「姥捨山」の「ウラ」を描いた物語。「捨てられた老婆たちによる共同体『デンデラ』」を説明する前半と、動きののろい熊と戦う後半。なんだかふにゃっとした映画だった。
最初から最後まで、面白い話だと思う。まずは「新参者」のカユ(浅丘ルリ子)の側。村では「姥捨てで死ねば極楽に行ける」「捨てられたのに生き延びるのは恥」とされており、子どもの頃にそう刷り込まれたカユは自分を助けた相手に対し毒づく。しかし皆が食料を平等に分け合う様子(村でも食料が足りないはずはなく、「姥捨て」はたんなる制度なのだ)、体が悪くてものんびり暮らす親友の姿などを目の当たりにし、生きたいと思う気持ちを受け入れるようになる。一方デンデラの側は、「体が悪くなったら面倒をみるだけ」「意気地なしは『意気地なし』と呼ぶだけ」とトラブルもなく機能している。
なるほど〜と思わせられるけど、これらのことを丁寧に説明しすぎるがゆえに、共同体について色々疑問を抱いてしまうし、勢いに欠ける。ついでに、とくに冒頭部の新劇風味は何なんだと思う。
デンデラの創設者であるメイ(草笛光子)は村への復讐をもくろんでいるが、30年かけてようやく人手やら何やらが揃ったその時、熊に襲われる。やり過ごすと今度は雪崩に襲われる。この展開はいいなと思った。メイが何かというと杖で周りのものをぶっ叩くのは、たんに乱暴なんではない。世の全てが自分を邪魔するからだ。しかし「村」に居た時と違い、自分の意思でもって思う存分反抗できるとなれば、命がどうなろうと構わない。
しかし、キーとなる「熊」の描写があまりにお粗末なため、観ていてテンションが上がらない。熊に限らず、前半の鍛錬に始まり、熊、雪崩、全てのアクションシーンが死んでいる感じ。
新入りのカユは一番年下。100歳のメイに「おれが捨てられたとき、お前はまだ40の小娘だったなあ」などと言われる。年長者に囲まれていることもあり?次第に彼女が「小娘」に見えてくるから不思議だ。親友の死体から取った布を鉢巻にしたり、柱に片膝立てて座ったりする姿はほんとに少女のようだった。
雪山に足を取られ、会話においては「自分で考えろと言われても…」と嘆く。でも足手まといになりたくないと自力で歩き、「物事を勝手に決める男衆」もいないので、「正しいと思ったことをすればいい」との助言に従い意志を持ち貫くようになる。
予告編でかっこよかった、碧眼の賠償美津子が「穏健派」だったのは意外。中盤で見せる、宗教家のような怪しさが面白かった。
(11/06/29・新宿バルト9)
ギレルモ・デル・トロが製作し、スペインでヒットしたという作品。進行性視力低下の病を抱える主人公フリア(ベレン・ルエダ)が双子の姉の自殺の謎を追ううち、自らも不穏な影につきまとわれるようになる。原題「フリアの眼」。
予告編からクールな印象を受け期待してたら、思いがけずアツい映画だった。とくにラストはトンデモ一歩手前…これはデルトロの味かな?それはそれで面白かった。
全体の印象としては、サスペンス9割、ホラー1割といった感じ。前半は、姉に同行していた恋人を探すも誰もその男を覚えていないというストーリーが描かれる。一見いわゆるジャンル「幻の女」なんだけど実は全く違う、この部分が物語のキモだ。実直そうなパートナーに加え、周囲の人物も協力的なので「ひとりぼっち」感はなく、変な言い方だけど雰囲気は温かい。地味な展開だけど面白い。
主人公が女子ロッカーに忍び込み、ほぼモンスターとして描かれる盲人たちに紛れこむシーンが傑作で、これだけでも観に行ったかいがあった。ただ目が見えない者がそんなに鈍感か?という疑問も抱いてしまう。そうした綻びのようなものは、最後まで点々と在る。
「ホラー1割」というのは、とくに前半で繰り返される「瞬間移動(?)」などの「有り得ない」描写。これにより「サスペンス」にぴりっとした味付けがなされている…よくも悪くも。
後半になると、次第にもっさり度が上昇。そもそも手術直後で目の見えない(包帯を取ることのできない)主人公が、安全な病院でなく、大して馴染みもない「姉の家」にこだわるのが納得できない。加えて、色々ちょっかいを掛けてくる「怪しい」人物たちの扱いも中途半端。
結局のところ「自分が『見られる』のは具合が悪いから、自分だけが『見る』側でいられる関係を作ろう!」という男によって多大な迷惑を被るという、ミソジニーを柱とするストーリーなんだけど(そんなこと言ったらこの手の話は皆そうだけど/「彼」にも「事情」があるんだけど)、見ていて嫌悪感を覚えないのは、これも作り手の性分なのかな?
「盲人にしか気付いてもらえない」男は、眉毛の薄さがイヤな感じを増幅させてた。わざと抜いたんだろうか?
ベレン・ルエダが(主役として)登場時、巻いてたスカーフを解くと、あばら骨の浮き出具合がすごい。彼女の服装、とても好みだった。本作では、服装込みで、陰性のカトリーヌ・フロという感じもする。
ちなみに一箇所、何の脈絡もなく看護婦の歩く後ろ姿を延々追うシーンがあり、主人公と似た感じの格好なので、作り手の好みなのかなと思った(笑)
(11/06/27・ヒューマントラストシネマ渋谷)
「SFもの」ということしか知らずに観たけど、面白くって驚いた。私にとっては全てが、これ以上ないほど「的確」だった。
もっとも、楽しめた理由としては「『宇宙』『クリーチャー』に興味やセンスがないので造形その他が目に入らない」「普段あまりSF映画を観ないので「既視感」がない」というのも大きいかも(笑)
とくに今こんなこと言うの不謹慎だけど、昔から、家の中に閉じ込められて出られないっていう状況に多大なロマンを感じる。だから、高層マンションに篭城というチープな設定がたまらない。得られる情報はブラインド越しに盗み見る視界のみ、テレビの中には無人のスタジオ、遠くのビルの屋上に何だか分からないけど立ってる男達、全てがツボ(「ミスト」じゃ色々想像しすぎちゃうってもの・笑)
外の「脅威」は何だっていいのだ。部屋の中を探る手?、逃げる人間を捕まえる舌?、駐車場から出ようとする車は捕らえるが屋内の車には気付かない大きな体?など、とりあえずぎゃーぎゃー言わせてくれれば。
そこに投入されるのが、ちょっとしたドジ(屋上のドア!タイマー!バカ!)、「身内」以外の登場人物、犬。私にも登場時から見分けのつく女三人。ちょこっと効果のあるスローモーションと、全く意味のない早回し。どれも適切に感じられた。
「光を見た」後の映像については、「ヒアアフター」しかり、ああういブナンぽいのがいいんだよ、と思うし、毎度引っ掛かる「中出し」問題についても、100歩譲ってこういう映画でしか許されないんだよ!と思う。
笑いながら見るような映画じゃないけど、「むちゃくちゃ怒ってるぞ!」は今年笑えたセリフ一位の候補かも。終盤、斧→コンクリ→素手!?で「この映画、もしかしてしょぼいんじゃ…」と我に返ったけど、そこからはもう「オチ」に入ってるからいい。これが落語なら、現実世界に観客を帰してくれる、娯楽の正しいあり方だ(笑)
(11/06/26・新宿バルト9)
生まれて初めて映画館で観たのが「E.T.」ということもあり、謳い文句に惹かれて楽しみにしてた。予告編からは、たんなる列車つながりだけど「世にも不思議なアメージング・ストーリー」の「幽霊列車」を思い出してた。ルーカス・ハースが可愛くて、ビデオで何度も見たものだ。本作を観てみたら、列車の「模型」つながりでもあった(笑・模型は他にも出てきたっけ?)
冒頭の子どもたちの日常の描き方が、やたらてきぱきしてて却って乗れずにいたところに、あの列車事故。闇の中、近付いてくる光がいかにもスピルバーグでわくわくしたけど、その後にびっくり。全てがでかすぎ、音がキンキンして耳が痛くなってしまった。それに、全車両が脱線するほどの事故なのにあの人が生きてるのは何故か、軍隊があんなに早く到着したのは何故か、そのくせ車も資料も見つけられないのは何故か…とにかくこれ以降はなんで?なんで?と思うことだらけで、話に乗れなかった。
とどめにあのエイリアン!「子ども」と「エイリアン」はそれぞれ「居るべき場所」があるから、通じ合っても別れねばならない、でも「ココにいるよ」…というのがスピルバーグのロマンだと思うんだけど(今気付いたけど「幽霊列車」のようなほんの短編だってそういう話なのだ)、散々スピルバーグのイメージを重ねておきながら、肝心のそれ、あるいはそれと比べうる要素は放り投げられているので、がっかりしてしまった。
とはいえ「子どもが映画を作ってる」というだけで楽しいのは確かで、エンドクレジットの「事件」で気持ち良く見終われた。
一番心に残ったのは、事件の翌朝、いつものように大騒ぎの朝食を尻目に一人ニュースに見入るデブ君の背中。そう、こういう何でもない場面はいいんだけど、例えば主人公とエル・ファニングが一緒に母親のフィルムを見る「重要な」シーンの大味なこと、眠くってしょうがなかった。あんなロマンスなら、ないほうがいい。
犬の扱いも不満。最後、手をつなぐなんてベタな場面があるんだから、帰ってきた犬が駆け寄って吠えたっていいのに!
(11/06/25・新宿ミラノ2)
ポーランドの田舎町、老婦人アニェラは愛犬フィラデルフィアと古い屋敷に暮らしている。
「誰かに紅茶を入れてもらえたら…」と思いながら独り暮らす主人公が、自身の意志でもって、そうした環境を得て「天に召され」る物語だった。
冒頭、町の女医に不躾な言葉を吐かれたアニェラは、クソっと吐き捨てて部屋を出る。雑踏に戸惑うかのような上品な老婦人の顔に、彼女の内心のののしりが重なる映像が可笑しい。アニェラは犬のフィラに向かって喋るだけでなく、独り言も言えば、口に出さずとも心の中でつぶやき続け、映画は彼女の語りで埋め尽くされる。
アニェラは好奇心が旺盛で怒りっぽく、気まぐれだ。意に沿わないフィラに対し「(侮蔑の意味で)あんたの前世は踊り子ね」とか何とか、散々文句を言ったすぐ後に「ついておいで」と主人面をする。孫に向かって「クジラみたいなデブ」と言った後、泣く彼女の頭を撫でようとして拒否される場面では、犬と人間は違うな〜と思ってしまった(笑)
舞台はほぼ古ぼけた大きな屋敷の中のみ、息子や隣人の車から、かろうじて「今」の話だと分かる。
ポーランドの歴史や社会情勢が、セリフの端々に垣間見える。孫にせっつかれた息子がそそくさと帰った後、アニェラはピアノに向かいながら「同志を同居させるよう言われたからそうしただけ」とつぶやく。孫に家の中を見せて回りながら「ここはロシア人を閉じ込めておいた部屋」と言う。二階の窓に現れた少年は、自分たちが通う音楽教室(粗末な「バラック」)のことを「シベリア」と呼び、金持ちの悪口を言う。彼らがやたら「デブ」を囃し立てる背景には、そういう事情があるのかもしれない。ちなみにこの少年は顔つきも登場シーンも素晴らしかった、外壁をつたい降りる場面が忘れられない。
アニェラは鏡の中や庭先に、かつての自分や息子の姿を見る。しかし彼女が思い浮かべるのは、若い、とある時期の自分の姿と、同じく一定の時期の息子の姿ばかり。この家に何十年も暮らしてきて、その時だけが振り返りたい時期なんだろうか?と不思議に思った。
フィラ役の犬はとても可愛い。「自然」な感じでありながら、「言うことをきかない」演技、「言うことをきく」演技ができるってすごい。
出てくる食べ物は美味しそうには見えないトーストと紅茶、来客時の梨くらい。テラスのテーブルは気持ちよさそうだけど、体が心配になってしまう(笑)朝の組み合わせには、年寄りの一人暮らしつながりでケイン様の「狼たちの処刑台」を思い出した。家の周りの環境はさておき、私なら、歳取ってから暮らすなら、掃除が簡単に済むあっちの方がいいな。
(11/06/22・新宿武蔵野館)
韓国でヒットしたミュージカル「キム・ジョンウク探し」を演出家自身が監督したもの。すごく面白いわけじゃないけど、楽しく観た。
ミュージカルの舞台監督として忙しいジウ(イム・スジョン)は、初恋の相手にこだわり恋愛に消極的。業を煮やした父親(チョン・ホジン)は、ギジュン(コン・ユ)が設立したばかりの「初恋探し社」に娘を連れて行く。
「行き遅れ」の女と「30過ぎてフリーター」の男、世間に迎合できない二人の恋物語。女はやもめの父親から「結婚」を、男は既婚で子持ちの姉から「仕事」をせっつかれている。仕事で悲劇に見舞われたジウに、父親が「自分ばかり不幸面して、男手で娘二人育ててる俺だって大変なんだ、ラクな仕事に替えてさっさと結婚しろ」と追い討ちを掛けるのは、日本映画じゃあまり見られないハードな蹴り(笑)とはいえこれらの要素はあまり活かされていない。そのほうが気楽には観られる。
「お菓子は食べ尽くさない」「本は最後まで読まない」ジウにとって、「初恋の人探し」は恐怖でもある。確かに、初恋の人を「チャーム」として取っておきたい気持ちは分かる。
でも、とことん付き合うと腰据えたからこそ生まれるものもある。ジウとギジュンは始め反発し合っているが、小さな旅を経た翌朝には互いを気遣うようになる。自分に合う相手と関係を持つんじゃなく、関係を持った相手との仲を成熟させるというやり方だってあるのだ。
物語はほぼジウの立場がメインだけど、ギジュンの方も、「ネットで得た知識」に満足せず体感したいと思うようになったり、黄信号をすっ飛ばすようになったりと変化する。
「初恋の人」はどう描写するのかな?と思っていたら…まずは「手、唇、前髪」のアップに始まり(後にギジュンがカッコつける時に前髪をフッと吹くシーンがあるので、文化的に前髪が大事なんだと分かる・笑)、声、逆光の顔!これ以上は見てのお楽しみ、ということで書かない。ジウの当時の日記を読んだギジュンは、二人の一夜を「自分に置き換えて」想像したんだと思いたい。
コン・ユのファンにとっては楽しいだろう。頑固で潔癖症の迷惑なやつだけど、ボールを蹴ろうとしてすっ転ぶ、荷物を取ろうとしてぶちまけるなどのドジっ子ぶりや、日記をつける時の女の子ポーズ、うたた寝など色んな顔を見せてくれる。作中数度の「強引」シーンが、ああアジアだなって感じ。
日本人の冬ソナツアー?にヨン様役で借り出された彼が、おばさんにセクハラされるシーンあり(バスガイドとおじさんの描写にありがちなひとコマ)、こういうのはどうも苦手。他にも結構「日本」が出てくる。
残念なのは、ラブコメにしてはセリフも撮り方も少々ぎこちなく、とどめに主役の二人の動きがとろいので「軽快」な感じがしないこと。まあもっさりしたカップルの話なんだけど。
舞台監督である主人公の仕事の描写は楽しい。「ブラック・スワン」で言えばウィノナ・ライダー的な女優が出てくるんだけど、むしろのんびりしたこっちの方が「リアル」に感じられる。
(11/06/19・新宿バルト9)
公開初日、ワーナーマイカルシネマズ板橋にて観賞。近所の上映館より大き目のスクリーン、観客は半分ほどの入りと、ゆとりを持って観られたので、足を伸ばしてよかった。
原作のアーロン・ラルストン「奇跡の6日間」は既読。一人でロッククライミングに出掛けた青年が右腕を岩に挟まれ身動きできなくなり、127時間後にとある決断を下す。
オープニングは家を出るアーロン(ジェームズ・フランコ)の様子。ボトルに水を流し溢れさせ、電話が鳴るのを無視し、戸棚を探るも見つからないものはあっさりあきらめて出発。そこからのあれこれが極めて軽快にさばかれ、岩に手を挟まれた所で「127時間」とタイトル。
予告編に何度も遭遇してきたためか、あのシーンはこういうところに置かれてるのか、あのナレーションはこの場面のものだったのか(「一人旅、最高!」のセリフなど)、などと思いながら観た。本作に限らず私にとってダニー・ボイルの映画って何らかの集合体という感じで、楽しいんだけどぐっと迫ってこない。
印象的だった「oops!」のセリフが出てくるのは終盤、アーロンは既に憔悴し切っている。彼はカメラに向かい、テレビのトークショーへの出演という設定で一人二役で語りかけ、自分を鼓舞する(映画では「観客の笑い声」まで入る)。「司会者」の際には彼の顔がそのまま、「アーロン」の際にはカメラ越しの映像が流れる。
その他、イラつく自分の姿を録画し「客観的」に見ることで落ち着きを取り戻したり、自分の見ているものを撮って幻覚か否かを確認したりと、カメラを介して得られる「他者」の視点が彼を救う。
私がこういう筋書きの映画に求めてしまうのは、自分がし得ない体験、その時に人間、あるいは「誰か」はどうなるのかという率直な描写。例えばアーロンが「自分のこれまでの人生はこの岩に向かっていたのだ」なんて思い始めるあたりは、語弊があるかもしれないけどぞくぞくするほど面白い。でも本作では他にオモシロ場面が盛り沢山なので、こういう部分が目立たない。大体「岩に手を挟まれ動けない男」の話なんて、ダニー・ボイルなら幾らでも面白くできるに決まってる、面白くしすぎだろ!と思ってしまった(笑)
物語の最後には、何でも一人でこなしてきたアーロンが、幾度かの声にならない叫びを経て、とうとう「I need your help!」に到達する。女性や子どもに「先に行って助けを呼んでくれ」と頼み、水を奪い取りがんがん飲む。そうそう、大変な時には頼りまくらなきゃ!とじんとしてしまった。
映画ニュースで失神者が出たと報じられてた「痛い」シーンでは、終わると隣のおじさんがはあ〜っと溜めてた息を吐き出し、近くのカップルが外へ出て行った(たまたまかな?)。私自身は何ともなかった。そういうの苦手な人にダメか否かは、見てみないことには分からないから、何とも言えないな…
(11/06/18・ワーナー・マイカル・シネマズ板橋)
わびさび皆無、どんくさいアクション、不思議なグルーヴ感…って、キャサリン・ハードウィック監督の前作「トワイライト」一作目と同じ印象。大好きなそちらにはかなわないけど、結構面白かった。
アマンダ・セイフライドの「赤ずきん」が、狼に脅かされる村で恋や冒険に精を出す。怪人物に楽しそうなゲイリー・オールドマン。
冒頭、親より男!動物いじめ!といきなり好感の持てる主人公。その後、斧を手に木の後ろからじゃーん!と登場するアマンダ、宴の夜に色目使って踊りまくるアマンダ、この2場面で、今年の私の主演女優賞は彼女に決定(笑)
母親にヴァージニア・マドセン、祖母にジュリー・クリスティと配役が豪華。母親はお金が大好き、孫とおばあちゃんは、やたら男を蹴ったり小突いたりするのが気になった(まあその男が「悪さ」するからなんだけど)。
それにしても「トワイライト」とあまりに共通点が多く驚いた。辛気臭い主人公のナレーションや音楽の使い方、空撮などの「撮り方」はもちろん、二人の男、「魔物」が自分だけになつくなどの「設定」も全く同じ、しかも(私の好きな)ビリー・バークが「パパ」。「トワイライト」に比べて本作が随分ぼんやりしてるのは、この「型」が「ミステリー」「サスペンス」に合わないのかな?
(「トワイライト」は原作ものだけど)いずれにせよこの二作で監督は、女が「対象」だった「吸血鬼もの」「おとぎ噺」を、少女主体で楽しめるよう書き換えてくれた。「ネタバレ」になるから詳しく書けないけど、本作の「赤ずきん」は「無垢」じゃないし、「狼」は彼女を「食べ」ることに興味がない。女にとって…少なくとも私にとって、居心地いい世界ではある。
気弱な神父役にルーカス・ハース、出てると知らなかったから嬉しかった。一時期どうなることかと思ってたけど、村の男の中で一番かっこよかった(私の目には)。
惜しむらくは、恋人の職業が「木こり」なのに、その設定が活かされてないこと。木こり好きだから残念。
(11/06/13・新宿ピカデリー)
「X-MEN」シリーズ初体験でも支障なく楽しめた。ただ少々がちゃがちゃした感じがする上、中盤まで、エリック以外の人々が何のために頑張ってるのかよく分からず…いつの間にか「第三次世界大戦を止めなければ!」なんて話になってるので驚いた。
「自分の他にもミュータントがいる」ことを知った若者達は生まれて初めてリラックス、飲んで踊って大騒ぎ、カシラのエリック(ミヒャエル・ファスベンダー)とチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)に怒られる。大勢が集まるとろくなことにならない、とも取れるし、「超」ミュータントである二人には彼らの心情など分からないとも取れる。
そもそも若者を集めてきて「彼らは国のために戦います!」なんていきなりだなあと思っていたら、「悪者」がやってきて大暴れ、「復讐」のためにも奮起せざるを得ない状況になるのだった。
物語の最後には、少数派の「当事者」の問題が多数派の「非・当事者」に拠るという、いかんともしがたい事実をつきつけられる。ブライアン・シンガーが関わってるし、マイノリティーの悲哀を描いてるんだと分かる。
しかし数日後「X-MEN」一作目を観てみたら、開始早々ウルヴァリンと少女が、ミュータント同士で「この気持ちが分かるのは…」とやっているので、何作もこんなことしてきたのか!とちょっとびっくりしてしまった。私はミュータントじゃないから分からないけど、そういうもんなのか?もっと色んな問題があるんじゃ?と思う。まあ映画なんだけど。
リクルート&修行シーンは60年代映画のノリ、皆のスウェット姿が楽しい。ルーカス・ティルの袖無し、ミヒャエルの胸の汗染み、マカヴォイの運動着の似合わなさもいい。
ミヒャエル・ファスベンダーは役には合ってたけど私の琴線に触れないし、せっかくのニコラス・ホルトも眼鏡のもっさり君なので、ジェームズ・マカヴォイがこめかみに手を当てるシーンばかり楽しんだ。それからミスティーク役のジェニファー・ローレンスの顔がとても気に入った。この役は20数年前ならダリル・ハンナってとこかな。
(11/06/12・新宿バルト9)
冒頭、タイプが異なる二人の男が、淡々と、双子のように作業をこなしてゆく。店で一人があれを取ればもう一人がそれを取り、一人がカーテンを吊ればもう一人も吊り、一人がドリルを使えばもう一人も使う。車の運転席と助手席でしばらく黙っていた後、年かさのほうが「行くぞ」と声を出す。後で思うに、若い方が言わせているのだ。
「準備」を終えた二人はある女を車に放り込み、部屋に連れ込み、ベッドに拘束する。服を裂き、ジャージを着せ、顔に布を被せる。女は最大限がんばって暴れる。以降描かれるのは「三人の言動とそれによって変わってゆく彼らの関係」のみ、誘拐事件につきものの、身代金に関するやりとりや受け渡しの場面などはない。ソリッドな犯罪ものなのに、へんな言い方だけどあったかい感じがして、3人きりの登場人物をそれぞれ応援しながら観てしまった。役者も皆いい雰囲気。
「女が男によって被害に遭う」話って観るのがキツイ場合もあるけど、全くそういう感じはしない。性被害の有無は関係なく(例えば映画「ミレニアム」はレイプ描写があっても嫌悪感を覚えない)、作り手が、女をまずは人間として見てる感じがするからかな?シンプルな描写が、私にとってはよく転んだんだろう。
監禁描写に接すると、おしっこどうするの?と気になって仕方ないので、早々にその問題が取り上げられるのもありがたい。うんこがひっこんだ件はいまだに引っ掛かってるけど…
特筆すべきは、男が全裸でかっこよくふんばるシーンがあること。また、私の好きなツナギもの、しかもほぼ全編ツナギものじゃん!と思いつつ、男性二人とも特に好きなタイプじゃないのでときめきはなく、でも中盤うち一人が「色」を使うあたりで、不思議なものでやっぱりセクシーさを感じた。
予兆はありつつ、○○によりこちらの見方ががらっと変わるというので、ケイン様の有名作を思い出した。これは「ネタバレ」に近いかな?
(11/06/11・ヒューマントラストシネマ有楽町)
いわゆる「愛人もの」というより、権力によって尊厳を奪われた者が声をあげる話、さらに広義には、ファシズムとは何かという話。
宣伝に使われてる蓮實重彦のコメントは、観る前には意味が分からず、観た後には納得させられ、でも今振り返ると、まるで「過去」のことみたいに言うだなんて、と思ってしまう。
20世紀初頭のイタリア。イーダ(ジョヴァンナ・メッツオジョルノ)は若きベニート・ムッソリーニ(フィリッポ・ティーミ)と出会い、恋に落ちた。全財産を投げ打って活動を支え、息子も産むが、権力を得たムッソリーニは彼女を危険人物とし、精神病院へ送り込む。
冒頭のムッソリーニのパフォーマンス中、「5分」の間に流れる音楽がチックタックという感じで、なんだか妙な気持ちになった。その後もずっと、滑らかじゃない、コラージュって感じの映像が続く。
ムッソリーニが大物となってから、イーダはその大事を新聞で知り、その姿をニュース映像で見る。ニュースに限らず、ふんだんに挿入される「当時の映像」(もちろん「映画」もその一つ)の使い方が面白い。それに重なるピアノ伴奏、立ち上がる者の頭、騒ぐ子どもたち、総帥への敬礼。演じる役者とは似ても似つかない「本物のムッソリーニ」の顔(映像だけじゃなく「絵」や「像」まで)、全てが効果的だ。
ハリウッド映画などで、腕利きスパイが陰謀によって孤立無援となる筋立てがよくあるけど、イーダはそれどころじゃない、権力によって本当に「一人ぼっち」に追い込まれる。中盤、「ファシズムには反対」の医師が、「正しい」と思われるアドバイスをするが、彼女には、優しさは届いても助けにはならない。この時のイーダのセリフが、私にとってこの映画のテーマだ。また彼女が綴る文字の多さは、声をあげ続けることは大切なのだというメッセージのように思われた。
半ば以降の舞台はほぼ精神病院の中。そこから飛び出したイーダがとある扉を開けると「世界」が変わっている…というか作中初めて「世界」が可視化する、という場面に胸打たれた。遡って前の場面でシスターが流す涙が、その予兆に感じられた。「ファシストの好む女」じゃないイーダに、同性から花まで贈られる。しかし彼女にとって、それはどうでもいいことなのだ。
映画としては面白かったけど、観ていてとても気持ちが重くなった。声をあげなきゃならないのはいつだって権力の無い者。そうしなゃつぶされるのに「うるさい」、一見「自分と同じ側」からも「黙ってればいいのに」、しまいには「あなたの幸せは来世にあります」なんて言われる始末(全くギャグにしか思えず…冒頭を思い出して笑ってしまった)。
一人ぼっちで育ったイーダの息子が、学友に囃し立てられながら「父親の真似」をするシーンには涙がこぼれた。これが「ムッソリーニ」役の俳優の一人二役なんだから面白い。
観賞後のエレベータで「ムッソリーニ死ね」と耳に入ったけど、ほんとにこのムッソリーニ、観賞の妨げになるほどむかつく。「芸術家としての才能がないと分かってあせってる」やつに政治をまかせると碌なことがない!(笑)
時に人間関係とは、「愛」のようなものがあった時期と、それに執着する時期、なんだなあとも思わせられた。
(11/06/08・シネマート新宿)
今年劇場公開された他のドニー・イェンものと比べると、「イップ・マン」の体温上昇度にはかなわないけど、「孫文の義士団」よりは一万倍面白かった(あれはドニーものじゃないか)。
冒頭、実在した「錦衣衛」(原題)の説明。彼らは明王朝の時代、反体制派を抹殺してきた秘密警察。最も優れた者には指揮官として「青龍」の称号と「大明十四刀」が授けられた。ドニー演じる青龍は、皇帝の証をめぐる陰謀に巻き込まれ、追われる身となる。
「孫文の義士団」では人情話に飽きたり無駄死に疑問を抱いたりしてしまったけど、こちらはガンガン行くだけの内容だから観易い。ただし映画独自の設定「大明十四刀」始め、「からくり」というにはわびさび皆無のオモシロ小道具が多すぎて、気がそがれてしまう。
いちいち「参上」する「砂漠の判事」(ウーズン/ジプシー風というか綺麗なジャック・スパロウ風の腹出しファッションがいい)がブーメラン刀で敵を仕留めるのにうっとりしていたら、その次のシーンでドニーが「机に乗る」だけのカットがあまりにかっこよくてびっくりした。そういうシンプルな「動き」がもっと見たいんだな。道具もヌンチャクや棒くらいならいいんだけど。
「恋愛もの」としては、大げさだけど最近観たものの中で一番気に入った。作中随所で、ヒロインのヴィッキー・チャオと同じ表情(もちろん「顔」じゃない!笑)になってしまった。
ドニーと「人質」ヴィッキーの旅は、躾を受けていない彼に箸の使い方を教えたり、夜中に布団掛けようとした所を誤解して殴ったり、壁一枚隔てて入浴したりとベタな出来事の連続。「殺人マシーン」の彼は、あくまでも「目的」のために彼女を「利用」することもあるが、肝の座ったヴィッキーがその場を切り抜けていく様が痛快だ。「騙されても、騙されてなくても、彼の言うことを聞く」「希望を持つことは幸せに繋がる」という心持ちが甘美でいい。それは依存じゃない、自由な意思なのだ。
冒頭、友情出演のサモハンが登場。足切りの刑に処された親王という役柄なのでアクションはないけど、一瞬、上半身の素早い動きを見せる。彼がラスボスだったら最高なんだけど(そういう役どころだし)、もうお爺ちゃんだし、いつまでもそういうわけにいかないよなあ。
(11/06/01・シネマート六本木)
第一次世界大戦で活躍したドイツ軍のパイロット、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの半生を描く。
よく出来た「伝記」で楽しかったけど、遠近感に欠けるというか、こういう映画って途中でふと冒頭を思い出して「ああ遠くまで来たなあ」なんて感慨にふけってしまうものだけど、そういうのはなかった。
オープニング、大空を舞う飛行機を見上げ、両手を広げる少年。その身なりや「馬上」であることから、お金持ちの家の子どもだと分かる。またこの「両手を広げる」ってのが、何気に面白いなと思った。後に彼が「想像してよ、何もかも自由自在なんだ」と言うように、飛行機を操縦するということは、自らが空を飛ぶということなのだ。今だってそうかもしれないけど、当時はそれよりずっと。
場面が替わり、連合国軍地で行われている葬儀に突如現れるドイツ軍の飛行隊。成長したマンフレート男爵(マティアス・シュヴァイクヘーファー)が敵のパイロットに敬意を表し、花輪を投げ入れに来たのだった。その後奇襲隊と一戦を交え、地上に降り立った彼らの身奇麗な格好に驚かされる。シェイクスピアをベッドタイムストーリーとし、フランスの煙草を吸い、娼館?で遊ぶ、飛行機乗りの「粋」がまずは描かれる。彼らは「貴族」なのだ。その戦地での暮らしは、優雅なキャンプのよう。飛行機一機が出撃するのに多くの「下働き」が必要なことも見て取れる。
大空での「自由」を求めるマンフレートは、戦闘を「空でのフェアなスポーツ」と捉えているが、看護師のケイトに「テニスじゃ人は死なないわ」と反論される。彼が追撃した機のブラウン大尉(ジョセフ・ファインズ)は、再会した際「ケイトが何週間も看護してくれた」と言う。それだけ苦労して命を救ってるのに一瞬で死なれたら、そりゃあ納得できないだろう。なお大尉の「戦争は『貴族の』一族間の争いのようなもの」というセリフは印象的だった。
上司からは逆に「ポロの試合じゃないんだぞ」と責められる。上層部からは士気を高めるための「軍神」=不死身の英雄として祭り上げられる。そして、野戦病院で(自分たち貴族と違い)「選択の余地がない」重症患者の姿を見てショックを受け、戦争が殺し合いであることを実感するが、皇帝は彼に向かって「我々は敵を破壊するだけ、殺しはしない」と言ってのける。
恋愛ものとして見ると、マンフレートとケイトは最高に「理解」しあった状態で燃え尽きたことになる。「軍神」に対して「英雄なのに!」と笑いながら痛い注射をしたり、夜中にいきなり訪ねて行ったりという、「セレブの恋人」の俗な楽しみもあった(これをハンサムな彼女がするからいい)。ちなみになぜか二人とも、パンツをずり下げて履いてたのが可笑しかった。
(11/05/31・丸の内ルーブル)
「ジャーナリズム」の中にいながらセンチメンタルな男と、ジャーナリズムを利用して「本物」になろうとする男。変なやつに一杯喰わされた男のオフビートなコメディにも見えた…最後のカウンターでのシーンまでは。
川本三郎による同タイトルの原作は未読。
1969年、新聞社で週刊誌記者として働く沢田(妻夫木聡)は、活動家への取材に熱意を燃やしていた。あるとき、梅山と名乗る男(松山ケンイチ)が接触してくる。彼はセクトを作り、武器を奪って行動を起こすと宣言。
妻夫木聡演じる沢田が属する「東都新聞」は、私にはとても居心地悪そうに感じられた。女といえば「モデル」だけ(後に社員が一人いることに気付く)、社名のでかいロゴ入りの灰皿、先輩記者の食べる口元の汚さ…そういう「時代」なんだろう。しかしそうは感じていない、恐れるものの無い沢田は、理想に向かって猪突猛進する。その「理想」とは「自分の感情」を世に伝えること。会議では上司に「俺達は『社会の目』なんだぞ」と窘められる。この時点では、何が社会の目だ、偉そうに〜と単純に沢田に肩入れして観ていた。実際彼の「センチメンタル」な記事を楽しんでいる人々もいる。
松ケンは、役作りなのか?少々よくなった肉付きが、これまでにないほど子どもっぽい役に合っていた。恥ずかしいほど見え透いた、底の浅い男。しかしふとした瞬間に、つかみきれない輝きがある。
「何のためにセクトを作ったんだ?」と問われれば「君は敵か?」、「赤邦軍って何なんだ?」と問われれば「僕を騙したのか?」など、真っ直ぐ突かれればはぐらかす。身近な人物を持ち上げて利用する。長い者には巻かれる。べたべた汗をかきがつがつ物を喰らう。
女性の登場人物は胸に「美女」「非・美女」と書かれた紙が貼ってあるかのよう(「普通」っぽい女がいない)。週刊誌のモデルを務める少女(忽那汐里)の「達観」ともいえる落ち着きぶりには、全く男って(この場合、映画の作り手)中身は老成した女が好きなんだから…とあきれてしまった(笑)この女優さんの顔、とくに目がとても面白く、惹きつけられた。もう一人のヒロイン、松ケンに心酔している学生(石橋杏奈)も、くそ暑い中そうめん茹でるなど「理想的」すぎて気味がわるい。もっとも当時の「女性」ってそういうものだったんだろう。
終盤の少女のセリフは、当時に対する「今」の時代の感想のように思われた。原作にもあるのかな?
作中最も印象的だったのは、刺された自衛官が死ぬまでのカット。作中の誰もその場面は見ていないが、不自然に感じられるほど長い。つまり「人の死は重大なこと」なのだ。
沢田は「梅山は思想犯である」「ジャーナリストとして取材内容は明かせない」と自身の信じるものを主張し、死んだ自衛官については苗字すら覚えていない。ラストのカウンターにおいて彼は、自分が多くのものを見落としてきたこと、今ではどうしようもないことを悟り、ただただ涙を流す。忘れられたウサギの代償として差し出した紙幣に対する「旧友」の「そういうことじゃないだろ」と言う言葉は、ここへ来てようやく届いたのだ。
彼の周囲には、旧友だけでなく「写真を渡してしまえば社会部を非難できなくなるぞ」と気付かせてくれる先輩だっている。主人公も彼らも、どちらも「完璧」じゃない。しかし人との関わりによって、何かに気付くことはできるのだ。
(11/05/30・新宿ピカデリー)
冒頭「術中覚醒」に関する一文。「一年に全身麻酔を受ける○万人のうち、なんと○万人は意識がある」(人数どっちも忘れた)とかなんとか。予告編からも分かるこのモチーフに興味を持って出掛けたところ、それどころじゃなく面白かった。
亡き父から大企業を受け継いだクレイトン(ヘイデン・クリステンセン)は、秘書のサム(ジェシカ・アルバ)との婚約を母のリリス(レナ・オリン)に打ち明けられずにいた。しかし自身の心臓疾患について信頼を寄せている医者ジャック(テレンス・ハワード)に励まされ、秘密裏に結婚を済ませる。奇しくもその夜、ドナーが見つかったとの連絡が入り、クレイトンはジャックに手術を依頼する。
まずはレナ・オリン様が出ずっぱりなのが嬉しい。ヘイデンに起こされたベッドでの顔は老婆のようだけど、朝食の席でヒール履いて新聞読む姿に、さすが脚組ませたら世界一だなあと思わせられる。その後もリムジンの中、鏡台の前で脚を組んでくれる。後半は脚組まないけど、全ての登場シーンが見どころだ。
もともと90分もない作品だけど、体感では三分の二ほどが「手術の間」の出来事。話術が上手くて片時も飽きない。
手術が始まると、まずは期待してた、覚醒したままで腹を切り裂かれる主人公の恐怖がシンプルに描かれる。やがて彼が起きてると知らず周囲が悪巧みを吐露し始め、身動きできないヘイデンに対し「頑張れ頑張れ、でもどうするの?」と思ってると、少々意表を突かれることが起きる(笑)かくして彼が為す術もなく殺されそうになりながら、「真実」を掴もう、現状を打破しようと努力する様が、回想&現在の映像により進んで行く。その場の唯一の味方が「酒飲んで手術に来てる見知らぬ医者」というのもいい(彼がらみで「ずっこけ」としか言いようのない妙なシーンあり、一人だけ笑ってしまい恥ずかしかった)。
終盤はレナ・オリン様が大活躍、鮮やかなラストへと繋げる。「推理」部門も全て彼女が担当。「自動販売機の使い方も知らないセレブ」だと思わせておいて、あの場面に違う意味があったとは。
ラストには主人公が色々な意味で「アウェイク」する。そういやヘイデンって「アナキン・スカイウォーカー」なんだよなあ、と思ってしまった(笑・全然違う話だけど)。
(11/05/25・新宿武蔵野館)
面白かった。とくに前半は、的確にツボ突かれてにやにやしっぱなし。
10年の刑期を終えて出所した男(ドウェイン・ジョンソン)が、兄と自分を陥れたやつらに復讐する話。邦題通り、ロック様が(肉弾じゃなく)「豆鉄砲」一つでガンガン敵をやっつける。
独房の中を歩き回って体を鍛えるロック様の姿に、ちょっと「パピヨン」を思い出したけど、その肉体はもちろん全然違う。出所したその足は、いつしか駆け出す。車(超目立つシボレー!)を手に入れると、猛スピードで走り出す。わくわくさせられるオープニング。
予告からは分からなかったけど、本作は「続・夕陽のガンマン」を下敷きにしている。「The Good, the Bad and the Ugly」に相当するのが、順は違うけど…というかそのへんは適当だけど(笑)「ドライバー」(ロック様)、「刑事」(ビリー・ボブ・ソーントン)、「殺し屋」(オリヴァー・ジャクソン・コーエン)の三人。それぞれの顔、というか目、とくにロック様の「時が止まった」目が様々な撮り方で強調されており、顔立ちのせいもあり?ドニー・イェンみたいに見えた。スローモーションや見栄が多いから「ジョン・ウーの映画の中のドニー」って感じ。
始めに「とくに前半は」と書いたのは、各々の登場や、初対面の場面などが面白いから。「世界で10人しかやれないヨガのポーズ」を制覇するナルシスティックな殺し屋、チェックのシャツに頭髪も寂しい薬漬けの刑事。ドライバーと殺し屋の初対面の場での、あの子ども!このシーンがジョン・ウーばりなら、ドライバーと刑事が顔を合わせるシーンの方はプロレスのショーのよう。
刑事の別居中の妻との息子は、例によってデブ。野球に送ってく車内で、父親が仕事の電話に「子どもと一緒だから遅れる」と言うと思わず笑みをこぼす。これに限らず、子どもの使い方がすごくあざといんだけど、嫌な感じはしない。
ラスト、肝心の「三つ巴」のくだりが少々緊張感に欠けるのが残念だったかな。
ドライバーのターゲット5人のキャラクターは、つまらないほど薄くはなく、話の邪魔になるほど濃くはない。彼らは10年の後それぞれの暮らしを築いているが、ドライバーは「人生を変えても過去は変わらない」とにべもない。刑事の妻の「天国や地獄は私たちがこの世で作るもの」というセリフが印象的だった。
(11/05/23・シネマスクエアとうきゅう)
パスカル・トマによる、アガサ・クリスティ三部作の最終章。「奥さまは名探偵」「ゼロ時間の謎」は劇場で観たけど、本作のみ日本じゃDVDスルー。一作目のカトリーヌ・フロ&アンドレ・デュソリエによるタペンス夫妻の他、舞台となる「家族」には、二作目に続けてキアラ・マストロヤンニやメルヴィル・プボーの綺麗どころが出演。
近年「ゼロ時間の謎」「華麗なるアリバイ」(j監督パスカル・ボニゼール)と、フランス人はなぜこうもクリスティを映画化するのか?面白くもならないのに…と思ってきたけど、本作はとても楽しめた(今気付いたんだけど、DVDで観たから…ってことはないよなあ・笑)
「奥さまは名探偵」ではそれほど感じなかったけど、他のクリスティ映像化のようにスターの豪華さやコージーミステリの温かさではなく、ただただカトリーヌ・フロのキャラクターと魅力で持ってるところが、彼女のファンである私には嬉しい。前作に比べ、内容の聴こえない会話、彼女の見る夢、夫婦が相手の不在時に思い浮かべるイメージなど、「遊び」っぽい映像が増えてるのも楽しい。
子どもの頃「パディントン発4時50分」が大好きだったのは、ひとえに「プロの家政婦」として家々を渡り歩く主人公に憧れたから。今回は設定を大幅に変更し(マープルものとトミー&タペンスものを組み合わせ)、その役をカトリーヌ・フロが!というのがまず面白い。「家政婦には見えない」彼女が料理しながら歌うシーンなど、私のお気に入り「地上5センチの恋心」にも通じる楽しさ。
タイトで素敵な衣装の数々、雪道をハイヒールでやってきて、スノーブーツにはしゃぐ。おばさん、マダム、どの呼び名もぴんとこない、性的な感じは全くしないのに(なんて「女」に感じない私が言うのもへんだけど)、まさに「女」そのもの、女っていいなあと思わされる。
ラストが有名な「シャーロック・ホームズのジョーク」でシメられてたのにはびっくりした(笑)
(11/05/20)
マーク・ラファロの初監督作。日本版ポスターじゃバンドのボーカリスト役のオーランド・ブルームがメインだけど、そういう映画じゃない。ラファロの親友、クリストファー・ソーントン演じる主人公が体験する、障害+オカルト+音楽+犯罪もの…というには各々がさらりと扱われ、さわやかなラストに向かう。
マーク演じるはスラム街で炊き出し活動などを行う神父ジョー、車の椅子の背もたれに腰痛防止のタマタマ?を付けてる地味なおじさん。脇役かと思ってたら、終盤では主人公ディーンとがっつり絡む。
自らの超能力に気付いたディーンに「そういうことに詳しい人に会ってみないか」と持ちかけるので、どこへ連れて行くのかと思えば聖職者仲間の所。彼らはディーンの力は「神からのギフト」であり、それを活かすことこそ使命だと説得する。しかし「ホームレスの更正施設を作りたい」と考えるジョーは、お金になるものはお金にしようとする。ディーンの「賃金」について二人が話し合うシーンが面白く、マークの芝居の中の「小芝居」が憎いばかり。終盤の「ぼくは二度は謝らない」ってセリフもいい(笑)
やがて、半ばヤケになったディーンはオーリー率いるバンドに誘われるまま参加、ライブに「治療」を組み込んだ彼らは「新しい教会みたいなもの」などと評され人気を博す。ところがその後、話は鮮やかに意外な展開を見せ、結局は人間同士のぶつかり合い、それによる心の動きに焦点が当てられる。映画としてはでこぼこした印象を受けたけど、熱意を感じた。
ヒロインにジュリエット・ルイス、ゲスト出演にローラ・リニーという女性陣も、ベタながら嬉しい。ジュリエットは赤い羽根付き帽、ライブの際の髪型も可愛い。ディーンの車に勝手に乗り込んできて「ぎゃはは〜(足の悪いあんたが)勝てるわけないじゃん」なんて言うシーン、モーテルのソファでブーツを脱ぐシーンなど、彼女の魅力が存分に出てる。少々弱っちいのが、私としては期待外れだったかな?
(11/05/19・シアターN渋谷)
最高に楽しかった!「今」の「本物」にかなうものなし。
平日の劇場は半分程の入りだったけど、ヤバイヤバイ!と囁き合ったり笑い合ったりする女子達が後ろにいて嬉しくなる。私もジャスティンに興味が湧いたし、ああいう歌手が日本にもいたらいいなあと思った。
ツアーでのパフォーマンス、生い立ち、スターになるまでの経緯、周囲やファンの証言を織り混ぜながら、マディソン・スクエア・ガーデンでの公演に向かってカウントダウン。ジャスティンがステージに3Dで登場した時は笑ってしまったけど、次第にもっともっとと求めるように。パワーが伝わってくる。
加えてジャスティンが「髪を振る」シーンには爆笑、あれを見られただけで3D料金払ったかいがあった!ファンによると彼の「髪」には多大な魅力があるらしい。パーカーのフードを脱いで髪を振って整え、被り直すシーンなんてのも、いかにも「素顔」っぽくて楽しい。
音楽映画としての、(本人の)パワーと(作りの)うさんくささも面白いけど、印象に残るのはジャスティンの「人たらし」ぶり…というか、まさに「愛されるために生きてる」様子。ヘアメイクの中年女性に向かって「これ(バリカンみたいの)でアタマ剃っちゃおうかなー」「やめなさい!」「じゃあI love you,ジャスティンって言ってよ」。いるんだよなあ、こういうやつ!素晴らしい。
片時もじっとしていない、通りすがりに人の顔を叩く、ものを散らかす、迷惑ぎりぎりというか軽く踏み越えてるやんちゃぶりがでかでかと映し出される。ドーナツの箱をゴミの上に置いて「汚いわねえ」「『ぼくが』やったんだよ?」には笑ってしまった。
作中、マイケル・ジャクソンの名前が何度かあげられる。娘を連れた母親の口から初めて行ったコンサートとして、終盤ではマドンナの「マイケルには子ども時代がなかった」というスピーチを引き、ジャスティンはそういうのが嫌だと言っている、という。マイケルには(幻想かもしれないけど)昔ながらの芸人の悲哀のようなものがあったけど、ジャスティンにはない。10代で「大人の暮らし」をするには確かにストレスもあるだろうけど、あんなふうに「子ども」でいられて本人が楽しいなら、いいことだと思う。
まあ、やんちゃの件がなくても、白人で男で「あの顔と髪」で、ある程度恵まれた環境に育ったやつに「ネヴァー・セイ・ネヴァー」なんて言われたら、むかつくって人もいるだろう。ちなみに 「ベスト・キッド」のテーマであるタイトル曲はジェイデン・スミス(いつの間にか肩書きが「カラテ・エキスパート」に…)との共演なんだけど、この二人が揃って歌い踊る様は強烈で笑ってしまった。ある意味、世界最強の嫌がらせなんだもん。
(11/05/18・TOHOシネマズ六本木ヒルズ)
「男と女!」「恋愛って素晴らしい!」というベタベタのオープニングには乗れなかったけど、次第に楽しくなってきた。恋におちる二人のチャーミングさ、片方の恋の真摯な終え方、いったん落胆させておきながらロマンチックなラスト、たまにはやっぱりこんなラブコメが観たい。
原題は「Letters to Juliet」(邦題とは逆)、「手紙」が最後にちゃんと活きてるのもいい。その場の皆と一緒に拍手したくなる。
イタリア・ヴェローナ、「ロミオとジュリエット」のジュリエットの生家には、世界中の女性から恋の悩みを綴った手紙が集まる。ソフィ(アマンダ・セイフライド)は多忙な婚約者ヴィクター(ガエル・ガルシア・ベルナル)との旅行で一人身になり、その家で見つけた50年前の手紙に返事を書く。すると、差出人のクレア(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)が当時の恋人を探すため、孫のチャーリー(クリストファー・イーガン)と共にやってきた。
冒頭は「ニューヨーカー誌の調査員(記者志望)」のソフィが屋台でプレッツェルを買うなど「ザ・ニューヨーク!」的描写。旅に出れば「ザ・イタリア!」、マンマが手料理を食べないソフィに文句をつけるも婚約者と待ち合わせと聞くと態度が一変したり、ヴァネッサに爺さん連中がいちころになったりと「のんきなイタリア」劇が繰り広げられる。田舎の風景も勿論きれい。
始め、アマンダ・セイフライドってやっぱり田舎臭いなあ、この役はうざいなあ、クリストファー・イーガンってヒース・レジャーの魅力をだいぶ薄めたような男だなあ、なんて思ってたのに、二人がなぜか惹かれ合ううち、どちらもチャーミングに見えてくる。「君といるとなぜか最悪な態度を取ってしまうんだ」って何十年前の少女漫画だよって感じだけど、うきうきしちゃう。
ガエルは料理一辺倒で憎めないシェフの役、美味しいケーキの匂いを嗅ぎつけた時の表情が可笑しい。終盤のソフィとのシーンが印象的だ。「みんな仕事はそのままでいいから、ちょっと外してくれ」…なんてことない場面だけど、力強さを感じた。その後のソフィの一連のセリフも真摯でいい。
ヴァネッサ・レッドグレイヴはさすがの安定感、言葉に説得力がある。主に白い服を着こなし、最後にはイタリアの陽光の下でノースリーブに。ソフィをブラッシングしながら「髪を梳かしてもらうのは人生の喜びの一つ」…私も大好き。猫が毛を舐め合うようなものかな?(笑)
結婚式における彼女の格好が、いわゆる「ウェディングドレス」じゃないのもよかった。皆あれが好きなわけじゃないのに、といつも思ってるから。
(11/05/15・ヒューマントラストシネマ有楽町)
「私」の、私の、私の映画。笑っちゃうほど怖くて、面白かった。
冒頭「白鳥の湖」を踊るニナの、床にこつこつあたる足音、彼女の部屋の「異様」さ、地下鉄の騒音、全てに不穏な予感がする。
ミラ・クニス演じるリリーが「ソリスト」の控え室に入ってくるシーン。「自分の持っていないもの」に対する、ニナの恐れやあこがれが画面に滲み出ている。その後もリリーの登場シーンは素晴らしい。このあたりでは「二人の少女が自分にないものを持つ相手と向き合う」という少女漫画のパターンを思ってたけど、次第にそういう話じゃないと分かってくる。
それならば、私が「黒鳥」というと思い出しちゃう、山岸凉子の同名作のような内容なのかというと、そうでもない。ヴァンサン・カッセル演じる監督トーマスとの関係はメインではない。この問題…権力ある者の「使い捨て」に対し、リリーは「優しくないわよ」と評して「現実的」に対処し、ニナは「わが姫君」と呼ばれるに至ってするりと逃げる。
とどめに、かつて「群舞の」バレリーナだったが、娘を産んだことでキャリアを「諦めた」母親エリカ(バーバラ・ハーシー)。冒頭から娘の着替えを手伝うなど、どこか「異様」だ。ベッドで横を見ると!ってシーンの怖いこと。セックスの真逆にある「家」、の息苦しさがよく出てた。
あらゆる他者が、ニナを追い詰める。彼女の敵は全方位、まさに「世界」なのだ。地下鉄の向かいの席の老人さえも。
ウィノナ・ライダーが「前プリマ」役として登場するのに驚いた。私は昔、ウィノナとナタリーを混同してたので、そんなに世代違うんだっけ?と思って。調べたら10歳差だった。
(11/05/11・新宿ピカデリー)
パーシー・アドロン(とその息子)の新作を劇場で観るなんて、なんだか感慨ぶかい。昔は「流行ってた」こともあり、ビデオ屋で全作借りて観たものだ。まぶしい光、がちゃがちゃした画面、セックスの軽み、などを懐かしく感じた。
冒頭「起こったことは事実、どのように起きたかは創作」との字幕。名声と人気を欲しいままにした作曲家グスタフ・マーラーと、その若き妻アルマの物語だ。
映画は、マーラーがアルマとの仲についてフロイトに「診療」してもらう合間に、夫婦のこれまでが(主に彼の回想により)描かれるという構成。挟み込まれる「周囲の者の証言」や、マーラーとフロイトのやりとりが間抜けな感じを醸し出しており可笑しい。「夢は見ない」黒づくめのマーラー(終盤少し脱いでゆくけど)が、「あなたの音楽は聴いたことがない」白づくめのフロイトを呼び付け…ておきながら逃げ出そうとする。「またセックスのことを聞くのか?」って、後世からしたらそりゃ当たり前ってもんだ(笑)
原題は「Mahler auf der Couch」=寝椅子の上のマーラー。「SOMEWHERE」のポールダンサーのポールのように、フロイトは折り畳み式の寝椅子を持ち歩いている。
フロイトはマーラーを診た夜、ノートに「嫉妬はああいうカップルに必要なもの、夫は妻を束縛することで愛を完成させる」などと書き付ける。
しかし最後に彼は「治療」として、マーラーに「自分の罪」を自覚させる。「答えはここ(自分の胸)にある、分かってるはずだ」。このくだりでは、先に一度聞いたアルマの言葉に続きがあることが分かり、ちょっとした推理ものの楽しさが味わえる。といっても始めから観てりゃ分かることだけど。「結局、彼にとって私は女なのよ」と母に嘆くアルマ。
私には、「ほんとうのアルマ」は最後まで姿を現さなかったように思われた。しかしマーラーが描き出して見せる彼女にこそ、その切実さが表れてるように感じられた。
アルマ役の女優さんは、カトリーヌ・フロが乳牛になったような感じ。彼女のマーラー以外とのセックス、というかいちゃつきシーンはどれも楽しそうで、観ていて満足できた。とくにピアノの下での一場面がいい。
(11/05/10・シネマート新宿)
ポスターから「ククーシュカ」のハード版みたいな内容かと思ってたら、めんどくさい詩人のおっさんの話だった。主役男女の容姿が小奇麗すぎ、おっさんの芸術と苦悩がベタすぎの感はあったけど、面白かった。
20世紀初頭、内戦時のフィンランド。赤軍の女性兵士たちが白軍に捕らえられ、暴力の末に殺されるが、一人の女性が生き残る。准士官のアーロは、彼女を公正な裁判に掛けるため、海を渡って判事のもとへ連れて行く。
冒頭、原っぱで銃を持ったグループ同士が撃ち合っている。サバイバルゲームかと思うくらい、簡素な戦い。赤軍女性兵のリーダー(と後に分かる)のミーナ(この名も後に分かる)は、怖がりまとわりついてくる仲間をさばきつつ、冷静に銃を使用する。この仲間ってのがリアルにうざく、でももし自分がその場にいたら、どうなっちゃうだろう、なんて想像した。
散々乱暴された末、敵方の美青年アーロが彼女を「正当」に扱い、二人はちょこっと「青い珊瑚礁」ぽくなるが、大のオトナが戦時下に、しかも北国の岩場じゃなあ、と思ってたところが、物語は意外な展開を見せる。「やっぱり独身」のアーロ、「肝が座った」ミーナ、二人をそう評してやたら執着する詩人で判事のエーミル、「異常」時において、三者の人生が交差する。
ミーナは、無人島に漂着し体調が回復すると、敵方のアーロを「誘惑」してみる。最近観た映画の中じゃ、一番はっきり陰毛が見えた。なかなかよい撮り方。
「やらせてくれたら逃がしてくれる?」と股を開き、断られたらあっそう、で済むのってラクでいい。アーロの方は、彼女の裸を見せられた後、岩場に行って自分で出してくる。この場面が可愛い。
「戦火のナージャ」「4月の涙」と、たまたま続けて戦争もの観たけど、前者は「戦争もの」、後者は「戦時下における性愛もの」。男がピアノ弾くのと、女が胸を見せるのが共通してた。
(11/05/07・シネマート新宿)
ミハルコフの「太陽に灼かれて」('94)に続く、三部作の二作目。「太陽〜」は昔観たもののほとんど覚えておらず。かりに未見でも支障ないように思う。
KGBの幹部ドミートリ(オレグ・メンシコフ)と陸軍大佐コトフ(ニキータ・ミハルコフ)との間には深い因縁があった(「太陽に灼かれて」)。43年、ドミートリはスターリンに呼び出され、大粛清の際に処刑されたはずのコトフの捜索を命じられる。彼は、コトフとその娘ナージャ(ナージャ・ミハルコフ)の戦時中の消息をたどっていく。
魅力的な冒頭の一幕(観てのお楽しみ)と、それに続く収容所でのくだりで早くも伝わってくる、過剰なまでのサービス精神。いつの時代だよって感じの効果音、多用されるスローモーション、ケレン味あふれる小道具、ドラマチックに死にゆく人々。予告からイメージしてたようなしんみりした内容じゃなく、語弊があるかもしれないけど、ノリノリの戦争ものだ。スクリーンに大映しされるコトフ大佐=ミハルコフ監督の顔見ながら、映画好きなんだな〜と思う。
「三部作」の真ん中ということもあり、二人を探すドミートリの様子を挟みながら、戦争の末端で起こる出来事がひたすら繰り返されるのみだけど、二時間半、全く飽きずに観られた。
父と娘はそれぞれ奇跡的に生き延びるが、描写の中心は彼らではない。当たり前ながら、戦争においてもこんなに間抜けなことがある!という話が満載。「爆破」シーンなんて、ドリフのコント並みの来るぞ来るぞ感で、橋や機雷のくだりでは、ほんとに声出して笑ってしまった。
(11/05/06・新宿武蔵野館)
「レズビアンカップル」のニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)は、精子提供によりそれぞれ子どもを設けた。15歳になった息子レイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)は「生物学的な父親」を知りたく思い、18歳の姉ジョニ(ミア・ワシコウスカ)をたきつけ、二人で当のポール(マーク・ラファロ)と会う。
原題は「The Kids Are All Right」。ジョシュ・ハッチャーソンの成長を見届けようと出掛けたのに、子ども役二人の魅力はあまり感じられず。ほとんどジュリアン・ムーアの映画だった。要所でアネット・ベニングがさらってく。性分の固まった、いいとこもだめなとこもある大人たちの物語という感じ。
少々がにまた気味のジュリアンと男前のアネットが、よれよれのTシャツを着てソファでくっついてテレビ番組を観たり、一緒に夜の歯磨きしながら話をしたり、という姿を見るだけでまずは楽しい。場内では二人の会話に何度も笑いが起きていた。
「家族の食卓」シーンが数回。冒頭の一幕では、一家の「大黒柱」であるニックがうざいことを言うものの、それぞれが意見を述べることはできるし、雰囲気は悪くない。しかしポールを招いての二度目ではバランスが崩れ、見ていて辛くなる。
「侵入者」を演じたマーク・ラファロが素晴らしい。彼でなければ、あれはたんなる間抜けな悪役だったろう。冒頭の「レズビアンは好きだよ」なんてセリフ(「ぼくはフェミニストだよ」みたいなものか・笑)から結果?は想像できるけど、調子に乗りすぎとはいえ、彼の心情も分かるから切ない。
バイクを禁ずるママが娘を叱れば「規則をゆるめたら」なんて「自分の意見」を言ってどやされ、翌日、どやされたことについてもう片方のママに謝られれれば「君のしたことじゃないよ」なんて言う。誰かと生活を共にしていない人の気遣いは、パートナーと生きる人には通じない。
「君はどう思う?」とまず相手におもねるクセは、一人で生きる彼の防衛策でもあるんだろう。終盤、玄関でのシーンで、「娘」に対してもそういう物の言い方しかできないのにちょっと泣けた。
(11/05/02・TOHOシネマズシャンテ)
既婚者の子を身ごもるも中絶した希和子(永作博美)は、相手の妻の産んだ赤ん坊・恵理菜を誘拐。薫と名付け、母娘として「幸せに」暮らすが4年後に逮捕される。十数年後、大学生となり一人暮らしをする恵理菜(井上真央)の元に、ライターを名乗る千草(小池栄子)が訪ねてきた。
原作は未読。たまたま時間が合ったので観てみたら、とても良かった。昔読んだ、数々の少女漫画を思い出した(「ルツ」なんて名前が出てくるし・笑)。始めのうち、「事件」なんだから清張ものみたいに「年と場所」を示すテロップがあればなあと思ってたんだけど、次第に、そういう「社会的」な話じゃないことに気付く。
緊張感が持続する前半に比べ、後半は希和子が「薫」に愛情を注ぐ場面がこれでもかと描かれるばかり。冗長な感じを受けつつも、前半の恵理菜が惑っている様を思い出し、どれだけ愛を受けても、自分の問題は自分で乗り越えるしかないんだと涙が出た。
永作博美の熱演よりも、井上真央の「自分で道を切り開いていく」主人公へのはまりぶりに惹かれた。公園のトイレから出てきた時の顔など素晴らしい。
(…とは思うものの、こういう物語に接すると、なんで中出しするの(させるの?)と引っ掛かってしまう。倫理的にって意味じゃなく、創作上の面倒に目をつぶってるように思えるから)
大仰な演技ながら小池栄子も良かった。胸をひっこませた歩き方。登場時、独特なセンスの服装に目を引かれていたら、後半、「昔」着てたものと通じるところがあると分かり切なくなる。井上真央に接近してくる「異様」な感じに、こういう人っているかもと思い、色んな人がいるって意味で、「女性が普通に描かれてる」映画を自分は観たいんだと気付かされた。
希和子は「エンジェル」から掛けられた言葉に、恵理菜は千草から掛けられた言葉に、それぞれはっとして、緊張していた心をゆるませる。深く知ればすれ違ってしまうかもしれない、言った側は後に忘れてるかもしれない、やりとりであっても。そういうちょっとしたシーンが印象に残った。
(11/05/01・TOHOシネマズ日劇)