見たことはありません」と、詩作における「見る」ことの大切さについて語る。ミジャは早速身近なものに目をこらし、手帳を持ち歩くが、言葉は出てこない。しかし見なければならないものの存在を知った時、初めて言葉が出てくる。突然、花の赤は血の色だと思い浮かぶ。
少女が飛び降りた橋を訪ねたミジャは、帽子を飛ばす風にふと目を細める。手帳を取り出すが、降って来た雨に濡らされる。後に少女の家を訪ねた際も、肝心の用事は思い出せないが、道々落ちていたあんずに激しいひらめきを得る(この後、帰路で「思い出し」「あることに気付く」時の演技がすごい)。「見る」決意をした途端に「見る」べきものが現れ、彼女の目は開かれた。しかし真に「見る」べきものには、自分から挑まなければならないのだ。しかも常に挑み続けなければ、彼女の体はそれを覚えていられない。

ミジャの人となりに興味を覚えずにはいられない冒頭から、様々なことが絡み合って行く、物語の進み具合が面白い。ゆったり提示してくれているのにこぼれ落ちたことがありそうで、もう一度観てみたいと思わされる感じは、最近だと「J・エドガー」に似ている。
「事件」は冒頭に始まる、あるいはずっと前から始まっていたとも言える。ミジャは「事件」のことを知ってからも、花柄の服を身につけ、ヘルパーの仕事をし、自宅で孫と生活し、詩について学ぶ。「人生で一番美しかった瞬間」を話す順番が来ると「ほんとうに愛されてると思った時のこと」を涙ながらに語る。もし「事件」のことを、「見る」べきものを知らなければ、彼女はああして語っただろうか?

終盤、とある人に「『おねえさん』、どうしたの?」と声を掛けられ激しく泣き崩れるミジャの姿に、彼女がこんなにも「一人」だったことに初めて気付いた。映画の冒頭からサインはあったのに、何らかの空気を感じてたのに、作中の彼女の周囲の人々同様、私も気付かなかった。

ミジャの孫に対して、よくこんなに不愉快な顔の子を見つけてきたなと思っていると、死んだ少女について「ブスだったそうじゃないか」「美人だったらどうだって言うんだ」というやりとりがなされ、それもそうだなと思う。作り手の意図なんて全然離れて、こんなふうにふと心を動かしてくれる映画が、私にとってのいい映画だ。

(12/02/15・銀座テアトルシネマ)


マンマ・ゴーゴー (2011/アイスランド-イギリス-ノルウェー-ドイツ-スウェーデン/監督フリドリック・トール・フリドリクソン)

トーキョーノーザンライツフェスティバルにて観賞。とても良かった。

アイスランドのフリドリック・トール・フリドリクソンによる2010年作。彼の作品は「春にして君を想う」('91)のみ観たことがある。上映後、監督へのインタビュー映像がおまけに付いてたんだけど、ダウンジャケットのままソファに肘かけて話す感じがよかった(笑)

オープニングは「春にして君を想う」の試写会場。満席の場内の最前列の真ん中に、壇上の監督から「この映画を」と捧げられた母親のゴゴが居た。
本作はまず「映画監督もの」として面白い。興行成績の伸びない「春にして〜」について「老人が興味を持つかと思ったけど、死にかけの人間は映画なんて観ない」「海外だけが頼りだ」なんて喋ったり、テレビ番組のインタビューで「ハリウッドに『進出』なさる予定はありますか?」と聞かれ「ファストフードに興味はないね」と答えたり、フリドリクソン監督の実際のところが窺える。もっとも、終盤にゴゴの「過去」としてゴゴ役の女優と夫役の俳優が実際に共演した作品を散りばめるなどしてるあたり、フリドリクソン監督と家族をそのまま映画にしたわけではないことが分かる(インタビューでもそう答えている)。

主人公の監督(名前は無い)は声高に映画への愛やこだわりを表すわけではないが、この作品自体が面白いので、映画って素晴らしいと思わせられる。アルツハイマーを発症したゴゴが、亡き夫の石碑に花輪を供える際、彼の運転する車に乗って出掛ける。「実際には」どうだったのか、後のワンカットで分かるんだけど、こんな単純な描写に、映画の面白さがつまってる気がした。
本作には車がスクリーンを横切る場面が多い(確か「春にして〜」でも目にした気がする)。対して主人公が母親を車で自宅に連れ帰る場面は、クリスマスのイルミネーションの中を進む二人を正面から撮っており、人生の終わりに送って行く道のりのように感じられた。

冒頭、試写会場から一人暮らしの自宅に孫と帰ったゴゴは、赤いドレスと口紅のまま、ソファで一緒にチャップリンの「黄金狂時代」を観る。気にして電話を掛けた主人公いわく「映画は情操教育にいい」。彼もそうして育ったのだろう。机にはお酒のコップとコーラのコップ。その後の顛末は、それこそ「古きよき」映画のようだ(笑)
この場面に始まり、いかにも北欧らしい(というのも偏見だけど)ユーモアが全篇に散りばめられている。父親の石碑の前で皆が歌うシーン(これもそこはかとなく可笑しい)では、子どもはちゃんと「歌っていない」のが嬉しい。

終盤、それまでアルツハイマーの母親に「振り回される」主人公側の物語だったのが、ゴゴにべったり寄り添うので少々驚いていたら、映画はそのまま最後まで突っ走り、「(母親の名前)に捧げる」と幕を閉じる(後のインタビュー映像によれば、彼女はまだ存命とのこと)。放出されるエネルギーに感動した。続くエンドクレジットに流れる曲は、主人公が母の家でコーヒーを飲む場面と同じものだろうか?彼女が好きな曲なのかな。

主人公の妻役の、いつも困ったような顔がとても気に入った。他の映画でも見たい。
それから、カウリスマキ・ファンとしては、ビンゴ屋が出てくる映画ってそれだけで嬉しい(そんなに無いけど・笑)。本作に出てくるのは随分大きなお店、障子の内装は日本風なのかな?

(12/02/13・ユーロスペース)


ドラゴン・タトゥーの女 (2011/アメリカ/監督デヴィッド・フィンチャー)

スウェーデンの作家による小説「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」を、本国版「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」に次いでハリウッドで映画化。

(以下、いかにスウェーデン版の映画が好きで、本作が好きじゃないかということを書きます。原作読んでないから、先に観たものと比べてるだけ。加えて「ネタバレ」もしています)

スウェーデン版ではミカエルとリスベットが出会うまでかなり長く感じたものだけど、こちらはそうでもなかった。二人のパートは「悲鳴」で繋がれる。後で書くようにこの「リスベット」には心惹かれないにも関わらず、私が「物語」のその後を知っているせいか、作中、いや「女を憎む男たち」(原作タイトル)が在るこの世界において、ミカエルの存在そのものがあったかい、素晴らしいものなのだとしみじみ思い、早く出会ってほしいと、変な話だけど涙がこぼれてしまった。
しかし二人が出会ってからは何とも拍子抜け。二人の関係についても、それ以外についても、自分の求める描写は無く、欲しくない描写ばかりがあるという感じ。原作から違う部分を抜き出したにせよ何にせよ、描きたいものが違うのだろう。

ルーニー・マーラのリスベットは、私には受け入れられなかった。新しい後見人に「眉のピアスをどう思ってるんだ?」と言われ目をそらす場面にまずがっかりした。スウェーデン版のノオミ・ラパスの、強い目が好きだった。エスカレーターで荷物を取られそうになる場面も、あんなにスマートに「悪」に対処できるんじゃ、彼女の生きる世界の切実さが伝わってこない。ぼこぼこにやられて、キレてみっともなくやり返すのが好きだった。あのファッションも髪型も、自分を守っているというより単なるお洒落に見えた。まあ全て、「こういう物語の主人公は、こうあってほしい」という私の希望に過ぎないとも言えるんだけど。
ダニエル・クレイグの美しさには十分楽しませてもらった。普通の人がやってたら、おじいちゃん大丈夫ですか?って感じの老眼鏡使いが最高に決まってる。お召し替えも頻繁だし、いきなりのパンツ一丁や尻の割れ目(非・全ケツ出し)など見どころがいっぱいだ。
しかし彼によるミカエルの美しさも、私には少々不満に感じられた。リスベットの後見人が醜い腹を彼女の前に突きつける時、確かに、性欲を露わにしながら自らの「魅力」を顧みないやつこそ「女を憎む男」だけど、ミカエルの魅力との対比に、そういうもんなのか?と思わざるを得なかった。スウェーデン版では、彼と後見人のルックスは同じようなもんだった。
後はそれこそ好みの問題だけど、エリカ(本作ではロビン・ライト)やミレニアム誌のオフィスなども、スウェーデン版の方がずっとぐっとくる。ああいうおばさんが白ニット着てるのがいいのに。

ミカエルの傷口をフロスで縫う時のリスベットの顔が見ものだ。大事な相手に良かれと痛い思いをさせるなんて、きっと初めてのことなんだろう。この後、尚も痛がるミカエルの前で、おそらく気をまぎらわせようと、彼女は下着を下ろす。始めリスベットが上だったのが、ほどなく「反転」し、ミカエルが上になり、いわゆる「ラブシーン」の空気が流れる。これにもがっかりした。正常位自体がどうってんじゃなく、この話において、そうして欲しくなかった。ちなみにスウェーデン版では、彼女が傷をどうこうする描写は無く、彼の怪我とセックスとは関係がない。ふとやってきて、事を終え、部屋を出て行く。「理由」が無いのがいい。
終盤「犯人」に捕らえられたミカエルをリスベットが救出、一言「殺していい?」と確認してからその後を追う、というのは原作にある描写なんだろうか?スウェーデン版ではそのまま飛び出していく。事後、ミカエルいわく「俺だったら(「事故」に遭った犯人を見殺しにはせず)助けてた/でも君の気持ちも分かるよ」。この、個と個がぶつかりつつも気持ちの通じ合ってる感じが好きだった。
ラストも「リスベットの顔を見付けたミカエルがにやりとする」だけのスウェーデン版の方が一億倍いい!本作のラストシーンにはえっ、そんな話だったのとショックを受けてしまった(笑)

なんだかんだ言っても、二時間半、飽きずに楽しく観た。予告編ではさほど感じなかった「雪」の描写がすごかった。まさに向こうから吹き付けてくる。対して最後にストックホルムに降る雪は、とても穏やか。クリスマスに始まり、クリスマスに終わる、ロマンチックな物語だった。

(12/02/10・新宿バルト9)


マシンガン・プリーチャー (2011/アメリカ/監督マーク・フォースター)

「お前は軍人なのか?」
「いや、銃が好きなだけだ」


実在する「Machine Gun Preacher」、アフリカの内戦地域で子どもたちの救出活動を行うサム・チルダースの半生を映画化。彼については「君たちの身内が誘拐された時、救出する手段を問うかい?」という(「本人」による)最後の言葉に集約されている。そりゃあそういう人も出てくるかなと思う。観ながら、全然違う話なんだけど「モスキート・コースト」を思い出してた…というか、こういう筋ならああいう映画になってくれればいいなと思いながら観ていた。

オープニングはスーダンの凄惨な「儀式」。場面が替わり、一人のアメリカ男が刑務所を出る。背中でジェラルド・バトラーと分かる。車を停めて外で待つ妻役のミシェル・モナハンも、背中での登場。こちらは分からなかった(笑)
麻薬を扱い妻に暴力を振るうサム(ジェラルド)は、ゆきずりの男を刺してしまったことでショックを受け「神」に目覚める。久々にバーに行くと、ワル仲間ドニー(マイケル・シャノン)に「あいつは死んでなかったぞ」と教えられる。サムいわく「神に助けられた」、この一言が面白い。

サムの人となりが分かるのは、危険地域を初めて訪れた夜のこと。「写真は撮ったか?帰って土産話にするんだろ」と言われ返す言葉もないが、襲撃を恐れる親の手で家から出された子どもたちが外で寝ていると知るや部屋を飛び出し、皆を起こして建物に入れる。案内役のデン(人民解放軍の兵士)だって胸を痛めつつ、全員は無理だからと諦めていたのだろう。しかしサムはじっとしていられない。
後半似たようなことが起こる。しかし今度は車に「25人しか乗れなかった」ため、一旦残していった子ども達は殺されてしまう。皆を救いたくても出来ない時がある。ではどうするか?またしても同様の状況下になるラストシーン、彼は「自分も一緒に残る」。出来ることをするってだけだ。
これは家族の件にも通じる。とりあえず電話を掛けて「愛してる」と言う。現実にはどうだか分からないけど、少なくとも作中では、それでいいのだ。

その他、印象に残ったのは「遊び」。冒頭からサムは、娘が寝る前やちょっとした時の触れ合いに「韻踏みごっこ」をしている。妻が託児所を開いた時も、遊具の有無を気にする(妻は「子どもなんて公園でもどこででも遊ぶわよ」と答える)。もっともサムが「目に見える」遊びにこだわるのは、それがないと子どもとコミュニケーションの取れない、不器用なタイプだからだとも受け取れた。孤児院にて、走り回る子どもに仕事の邪魔をされて追い払うも全く効果が無かったり、皆に野球を教えようとするもサッカーが始まってしまったり、という場面にそれが表れている。

上記の「子どもにはヨワい」サムのほのぼの描写は、作中数粒の塩程度のいいアクセントになっている。しかしエンドクレジットに流れる「マシンガン牧師」本人の写真や映像を見たら、むべなるかな、いや、もっと彼の魅力を出せなかったものかと思ってしまった。最後の方に出てくる、片手でがんがん銃を撃つ映像など笑える。演説の様子も幾つかあるので、本編と比べるのも面白い。ジェラルド・バトラーは好演ながらちょっと重い気がする。

前半、サムが初めて教会に行くくだりで、女の子が歌う賛美歌がやたら長く挿入されるので、どういう意味かと考えた。私は子どもの声が苦手なので苦痛だった。

(12/02/07・ヒューマントラストシネマ渋谷)


ペントハウス (2011/アメリカ/監督ブレット・ラトナー)

楽しく観たけど、少々物足りず。

北米一の高級マンション「ザ・タワー」の管理マネージャー、ジョシュ(ベン・スティラー)は住人のアーサー(アラン・アルダ)にスタッフの年金の運用を任せている。しかし彼は証券詐欺容疑で逮捕され、預けた金も消えた。ジョシュは仲間を集め、アーサーがビル最上階の自室に隠している2000万ドルを盗むことに。

「ベン・スティラーとエディ・マーフィーが仲間でビル最上階に忍び込む」ということしか知らずに観たら、意外にもお固い内容。まずは、労働者だって人間だ!泥棒するぞ!と決意するまでの経緯がしっかり描かれる。「熱い血潮を理性で抑えている」ベンが、ゴルフクラブを手にする(キレる)まで30分。
ベンの役柄は「タワーの価値の真髄」とされる管理面のマネージャー。朝は4時半に起床、帰りは「9時間後には仕事」という激務。彼が相当「役に立つ」ことを表す、冒頭の仕事の描写が面白い。もっとも私は、困らされるより困らせるベンの方が好きだけど(笑)「コード・ブラック」がめぐりめぐって「ブルー・ブラック」になるあたりはいかにもベンの味。

エディは「ベンのご近所さん」として冒頭からちょこちょこ登場するも印象は薄く、本格的に出てくる頃には忘れてたほど。二人の「初顔合わせ」が本作の話題の一つだけど、作中でも元々知り合いではなく「今から知り合う」(事情アリだけど)というのがいい。とはいえ、二人が初めてまともに会話を交わす場面はもっと爆発するかと思ったのに今いちで残念。「オレの方が面白い!(お笑い的な意味じゃなくても)」というびんびんの空気を期待してたのに。物語の終わりに大して親しくなってないのにもがっかりさせられた(笑)
全体的に、今時珍しいほど男同士のいちゃいちゃ感が無い。まあベンの場合、そんなものはオーウェンとの次作(ズーランダー?)に取っといてくれればいいけど。

「男」全員が初めて顔を合わせるのはフードコート。フードコートが出てくる犯罪ものにはつい甘くなってしまう(勿論一番は「ジャッキー・ブラウン」)。エディの目線で見下ろしたベン以外の三人(ケイシー・アフレック、マイケル・ペーニャ、マシュー・ブロデリック)は、確かに「こいつらは無理だ、うんこちびるぜ」って感じ。
マシューは顔が出るたび「マシューだ」と思ってしまう(笑)エディの銃にびびってソファに上る様子、壁の中のアレを見た時の笑顔が印象的。犬を預けるなら確かに彼だろう。実際ニューヨークっ子だから、紐持っての散歩の場面なんてリアルな感じがした。
加えてアーサーを捕らえるFBI捜査官に、私の好きなティア・レオーニ。本作でのファッションもとても素敵だった。タイトスカートにロングブーツ合わせてるのがいい。

(12/02/05・池袋HUMAXシネマズ)


ハンター (2011/オーストラリア/監督ダニエル・ネットハイム)

とても面白かった。

ハンター稼業のマーティン(ウィレム・デフォー)は、企業の依頼を受けてタスマニア島を訪れる。目的は、絶滅したとされるタスマニアタイガーの生態サンプルの採取だ。

冒頭は「仕事」の連絡を待つマーティンの様子。ipodでクラシック音楽を聴き、湯船に全身を沈める。几帳面に並べられた洗面用具。パリに二週間居ようとも、観光には興味がない。
「いつも」の様に現地に赴き「ベースキャンプ」に到着するが、母と二人の子が暮らすその家の荒れ果てていること。父親は山に入ったきり行方不明。林業で生計を立てる村人達は、その父親を筆頭とする「エコ戦士」とは犬猿の仲だ。大学教授を装って仕事に取り掛かるマーティンも、仲間と看做され嫌がらせを受ける。

…という具合に、数々のオモシロ要素が落ち着いたテンポで紡がれて行く。「バーにやってきたよそ者」として手荒い扱いを受けるお決まりの場面に始まり、当初は村人たちが脅威だったのが、終盤には「エコ戦士」である一家の母親の方に不気味さを感じるのも面白い(思い返せば「理由」は無いんだけど、私はそう感じた)。
デフォーの引き金による「クライマックス」が二回、何を何のために殺すのか、全然違うけどどちらもいい。前者には心拍数が上がり、後者にはじんとさせられた。

孤高の男が、父親不在の一家に草鞋を脱ぐ。「家」での印象的な場面は二つ、まずは「パパなら直せる」発電機をマーティンが小さな息子に助けられながら修理し(この場面では作中唯一のユーモラスな雰囲気が流れる)、久々に電気が通じた時。電飾が点り、レコードプレイヤーからブルース・スプリングスティーンの曲が流れる。家に生気が戻り、母親がこもりきりのベッドから出てくる。その後マーティンはレコードをこともなげに消してしまう。
二度目は、父親が「科学者のウッドストック」を開かんと大木に取り付けていたスピーカーをこれもマーティンが直した時。今度流れるのは「マーティンの」音楽だ。子どもたちが出てきて踊る。

いわゆるアウトドアの描写はミニマムで、木で罠を作ったり、服を燻して着たり、寝たり食べたりという場面が少しずつ挿入される。私にはその仕事ぶりから彼の力量を推し量ることはできないけど、バーでの村人とのちょっとした場面や、きちんと整理された(冒頭の洗面用具を思い出させる)道具の様子などから、彼が「達人」であることが分かる。
ラストはまあ、そうなるだろうなと思ってた通りなんだけど、音を消した最後の場面にほろっとさせられた。

(12/02/04・新宿ミラノ1)


J・エドガー (2011/アメリカ/監督クリント・イーストウッド)

面白い上にとんでもなくロマンチック。「ジョン・エドガー・フーバー」で泣けちゃうんだから。
壁に貼ってある見事な写真の数々を眺めるような感じ、さあどうぞ、とゆったり見せてくれてるのに、振り返ると色々見逃してる気がして、後ろ髪引かれてしょうがない、そんな映画だった。

「これはあなたの物語なのですか、それともFBIの物語なのですか」
「その二つは分かちがたいものなのだ、互いに依存している」


監督イーストウッドはきっちり親切だ。冒頭の爆破事件の一幕が終わると、それがエドガー(レオナルド・ディカプリオ)が回顧録のために語った内容だと分かる。筆記官が「実際にパーマー長官のお宅に行ったのですか?」と聞くと、エドガーは「英雄には神秘性が必要だ」と答える。これから私(観客)は、この映画が「真実」と見なしていること、エドガーが「真実」としていることを観るのだと分かる。これらは「ナレーション」(回顧録のための語り)の有無で区別できる。
観ているうち、20代から70代までのエドガーを演じるレオの声と目の輝きがずっと変わらないこともあり、全てのシーンがないまぜになり、次第に混沌としてきた。この感覚は、夢に子どもの頃の友達が出てくる時、その姿は大人でも子どもでもない、ただ「その人」である、というのに似ている。ともかく、これはひたすら「エドガー」の映画だ。

終盤、口述筆記を読んだクライド(アーミー・ハマー)も彼の「嘘」を指摘する。しかしその後は「君自身や組織のためなら構わないけど、僕には嘘をつかないでくれ」と愛の告白が続く。これには言外の意味もあるように思われる。それを汲んでか、エドガーは「面接の日を覚えているか?」と自らも「愛」を告げ、クライドの額にそっとキスをする。涙がこぼれてしまった。
本作はエドガーとクライドのラブストーリーだ。オフィスの廊下で後の個人秘書となるヘレン(ナオミ・ワッツ)を初めて見かける場面と、店でクライドを見初める場面(厳密には「見初めた」後の何度見かだと思われる・笑)、トーンがあまりにも違う(笑)二人だけのシーンはそれほど多くないんだけど、密度がすごい。一番のお気に入りは、いじらしく虚勢を張るレオ様と自然体のアーミーの絡みがまぶしい面接のくだり。レオのへの字口と、アーミーの常に微笑んでる風の唇。ホテルでの「行かないでくれ!/だって……だって、まだ明日があるじゃないか」には胸がきゅんとなって千切れるかと思った。その後、彼の姿が消えてから言いたかったことをつぶやく、なんてベタながらイイ場面!
彼らのやりとりには、「デート&ナイト」「ウソツキは結婚のはじまり」など近年の映画でとくに感じる、「パートナーとして気が合うってことは、他人を茶化して楽しめるってこと」をまたしても思った。「地位」の差を踏まえつつも、ユーモア溢れる会話を交わしてるのがいい。

エドガーが心を傾けるのは、クライドとヘレン、そして「母親」(ジュディ・デンチ)。男二人に目がくらんで忘れそうになるけど、エドガーとヘレンの場面、若き日の図書館でのデートなども素晴らしい。「秘密を守れますか」と前置きして「結婚に興味がない」と打ち明けるのは、自分は「同性愛者」だと述べてるのに近いのかな。エドガーには、クライドとヘレンいずれに対する「愛」もあるが、前者にのみ「性」がある、ただそういうことなのだ、という感じを受けた。
母親については、観賞時の疑問の答えに後で思い至ったので書いておくと、クライドに連れられて行った仕立屋におけるエドガーの代金未払いのくだりは、それより前の場面の夕食の席で母親が「あなたのも二着届くわ」と言及していたものだろう。母親にとって、自慢の息子はもう「有名人」だからツケで買い物しちゃったけど、店側はエドガーを知らなかった、ということだと解釈した。
お金絡みで未だに分からないのは、高級店のお得意様であるクライドが、旅行の話が出た時に「お金を貯めないと」と返すこと。何か違う意味があるんだろうか?

本作は、これほど「エドガー」の物語でありながら、「アメリカ」の映画でもあるんだから素晴らしく面白い。リンドバーグ宅の一幕には、映画でよく見るFBIと警察の対立の「創世」か!なんて思ったり(笑)テンプルちゃんにジンジャー・ロジャース、ドロシー・ラムーア(名前のみの登場、私も中高生の頃読んでた映画本の中の名前しか知らない)など有名人が続々出てくるのも、ミーハー心を満たしてくれる。大統領が替わる度に「同じ」場面(パレードを見下ろしたり「ファイル」持参で訪ねたり)が挿入されるので、時代が変わっても「変わらない」エドガーの姿が際立つ。
「本当にあなたが犯人を撃ったのですか」と追及されたエドガーが「国民は能力より筋肉を重視する」と嘆くのに、映画「裸の銃を持つ男」に、ドレビン警部補が犯罪者を100人だか千人だか殺したというので賞賛されるというギャグ?があるんだけど、向こうじゃ違う部分を笑ってるのかもと思ってしまった(笑)

始まって一小節でイーストウッドだ!と幸せに浸るも、エンドクレジットの頃には、正直あのピアノに飽きてきた(笑)
音楽といえば、エドガーがジンジャー・ロジャースとその母親に会う場面の冒頭、ちょこっと長めに入るバンドの演奏シーンでウッドベース弾いてるの、カイル・イーストウッドだった。顔変わらない。

(12/01/29・ユナイテッドシネマとしまえん)


アニマル・キングダム (2010/オーストラリア/監督デヴィッド・ミショッ)

宣伝文句「犯罪がつなぐ、家族のきずな」…って語呂悪くない?と思いつつ武蔵野館にて観賞。かなり混んでいた。母親を亡くし、犯罪一家に引き取られた少年を描く。

「少年を描く」…と言っても、主人公ジョシュア(ジェームズ・フレッシュヴィル)の感情が滲み出るような場面は少ないし、カメラは彼ばかりを追うわけではない。ナレーションも気付けば消えている。この語りは「最後」の後の彼の考察なのだから、もっとしっかり聞いておけばよかった。
とにかくクールでセンスがいいので、私など物足りなく感じたくらい。例えば終盤の裁判のくだりなど、「普通」なら、さて主人公はどうする?みたいな感じで顔のアップや歩く姿のスローモーションが挿入されそうなものだけど、そんなものは無いどころか(まあ要らないけど)、「事後」の素晴らしい一言で結果が示されるのが憎いほど。

犯罪ものとはいえ、緊迫感はあれどアクションシーンはほとんどない。その分却って、一見「普通」の男たちの肉体をまじまじ見てしまった。まずはうなじ、主人公の、確かに「若さは弱さ」でもあるような、世に出たばかりのウブな感じの、でも逞しいうなじ、「教皇」の、皮は厚そうながら無防備なうなじ、巡査部長(ガイ・ピアース)の落ち着きある素敵なうなじ。顧問弁護士が事務所?でシャツを脱いで上半身を露わにする場面など、その体に彼の人となりが表れてるようで面白い。
ジョシュアは全篇てろてろのTシャツ姿、しかも数日間着たきりなもんだから、Tシャツ苦手な私は、しまいには気分わるくなってきた(笑)冒頭母親が死んでもテレビに目をやったままの様子、おじたちが「何か」してると知りながら夜中にパンを焦がしてしまい懸命に削ってる様子、なんだかんだで「眠れない」なんてことはなく、「最後」以外は横になれば寝ちゃってる様子、そんなところに鈍い強さのようなものを感じた。

一家の中心は、ジョシュアの母親が付き合いを絶っていた祖母のジャニーン(ジャッキー・ウィーヴァー)。冒頭の「朝」の場面に空気の読めない、たんに皆が帰ってくるだけの存在と思いきや、普段は奥で控えておいて、いざとなれば「伊達に長年生きてないわ」とさらりと勝負に出る。一家の男たちの唇をもろに奪う様、葬式の際の丁寧な化粧(「あなたすてきね、私はどう?」)、脚を出した服装、私には嫌悪感は抱けなかった。好感ってほどじゃないけど、魅せられた。
「女はよく喋る、そういうものだ」と(まるでその場に「女」が居ないみたいに)弁護士が言い放った後にもけろりとしている。世の中において「女」はそういう扱いしかされないんだから、「私」が特別になろう、とでも決めたみたいだと思った。息子を産んで手なずける、それも一つの方法だろう。
終盤、ジャニーンが巡査部長に声を掛ける場面が本作のクライマックスの一つで、その後の笑みは厚化粧のためかジョーカーのようにも見えた。ああいう「悪」とは違うんだけども。

(12/01/25・新宿武蔵野館)


ピアノマニア (2009/ドイツ-オーストリア/監督リリアン・フランク、ロベルト・シビス)

子どもの頃、年に何度か?学校から帰るとヤマハの調律師の人が来ており、ピアノをポーンポーンと鳴らす音がしたものだ。その後にピアノを弾くのは何となく楽しく、また「良く」聴こえるような気がした。でもまあ、ピアノはそう長くやってないし、調律師が何をしてたのか分からずじまい。

「今の音に、名前を付けようか」

ピアノ調律師シュテファン・クニュップファーを追ったドキュメンタリー。バッハの「フーガの技法」のレコーディングを一年後に控えたピアニスト、ピエール=ロラン・エマールとの仕事を中心に、その一年が描かれる。

本作にはナレーションや「インタビュー」らしきものはない。そこにある「言葉」は、シュテファンと周囲の人々との会話、あるいは(隠された)こちらの問いに答える彼らのセリフのみだ。観ているうちにそれが当然なのだと思う。
冒頭ラン・ランはシュテファンに対し「甘く、柔らかい(ドルチェ)」音が欲しいと要求する。その後も言葉を尽くして自分の求めるものを説明する。一方登場時のエマールは、主に身振りで「こういう音」を求め、そのあげくに冒頭のセリフを口にする。といっても新しい言葉を作るわけではなく「これを『ビブラート』にしよう」。後半レコーディングスタッフがエマールに「レッジェーロ(軽く、優美に)」と言うとすんなり通じる。音楽用語って、音楽に携わる人間が、音と言葉とをダイレクトに繋げて、こうして出来たんだなあと面白く思った。逆に、音楽用語ではおそらく表現できないものを、何とか相手に伝えようとするやりとりを見るのも楽しい。

「番号」で呼ばれるピアノも立派な登場人物…キャラクターだ。削った木を組み合わせる工場?での様子が挿入されるけど、ああして同じように作られるのに、(プロにしてみれば)明らかな「差」が出るってのが面白い。シュテファンと共にピアノを弾き比べたピアニストの「ぼくはこっちの方がいいと思う、惹かれるものがある、もしかしたら『表面的な輝き』かもしれないけど」なんて表現が興味深かった。
高いステージにピアノを上げるのにスタッフ三人がかりで頑張ってる様は、ドキュメンタリーで見る、水族館の巨大動物の運搬のよう。後にオルガン演奏者が「グランドピアノは大きすぎる、人間の手には負えないよ」と言うのが可笑しい。

シュテファンの仕事着はジーンズにエプロンといった感じ、周囲のピアニストも、リハーサルの時などそれに近い。シュテファンの用いる「打鍵器」にBOSCHの工具が使われてるのが、音楽業界でもこんなの使うんだ〜という感じで面白かった。

(12/01/23・シネマート新宿)


ジャックとジル (2011/アメリカ/監督デニス・デューガン)

日本じゃ「ベッドタイム・ストーリー」以来久々のアダム・サンドラー劇場公開作。監督はデニス・デューガン。アダムは兄と妹の一人二役を演じる。

人種ネタ、小憎らしい子ども、動物、豪華キャストにお仲間、愛らしい音楽などを盛り込んだどうでもいい話、という大抵のアダム・サンドラーもの。でも「感動シーン」がアレ(ジャックとジルが「自分たちの言葉」で延々喋るので、観ている方には何だか全く分からない)ってだけでいい。ちょっと「トロピック・サンダー」のベン・スティラーを思い出した。この週末は「気休めの報酬」のクライマックスでも「ズーランダー」のベンを思い出してたので、偶然だ(笑)

本作を楽しみにしてた理由の一つは、大好きな「コーンヘッズ」以来ほぼ20年振りにスクリーンでデヴィッド・スペードが見られる!ということなんだけど、なかなか現れない。終盤やっと出てくるも「なんでこの役をわざわざ?」と思ったら、その後にあっても無くてもいい、仲間ならではの一幕があった。しかし例によってひどい(笑)
ロブ・シュナイダーは名前が出てくるのみで残念…と思いきや、クレジットに「Alan」役とあった。どこにいたんだろ?

同時期にDVDが発売された「ウソつきは結婚のはじまり」も観た。アダム・サンドラー&デニス・デューガンの、同じく2011年作。
ジェニファー・アニストンほど美貌を保ってやっと「アダム・サンドラーが」「若い美女から乗り換える」役か、女は辛いぜと思うも、結構楽しかった。二人のやりとりに、「デート&ナイト」の冒頭には敵わないけど、パートナーとして気が合うってのは、他人を茶化して楽しめるってことなのかなと思った。「ジャックとジル」におけるアル・パチーノ枠?ニコール・キッドマンも好演。しかしアダム度は「ジャックとジル」の方が高いから、なぜあちらが公開されてこっちがスルーなのか、よく分からない。

昨今は「セックスしても『本気』にはならない」キャラ流行りだけど、アダムの場合、冒頭に「結婚式当日に花嫁に傷つけられた」という「理由」が丁寧に示される(「ジャックとジル」に若干リンクしている)。花嫁とその友人達の描写がえげつないのが却って気持ちよく、こういう思い切りのよさって大事だよなあと思う。

見逃しちゃった「モンスター上司」の宣伝では、ジェニファー・アニストンが下ネタ演技を頑張ってる、ということが強調されてたけど、本作の前半にもそういう部分があり、私の目には強調するまでもない、見慣れたもののようにはまってた。彼女は大体、何でも出来る。

(12/01/22・新宿ピカデリー)


ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬 (2011/イギリス/監督オリヴァー・パーカー)

雨の土曜、公開初日のお昼過ぎ、都心では数少ない上映館の有楽町スバル座に行ってみたら長蛇の列。立ち見というので諦めて次の回に。そちらも満席だった。上映中は笑いが絶えず、エンドクレジットの前と後にどちらも大きな拍手が。いい気分だった。

私としてはすごく面白かった!わけではない。でも最近の映画では味わったことのない類の笑いで(だから先が「読め」なかった)、いつもと違うところをマッサージされたような心地よさがあった。大入満員の場内が笑いで揺れるのに、こういう需要があったんだと思う。スクリーンの真ん中に車椅子越しにちんまり映る、ローワン・アトキンソンの背中が神々しく見えた。

「Mr.ビーン」ことローワン・アトキンソンが諜報機関MI7のスパイに扮する「ジョニー・イングリッシュ」('03)の続編…といっても観るのに何の知識もいらない。私も前作については全く覚えていない。
冒頭の僧院での修行がラストにつながるなど、いわゆる「伏線の回収」はちゃんとあるけど、昨今の他の映画のように「びしびし決まる」わけではない。例えば前半、MI7の局長(ジリアン・アンダーソン)がジョニーに向かって「今のスパイはもう、銃と女ってわけじゃないのよ」と言うが、ジョニーは聞いてか聞かずか彼女や他の女性に「セクハラ」めいた発言をする。ゆくゆくどうなるんだろうと思ってたら、ジョニーのそんな言動はその時だけなのだった。こういうその場限りのギャグ?って今や新鮮だ。

007シリーズをなぞりながらも、そこにはただローワン・アトキンソンの肉体があるのみ…というだけなら「スケッチ」で終わっちゃうけど、加えてお話や他のキャラクターがしっかりしてるから、全然「映画」になってる。豪華ロケの割には全篇ご近所感覚が漂ってるので、観賞後に同居人も勿体無い!と言ってたけど、私はそこが気に入った(笑)

(12/01/21・有楽町スバル座)


幕末太陽傳 (1957/日本/監督川島雄三)

「私、毎年一両ずつ貯めて、十年後に十両お支払いします」
「十年後とは、このご時世、どんなふうになってることか」
「時代が変われば私も変わるわ、もっとお金が貯まってるかも」


「月光ノ仮面」にがっかりしたので(落語の映画だと思ってた私が悪い)、その気のなかった「幕末太陽傳」デジタル修復版を滑り込みで観てきた。スクリーンで観たら、やっぱり楽しかった。

二谷英明が落とした懐中時計をフランキー堺がすかさず拾い上げるオープニングから一転、タイトルと共に映るのは制作時・昭和32年の品川の線路の群れ。黛敏郎による音楽、加藤武の「東海道線の下り列車が…」に始まる語り、品川宿の「現在」の様子、豪華キャストのクレジットを追うのが大変で、幸福な多忙とはこういうことかと思う。やがて「さがみホテル」のネオンサインが「相模屋」の行灯となり、舞台は再び幕末へ。

「現在」と物語の舞台となる幕末との混沌が映画を泡立てる。冒頭からフランキー堺はドラムのバチ捌きを見せ、「わかいし」役の岡田真澄が「あっしは品川生まれの品川育ちで」と何度も繰り返し「そのツラでか!」と笑い飛ばされるのにも、奇妙な立体感を覚える(後に女郎が置いていった「ハーフの捨て子」だと分かる)。岡田真澄のキャラクターの果たす役割は大きく、柱となってる落語「居残り佐平次」において、私はわかいしが居残りをねたむくだりに少々どす黒いものを感じてしまうんだけど、本作では情けなくも愛らしい彼がその筆頭であることで、空気が和らいでいる。

本作を観るのは何度目か。学生時代にはぴんとこず、落語を聴き始めた頃には元ネタが分かるのが楽しく、それからしばらく(といっても数年)経った今、落語会で居残りや文七にまたかよ!長いんだよ!と思ってる身としては(笑)ネタになってる演目が複数あることで、一つ一つの扱いが軽くなってるところが嬉しい。関わるのが居残りだから、どの噺も辛気臭くなく、軽快に捌かれる(「文七元結」のあの扱い!長兵衛は博打がやめられず娘を売ってしまう・笑)。「だくだく」までやってくれてたのには初めて気付いた。
「修復版」を「スクリーン」で、というのでセットや小道具などがよく見えるのも楽しい。相模屋のどっしりした造り。わかいしが下足札を散らし盛り塩をする描写のすごい迫力。ご丁寧にもちゃんと滲んでいる「起請」。徳三郎(梅野泰靖)が居残りから借りた着物をさらりと纏った立ち姿の「若旦那」ぶり。おそめ(左幸子)が頬杖付くのに、手の平じゃなく甲を顔に付けてる可愛らしさ。加えて本作ではセリフが聞き取れないのが当たり前と思ってたけど、何を言ってるかほとんど分かった。

居残り=フランキー堺が「病にゃ女は禁物」と全く性欲を持たない(示さない)のには妙にそそられる。おそめとこはる(南田洋子)もだから惹かれたんだろうと思う。他人とあまり目を合わせない様子もいい。博打をしに来た若旦那に「いいんですかい?」の場面などちょっとしびれてしまった。
本作では人物の顔がアップになることはほとんど無いが、何度か居残りの顔が大映しになる場面があり、いずれも唐突な、無骨な感じを受ける。それは大抵、彼が「死」を意識する時だ。特に終盤の杢兵衛お大尽との一幕。(少なくとも今の)落語ではギャグキャラであるお大尽が、コミカルな音楽で緩和されつつも、ここでは死神のように感じられる。

攘夷派の志士達のパートは鈍重な感じがするので、無ければいいのにと思ってしまうけど、高杉晋作役の裕次郎には確かに華がある。登場シーンが寝転んでの下膨れの顔というのがいいし、着物の上からもお尻が高いのがよく分かる。
よく見ると動物が色々出てくるのも面白い。痩せこけて毛がぼさぼさの犬が尾を振りながら走り回っていたり、相模屋では、金ちゃん(小沢一郎)が待ちぼうけの手慰みに猫の蚤を取っていたり、喜助(岡田真澄)が暖を取るためか同じ猫?を懐に入れて寝ていたり。座敷牢には住人のように大きな顔をした鼠、路地裏にはニワトリ。どれも全然可愛くないけど愛らしかった。

(12/01/18・テアトル新宿)


マイウェイ 12000キロの真実 (2011/韓国/監督カン・ジェギュ)

終盤チャン・ドンゴンが「僕たち遠くへ来たなあ」と言うんだけど、そりゃそうだ、145分もあるんだから!いちいち言うことじゃないだろ、と思う。

開始早々「コケるデブ(彼が一番「美味しい」役だった)」「冒頭からクライマックスみたいな音楽」「ぐらぐらする映像」と、韓国映画らしさが存分に味わえる。マラソン選手二人が12000キロ走って移動する話だと思い込んでたので拍子抜けしたけど、戦闘シーンの他、「機関車」「冬山」など好きな要素が薄く盛り込まれてることにも助けられ、長丁場を乗り切った。

オープニング、マラソンレースの映像のあまりのしょぼさにテンションが下がるも、明らかにオダギリジョーと分かる背中に「無名の韓国人選手が…」というアナウンスがかぶるので何だろう?と興味を惹かれる。次いで幼少時代の子役に、こんなガキがオダジョー様になるわけないだろ、と憤慨するも、意外にするっと当人につながる(笑)しかし、当初は消えたと思われたオダジョー様の威光も、捕虜となると、森ガール的に言うならば「収容所ボーイ」って感じで復活するのだった。ボロが似合う。

チャン・ドンゴンが「俊足を活かす」「個人戦」だと、どうしても、よくも悪くも「アクション映画」と受け止めてしまうけど、「集団戦」、例えば特攻しようというところに奇襲を掛けられる場面や、ソ連軍となってドイツ軍と戦う場面などには、戦争の「真実」…そんなもの知りもしないのに…が確かに「在る」ような気がした。戦闘シーンは見どころだ。

オダギリジョーの父親(佐野史郎)は「祖国より人間のことを考えろ」と言ってのける医者で、息子をドイツに留学させようとする。当のオダジョーは「国の役に立たなければ」とそれをはねのけ、更にはある「事件」を経て、今の目で見れば「お国きちがい」になっていく。「天皇の赤子」なんてセリフにびっくりするけど、当時はそれが「普通」だったんだろう。
そんな彼が、数奇な運命を経てありえない変化を遂げるというところが面白いんだけど、話のせいか役者のせいか、いまいちぴんとこない。直接的には「ソ連軍にならなければ殺す」と銃を突きつけられる場面が切っ掛けなんだけども、随分あっさり描かれてたので残念だった。

(12/01/15・新宿バルト9)


今日と明日の間で (2011/日本/監督小林潤子)

ダンサー・首藤康之の2010年を追ったドキュメンタリー。
私はダンスのこと全然知らないけど、彼の「普通じゃない」感じの顔がまず好きだ。本作では全体的に顔のアップが多いのが楽しかった。始めと終わりは、この映画のために作られた踊り。とても気持ちよく、いつまでも観ていたくなる。暗がりから彼の顔が現れ、こちらを見つめて終わる。

「今いる処 東京」。ガソリンスタンドの隣のビルにあるレッスン場に、彼が自転車でやってくる。ニット帽を被ったまま、シンプルな動きで体を温めながらルームシューズを脱いでいく、その様子を見ているだけで面白い。「バレエって体を意識することだから/団に居た頃は誰かが見ていてくれたけど、独りになってからは、毎日テーマ(体の箇所)を決めることにしてる」。傍らに置かれた人体模型。意思の通った手や足の指。
「時の庭」の公演の様子。乾電池などの廃物?を使った作品を展示したスペースで、振付師の中村恩恵と踊る。その後の食事会で、二人は「若さ」について語る。「(バレエは)40になったら爺さん婆さん、の世界だからね」「若さはやっぱり素晴らしい、若いダンサーは大好き」「でも自分が40になったらまだまだ踊りたい、60になっても踊ってやるぞって」。次いで「この時期にドキュメンタリーの依頼が来てよかった」という話。「(胸を指して)ここを開くようになった、開いても入ってこないものは入ってこないし、閉じていても入ってくるものは入ってくる」。

「バレエに出会った大分」。かつて通ったバレエスクールを、50周年記念公演の振付のために訪れる。教室に男の子は独りしかいないのが寂しい。なかなかすてきな子で、カメラもちょこっと彼を追う。
川辺で過去を語る。「(高校を四日で辞めたことについて)学校が嫌というより、他に居場所を見つけてしまったから」「当時は若くテクニックがあるのがいいと思ってたから、一分一秒をムダにしたくなかった」。そうした言葉の後に、24歳の頃の映像が挿入される。リハーサル中「仮面を取ったら、糸が切れた操り人形のように倒れるんだ/難しいけど、自分のやり方を見つけて」とモーリス・ベジャールが指導する。

首藤や振付師、同期のプリマなど皆、喋る時に説明する手付きがすでに「ダンス」めいている。それならば、ダンサーと役者の境目って何だろう?と思っているところに、マイム舞台「空白に落ちた男」や、「アポクリフ」公演の映像が挿入される。そういうことなのだと思う。どんなジャンルにも、ジャンルを越える者(ってへんな言い方だけど)が現れるものだ。そういう現場をもっと見ていきたいと思う。
ただ、例えば私は、古典バレエには「お姫様」「王子様」的イメージがあり昔から好きになれない。でも「自由」に踊るためには、あるいはそういう踊りを深く味わうためには、「古典」の基礎がなければ難しいだろう。そういうジレンマって、なんだか落語みたいだなと思った(笑)

(12/01/11・銀座テアトルシネマ)


フライトナイト 恐怖の夜 (2011/アメリカ/監督クレイグ・ギレスピー)

「あいつは『トワイライト』の恋するヤサ男じゃない、
 『ジョーズ』のサメさ」


面白かった!作中のキメ場面を使ったエンドクレジットが楽しい。そのセンスの良さは本編観なきゃ分かんないから、そのために観てもいいくらい。
3Dで観てることを忘れるほど、3Dじゃなくてもいい度合いは高かったけど、たまに程よく血や火花が飛んでくるから(そこでは効果的だから)困る(笑)

リメイク元の「フライトナイト」('85)は先日初めて観た。ヴァンパイアもののお約束を踏襲しながらも話が明快にさくさく進むのが楽しい。ガールフレンドの白いドレスは今回も同じ。

開始早々、主人公チャーリー役、アントン・イェルチンの額の後退具合にびっくり。全体的にずいぶんくたびれており、しぼんだジョン・C・ライリーかと思う(彼はヴァンパイアの方の役をやってたっけ・笑)。でもその容貌が役柄に合っていた。終盤地下に降りる際に首から下だけ見えるカット、アニメかと思うくらい脚が細い。
彼が「捨てた」オタク時代の親友エドを演じるのはクリストファー・ミンツ=プラッセ(「キック・アス」のレッドミスト)、黙っててもうざくてしょうがない、あの口元が素晴らしい。

冒頭のセリフは、エドがチャーリーの隣人ジェリーを評して言うもの。ヴァンパイアのジェリー役コリン・ファレルの初登場シーンは、庭仕事のランニングシャツ姿でしゃがんでるところ。オリジナルのクリス・サランドンはバルコニーから見下ろしていた。こちらは「妖しい魅力のミドルエイジ」という感じだから、いきなり派手な暴力を振るうのがぴんとこなかったけど、コリンはなにせ「ジョーズ」だから、全然おかしくない。ハイウェイでのアクションシーンも彼ならではで楽しい。
その代わり、チャーリーのガールフレンドのエイミーを誘惑する場面などはしっくりこない、というか少なくとも「ヴァンパイア」らしくはない。オリジナルで一番叙情的かつ面白かったのはディスコでの一幕…鏡に自分独りしか映っていないことに気付くも、涙を流しながら彼に抱かれるエイミーの姿なんだけど、本作の彼女はコリンに無理やり血をなめさせられて初めて恍惚となる。その魅力は、アリかナシかと線引きできるはっきりしたものなのだ。

チャーリーと共にヴァンパイアを退治する「ピーター・ヴィンセント」は、オリジナルではテレビ番組「フライトナイト」のホスト(ロディ・マクドウォール)だったのが、本作では舞台であるラスベガスのショーのホスト(デヴィッド・テナント)。大スターながら、素顔は革パンを愚痴るようなしょぼい男。彼もコリンとかぶるキャラクターで、女に「またすぐしぼんで!」と言われてしょぼんとするなんて、直接的すぎる(笑)ちなみにこの彼女とピーターとのやりとりは可笑しい。
寂しいのは、オリジナルでの「落ち目のスターを主人公が信じて依頼する」といういわゆる「サボテン・ブラザーズ」的要素がなくなってること。冒頭からチャーリーの家では彼もママも「フライトナイト」に夢中、ってのが趣深かったのに。本作ではピーターのファンはエドのみ、しかもチャーリーに「8歳の子どもかよ」と言われる始末。ピーター自身が最後に「十字架を使えるようになる(=自分のしていることを信じられるようになる)」という場面も当然無く、残念だった。
オリジナルではよくも悪くも「蚊帳の外」だったママはトニ・コレットが演じており、さすがにしっかり話にからんでくる。息子ともそのガールフレンドとも「友達」感覚、楽しく頼もしい。彼女がチャーリーをヴァンパイアから守るある場面には笑ってしまった(もっともこのシーンで頑張ってるのはコリンだけど・笑)。

ヴァンパイアは防犯カメラに映らないから、悪いことし放題!というのに初めて気付いた。その他、「鏡」は出てこないけど、「映らない」設定が一応何度も活かされてる。チャーリーはエドが撮った映像に「人」が映っていないことから「それ」を信じるし、自分がヴァンパイアでない証明として「モニターを見て」と言う。
ピーターが「通販で物を買う」というのには「ラブ・アゲイン」を思い出した。一見?成功してる男は通販にはまるのか(笑)

一つ引っ掛かったのは、大仰な言い方だけど、やたら「女同士の敵対」が散りばめられてたこと。隣人宅を訪ねる女性をチャーリーが心配すると、エイミーは「あんなストリッパー」というような言い方をする。「ダンサーだよ」「服を着てればね」。またピーターの家で彼の恋人にチャーリーが目を奪われると、とがめるような顔をする。こういう場面が複数あるとイヤな感じ。ガールフレンドにこういう風にされたいでしょ、というサービスなのかな?

「お前の彼女は熟してるな、
 ママも匂ってる、分からないだろうけど
 お前に二人が守れるのか?」


チャーリーに「招いて」もらえないジェリーは裏口からこう言って挑発する。このセリフに「トワイライト」が作られ、また受け入れられた理由が分かるような気がした。なんでうちらが匂われたり守られたりしなきゃなんないの?どうせヤらないなら、なんでうちらがヤりたいと思う側じゃいけないの?…って、少なくとも私はそう思うね(笑)

(12/01/10・TOHOシネマズ渋谷)


パーフェクト・センス (2011/イギリス/監督デイヴィッド・マッケンジー)

「人々は二つに分かれた
 (略)
 世界が終わると考える者と、人生は続くと考える者」


それは「嗅覚」から始まった。何の前触れもなく人類が感覚を失っていく中、二人は愛し合う。主演にユアン・マクレガー&エヴァ・グリーン。

全篇通して、医師であるエヴァのナレーションが延々と続く。冒頭まず「この世にある全てのもの」の例として、「レストラン」などと並んで「病気」という言葉が出てくる。つまり「病気」の話じゃないわけだ。「病気」はこの世に「非・病気」が存在しなければ成立しない。これはこの世の「変化」とその渦中の二人の物語。ある朝、目覚めたエヴァが陽の差し込む窓際に立ち「世界はまだ続いてるわ/皆が出勤してる」と言うのが印象的だった。

変化につれて、人々も変わる。皆が嗅覚や味覚を失った世において、レストランは新たな工夫をし、客の方もこれまでと違うものを求めてやってくるようになる。アーティストは「以前は持っていたが失ったもの」をネタにし、宗教家は「天罰だ」「信心で治る」と叫び回る。
ユアンとエヴァはいわば「中庸」である。もともと「嗅覚」や「聴覚」を持っており、シェフと感染症専門医という、(映画的に)致命的なダメージではなく適度な刺激を受ける職業に就いている。ちなみに「ミュージシャンなんかはどうしてるんだろう」と考えた途端、ライブハウスにおけるとある場面が挿入されるので驚いた(笑)
正直なところ、始めから「障害」を持つ者や、その他、「味覚を失う前に異常な食欲に襲われる」としたら、例えば摂食障害に罹ってる者はどうしてるんだろう、と思わずにはいられなかった。二人の物語なんだし、そこまで描く必要ないと分かっちゃいるんだけども。「感覚を失う前に全員がとある感情に襲われる」という設定にも、「感情」とはそういうものなんだろうか?と疑問に思った。何にせよ一律すぎるというか。
終盤さすがにナレーションに対し「勝手にまとめすぎだろ」と思い始めた頃、ラストのとある場面に「驚き」「喜び」に近い感情が生まれ、その後、違った衝撃を受けて終わる。

エヴァが住むのはそこそこ裕福な町、その近くのレストランに勤めるユアンは渡し舟で通っている。エヴァのワーゲンに対し、ユアンの移動手段は自転車。愛車の感じと自宅の様子から、自転車が趣味でもあることが分かる。片方折った裾が可愛い(笑)
煙草を切っ掛けに…ユアンが切っ掛けに使い(笑)知り合った二人が、二度目に会うのは彼の厨房。シェフの作ったものをその場で鍋から食べるなんて羨ましい限り。「食べ物」といえば、撮影用に一体何で作ったんだろう?と思わせられる場面が多数あった。「石鹸」に「オリーブオイル」…「花」は本物かな?もしエキストラとして参加するなら、そのへんのものをむちゃくちゃにむさぼる集団の一人がいい!

作中、二人は何度も裸になる。ユアンの生尻もエヴァのおっぱいもあり。ベッドに寝てる時には構わず胸をさらしてるのに、座る時には頑なに布切れで覆ってるのは、その方が(何かで胸を支えた方が)体が楽だから、と実際問題として私は思うけど、ほんとのところは分からない(笑)

(12/01/07・新宿武蔵野館)


善き人 (2008/イギリス/監督ヴィセンテ・アモリン)

エンドクレジットを観ていたら、製作者の先頭にあった名前は「ユダヤ人」役のジェイソン・アイザックス。「ユダヤ人を監禁したらもう食べられない・笑」チーズケーキが哀しい。

ヒトラーに著書を利用された大学教授が、当初の意に反し、親衛隊の幹部として出世していく物語。
親友同士が「親衛隊」と「ユダヤ人」に、となれば面白さでは昨年の「ミケランジェロの暗号」に敵わないけど、本作では、主役のヴィゴ・モーテンセンの一挙一動に「もっとなんとかなるだろ〜がんばれよ〜」「でも自分にもこういう部分あるかも」としみじみさせられる。「やることはやった」って、もっと色々出来るだろ!と思いつつ、口ではそんなこと言いながらこういうことって、私にも、あるいは世の中にも、結構あるんだろうなあ。

主人公ジョンは話が始まって早々、妻からも党の偉いさん(マーク・ストロング)からも「あなたは正しい」と言われる。その後「捨てた」妻から「あなたに恋してるの、行かないで」、別れて随分後に「家族の誇り」、見ようによってはやはり「捨てた」母親からも「立派な息子(good boy)」と言われる。入党したことで「裏切った」ユダヤ人の親友モーリス(ジェイソン・アイザックス)が彼を頼るのも、愛人のアンが彼を欲するのも、何となく分かる。それは演じるヴィゴの魅力に負うところも大きい。
「仕事場」まで訪ねてきたモーリスを、アンと一緒だからと追い返してしまうヴィゴ。もっとやり方があるだろ〜と思うも、髪を乱し胸をはだけた彼が二階の窓から姿を現すこの場面、作中一番ってくらいかっこいいから困る(笑)ちなみに作中数回しか見られない、眼鏡を外した姿。

「生粋のアーリア人」であるアンは、ナチスのパレードについて「みな幸せそうにしてるんだから、悪いことのわけがない」と言う。幸せだと感じない人は来ない、なんて考えもしない、強者の暴力。それだって自分にも当てはまるかもしれない。ジョンも後に、選挙権さえないモーリスに向かってさらりと「ぼくらも何かをしなければ」と言う(もっともこれは入党の理由付けでもあるけど)。
新しい友人が「本部はセックスに関しては『前衛的』だ」と言うのも、内容を聞いてみれば「(「不倫」であっても)アーリア人の女とどんどんやって子どもを作れ」という、強者に都合のいいもの。当人だって後に首を絞められるはめになる。世に言われる「過激」「前衛」って、所詮は誰かにのみ都合のいいもの、差別をはらんだもの、そんなもんだったりするよなあと思う。

ラスト、ヴィゴが親友を訪ねる長回しの映像は、まるで「収容所」のテーマパークを見ているよう。本作がある種の「ミュージカル」でもあるのが、ここでちょこっと効いている。音の出所を辿っていくと、ディズニーランドの一角のような感じでユダヤ人の「楽団」が演奏している。ヴィゴは最後となるセリフを漏らし、初めて涙を流す。カメラが移動すると、新たに捕虜が送り込まれてくる。

ラストに流れるのはマーラーの曲。冒頭、精神分析医であるモーリスがマーラーについて口にするのも、昨年パーシー・アドロンの「マーラー 君に捧げるアダージョ(原題:寝椅子の上のマーラー)」を観たこともあり面白かった。いわく「寝椅子に縛り付けて治療すべきなのに、なんであんなやつが流行ってるんだ?」

(12/01/03・有楽町スバル座)



表紙映画メモ>2012.01・02