表紙映画メモ>2011.11.12

映画メモ 2011年11・12月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

ミラノ、愛に生きる / ルルドの泉で / 灼熱の魂 / サラの鍵 / 私だけのハッピー・エンディング / アーサー・クリスマスの大冒険 / マイティ・ウクレレ / エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン / フェイク・クライム / クリスマスのその夜に / ラブ・アゲイン / ラブ&ドラッグ / ラモーナのおきて / リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド / 新少林寺 /いちご白書 /スパルタの海 / マネーボール / ウィンターズ・ボーン / ハラがコレなんで / 家族の庭 / WAYA! 宇宙一のおせっかい大作戦 / グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独


ミラノ、愛に生きる (2009/イタリア/監督ルカ・グァダニーノ)

ティルダ・スウィントンによる富豪の妻が、息子の友人と恋に落ちる。予告編には「ヴィスコンティを彷彿とさせる」という文句が使われてたけど、そういう感じじゃなかった。だからつまらないというわけじゃなく、悪くない。舞台は重厚だけど、映像は軽快に思われた。

オープニング、作中何度も繰り返される印象的なテーマに乗せて、冬のミラノが映し出される。でかい建物やでかい木にしんしんと降り積もる雪。暗く人影もなく、薄着でだらだらしたい私は見てるだけで息苦しくなる。後に、ティルダ演じるロシア出身の主人公が「ミラノは豊かで何でもあった」と言うのに、そうなのかと思う。
カメラは窓からお屋敷の中へ、ティルダはセーターにパンツの細身な姿。こまやかな顔付きで金の食器を磨き、席順について指図する。そういったことが彼女の生業なのだ。それはそれで性に合ってるらしく、自然にこなしている。

長い時間を掛けて描写される「家族の集まり」は、調度から料理まで、いかにも重厚で見もの。気遣いに追われるティルダの表情も、あまり記憶にないもので面白い(笑)それに対し、ティルダと恋に落ちるシェフのアントニオは都市から車で二時間の「絶景」の中、彼女の顔も伸び伸びしている。ベタな対比だけどぐっとくる。私だって、あの山ん中のテーブルで、片方の手を繋ぎでもしながら食事したほうが楽しい。
二人はすぐ関係を持つのかと思いきや、なかなかそうならない。太陽もまぶしいサンレモの町へやってきたティルダは、大仰ながら陽気な音楽をバックに、彼を見つけて学生のように後を付ける。汚れ放題の日産のトラック(後ろには犬!)に乗り込むと、カメラは彼女の視点になり、がたがた山道をゆく。私もどきどきする。男は木陰で服を脱いで着替え、それから…この省略具合が最高、分かってるなあ!という感じ。冒頭からここまで、ずいぶん遠くに来たなあと思う。

物語はたんなる「不倫もの」ではない。時期を同じくして、家族に色々な変化がある。中でも下の息子と娘はそれぞれ行き詰まり、大好き!なママを求める。ティルダは存在だけで彼らの拠り所となっている。ちなみに娘役の女優さんがティルダにそっくり、というかティルダと父親役との間に出来た子、という感じの顔をしてるのが面白い(笑)
ティルダとアントニオのセックスシーンの後、その時彼らは、とばかりに夫と息子がロンドンの高層ビルでの会議に出てる場面に替わるのが印象的だった。ティルダは「仕事」、少なくとも家業には全く興味がない。そういうのだって勿論ありだよなあ、と却って新しく感じた。エンドロールのティルダと男の様子には、ここまで来たか!と思ってしまった(笑)

ティルダの衣装や髪型が素晴らしかった。彼女って腹など結構出てる、というか年相応に体がたるんでいる。「素」のようなものが美しい人はせこせこワークアウトなんてしない、という感じで(実際は知らないけど)却っていい。下着が素朴なのも良かった。ああ見えて高級品なのかな?「ハートブレイカー」(今年公開じゃないほう)のシガニー・ウィーバーみたいなやつは着ないんだな、やっぱり(笑)

(11/12/27・Bunkamuraル・シネマ)


ルルドの泉で (2009/オーストラリア-フランス-ドイツ/監督ジェシカ・ハウスナー)

時節柄「偶像崇拝をやめて神を信じよ!」との声が響く交差点を通り抜け、イメージフォーラムにて観賞。ラストシーンにおける、シルヴィー・テステューのアイシャドウをのせた瞼が心に残る。

「今年のベスト巡礼賞を贈呈します!」

オープニング、アヴェマリアの流れる空っぽの食堂に、クラシカルな格好の「看護婦」とワゴンに乗ったスープ、それから人々が入ってくる。車椅子の者に歩いてる者、若者に老人。一瞬タイトルを忘れ、彼らの「共通項」は何だろうと思った。マリア様のテーマカラーである空色の服を着たシルヴィーの姿はすぐ目に付いた。

舞台はルルドでの巡礼ツアー。そこは決して「信仰の現場」((c)ナンシー関)ではなく、様々な思惑と俗っぽい人間模様に彩られている。
率直に言って、私にとって本作の面白さの大部分は、知らない世界を垣間見る楽しさにあった。おみやげ屋に並ぶ大量のマリア像、「沐浴」の順を待つのに像と並んで一つずつずれながら座る様子。「奇跡」が起これば「医療局に行って判定してもらう」、でも「基準は厳しい」。参加者に「奇跡を受けるにはどうすればいいの?」と問われた神父は「まずは魂を清めるのです」と答える。
シルヴィー演じるクリスティーヌは、全身麻痺のため車椅子生活を送っている。ツアーの仲間はお喋りなおばさん二人組(うち一人の症状は「しつこい湿疹」)、毎年来ている熱心な母と少女、他大勢、加えて看護師に若いボランティアたち。クリスティの小説の一場面のようだと思った。だからというわけじゃないけど、映画全体に昔っぽい空気も感じた。

「なぜ他の誰かじゃなく私がこんな境遇なのか」「自分より重症の人に同情はしない」。そんなクリスティーヌがやってきた理由は「ほんとうは文化や芸術の旅が好きだけど、車椅子で参加できるツアーは他にないから」。
車椅子を押されたり食事を介助されたりする際、彼女の顔に例えば感謝や遠慮の気持ちは浮かばない。作中「まだ若い」「お嬢さん」といった言葉(字幕)が出てくるので、20代位の設定なんだろうか?実際はそれより上の年齢の、でも不思議と子どもっぽく見えるシルヴィーが演じるのが効いている。どこか彼女を覗き見するような、伺うようなカメラワークもいい。
シルヴィーの表情が素晴らしいラストシーンが良かったけど、印象的だったのは、一人で動けるようになったクリスティーヌが、テラスで大好きなクリームたっぷりのパフェ?を食べていると、店のスタッフが大勢やってきて彼女に向かって拍手する場面。不気味極まりない。

クリスティーヌ付きの看護ボランティアを演じているのが、「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」で殺し屋だったレア・セドゥ。机に肘付いてパンをもぐもぐやる姿、草の上に頬杖付いて寝転がる姿が最高に似合ってた。最後に流れる間抜けな歌声も効果的。やることなすこと雑で、ディナーの不味そうなデザート(緑色のジェロにクリームが乗ったやつ)にクリスティーヌが目を輝かせても「食べていいの?ホイップよ」と面倒そうに応じる。
そんな彼女が言うには「何か意義のあることをしたいの」。隙あらば男に声を掛け遊んでいても、それは全然両立するものだ。そこんとこがよかった。

(11/12/26・シアターイメージフォーラム)


灼熱の魂 (2010/カナダ-フランス/監督デニ・ヴィルヌーヴ)

「叔父は言葉と書物が平和を築くと信じてたわ、私もそう
 でも現実に打ちのめされた
 今はもう、相手にも同じように思い知らせたいだけ」


原題「火事」。原作はレバノン出身の作者の戯曲だそう。娘と息子が、遺言により、初めて存在を知らされた父と兄を探しに母の祖国へと旅をする物語。

冒頭、レディオヘッドの曲をバックに、子どもたちが丸刈りにされている。一人の男の子の足元に落ちる髪、踵のしるし、やがて彼は頭をつかまれながら鋭い瞳でこちらを見る。
一気に惹きこまれていると場面が替わり、若い「双子」が登場。公証人から母の遺言を聞かされ、固く腕を組んだままの娘と、「お袋が死んでやっと平和になったのに」と声を荒げる息子。彼らは物語の最後には、体を開き目を輝かせ、全てを受け入れる。

とても面白かった。「生まれ」ゆえに過酷に生きた一人の女性、またその人生を受け入れる子どもたちの物語だけど、壮大なミステリーでもある。
母と娘のパートが時代順に交互に描かれるが、私が目にした母の姿を娘は知らないわけで、こちらとしてはそのズレがスリルと妙味になっている。炎上するバスの傍らで呆然としている母の横顔の後に、音楽を聴きながらバスに揺られる娘が映る場面など印象的。また母役と娘役の容貌が似ていることや、私が中東の社会情勢に疎い(町の様子から時代が判断できない)ことから、しばらくどちらなのか分からないことがあるのも面白く感じた。

観ながら「言葉」について色々考えさせられた。例えば娘が母の故郷を訪ねるが、こちらは「フランス語か英語」、村の女たちは現地の言葉しか話せず、一人だけ「現代的」な若い女性の通訳に頼ることになる。母の故郷でこういう状況になるって、どういう気持ちだろう?その後(母の事情を知っている)こちらが想像した通り、娘は怒声を浴びせられその場を追われる。
難民である恋人を身内の男に殺され、自らも銃を向けられた母(って、まだ誰の「母」でもないが)を祖母はかばい、食事を取らせ(ちなみに後半にも「食事を取らなきゃ」と言う別の祖母が出てくる)、「大学で読み書きと知識を身に付けて、こんな暮らしから抜け出すのよ」と村から逃がす。冒頭の母のセリフにもあるように、彼女や周囲の幾人かは「読み書きと知識」の力を信じているが、現実には繰り返され肥大する「報復」の手段にしかならない。しかし母は死を前に、自分に出来うる限り、この世から「報復」の跡を愛でもって消そうとするのだった。

母が遺言を託したのは、彼女と「家族同然」の付き合いをしていた公証人。「死はそれで終わりじゃない、必ず何らかの痕跡を残す」「僕の祖父も父も公証人だったが、僕の家は僕の代で終わり」と言う彼が、二人の「旅」を見届けるというのも面白い。オフィスに飾られているのは妻の写真だろうか?演じている役者さんの佇まいもよかった。

(11/12/21・TOHOシネマズシャンテ)


サラの鍵 (2010/フランス/監督ジル・パケ=ブレネール)

「いえ、母は…ユダヤ人ではありません」

パリに暮らすアメリカ人の記者ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、「ヴェル・ディヴ事件」の取材を通じ、夫の祖父母から譲り受けたアパートが、ユダヤ人一家が強制的に追われた後に入手したものだと知る。彼女は収容所から逃亡した一家の長女サラの足跡を追う。

事前のイメージより、ずっと広がりがあり、エンターテイメント性の高い作品だった。
映画は予告編で何度も見た、あの場面で始まる。質素ながら可愛らしい子供部屋の奥に姉と弟がはしゃぐベッド、手前に猫、全篇に渡ってきれいな画面が多い。踏み込んだ「警察」はカーテンを引き、部屋を外部から遮断する。それからの一幕の後、同じアパートにやってきたジュリアはカーテンを開け、部屋に光を入れる。
以降、サラのパートとジュリアのパートが交互に進む。前者は手短な描写で鮮やかな印象を与える。収容所で親子が引き離される場面など強烈だ。サラの「脱走」のくだりでは、同行する少女とベタベタ助け合わないのがいい。一方が転んでも振り返って待つだけ。体力が無いのか、「脱走」成功者の「自分のことだけ考えるのよ」という助言が頭にあったのか。

ジュリアを演じるクリスティン・スコット・トーマスは、冒頭からやたら「少女」ぽく見える。口元に手を当てたり袖をつかんだりという仕草は他の作品でも目にしてたものだけど、豊かで分かりやすい表情(「関係者」に会える時の、嬉しさを隠しきれない顔!)も加わり、初めてそう思わされた。
そんな彼女に「共感」し、一途に「真実」を追っていると、終盤、人にはそれぞれ「事情」があることが分かる。こういう「衝撃」のある映画って面白い。もっとも私がある程度「鈍い」から、衝撃となり得るわけだけど(笑)冒頭のセリフや、彼女の夫の「アパートは売るよ、もう話題にしたくないから/どういう経緯があろうと、ぼくにとっては思い出の家だったんだ」というセリフが忘れられない。
ラストシーンでジュリアは「私ったら何様だったの」と口にする。相手はむしろ感謝し、二人は抱き合う。しかし彼女のやり方を受け入れない者もいる。それはそうだろう。

「ヴェルディヴ(競技場)」(=「ヴェル・ディヴ事件」)について、私は今年公開された「黄色い星の子供たち」を観るまで知らなかったんだけど、本作中では、当のフランスでも、ジュリアの同僚である若者たちはその言葉を知らない。ジュリアが「その時パリにいたらどうする?」と尋ねると「うちでテレビで観るかも」と答える。

「あなたはその出来事を『理解』しようとしましたか?」
「今なら簡単かもね、でも当時はユダヤ人の悪い噂ばかり聞かされて
 それにどうすればいいの?警察でも呼べばよかったの?」


(11/12/19・銀座テアトルシネマ)


私だけのハッピー・エンディング (2011/アメリカ/監督ニコール・カッセル)

男とセックスしながら「朝まで一緒のベッド」「アイラブユー」は犬にしか与えない主人公、そのうち癌が発覚というんで、今年観た色んな映画を組み合わせたみたいだな〜と思う。お洒落すぎる部屋やハイテンションなジョークに始めはぴんとこなかったけど、途中から気持ちが沿い楽しかった。邦題はありがちな言葉の組み合わせじゃなく、ほんとにそういう話。
原題「A little bit of heaven」もいい。作中これに近い言葉がいいタイミングで出てくる。主人公がどん底の時、それはやってくる。ふと気分が変わる。この場面に限らず、彼女の気持ちの移り変わりが素直に描かれているのに好感を持った。

予告編の時点では、主役のケイト・ハドソンのむくみように「キャシー・ベイツの娘」の役作りにしてもすごいなあと思ってたけど、実際に観てみたら、確かにぶたれたヒラメみたいな顔だったけど、ババくさキュートというのか、なかなか良かった。作中一度だけ「きれいだよ」と言われる場面、恋人からじゃない、ああいうのがいいんだよなあ。
冒頭、自転車に長いスカートがまくれてのあんよもキレイ(ゴールディ&ケイトの母娘の脚は「あんよ」って感じ)。「神様」の隣でのラフな座り方もチャーミング。彼女の「臨死体験」やその他、感じたことが(「天国から来たチャンピオン」的というのか)素朴な映像で表されるのがいい。

ケイトと愛し合うジュリアン…「ヨーヨーが趣味の、ジョークが下手な本の虫」を演じるのは、ガエル・ガルシア・ベルナル。初めてのデートの夜、ドアでの別れ際の笑顔が最高にキュートで、よくこの人と夜を離れて過ごせるなと思う。最後にケイトの問いに、率直な答えと少し上手くなったジョークで返すのがいい。
彼とケイトは「医者と患者」の間柄だが、それは「知り合う切っ掛け」であり、ケイトが恋に落ちるのはひとえにジュリアン(=ガエル)の「魅力」ゆえ。中盤彼女が「治療をやめ自分らしく生きる」と決断することもあり、少なくとも作中では、「関係」を持ってからの二人は「医者と患者」としては向き合わない。真摯な作りだなと思った。

母親役のキャシー・ベイツは「12年前からベジタリアン」の娘に向かって「ステーキで栄養つけなきゃ」「マクロビをやってみる?」などと言いながら、当のステーキを焦がしちゃうようなタイプ。「お洒落してキレイでいてほしいの」って、私なら言われて一番むかつく言葉の一つだ(笑)
しかし彼女がベッドで「昔よく歌ってくれた歌」を口ずさむ場面では、例えば母の声や手に触れながら死ぬのは、「親不孝」ではあっても、悪くないんじゃないかと思わせられた。ケイトは、友人には「I'm sorry」と言うが、母に対しては「ずっとよくない娘だった」と告げるのみで、死ぬことを謝りはしない。対してキャシーが「どこの娘もそうよ」と返すのに、涙がこぼれてしまった。

宣伝には「余命半年で出会った運命の恋」というキャッチコピーが使われてるけど、彼女は周りの全ての人との関係を自分で手掛け直して死んでゆく。出来すぎとはいえ、「ハッピーエンディング」なラストシーンがよかった。

(11/12/17・新宿ピカデリー)


アーサー・クリスマスの大冒険 (2011/アメリカ/監督サラ・スミス、バリー・クック)

ミラノ2にて2D吹替版を観賞。上映前にジャスティン・ビーバーによる主題歌「サンタが街にやってくる」のPV。最近うちじゃよくジャスティンのクリスマスアルバム流してるから、でかいスクリーンで見られて楽しかった。積み上げたプレゼントの箱を蹴散らかす姿が超お似合い(笑)

自分は「実写の人間」(正確には、自分がそう思い込めるもの)をスクリーンで見るのが好きなんだなあと、改めて気付かされた。サンタクロース一家の面々が(母親を除き!)一癖あればあるほど、ああこれがアニメーションじゃなく「人間」だったらなあと思ってしまう。本国版のキャストがマカヴォイやビル・ナイっていうんだから余計。
もっとも面倒がらず3Dで観ていれば、体感の楽しさがその思いを上回ってたかもしれない。地中から登場する飛行艇に一頭のアザラシが持ち上げられて翼から滑り落ちる様、ええっあんなにでっかいの?!なんて、3Dならどんなだったろう。
アニメならではの動物がらみのシーンはどれも楽しい。老トナカイが「前に移る」場面にはちょっと涙ぐんでしまった。トナカイつながりで、アーサーが必死こいてる時にガチャガチャいってる「0.5匹分」の馬鹿馬鹿しさもお気に入り(笑)

とある女の子が手紙に書いた「サンタに関する疑問」の声をバックにカメラは歴代サンタの肖像画を見せ、「大企業」のおそらくすみっこの、狭く雑然とした、でも居心地よさそうなアーサーの部屋へ。終盤は違う目でここに入ることになる。それから「疑問」の全てを軽々と解決する、クリスマスの夜の「特殊部隊」による一幕。このオープニングがスピーディでよく出来てて、繰り返し見たくなった。
「クリスマス」の小ネタの数々も楽しい。エリートの兄の仕事着は軍服、サンタのスーツはヴェルサーチ。弟の方はホーホーセーターに「中国製」のスリッパ。ママのスカートも地味ながらいい、クリスマスにあの柄履いてみたいな。

(11/12/14・新宿ミラノ2)


マイティ・ウクレレ (2010/カナダ/監督トニー・コールマン)

「ハ長調はみんなのキーよ」
 (…と言ってたけど、どういうニュアンスだろう?)

ウクレレを題材にしたドキュメンタリー。ジェイク・シマブクロのライブシーンに始まり、なんとかキング(名前忘れた/作品は彼に捧げられている)によるバッハのプレリュードで幕が下りる。前者は激しい曲を鳴らす腕の筋肉に見惚れ、後者はあまりに心地よく、こんなことめったにないけど、エンドクレジットがいつまでも続いてほしいと思った。

冒頭から大勢が登場し、ウクレレについて語る。まずは「ウクレレで生計を立てている」わけじゃない人々。「オーディションに落ちてウクレレを止めるなんてやつはいない」「ウクレレを楽しむのには弾かなくたっていいんだ、その場の演奏を邪魔せず味わえば」なんて言われるので、ほんとに気が楽だ。
次いでその歴史が辿られる。黒地に白線の素朴なアニメーションや、「ウクレレ史にとって喜ばしい(あるいは「喜ばしくない」)出来事」などの「偽ニュース映像」が楽しい。万国博覧会を機にアメリカ本土でウクレレが流行り始めたあたりでハリウッド映画の断片が幾つか出てくるんだけど、ほとんど分からないので寂しかった。「ウクレレを取り入れた喜劇俳優」はロスコー・アーバックル?
その後、60年代には「変人」のトレードマークになるも、徐々に復活。音楽ジャーナリストいわく「ジョージ・ハリスンのコンサートで、名立たるミュージシャンたちがウクレレを弾いてたの」「皆じつはウクレレが好きだったのよ、まあ、すごく熱中してたってわけじゃないけど」。こうした「なんとなく」といった語り口がいかにもでいい(笑)ポール・マッカートニー、ロバート・プラント、ピート・タウンゼントがウクレレを手にする絵も可愛い。

後半には、ウクレレをクラシックやヒップホップに取り入れたり、オタク的に弾き方を追求したりするミュージシャンが次々と出てくる。手軽に弾けて使い方次第、という幅の広さが伝わってくる。
ジェイク・シマブクロは「ウクレレはその概念が文化によって違うのが面白い」「だから国によって演奏する曲を変える」と言っており、その後に流れる日本でのライブでは「さくら」を弾いていた。日本じゃどういう「概念」だと思ってるんだろう?

最後は教育現場のレポートにも近くなる。確かに「全員に行き渡り」、すぐに演奏できる楽器は学校じゃ理想的だ。関係者いわく「ピアノやバイオリンを習うと、親は毎日練習させようとやっきになるけど、ウクレレなら期待しないからいいんじゃないかしら」。親の方が「娘がリコーダーを習い始めた時は哀しかったけど、ウクレレになった時は嬉しかったわ」というのはちょっと可笑しかった。

(11/12/13・シネマライズ)


エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン (2011/ドイツ/監督ゲレオン・ヴェツェル)

シネスイッチ銀座にて公開初日に観賞。午後二時の回はほぼ満席だった。今年7月に閉店したスペインのレストラン「エル・ブリ」についてのドキュメンタリー。

食べたいと思うものは出てこず、レストランの紹介もされないけど、面白かった。レストランのドキュメンタリーでありながら、色んな世界の「裏」…そう、描かれるのは見事なまでに「裏」ばかり…に通じるところがあるように思った。

映画は三部で構成されている。まずは「休業=実験期間」。荷物と共にスタッフがバルセロナの実験場に移動、横一列に整然と並べられた器械の画の上に「料理の開発のため毎年6ヶ月休業する」旨のテロップ。
実験結果は全てデータベース化される。「記録」のために撮られる写真のどれも不味そうなこと、それでいいのだ。買出しの際に市場のカウンターに座る場面と、皆でまかない(ムニエルとパスタ?)を食べる場面が唯一「庶民的」で美味しそうなんだけど、前者は食する様子を映さず、後者も一瞬で終わってしまう。
このパートは、料理長にスタッフが怒鳴られる長丁場で終わる。理由は部下によるデータの破損を黙っていたため。「プリントアウトしたのが残ってるし!僕のせいなんですか!」とまさに「食い下がる」も、「紙ばかりでどうする!」と責められる。「料理」のドキュメンタリーらしからぬ内容に、これがこのレストランの真髄かと思わされた。

次は「レストランに移動してから開業まで」。引越し当日の場面で「実験場」の外観が初めてちらりと映り、街中のこんなところであれこれしてたのかと感慨深く思う。現地で初顔合わせするスタッフが皆「普通」っぽいのは意外に感じたけど、研究とその結果の「データベース」さえあれば、現場では皆が「普通」に働くことができればそれでいいのかもしれない。
そして「開業以降」。華やかな「表舞台」=テーブルなどは一切写らず、客の姿も主に厨房に訪ねて来る所やレストランの外からの様子が捉えられるのみ。厨房と食堂はシームレスな感じで、境目で料理長が全てを「試食」しメモを取る。この段階でもまだ、メニューの全貌は明らかにされない。
映画の最後をついに飾るのが、華麗なメニュー写真の数々。それにしてもあのカメラマンは普段は何を撮っているのか、どういうわけで選ばれたのか気になった。

冒頭から「日本の素材(をアメリカ人が調理したもの)」が登場、その後も有名な柚子を始めとして松茸、柿、梅干、しゃぶしゃぶなど日本語と共に取り入れられていた。それらはちょっと、食べてみたい。

(11/12/11・シネスイッチ銀座)


フェイク・クライム (2010/アメリカ/監督マルコム・ベンビル)

「無実の罪で服役したんだから、ほんとに銀行強盗したらどうだ?」
 (数年後)
「お前、銀行強盗に誘うためにムショまで会いに来たのか!?」


これは楽しかった!オープニング、昔の映画っぽい色とりどりの明かりの正体が分かり、「あの」水筒(「アクロス・ザ・ユニバース」に出てきたのが印象的)が映り、カメラが引くとしょぼくれたキアヌの姿…この時点で面白そうな匂いがぷんぷんする。私はキアヌといえば「真夜中をぶっとばせ!」が好きだったので、本作が早朝から始まるのが、何となく20年経ったその後の話のようで嬉しかった。

原題は「Henry's Crime」、違う邦題つけるならさしずめ「『キアヌ・リーヴスの』ヘンリーは銀行強盗」ってとこか。宣伝にはクライムサスペンスとあるけど、本国版のポスター(右)から分かるように乗りはゆるいコメディだ。
キアヌの役は、ジャンパーに真ん中分けの髪、卒業アルバムに「Nice Guy」と書かれちゃうような、別れた後に相手の女がキレイになるような男。勝手な想像だけど地に近いんじゃないかと思われる(笑)そんな彼が高校時代のクラスメイトに利用され刑務所へ。古株のジェームズ・カーンと仲良くなる。出所後に舞台女優のヴェラ・ファーミガ様と出会う。劇場と銀行の間に古いトンネルがあったことを知り、とある計画を思いつく。

キアヌとジェームズ・カーンの二人が影響し合うところがいい。「夢はなんだ?」という問いに答えられないキアヌにカーンは「それはよくない」と忠告する。出所後にひらめいたキアヌは面会に行き、平穏な刑務所暮らしを望むカーンを「ここはホームじゃない」と説得する。
いざコンビを組んでみれば、元「信用詐欺師」のカーンは口がうまく役に立つこと。「知的」な役もなかなかはまってる。しかしそこはそれ、よほど卑劣な奴は力でもってぶちのめしてくれる。
また、「バットマン」シリーズのクリスチャンじゃないけど、爺さんとコンビを組むことにより、キアヌの若さの残り火が燃えている。「思い切って」のくじを当てた晩、ナイアガラの滝の前でファーミガ様に「銀行強盗するんだ、ほんとだよ!」と告白する時のキラキラした瞳。ついでに「このCM嫌いよ」と言うファーミガ様に「ぼくは好きだよ、君が出てるから」と答えるのもいい(笑)

冒頭、警備員が朝のコーヒーを買いに来るカフェの感じがいいなと思ったら、その後も度々出てくる。これもポスターから分かる通り、舞台がほとんど小さな街の一角というのがいい。ほんの半径数百メートルの中で、ヘンリー=キアヌの人生が大きく変わり出す。
くすぶってる女優役・ファーミガ様の、フリルいっぱいにパンツという私服姿も素敵(私じゃ絶対できないカッコ・笑)。キアヌが舞台の上の彼女を初めて見る場面で、こんなふうにやればいいんでしょ!と次々「演技」を繰り出す様子は最高にチャーミングだった。

(11/12/06・ヒューマントラストシネマ渋谷)


クリスマスのその夜に (2010/ノルウェー-ドイツ-スウェーデン/監督ベント・ハーメル)

公開初日、ヒューマントラストシネマ有楽町にて観賞。「キッチン・ストーリー」「ホルテンさんのはじめての冒険」などのノルウェー、ベント・ハーメル監督による、クリスマスの一夜の群像劇。

日本での宣伝文句は「おうちに帰ろう」。その通り、エンディングに流れる曲の歌詞は「私はこの先どうなるのか/でも愛してくれる家族がいる/うちに帰ろう」。
ここでの「うち」とは、自分で築いた家庭というより「故郷」というニュアンスぽい。実際作中では久々に故郷に足を向ける人物が出てくる。しかし映画は、将来のために自らのルーツを後にするエピソードで終わる。振り返ってみると、描かれているのはどれも、人生の様々な場面において、「幸せ」、あるいはともかく何かに向かって一歩を踏み出す人々の話だった。

冒頭、テレビでクリスマスのニュースを見ていた男の子が家を抜け出し、とある危機に陥る。彼を狙う銃の引き金に指が掛かったところで場面は変わり「本編」…おそらく数年後の、舞台となるクリスマスの夜へ。どういう状況なのか?あれは「誰」なのか?と悶々としながら観ていると、何とラストにその正体と意味が分かるという仕掛け。面白いけどちょっとずるい。

本作は群像劇といっても、一見オムニバスのようだ。また例えばクリスマスつながりで、ド派手な「ラブ・アクチュアリー」などと比べると、知ってる顔はないわ(おそらく本国ではそうじゃないんだろう)、作中世界の大都市も有名人も出てこず地に足着いてるわ、「コメディ」要素は限りなく控え目だわ(「控え目」ながら無いわけじゃないのがポイント)、あの人とあの人にこんなつながりが!というカタルシスもないわ、とあくまでも上品。それでいて「どうしようもない」ことがさらりと盛り込まれている。

一組のカップルがやたら早い時間から「クライマックス」を迎えている、すなわちセックスしているので、これはと思ったら、やはりそういう「事情」がある。作中のベッドシーンは彼らのものだけだけど、男女ともに、少なくとも体型は「普通」ぽい。偏見だけど北欧映画って、「普通」ぽい役者さんが出てくるのがいい。「ミレニアム」だって、愛人関係にあるミカエルとエリカの容姿があれだからこそ好きだったものだ。

(11/12/03・ヒューマントラストシネマ有楽町)


ラブ・アゲイン (2011/アメリカ/監督グレン・フィカーラ)

最高に面白かった!とても幸せ。

40代の「安定したサラリーマン」キャル(スティーヴ・カレル)は、ある日突然、妻のエミリー(ジュリアン・ムーア)から離婚を切り出される。「浮気」を告白された彼は耳をふさいで助手席から飛び降りた。その後バーで一人過ごすようになったキャルは、年下のジェイコブ(ライアン・ゴズリング)に声を掛けられ、「女を振り向かせる男」へと変身を遂げる。

予告編から想像されるような、夫と妻のラブストーリーというだけじゃない。たくさんの登場人物がびしっと決まっている。皆が愛おしい。
中盤ふと、そういや最初に出てきたきりのハンナ(エマ・ストーン)は何だったのかな〜と思ってるところに彼女が登場、二場面ほどで心に深く入ってくる。そして彼女のキスの後、部屋の隅から留守番電話の声が流れてきてキャルの方にすっと心が移る、そうした切り替えの見事なこと。
終盤には満を持しての勢揃い。「デイヴィッド・リンダーゲン」ことケヴィン・ベーコンが庭に姿を現す場面、私にとって「サモハンのテーブル乗り」「デュリスのスウェイジ」に次ぐ今年の体温上昇シーンだ。アクションでも何でもなく「男が一人現れる」だけでこの興奮、ここまで紡がれてきたお話のおかげだ。

それにしても、白ケビンよかった!勝手に「スーパー!」的キャラだと思い込み、終盤ライアンと同じ画面に出てきたら色男対決が見ものだな〜と期待してのたで拍子抜けしたけど、こっちの方が全然素敵。(妄想シーンにおける・笑)庭仕事の白シャツ姿もまぶしい。
物語の後「デイヴィッド・リンダーゲン」はどうしたんだろうと思うけど、彼だけ役名もフルネームだし、そういう存在なのかなと。変な言い方だけど、実体のあるマクガフィンというか…って思い切り話に参加してるけど。
登場人物のほとんどが「恋を実らせる」中、「むくわれなかった」他の一人は「ああいうキャラ」だから、また他は「年が離れすぎてるから」「子どもだから」、構わないってことなのかなと思った。

以下色々。

・今年観た映画では「ハートブレイカー」に続いて「ダーティ・ダンシング」ネタあり。意外にも力技でくる。
・音楽もとても気持ちよかった。冒頭のショッピングセンターの場面でかすかに「コンドルは飛んでゆく」が流れてるのに、「お家をさがそう」の「Nightbirds」を思い出してしまった(笑)
・嬉しかったのが、エマの友人の「あんたがコレなら私はどうなるのよ!」ってセリフ。これは「ジョージアの日記」のジョージアが父親に言う言葉を思い出した。あまり聞かないけど、そうなんだよ!と言いたい、つながり。
・ほとんど出番のない(前半など、わざとじゃないかと思うくらい「顔」を見せない)末っ子は先日観た「ラモーナのおきて」にも出てたジョーイ・キング。テレビの前で力いっぱい踊る姿がいい。あれはああいう風じゃないとダメなんだろう。

(11/11/30・シネマート新宿)


ラブ&ドラッグ (2011/アメリカ/監督エドワード・ズウィック )

医学部を中退しファイザー製薬のセールスマンとなったジェイミー(ジェイク・ギレンホール)は、売り込み先の病院で、パーキンソン病患者のマギー(アン・ハサウェイ)と出会う。早速セックスする仲になり惹かれていくが、「おつきあい」はしないと釘をさされる。

つまらなかったわけじゃないけど、ぴんとこず。「クライマックス」でジェイミーがマギーに「君が必要だ」と告げる場面、私には彼の言ってることが何ひとつ分からなかった。「僕は今までチャラ男(この字幕もいまいち、この場面では違ってたっけ)だった、周りの皆もそれが僕だと受け入れてたから、でも君は違う、自分に初めて自信が持てた」…えっそんなこと思ってたの?と。

ジェイミーの仕事に付き合ってシカゴを訪れたマギーは、「怒れる患者の集い」を知り「病気なのは私だけじゃなかった!」と舞い上がる。ジェイミーの上司役オリヴァー・プラットが口にする「シカゴは文明と文化の町だ」というセリフを思い出した。都会のよさ。しかし体がままならないとはいえ、彼女がそうしたアプローチをしたことがなかったとは意外だ。「奔放な」「芸術家肌」でも、そういうタイプなんだろう。
一方、同じ「集い」で妻を20数年看ている男性から「意見」を聞いたジェイミーはいつになく深刻な気分になり、二人は初めて大きくすれ違う。
その後、病気を「治す」決意を固めたジェイミーはほうぼうの病院へとマギーをひっぱり回す。仕事ではどんな窮地もチャーミングに乗り切ってた彼が、予約を伸ばされた受付で怒鳴ることしか出来ないのがせつない。自分を病気ごとは受け入れられないのだと察したマギーは離れていく。これからどうなるんだろう…と興味を持って見ていると、なんだか大したこともなく上段の場面に着地したので拍子抜けしてしまった。

映画において、カップルが何らかのトラブルによって一旦離れた後、片方(大抵男)がよそでセックスして、しばらく後に会うと、もう片方には別の恋人が…という展開ってよくあるけど、片方だけセックスしたんじゃずるいと観客に思われるからそうしてるように感じてしまう。本作もそうだった。同様のストーリーでも気にならない場合もあるんだけど。

(11/11/29・シネマート新宿)


ラモーナのおきて (2010/アメリカ/監督エリザベス・アレン)

これは面白かった!「空想好き」な9歳のラモーナと周りの人達の物語。主役にジョーイ・キング、お姉ちゃんにセレナ・ゴメス、ママにブリジット・モイナハンなど。

まずは体で遊ぶ楽しさが伝わってくるのがいい。私は9歳のラモーナの「空想」を表した場面より、単純に、ペンキが落ちてきたり水かけあったりというのが好き。洗車中のクルマの中でのデート(じゃないけど)なんてのもときめいてしまう。
体を使うって意味では、計算されたミュージカルみたいな楽しさもあった。お姉ちゃんに髪を巻いてもらい鏡を見た後、銀のトースターの前でカエルの真似、くるっと回って冷蔵庫のドアに寄りかかる場面なんて、可愛くて見とれる。ラモーナ始め皆の芝居調の動きが、物語をうまく運んでいる。
大体、男の人のへんな踊りがある映画ってそれだけで面白い。加えて言うなら、車の下にもぐって修理してる男の人がするっと出てくる場面も大好き。ちなみにここで登場するのはジョシュ・デュアメル、そこから出てこなくてもイイ男だ。

伏線を収拾、なんてしゃちこばった言い方は好きじゃないけど、あの「ペンダント」が、あの「写真」が、あの「絵」が!と観ていて気持ちよかった(×たくさん)。ラモーナやおばさんを轢いてた「車」が最後に活躍する画には笑ってしまった。
色んな年代の人が出てくるけど、それぞれ歴史というか奥行きを感じさせるのもいい。お姉ちゃんとボーイフレンドのやりとりは、ラモーナより大人だけど、オトナよりは子供。おばさんとおじさんの会話は「大人」。ラモーナが漏れ聞いてしまう「この車に乗るのは勇気がいるよ」、ああいう一言がぴりっと効いている。
初めての一人部屋にはしゃぐラモーナが、お姉ちゃんの部屋を覗いたらすごく素敵にしててびっくり、という場面も好きだ。たまにある、身近な人の一面を新たに知る衝撃。

ラモーナの担任の先生にサンドラ・オー、教員役は初めてかな?とてもはまってる。自分で作った単語を認めてもらえないラモーナは「no fine」と評価するけど、ああいう「普通」のことをちゃんとしてくれる先生っていい。最後の二人のやりとりにはほろっと涙ぐんでしまった。

(11/11/27)


リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド  (2011/アメリカ/監督マーティン・スコセッシ)

マーティン・スコセッシによる、ジョージ・ハリスンについてのドキュメンタリー。
公開三日目、角川シネマ有楽町にて観賞。平日にも関わらずかなり混んでいた。

間に10分の休憩を挟んでの二部構成。長丁場でお尻が痛いけど面白かった。ジョージ本人の記録よりも、他人(押し出しいい人ばっか!)の映像や語りで彼の影や時代が浮かび上がるという作りに、ジョージってそういう人だったのかな、なんて思わせられた。
同居人は「My Sweet Lord」に関する裁判のくだりが省かれてるのを不満がってたけど、確かにそのことを含め、描かない部分はほんとに描かない。ナレーションも無し。全体的に、観やすくきれいな作りだなと思った。

物語の境目は「While My Guitar Gently Weeps」。話としては後半が面白いんだろうけど、始めの方のビートルズ初期の演奏シーンにはやはり心惹かれてしまう。加えてお馴染みの、建物の壁や窓に張り付いたり上ったりまでして近付こうとするファンの姿。ホテルの窓から群衆にカメラを向けるジョージのモノクロ映像の後に、実際のカラー写真が差し込まれるくだりとか、頭がシェイクされるようで気持ちいい。
それにしても前半は、産まれたばかりの子馬が走るようになるまでを見守るような感じだった。「お前の頭バンダナかよ!」と言われてたジョージが、「ぼくとリンゴはリムジンでもいつも後ろの席」を経て、曲を書くようになり(ポールの「作曲したほうがお金が入るようになるから」というコメントが可笑しい)、精神世界にのめりこんでいく。トークショーでハゲ&変な頭のおっさんから「体感なんて誰にでもできる、認知し説明することのほうが大事なんだ」と突っ込まれ、これまたオトナになったジョンより前に出て熱っぽく語る場面には、大きくなったねえ!なんて思わせられた。

後半は後半で、出てくる人が皆面白いから飽きない。パティ・ボイドがらみの話をするクラプトンに始まり、リベラーチェの格好をしたガマガエルみたいなフィル・スペクターが華を添える。終盤、夫人が「彼は最高に自分を高めて死んだ」とか何とか言うので、これから「終活」場面が続くのか〜眠くなってきたからやばいなと思ってたら、あっさり亡くなったので良かった。
それにしても、多忙な時期を経て神秘主義や庭づくりにはまるって、ただの「普通」のおっさんじゃないか?と思ってしまう。息子が言うには「散々いじった庭を、夜中に目を細めて眺めてるんだ、雑草なんかのアラが見えるのがイヤだったんだろうね」。実際のジョージの心情は分からないけど、印象的な言葉だった。

(11/11/21・角川シネマ有楽町)


新少林寺 (2010/香港-中国/監督ベニー・チャン)

「泣けるカンフー」が謳い文句の本作を観て、ジャッキーの第一の功績は「笑えるカンフー」(「戦闘シーン」で笑えるってこと)を一般人(私など)に広めたことだなと改めて思った。この映画、ジャッキーがいなきゃ辛気臭くてしょうがないもの。

ド派手でクサく、ドラマチック。一人の男の物語でありながら、仏道(「最期」には笑ってしまった)、果ては中国人同士が争ってるところに西洋人がやってきてどっかんどっかんやられちゃうという、歴史の縮図のような内容でもある。私の好みとしては壮大すぎたけど、とりあえず少林拳をやりたくなった。まずは机にバスタオルでも重ねてとんとんと。
最後の一戦に、同居人は「スター・ウォーズ エピソード2」のスタジアム戦を思い出したと言っていた。中国らしい団体戦だけど、確かにそうも見える。映画を観ていてそういうつながり、のようなものを感じる瞬間って楽しい。中国映画とハリウッド映画がボーダレスになったんだなとも思った。

少し前に「少林寺」('82)を観直した。本作はリメイクじゃないので引き合いに出す意味ないけど、せっかくだから!触れておく。
「少林寺」は最高に面白い少林拳&リー・リンチェイのプロモーションビデオだ。出てくる人間から場所に至るまで全てが「本物」。開始3分からカンフーが見られるし、技の名前や名所(滝や遺跡など)の名前をテロップで教えてくれる。銃の無い時代が舞台なので、いわゆるラスボスは「強い」将軍だ。
子犬のように愛くるしいリンチェイに比べ、「新少林寺」の主役は今更感のあるアンディ・ラウ、苦み走った50歳(役の上では40くらいかな?)。でも、ある程度の年齢の人間が生まれ変わるという話なので適切だった。リンチェイ同様、始めからそこそこ強いので特訓シーンは長くないけど、年いってから転職して年下の先輩(ウー・ジン)に仕事を習ってるおじさんみたいな趣きがある。
気になったのは、「少林寺」では「少林拳はあくまでも自衛の手段、殺しはご法度」というのをやたら強調してるのに対し、「新少林寺」ではそれが省略されてるってこと。よって、敵をやっつけた僧が突然ナムナムするのがギャグみたいに思われた。まあ「常識」だからかな。

(11/11/20・シネマート六本木)


いちご白書 (1970/アメリカ/監督スチュアート・ハグマン)

武蔵野館にて「語りつぎたい映画シリーズ」の公開初日。未見なので、劇場で観たら楽しいかなと思い出掛けてきた。

主人公・サイモン(ブルース・デイヴィソン)はボート部所属の大学生。その日常が紹介される冒頭にはあまり乗れなかった。彼の顔付きも、イメージカットを次々繰り出してくるような映像も苦手だ。
足取りも軽く部活動から帰る道のり、杖をついた老婆や赤ちゃんを抱いた母親などを次々と追い抜いていく。集合住宅に飛び込んだところでカメラがひき、坂の途中であることと、町の様子が分かる。部屋には「2001」のポスターなど、どこを見ても「知ってる」ものがあふれており、この時代って「メジャー」なんだなあと思う。

ストライキ中の講堂をふと訪れたサイモンと、活動家のリンダ(キム・ダービー)が出会うあたりから面白くなってきた。サイモンの表情にも魅力を感じる。「きみはここにいるの?」「立てこもってるってこと?それともこの部屋のこと?」ちょっとしたやりとりが噛み合わないけど、二人は気にせず笑い合う。
「食糧班」の二人は特別な出口から外へ出る。オモシロおやじとのやりとり、カートに引かれての坂下り。次の日、サイモンは仲間に「一緒に寝たけど、回りにたくさん居たから何もできなかったんだ」と打ち明ける。
「色々あった」後、リンダはサイモンに対し「あなたと寝るようなことになったら…」「一緒にいると本当の私になれない」などと言う。「若いなあ」では済ませられない、例えばセックス一つ取ったってそこには「社会」が介入してくるわけで、今の私にもついて回る問題だなと思った。もっとも彼女は「女性解放委員」であり「ボーイフレンドがいる」ので、違う意味がこめられてるのかもしれないけど。

一斉検挙が行われるラストシーンには、これほどの暴力映画だったとはとびっくりさせられた。冒頭サイモンは何気なくゴキブリをパンのかけらと共にコップに閉じ込めるけど、最後には、自らがバルサンで退治されるゴキブリのような立場となる。怒号と悲鳴と血にまみれた時間が延々と続く。学生側にも外部にも感情移入していないところが、作中ではこの場面だけ「異様」なので、宙に浮いたような妙な気持ちにさせられる。
合間に何度か挟み込まれる警察官の目のカット、彼らにとってはこれもゴキブリ退治のような「仕事」なのかもしれない。見物人達のやりとりも印象的だ。「彼らは勉強しているの?」「学生だったら私もやってみたい」…
そしてラストのストップモーション。中盤「最高ってほどじゃないけど、悪くない」と言っていたサイモンは、あの後「ファンタスティックなこと」を体験しただろうか?それとも作中のその後に体験しただろうか?

観ていてふと「クマのプーさん」を思い出した。クリストファー・ロビンは「何もしないでいるってことができなくなったんだ」と森を去る。サイモンはリンダに「あなたっていつも考えすぎよ」と言われる。さしずめ、人はものを考えるようになり、更に考え過ぎるようになり、そして「落ち着く」のが「普通」なんだろうか。何だか寂しいものだ。

調べたらリンダ役のキム・ダービーは「勇気ある追跡」の主人公、確かにああいう顔だった。あちらでは「自分のことを大人だと思っている子ども」だったのに、1年後の作品であるこちらでは「自分のことを女だと分かっている大人」になっていた。

(11/11/19・新宿武蔵野館)


スパルタの海 (1983/日本/監督西河克己)

「戸塚ヨットスクール」という名前は、74年生まれの私にとって「グリコ・森永」などと同じようなところに刷り込まれている。83年に制作されながら校長の逮捕によりお蔵入りとなった映画が劇場公開というので出掛けてきた。戸塚ヨットスクールに取材して書かれた同名のルポタージュを原作とし、校長役に伊東四朗。とても面白かった。

「昭和55年 東京」。閑静な住宅街の2階の部屋にこもる少年。そこへヨットスクールの職員が乗り込み、暴れる彼を押さえつけて「拉致」する。場面は替わって洋上、少年少女が職員たちにしごかれている。今度は宿舎の中、ふれくされた少女の横顔のアップからカメラが引くと、ハンドメイドな牢屋の中だと分かる。「本物」の舞台と皆の適切な演技、この冒頭にまずわくわくさせられる。
生徒や職員の登場時には「名前、学年(学歴)」に続けて「家庭内暴力」「非行」などの「問題」と出身県がテロップ表示され、手際よく紹介される。洋上の訓練シーンのテーマが耳懐かしいフュージョンなので、当時の不良娯楽ものの仲間でもあると分かる。「体罰」描写も、子どもがあわあわしてるカット→子ども目線の(つまり子ども自身は写ってない)職員のカット、という感じのものが多くあまり怖くない。

前半では、幾人かの生徒の「例」の合間に校長の「ポリシー」が自然に挟み込まれる。「あんたらにこいつが直せるのかね?」「散々甘やかしておいて、手におえなくなったら人まかせにする」「誰かが嫌われないとあかんのや」。当時のドラマなんかのいわゆる「愛あるスパルタ教師」の典型みたいに描かれてるけど、伊東四朗の肌や目や声、たたずまいにより、自然に観られる。宿屋のおかみの「先生はお金のこととなると陸にあがったカッパなんだから」というセリフにより、学校側がお金に汚くはないというイメージを与える一方で、「入学金50万、食費一日一万」という金額が何度もはっきりと口にされる。
そのうち、事情ありげな両親に連れてこられた生徒が倒れ、他の生徒が「問題」を起こし、学校の立場は急速に悪化。マスコミが駆けつけ本部の電話が鳴るが、校長や職員は信条を崩さない。冒頭から出てきた少年・ウルフの順調な「回復」に、両親は復学させたいと言い始める。金にものを言わせて他人を思い通りにしようとしてるだけに見えるので、どうなるのかと思いきや、校長は「あいつは親を越えた」とウルフを解放。しかし本人は「校長先生のようになりたい!」と一人戻ってくる。「実話」かもしれないけど、映画としては見事なジャンプ&着地だ。

皆が身につける色とりどりのジャージを見るのが楽しいのに加え、愛知県出身者としては、朝食のシキシマパン、南知多ビーチランドのポスター、とどめに淡い恋の舞台となる名鉄の駅と車両!というのだけでも嬉しかった。愛知県出身で名大卒の校長始め、職員のかなりの者が関西弁に近い喋り方をするのは謎。

(11/11/13・シアターN渋谷)


マネーボール (2011/アメリカ/監督ベネット・ミラー)

公開二日目、ミラノ1にて観賞。バルトやピカデリーでも上映しているためか場内はがらがら。
とても面白かった。野球ものというより「一人の男」の物語。

冒頭からブラピの独り怒り芸、最後は独り喜び芸と、一人で感情を表す場面が多いのが面白い。なんというか「フットワークのいい」感じの作りで、とんとん物事が進んでたかと思うとばっさり次の場面に行くのが気持ちいい。「選手に会わない」「試合を見ない」主義の主人公視点の映画なので試合の場面はほとんど無いけど、終盤の実写映像のアスレチックスのファンの姿など効いている。

ブラピ映画とはいえ、彼演じるビリーと、ジョナ・ヒル演じるピーターとの絡みというか関係というか、「二人いる」ってことが面白い。思うところあってオフィスを訪ねた…というか押し入ったビリーの方を、パーテーションの向こうから下膨れの顔の上半分がじっと見ているあの空気と、その後の人目を避けての「球団は選手じゃなく勝利を買うべきなんです」というやりとりにわくわくさせられる。ほどなくビリーのもとへやってくるピーター、会議での指鳴らしてのタッグ、予告では軽快に見えたのが結構ぐだぐだなのがリアルでいい(笑)「クビの伝え方」を教えてもらった通りにこなしても、やっぱりビリーの方がずっと上手い、なんてくだりも楽しい。

ゼネラルマネージャーの仕事の内容は勿論、球団の施設の内部(セット?)が見られるのも面白い。結構素朴というか質素だ。ブラピが試合の間ジムにこもってる場面が多いもんだから、汗だくになったらどうするのかな?と見てたらシャワーシーンは無いのでがっかりした(笑・単純に、お風呂場はどうなってるのか知りたかった)

(11/11/12・新宿ミラノ1)


ウィンターズ・ボーン (2010/アメリカ/監督デブラ・グラニック)

「お金のためじゃなく、もっと『ちゃんとした理由』がないとダメだよ」

アメリカ・ミズーリ州の山中。病んで口を利かない母と幼い弟妹の面倒を見ている少女リー(ジェニファー・ローレンス)のもとに保安官がやってきた。懲役刑を宣告された父の失踪により、保釈金の担保である家と森が近々差し押さえられるという。リーは近所の家々を訪ねて父の行方を追う。

(ネタバレってほどじゃないけど、色々触れてます)

暗いばかりの映画かと思ってたら、リアルというよりよく出来た話で面白かった。とある人物が変化し主人公と共に立つようになるという流れもあって、温かさも感じられる。
始まって程なく「父親を探さなければ」という問題が発生、最後までサスペンスが続く。よその家を訪ねると必ず門番みたいな「女」が出てきて「男」は忙しくて会えないと邪険にされるのが、イヤなおとぎ話のよう。

冒頭、リーは弟妹を前に「シカのシチューでいい?作るところを見てるのよ」と料理を始める。その後も銃の使い方やリスのさばき方などを「伝える」。そしてラスト、弟は姉のとある行動について知っており、自分なりに頭を悩ませていたことが分かり、妹は父が残したバンジョーを手にする。このへんのつながり、終わり方もきれいだなと思った。

「あらすじ」を知らずに観たためリーの年齢を知らなかった私にとって、終盤ある人物が彼女に「君は何歳?」と聞くタイミングが絶妙だった(その後の彼の微妙な態度の変化が面白い)。演じるジェニファー・ローレンスは様々な表情を見せるが、中でも印象的なのは、突然男にアゴつかまれたり怒鳴られたりした際のびっくりした顔。その時だけ子どものようだ。
始め、リーが訪ねる軍の施設や近所の女性たちのたるんだ容姿に、ああいう顔や体でこそああいう暮らしに馴染めるんじゃないか、ジェニファーは役に合ってないんじゃないかと思ったけど、観終わって、だからこそ彼女はこの物語の主人公たりえたんだと納得した。「変な噂に困ってるんだ」「私は何も言ってないわよ」「分かってるけど」/「変な噂を流さないでくれ」「あんたの話なんかしないわ」。彼女は実体のないものには流されない。

こういう映画はセットが「面白い」ものだ。父の衣装掛けに並ぶ針金ハンガー、ぶっつり重たい弟の髪はリーが切ってるのか?買い物シーンなどは一切出てこなかったけど、「フローズン・リバー」に日本で言う100円ショップのような店が出てきたのを思い出した。

(11/11/11・新宿武蔵野館)


ハラがコレなんで (2011/日本/監督石井裕也)

冒頭、テレビの中の、リストラされた境遇を嘆くサラリーマンの姿に涙ぐむ主人公の光子(仲里依紗)。サラリーマンはまだ映ってるのにテレビを消してしまう。なぜ?と思ったら、デカ腹からも分かるように妊娠しているらしくトイレで嘔吐。吐瀉物が一切映らないのは最近の映画じゃ珍しい。それにしても、こういうくだりでいちいちテレビを消す描写は嘘っぽい。その後の、隣人とのタクアンのくだり、リサイクル業者?とのやりとりもいかにも絵空事で、乗れずにいた。
(ところで光子が外出時にマンションの鍵をかけないのは、「そういう映画」だからなのか、長屋精神からなのか、どっちだろう?)

しかし、雲の行方を追いかけたタクシーが止まり、運転手が感嘆し、「長屋」が映った瞬間、ああこういう映画なんだ、ファンタジーなんだと分かり、全てが「オッケー」になる。
「日本にやってきた外国人を助けた後でアメリカまで着いて行き、妊娠した後に捨てられた」光子は、ラストに野原で出産。「JUNO」の冒頭の薬局の場面を観た時にも思ったけど、「妊娠」、というか世の中で一大事とされてることがカジュアルに描かれるのって好きだ。自分はそういうタイプだけど世の中は違うから、映画くらい味方してほしいし(笑)そういうほうが皆も生きやすくなると思う。
いわゆる「継承」の話なのもいいなと思った。始め、光子ががまぐちに全財産を入れてるのはわざとらしく感じられるけど、回想シーンで大家さん(稲川実代子)のがまぐち下げた姿になるほどと思う。食堂親子(石橋凌&中村蒼)の通帳だってそう。人と人との「継承」を大事にしながらも、土地や場所にはあまり執着しないところも好みだ。
冒頭の嘔吐の場面に始まり、汚いもの「自体」を全く写さないでおきながら、終盤いきなりうんこを見せるタイミングにもこだわりを感じ面白かった。

ただ「粋」というキーワードは無いほうがいい、ダサいにも程がある。しまいにはこの映画、光子さえ居なきゃなあ、あんなセリフ聞かなくても済むのに!などと本末転倒なことを思いながら観てた。
「粋」と言えば言うほど「粋」そのものから遠ざかっていくことを考えたら、「風の吹くまま、流されるまま」などと口にするのは、実際そういう性分じゃないから自分に言い聞かせてるとも取れる。前の段で「映画くらい味方してほしい」と書いたけど、ほんとは無言で何でもぽんぽんやってほしい。
文句の付けついでに、大家さんがママのお母さんにあんなこと言うのはどうかと思った。踏み込んじゃいけない領域だろう。

食堂親子のくだりは全てがカウリスマキ的だ。オマージュとかじゃなく、多分たまたま。
厨房で直立不動で並んでる登場シーンをはじめ、その後の「ボーイ・ミーツ・ガール」ぶり(正しくは「15年ぶり」)、光子が食堂を立て直すやり口、花一輪、最もそれっぽいと思ったのは「当番表」に丸をつけるとこ。ああいう小道具が上手い。

それから、鯉昇がまた出てた!(また、というのは「必死剣鳥刺し」でも突然出てきたから/見直したら予告編にもあの後頭部が映ってた)この映画に掛けて言えば、決して「粋」な落語家じゃないんだから可笑しい(私は大好き、むしろ粋じゃないから好きなのかも)

(11/11/08・新宿武蔵野館)


家族の庭 (2010/イギリス/監督マイク・リー)

初老の夫婦、地質学者のトム(ジム・ブロードベント)とカウンセラーのジェリー(ルース・シーン)はロンドンで二人暮らし。休日には市民農園を耕し、料理を作り合って食べる。二人の家には色々な客がやってくる。

冒頭、仏頂面とはこのことという感じの婦人(イメルダ・スタウントン)が問診を受けている。「睡眠薬はくれるんでしょう?」「不眠は病気じゃないわ、原因を知らないと、カウンセラーと話してみて」と彼女が送られた先が、ジェリーのデスク。頑なな彼女とのやりとりの後にジェリーは「強制はしないけど」と付け足す。

本作も、今年の予告編サギ大賞の一位候補だ。マイク・リーの映画なんだから、ただの「ハートウォーミング」ものじゃないとは思ってたけど。「これは予告編のあのカットか〜(上手く使ったよな〜)」といちいち思いながら観てしまった(笑)
仕事を終えたジェリーを、メアリー(レスリー・マンヴィル)が「飲まない?」と誘う。同僚同士のちょっとした付き合いに思われるけど、映画が進むにつれ、メアリーの「痛さ」が露わになってくる。家を訪ねて来ては途切れることなくワインを飲み、男運の無さを嘆く。夫婦は同情するでもなく叱咤激励するでもなく、ただ温かい「場」を提供する。
「恵まれた」家庭に、そうじゃない人たちがやってきてもてなされるが、自らは恵まれることなく(作中では)終わる。面白い映画だと思ったけど、主人公の職業が「カウンセラー」というのがちょっと出来すぎというか、私にはいい感じがしなかった。観終わって、「キッズ・オールライト」でマーク・ラファロが「自分の家族は自分で作りな!」と追い出されるシーンをふと思い出した…というか、あの無骨さ、ストレートさが懐かしくなった。

妻を亡くしたトムの兄の家を、数年ぶりに訪ねる二人。彼らの「甥」は渋滞とかで葬式に遅れ、その後に家にやってきても暴言を吐いて出席者たちを帰らせてしまう始末。一見して「問題の息子」だが、父親に対する「そんなこと言うなら、生きてる間にお袋を大事にしてやれよ」というセリフから、この場面だけじゃ彼ら家族のことは分からないと思う。観る側にとってのこういう「手掛かり」が、マイク・リーの場合、他の映画とはちょっと違うニュアンスを感じさせる。
ジェリーが「甥」に「どこに住んでるの?」「仕事は?」とあれこれ聞いて怒鳴られる場面が良かった。私もうるせーなと思ってたから(笑)「幸せ」な人は、よくできた性格だから「幸せ」なわけではない。

もし私がメアリーなら、家も仕事もあれば容色だっていいんだから、くさらないし、夫婦の家にも行かない。勿論「私なら」なんて無意味なところが、世の中の世の中たる所以なんだけど。
「パートナーが欲しい」と愚痴るケンを演じるピーター・ワイトは、イギリス映画じゃ馴染みのおデブ。夫婦の息子とその恋人役も見覚えあるなと思ったら、揃って「ハッピー・ゴー・ラッキー」に次いでの出演だそう。皆いい顔、いい演技だった。

(11/11/07・銀座テアトルシネマ)


WAYA! 宇宙一のおせっかい大作戦 (2011/日本/監督古波津陽)

ここ数年の日本映画で一番のお気に入り「築城せよ!」の古波津陽監督の新作というので。あまりのタルさにびっくりしたけど、監督のこと嫌いになれないのだった。次作も楽しみ。

出身者としては、舞台がまた愛知県というのは嬉しい。特に「ご当地」をアピールしないのがスマートだけど、スーパーの場面で当たり前のように映る「女子高生の白襟」にウケてしまった(笑・私もアレだった)
しかしセリフが名古屋弁じゃないのはやはり不自然に感じた。アメリカ人が観る映画ならフランス人も英語喋っていいわけだし、あるいは例え東京でも皆が「標準語」喋ってるわけじゃないから、あらゆる映画は、記号としての言葉を使ってると考えてもおかしくない。それならば地方だって「標準語」でいい。ただ「築城せよ!」と違い、本作は実在する名駅前の円頓寺商店街!が舞台だから、期待しちゃってた。そもそもタイトルにある「わや」(名古屋弁で「めちゃくちゃになっちゃう」こと)の方こそ、あまり使われてないし。

タイトル通り、「とにかく何かしたいんです!」とセリフで何度も言い切ってるくらいウザイ話だ。おせっかいといっても、例えばマイク・リーの「ハッピー・ゴー・ラッキー」のようなスタンスではなく、世界ががっちり固定されてる感じ。
商店街の面々が、下駄屋に婿入り30周年のシゲさん(矢崎滋)のために、かつての演劇仲間・ノブさん(ルー大柴)との共演を企画するが、実はシゲさんは彼のことを未だに許していなかった…なんて、イギリス映画の画づらが目に浮かぶ(どちらかの役でビル・ナイが出演。「ラッキー・ブレイク」の印象か・笑)。あるいは最近なら村の演劇ってことで「大鹿村騒動記」も思い出す。いずれにせよ、つまらなくなるはずがない話なのに、特に前半はタルい。あまりに想定の範囲を出ないストーリーが、あまりに「現実」離れした登場人物たちの言動により、あまりに丁寧に描かれすぎるという感じ。「築城せよ!」は現代に戦国武将がやってくる話だから、そういうのが目立たなかったのかもしれない。普段なら有難味のない藤田朋子のような役者の演技が、本作を観る時は大きな拠り所になった。

「築城せよ!」の「ダンボール城」に相当するのが、空地に建てる芝居小屋。同居人は「あれが見られただけでいい」と言っていた(笑)
「飛行機の設計」屋が図面を引き、大工を中心に街の皆が働く。演出担当者が車椅子を使用していることもあり、作りはバリアフリーだ。子どもたちが遊び回る一方でお茶が配られる、作業のひとときの描写が楽しい。最後に「控え室」もちゃんと見せてくれる。いびつな板の隙間から差し込む陽の光が温かく、印象的だった。

(11/11/02・シネマート新宿)


グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独 (2009/カナダ/監督ミシェル・オゼ)

「ぼくのやり方が嫌いな人もいるかもしれないけど、
 この曲に飽きてる人は、なるほどと思って楽しむかもしれない」
(↑という発言に「古典落語」を思った・笑)

「あなたは結局、人を圧倒したいのでは?」
「それは認めるよ」


私はグールドのアルバム数枚持ってる程度で、彼に関する知識はほとんどない。ごくまっとうなドキュメンタリーである本作では、彼のピアノを聴きながらその人生を手短に紹介してもらえる。なかなか面白かった。

オープニングはモノクロ映像、初のニューヨークでタクシーに乗ったグールドと運転手のやりとり。ちなみに終盤、彼は「ニューヨークに住まない理由」を語る。
次いで、「カナダでは知られていたが国外では無名」だった彼の巻き起こした旋風が描かれる。幾人かの演奏家が彼について語る。その音が「粒立ち」しているとはまさにその通り。
時代は少し遡る。青く塗られた生家で音楽に目覚め、ピアノの練習に明け暮れた日々。周囲の学生より年少な中、教授に付いたこと。先ほどの「粒立ち」の理由も分かる。

スナップから公的な写真、映像など適切なものが使われている。グールドが人を魅了するためにいかに努力していたかということが語られるシーンでの、汗を吹き飛ばしながらの演奏顔など印象的。何かというと出てきて彼について語る幼馴染の結婚式で、カップルの後ろでぶーたれて小さく写ってるやつなんて、恣意的だけどいい(笑)もっとも終盤、グールドがいつも「今が面白い」と言っていたという証言があるから、「彼も芸術家ならではのジレンマ…家庭の支えが欲しいがそれは芸術的ではない、というジレンマに悩んでいた」というナレーションや、ブラームスの文句の引用には少々違和感を覚えた。

…と、このあたりまでは、グールドのよく知られた「伝説」部分。コンサートをやめた31歳以降の彼を追う後半では、「万能の人」として色々なことに手を出すさまと、センチメンタルに…「一般的」に言えば、愛を失いながら壊れていくさまが描かれる。
全篇を通じて、彼の直筆による文書(の映像)が多く使われているのが面白い。後半に入ると、映像があまり残っていないためか、彼のトレードマークを身に付けた役者によるイメージのようなものがちょくちょく挿入される。

予告編では「グールドを愛した女たち」というのが強調されていたけど、女たちといってもそう数はないし、他の関係者と同じような扱いなので観やすい。
一番手は、ごちゃっとした本棚の前で震える手でタバコをくゆらす老女(おばあちゃん、という感じではない)フランシス。かっこいい。「彼は私を、私は彼を愛したし、結婚も考えたけど、彼は結婚向きじゃなかったわ」。
次に出てくるのが、彼の人生の「メイン」であった、作曲家ルーカス・フォスの妻の画家コーネリア。彼女の話は、夫が彼のピアノの音に車を止めたことから始まる。「ああいう演奏、私は好きじゃないけど」「そのうち電話に、夫より私が出てよく話すようになったの」「彼は知的で素晴らしかったわ」。当時の、また後に子どもたちとグールドと4人で暮らしていた頃の彼女には何ともいえない魅力があり、私からしたら、とてつもなくいい女に思われた。
最後にソプラノ歌手のロクソラーナ・ロスラック。グールドは彼女がルーカス・フォスの(!)曲を歌う声に惹かれ共演を依頼する。親友によれば「グールドにとって、コーネリア以外の女に意味はなかった」そうだけど、二人には二人の世界があったろう。

(11/11/01・銀座テアトルシネマ)



表紙映画メモ>2011.11・12