ラッセ・ハルストレム×リチャード・ギアの2006年作が今頃公開。二人は本作が切っ掛けで「HACHI
約束の犬」でも組んだのだそう。
ギア演じる三文作家のクリフォードが、大富豪ハワード・ヒューズのニセ自伝でもって出版社や世間を騙すという、史実に基づいた物語。クリフォードの相棒ディックにアルフレッド・モリーナ、妻エディスにマーシャ・ゲイ・ハーデンなど。
「世紀のサギ事件」というより、啓示を受けた一人の男の冒険談、という感じを受けた。それは、彼が妄想内で口走るように「全世界を相手」にしていながら、非常にパーソナルなもの。いい意味でちんまりと温かく、「ザ・アメリカ!」を示すタイムズ社の一室で、クリフォードが出版人相手に相棒の失敗を活かして大ボラを吹く時、窮地に追い込まれて大きな賭けに出る時、変な言い方だけど、部活動や町おこしの一幕を見てるような気持ちになった。
「伝説」との一体化、愛がありつつも不安定な周囲との関係、その合間に、真実と嘘って何だろうと思わせられるエピソードが挟み込まれる。役者からも撮り方からも、映画の滋味を感じた。
観終わって同居人が「ずっと嘘を付き続けて来たんだろうなあ」と言ってたけど、私はそれほど「うそつき!」という感は受けず。しかし、相棒がテンパって口にしたことを見事なエピソードに仕立て上げたり(この映像がまた可笑しい)、妻への言葉の最中、違う出来事の一幕を思い起こしながら語ったりするあたり、ああいう「嘘のつき方」もあるのかと思わせられた。
マーシャ・ゲイ・ハーデンの、70年代ヘアの似合わないこと!(そこがいい・笑)ギアとの「私は美人じゃないから」「そんなことない」「あなたといると、そう感じるの」というやりとりが印象的。ギアの「special friend」にして男爵夫人役のジュリー・デルピーも、雰囲気出てた。
舞台は71年、ギアは勿論、出版社で働く女性たちのファッションが楽しい。やったるぜ!って時に「Up around the bend」が二度(こういうの珍しい)、ラストにストーンズの「You can't always get what you want」が流れるのもいい。最後に最後の曲もお楽しみ、私は初めて聴いた。
(11/04/30・シアターN渋谷)
ミシェル・ウィリアムズ&ライアン・ゴズリング主演。娘と共に3人で暮らす夫婦、シンディとディーンの終わりの物語。
口説き文句に「きれいな女は悪女だから、君もそうだろ?」、「もう愛してない」と言われれば「俺は愛してる、俺は変わる」の一点張り。なんてロマンチックな男なんだ!ぎゃー!と思いながらも面白かった。
(学生時代、勝手に部屋の模様替えされたのが切っ掛けで別れたことのある私としては、あのお爺ちゃんが喜んでくれるかどうかはらはらしてた・笑)
私もディーンと同様、人生において特に「意義あること」はしたくないけど、愛で持ってる暮らしであればこそ、相手に愛を強いてはいけないと思ってる。
「恋愛映画」って、どうしても、私は幸せだ、あの男はいい、いやだ、私ならああする、ああしないって自分に引き寄せて観てしまう。あるいは登場人物のほんのささいな言動に、何かを思い出してしまう。ストーリーや二人の演技を楽しみながらも、前半はそういう観方から抜け出せず、「恋愛映画」って何だろう、それを観るってどういうことだろう、なんて考えてたけど、途中から違う面白さが出てきた。
フラッシュバックにより構築されていく二人の「過去」。妊娠の原因、出会いのタイミング、彼がロマンチックであるがゆえに妊娠の事実を告げることになる経緯…緊張とドラマをはらみ、出来すぎなほどよく出来ている。それがこちらに染み込むことで、快いほど、先ほどまでのものが違って見える(「過去」を知る快感という意味で、「幸せの黄色いハンカチ」を思い出してた)。シンディの娘、父親、生まれ育った家を終盤再び目にしたときの熱い気持ち。そして、ああそういえば今日はこの日か、さらにはエンディングの歌が、作中聞いた時には無かった感慨を誘う。
ただ、サマーにしてもブルーバレンタインにしても、他の恋愛ものの多くも、男の方が女(の、端的に言って見た目)に惚れる話だから、どんな展開になっても、いいじゃん好みのルックスの相手と出会えて付き合えたんだから、と思ってしまう。たまには逆の話も観たい。「ハッピーエンド」じゃない、女がかっこいい男に惚れてほろ苦い経験をする物語。
「ブローン・アパート」の時にも思ったけど、ミシェル・ウィリアムズは現在、世界一ミニスカートとブーツが似合う。作中言われるような「スーパーモデル」的にじゃなく。「現在」ではもう、そういうカッコしない(だろう)のが哀しい。
(11/04/26・新宿バルト9)
タイトルのみの前情報で観た。異国の様子を垣間見られるだけでも楽しそうと思ってたのが、ほんのわずかな間に&ちょっとした切っ掛けから、こんなことになるなんて…という類の物語が丁寧に描かれており、面白かった。身近な人が突然「他人」となる話でもある。冒頭には真からくつろげそうに感じられる部屋が、最後には色褪せ、寂しく見える。
航空会社の客室乗務員として働くルナと管制室に勤めるアマルは、サラエボで同棲生活を送るカップル。あるとき、アルコール依存症のアマルが勤務中の飲酒により停職処分に。かつての戦友に仕事を紹介してもらうが、勤務地は厳格なイスラム教徒が集うキャンプだった。
賑わう町の市場やカフェ、祭の日の家族の集まりなどを見ていると、何の「問題」もないみたいだけど、街の一角には墓地が広がり、団地の向こうにはモスク、私がそこに行けば肌と髪を隠さなければならない。ルナもアマルも他の人々も、私には想像もつかない経験をしている。
ルナは、久々に会ったアマルが髭を伸ばしているのを「ワイルドだわ」と無邪気に喜ぶ。キャンプに向かう途中、イスラム教徒の女性は「西洋人は女らしさを閉じ込めてる」とルナを暗に批判する。テントにおいて、ベールを外した女性は鏡を見て顔や髪を整える。厳格な宗教は「素朴」なんてものではなく、「男らしさ」「女らしさ」を力で強いる。それは、終盤ルナがモスクで目撃して憤る出来事にも現れている。
キャンプの描写は私からすると不気味だけど、ルナがぴょんぴょん飛んでテント?の中をのぞこうとするなど、茶目っ気ある場面により少々和らげられている。
人工受精を取りやめて帰ろうとするルナに向かって、妊娠を望むアマルが思い直したように言う「君は正しい、神の望まない子だ」。神についてルナが「両親が家の前で殺された時、私は神に祈ったわ、二人を返してって」と言えば、彼は「二人とも僕の両親と一緒に天国にいるよ」。宗教が入り込むことにより、こんなにもすれ違いが生じてしまう。
仕事中のルナの機内でのひとコマや、最後の方に一度だけ挿入される、機上からの街の眺めなどがとても効果的。また彼女が「女の子」と触れ合うシーンが二度あり、今のところは何も知らない、さらに次の世代というものを意識させられた。
(11/04/24・銀座シネパトス)
昨年亡くなったシャブロルが最後に手掛けた作品。
ローカルテレビ局のお天気キャスター・ガブリエル(リュディヴィーヌ・サニエ)は、著名な作家シャルル・サン・ドニ(フランソワ・ベルレアン)に惹かれ男女の仲になるが、思うような関係を築くことができない。一方資産家の息子ポール(ブノワ・マジメル)は、彼女に惚れて猛烈な求愛を続ける。
冒頭、間抜けな天気予報だなあと思ったら、その天気予報のお姉さんが主人公、というかサニエだった!しょっちゅう見てるのに途中まで気付かず。こんなに間抜け顔だったっけ?と違和感を覚えたけど、それが物語に合っていた。
彼女が初めて何かを露わにするラストシーンには、結局容姿でその場しのぎしていく「はめになる」んだなと哀しくなった。率直に言って、女に自由はない、という話に思われた。
カジュアルな服装(ジーンズの上だけ着替えての番組出演が可笑しい)で「愛馬」を駆り、実家の「自分の部屋」で寝るガブリエルは、作中何度も「変わってる」「子ども」と言われる。彼女がそれほど「変わってる」ふうには思えないから、ある時から場違いな所に足を踏み入れてしまったということか。
相手の真意を「こういうことでしょ?」と決め付け「子どもね」と返されたり、自分の証言により刑が軽減された相手に受け入れられずショックを受け「真実を言っただけでしょ」と返されたり。しかし彼女も最後には「大人」になる。ここでの「大人」とは、自分の基準でもって相手に対し憶測・期待しないこと。私は、それは「正しい」けど、行使の仕方こそ重要だと思う。
ガブリエル(とポール)以外の登場人物は、「大人」であることで自分を守る術を心得ている。「あいつは卑怯にも去ったが、ぼくはここにいるぞ!」というポールの叫び、だから何なんだ?でもそう思うんだろう。そんなこと、思わないようにしてるのが「大人」だ。
男はほぼ二人だけど、女はざくざく登場、誰もが見ごたえある。かっこよすぎる女編集者(マチルダ・メイ)は昔の一条ゆかりの漫画に出てきそうなキャラ。シャルルの妻、ポールの母親、姉妹…と皆セレブな中、書店を営むガブリエルの母親だけが「庶民的」。知らない女優さんだけど、彼女の顔が一番美しいと思った。娘とランチを取る際の、ごくありふれたやりとりがいい。それにしても「情事」にはまると「お腹がすくの」…って、このシーンに限らず、ベタな描写が結構多い(笑)
最後に弁護士が「魅力的な事件です」と言うのが印象的だ。たまにフランス人がアガサ・クリスティ作品を映画化するのを不思議に思ってたけど、本作を観ながらふと、ああいう「事件に至るまで」に魅力を感じるからかなと思った(クリスティもそっちに重きを置いたの書いてるけど)。
(11/04/18・シアターイメージフォーラム)
ツタヤのルメット追悼コーナーで見つけて、観たことなかったから、借りてきた。
第二次大戦後のニューヨークで質屋を営む男。彼がナチスの強制収容所で全てを失ってから、25年が過ぎようとしていた。
始めに描かれる主人公サル(ロッド・スタイガー)の一日は、質屋のセットで繰り広げられる舞台劇のような感じ。楽器を鳴らしたりハシゴに乗ったりと店内を飛び回る助手のジーザス、次から次へとやってくる馴染みの(彼が応じないと知っていながら話しかけてくる)客たち、楽器を取り戻しどかちゃかやりながら帰っていくミュージシャン。感傷的な見方だけど、無愛想にも程があるサルを周囲が放っておかないのは、元々備わった何らかの魅力があるからかなと思った。
一日のほとんどを店の檻の中で過ごし、他人を拒否し、「平穏な時間」を望むがうまくいかない。声を掛けられ、会話をしただけで心が乱れる。あの頃の恐怖は、何十年経ってもよみがえってくる。「金だけは信じられる」と自分に言い聞かせてきたが、その金が自分を脅かすものと地続きの「不潔と恐怖」から出来ていることを思い知らされ、更に追いつめられていく。誰かと居たいとも思う。そして最後に、自分以外の人間が「生きている」ことに気付く。ロッド・スタイガーの渾身、すぎるほど渾身の演技。
振り返ってみると、ほとんどの登場人物が犯罪に関与している、犯罪映画でもあるのが面白い。
音楽担当はクインシー・ジョーンズ。主人公の出勤に合わせたオープニングクレジットや「犯罪」めいたシーン、若者たちの様子を躍動感たっぷりに盛り上げている。
(11/04/17)
ペルー。母の苦しい体験が授乳により子に伝わるという言い伝えがある。ファウスタも自らの恐怖心をそのためと信じ、じゃがいもで自分に「フタ」をしていた。母を亡くした彼女は、遺体を故郷へ運ぶ交通費のため、メイドの仕事を始める。
内容知らずに観たから、最初からほぼ最後まで、腹が痛いような気がしてしょうがなかった(笑)まあ、そういうこともあるかもしれないな、と思う。
映像や音が美しく、真珠を左右から拾っていくシーンやファウスタが花をくわえて扉を開けるシーンなど、きまりすぎなほど「映画的」。私の好みにはちょっときれいすぎるかな。
長い階段やラストに車が抜けるトンネルなど、向こうじゃ普通の風景なのかもしれないけど、ロケ地も素晴らしい。ファウスタのおじが結婚式業を営んでいることもあり、結婚その他様々な風俗が画面を強烈に彩る。色々仕事を手伝うものの、何かというと鼻血を出して倒れてしまうファウスタの姿は、コメディの一幕だ。
ファウスタの雇い主は、西洋人女性のピアニスト。はりめぐらした塀の中に暮らし、花に水をやってストレス解消、現地の職人とはちゃんと渡り合って支払いをする。作曲にゆきづまった彼女はファウスタの歌を耳にして「歌ってもいいのよ」と「寛容」なところを見せ、「歌うたびに真珠を一つずつあげるわ」と物で物を買おうとする。
自分の歌が立派な曲となって演奏されているのを聴いたファウスタが、歩いて舞台の袖まで行く。この時の彼女の表情の妙。本作は音楽映画でもある。映画は彼女の母親が苦痛の体験を語る歌で始まり、娘はそれを癒すかのように歌い返す。母亡き後も、彼女は歌い続ける。それが他人の手によって飾られ、多くの人に届けられる。音楽って何だろうと思う。
庭師の登場シーン、年いってるけどイイ男なので重要人物だと思ったら、やっぱりそうだったので嬉しい(笑)
それから、たまにそういう外国映画に遭遇するけど、ドレスやケーキ、棺桶、指輪の箱など、色んなものがやたら(日本で言う)ファンシー。向こうじゃどういう感覚なんだろう?
(11/04/15・ユーロスペース)
オープニングクレジットがぽつぽつ出現する間、空っぽの、マイクが用意されたテーブルが長々と映し出される。上の階にいながら遅刻する講演者の男、さらに遅れて座り、子連れでばたばたする女、講演中に鳴った携帯電話に出る男、立ち去りながらその姿に微笑む女。なんだか気の合う二人って感じがする、オープニング。
男…作家ジェイムズ(ウィリアム・シメル)は「美術畑の人間ではない」が、「贋作」についての本を著した。「芸術を語るのは難しい、よるべき真実がないから」「芸術か否かは見る者による」「たとえ贋作でも心が乱されるから、部屋に置くのは実用品にすべき」。始めに示されるこんなセリフが、よくも悪くもその後の道しるべとなる。
女(ジュリエット・ビノシュ)は息子と暮らす母親。イタリアの小さな町でギャラリーを経営しているが、美術品の造詣はない。
講演後に再会し、ギャラリーから外に出る階段を男がさっさと先に上っていくあたりで、なんだか妙な感じ、初めて会った者同士じゃないなという感じがする。カフェで「夫婦」と間違えられた後から、二人は「夫婦」になる。会話の内容が次第に波風立ってくる。
(ちなみに私はこの映画を、「(子どもも巻き込んで)初対面ごっこをしていたら、色々溢れでてしまった一日」というふうに観た)
女が愚痴る息子との会話。「風邪をひくわよ」「風邪をひいたらどうだっていうんだ」「死んだら困るでしょ」「死んだからどうだっていうんだ」…対して男は「まあ、何だってそうとも言えるよな」。女は怒って「息子やあなたの責任を負うのは私なのよ」。会話のステージが違う、とも言えるし、一人の人間が二つに分裂してるような感も受けた。
「お昼には遅すぎ、夜には早すぎる」誰も居ないレストランで、二人の諍いはクライマックスを迎える。女のセリフ「(風呂が長いと言われ)あなたのために磨いたのに」「(イヤリングや口紅を着けたことに気付かないことに対し)あなたのためにきれいにしたのに」なんて、「女」が言う(とされる)ことばかりで苛々したし、その後の男の「一つ言っておきたいことがある」内容には笑ってしまった。
二人のやりとりの間、向かい合っている時は彼らの顔が交互に映され、ドライブのシーンではフロントガラスを通して二人並んだ映像が延々続く。ガラスに映った木の影を追っているうち、カメラが車外に振られる瞬間が気持ちよかった。
(11/04/13・シネマート新宿)
「女の作曲」が許されなかった時代を生きた、モーツァルトの姉ナンネルの青春を描く。
私はナンネルの存在すら知らなかった。名前が残っていないことからして、「音楽の才能にあふれた」彼女の若き日の物語の結末は想像がつく。ラスト、家族と馬車で次の地へ向かう彼女の表情と、添えられた「その後」の文章に、なんともやりきれない気持ちになった。でも映画としては面白かった。
最近じゃ「アレクサンドリア」もそうだったけど、終盤不意に物語の始めを思い出し、こんなに遠くまで来たなんて!と思わせられる。ナンネルと、ルイ15世の末娘ルイーズとの再会。ドレス姿で修道院を走り回っていた彼女が黒服に身を包み、穏やかな顔で言う「私は今だって『ボロ雑巾』よ」「私たちが男なら、政治と音楽で世界を動かしたでしょう、でも神は私たちをそう作らなかった」。また彼女が、好きな男の父親が自分と同じであることを知り「彼の背後には悪魔(ディアブロ)がいたの」と言うのも印象的だった(これは先日「ザ・ライト」を見たからか・笑)。
映画は、ドサ回り中のモーツァルト一家が馬車から降りて用を足すシーンで始まる。父親レオポルドによる文章…演奏旅行の辛さを嘆くナレーション。がたがた道を何日もかけ、夜中に到着すれば倒れ込むように寝るだけ。金持ち連中は現金じゃなく煙草入れのような役立たずの品しかくれない。馬車がいく真っ暗な夜道やろうそくの灯りだけの室内、劇場で歌う口元の白い息など、暗く寒々しい当時の雰囲気がいい。
演奏会でのレオポルドの「クラヴィーアを、目隠ししても布を掛けた上からでも弾けます」なんて口上からも、彼らの「芸人」ぶりが分かる。もうじき12歳になるモーツァルトはいつまでも「わずか10歳」と紹介される。
ナンネルは「私の書いたどんな複雑な曲も弾きこなす」と父に評される。しかし彼女にとって、演奏と創造とは全く違うということが様々な場面から伝わってくる。弟と朝のベッドで歌い、寝間着のままクラヴィーアへ飛んでいって連弾する場面や、パリで一人暮らしの夜、椅子に座る前から指が鍵盤に乗る場面。物語の最後に彼女が作曲を諦めるのを「恋」とからめるのは、上手いけど少々ずるい描き方だと思った。
ナンネルを演じるのは監督ルネ・フェレの長女、ルイーズ役は次女。道理でどことなく似た…同じ種類の口元をしてるはずだ。モーツァルト役の男の子は役者じゃなくバイオリン奏者だそうで、姉に比べて演奏シーンはこなれた感じを受ける。
「女が音楽」映画つながりで「ランナウェイズ」同様、「初潮」を迎えるシーンがあった。その後、ナンネルと母がベッドに並んで語らう場面があたたかい。「孤児の身の上で音楽家に嫁ぎ、夫を敬愛する」母と、「私は普通じゃない」と言う娘。求める幸せは違っても、つながっている。もっともその後の「恋愛」談は、ちょっとロマンチックすぎないかと思わせられたけど(笑)
(11/04/12・Bunkamuraル・シネマ)
公開二日目、ヒルズにて夕方の回。お客さん少ないだろうと甘く見てたら、前2列残した最後の2席しか空いておらずびっくり。
オカルト・ホラーといった類の映画じゃない。「気乗りのしない仕事だけど、変わり者の師匠に付いて経験重ねるうちに自らの資質が目覚め、成長し、最後には『お前は若い頃の私に似てる』と言われる(←出た!笑)」系の物語。でもってその仕事というのが「バチカン公認のエクソシスト」、師匠がアンソニー・ホプキンスなんだから面白い。
一言にまとめれば、主人公が「変化」する…「神を信じる」ようになる物語でもある。悪魔憑きの描写含め、全篇実直な作りだけど、クライマックスでは感情的な音楽が「その時」を盛り上げる。
もっとも「エクソシスト」('73)の超有名シーン(ポスターのあれ)のパロディや、ホプキンスの「緑のゲロを吐くとでも思ったか?」というセリフなどメタっぽい部分もあり、適度に息が抜ける(笑)
「エクソシスト」では、エクソシストと「悪魔」は互いの言葉を耳に入れないようにしてたけど、本作においては、悪魔祓いの儀式の要所は「対話」である。
悪魔の「名前」を知ることができれば「命令」によって消滅させることができる、というのが、私にはぴんと来ないけど、面白いなと思った。ホプキンス演じるルーカス神父が、家に居つく猫について「名前をつけても認識しない」と言うのは何か関係あるんだろうか(一方、「悪魔憑き」の少女は猫の名前にこだわる)
まずは心惹かれる「エクソシスト」の「養成学校」!の描写も、地味ながら楽しめる。
「現代っ子」の主人公マイケルは、神学校のルームメイトがテレビゲームに興じる間(詳しくないからどんなゲームだか分からず)、メールで「神父にはならない」旨を学校側に通知する。ローマでの「エクソシスト養成講座」は現代的な教室で行われ、電源が落ちると「悪魔のしわざだ」と冗談が飛ぶのが面白い。神父たちが携帯電話を持ってるのが、すっとぼけたギャグになっている。
マイケルが行く先々でいちいち「アメリカ人」と言われるのも印象的だった。ローマでもマックの看板にひと安心する彼の姿に、「旅先でもマクドナルド」だった「偶然の旅行者」('88)を思い出す。
主人公の青年マイケルを演じるのはコリン・オドナヒューという新人さん、役には合ってたけど、私は次に見ても覚えてないだろう(笑)父親役がやたらイイ顔の男だな〜と思ってたら、ルドガー・ハウアーだった!久々で誰だか分からず。
(11/04/10・TOHOシネマズ六本木ヒルズ)
なんだかんだでソフィア・コッポラの映画、「ヴァージン・スーサイズ」以外は劇場観賞&サントラ購入してる。今回はサントラが出ないようで残念。
スティーヴン・ドーフ演じる映画スターの日常、別れた妻との娘(エル・ファニング)とのひととき。
タイトルと音楽が現れた瞬間、場内に立ち込めるソフィアの匂い。
変な言い方だけど、私としてはソフィアの映画において初めて、随所で、こういう「映画的な気持ちよさ」ってあるよなあと思わせられた。ラスト、ヴォーンというBGMと共に車が走ってくシーンも。
隣の人がしじゅうくすくす笑ってたこともあり、コメディなんだとも気付かされた。ああいう「可笑しさ」があるのは分かる。もっとも私が笑えたのは、面白い腹の出方をしてるドーフが記者会見で「体型を保つ秘訣を教えてください」と言われるシーンくらいだけど。
それから、何となく昔っぽい感じがした。主人公がイタリアに行くくだりで、昨年劇場で観た「悪魔の首飾り」思い出したせいもあるかな?(笑)
冒頭、ポールダンサーの踊り→それを見るドーフ→エル・ファニングのフィギュアスケート→それを見るドーフ、の繰り返しで、彼にとっての「娘」が分かる。でもこれってかなり露骨で(4コマ漫画じゃないんだからさ〜)、それこそ終盤の「I'm fucking nothing!」同様、あまり好きなセンスじゃない。「女の名前を間違える」ってのも陳腐すぎる。
娘の「クレオ」って名前がいかにも。ああいう、ブラジャーも化粧ポーチも要らない時期ってラクでいいよなあと思う。外から見れば「無敵」、自分にとってはそうでもない、かもしれない時期。
エル・ファニングの足取り、くだけた座り方がいい。でも父親の知人や、終盤登場するギター弾きなどと対面する際は、ちゃんと座れよ!と思ってしまった(笑)
新宿ピカデリー、レディスデーの最終の回はほぼ満席。混んでると思わなかったからびっくりした。私は「普通」の人に比べたら多くの映画を観てる、いわゆる映画ファンだけど、そうなるほど、「映画」の位置を捉えられないものだなと思った。
(11/04/06・新宿ピカデリー)
自称「ジャーナリスト」の冴えない男子高生ボビーは、憧れのフランチェスカ(ミーシャ・バートン)に頼まれ、学内で起きた試験答案盗難事件の犯人を探すことに。生徒会長のポールに目をつけ新聞一面ですっぱ抜き、皆の人気を得た上にフランチェスカとも親しくなる。しかしポールが犯人でないと気付き、真相解明に乗り出す。
タイトルと、ブルース・ウィリスが「校長先生」というのに惹かれて観たけど、彼が不良生徒を処刑しまくる映画じゃなかった(笑)原題は「Assassination of a High School President」、ブルースは軍人あがりの校長役、たまに出てきて場面をシメる。
軽快なサスペンスコメディといった作風だけど、いい意味でなく、登場人物の内側に全く潜っていかない、つるつるした感じを受け、あまり入りこめなかった。そもそも目下の夢は夏休みに大学の報道講座を受けること…という主人公が精力を傾けるのが「学内で起きた盗難事件の犯人探し」というのがぴんと来ないけど、観ているうち、学校が舞台なら、これがジャーナリズムなんだと思えてきた。
それにしても「学園の女王」がミーシャ・バートンだなんて!登場シーンに「彼女がやってくると皆が注目する」とボビーのナレーションが付くんだけど、地味な女教師の出勤にしか見えず。美醜の問題じゃなく、やつれてるから。
彼女と初体験を済ませた翌日、ボビーの縦列駐車が上手くなってるのには笑った。他に「面白かった」のは、彼がいつも持ち歩いてるメモ帳に鉛筆ぶっさされるシーンと、女の子がおしっこ漏らすシーン(私が面白いって言うんだから、もじもじとじゃない)。
終盤ボビーが「真相」に気付く際、これまでの出来事がフラッシュバックするので、全然関係なさそうなあれこれが繋がってたのか!と思いきや、やっぱり全く関係ないってのはひどい(笑)
でも、私が普段観てる作品が「厳選」されてるだけで、映画としてはこれが「普通」なのかも。それより痛感したのは、昨年「愛しのベス・クーパー」を観てから、映画に「学園の女王」が出てきても、(HSMのように「様式美」を追求してるもの以外は)以前より無意味に思えてしまうってこと。その物語の「学園の女王」は生きてるか?そもそも必要なのか?と考えてしまう。
(11/04/03・シアターN渋谷)
「どう、懐かしくなってきた?」
「それもあるけど、新鮮さを感じたいの、ここを見つけたって」
「わかるよ」
共に30代半ばのバート(ジョン・クラシンスキー)とヴェローナ(マーヤ・ルドルフ)のカップル。ヴェローナが妊娠6ヶ月を迎えた頃、近くに住むバートの両親から海外移住の計画を告げられる。育児の頼りのアテが外れた二人は、自分たちには「生活の基盤がない」と思い、アメリカに点在する知人を頼りに新天地を探しに出掛ける。
冒頭の「その言葉、遣わないって約束したでしょ」「いや、『正しく遣う』と言ったんだ」なんて会話が(自分を見ているようで)可笑しい。共に繊細で、少々勝手な部分はあれど思いやりを持つ者同士、一方が喜べばもう一方も喜び、一方が怒ればもう一方がなだめ、旅が続く。まだ見ぬ子どもを抱えた二人が、欲しくても子どもの出来ない夫婦、第三者としては「ただの人参ジュースじゃないか」と言わざるを得ない、妻に逃げられた夫などに出会う。
結末はしっくりこない気がしたけど、後になって考えると、二人、少なくともヴェローナが「何か」を再確認したんだろうなと思う。あの寂寥感に、約束された関係などないけれど、それでもやっていこうという意思を感じた。
残念なのは、私にアメリカの土地勘がないため、次々地名が現れても、どういう町なのか、どのくらい移動してるのか、さっぱり分からなかったこと。もっともあまり「ロードムービー」感はない。ドライブインに寄るなどの「道中」がなく「点々」、さらに風景より人間ばかりが撮られてるからかな。
ヴェローナの妹は、バートが席を外した際「彼はセクシーね、あなたは幸せ者よ」と姉に言う。「ステーキハウスが好き」な男の愚痴をこぼす彼女の心中が察せられる。
このシーンでは、電話中のバートの長い脛が目立っていた。オープニングも彼の「水かきのような」足…からつながる脛だった。私は男の人の膝下が好きなので、いいなと思った。
音楽で印象的だったのは、元上司の夫婦とドッグレース観戦の後で入った休憩処でかすかに流れる「Night Birds」。実際ああいう場所なら、久々に耳にすることができるんだろうか(笑)
最後に余談。「娘のことを考え同じ飛行機には乗らない」という夫婦がいる。でも例えば私と同居人の場合、子どももなく「意義」ある何かをしてるわけでもなく、ただ一緒にいることが目的だから、そういうのって意味がない。地震の後、そんなことを思ったんだけど、この映画を観て、そのことについてまた考えさせられた。人間関係も自身も変わる可能性は大だけど、今のところ、私は「一緒にいること」以外が目的の人間関係って築けないだろうな、というか拒否していくんだろうなと思う。そういう暮らしには辛い面もあるけど、自分がそうしたいなら仕方ない。それは諦めじゃない。
(11/04/01・ヒューマントラストシネマ渋谷)
カズオ・イシグロによる原作は未読。イギリスの田舎に佇む「特別な」寄宿舎で育った3人(成長後…キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ)の青春を描く。
冒頭の字幕からパラレルワールドの物語だと受け取り、青春ものとして観たけど、いまいち入り込めない部分もあった。「私たちと、私たちが助ける人たちと何が違うのか/誰もが『終了』するのに、生きる意味を知らないままで…」というラストのナレーションに、彼らに「生きる意味」について語ったルーシー先生が要なのかなと思ったけど(だってサリー・ホーキンスだし!)、腑に落ちない。
何度か出てくる全校集会のシーンにおいて、横一列に並んだ教員たち(なぜか皆、中年女性)。子どもたちの「運命」を知りながら、どういうスタンスで接しているんだろう?とある「世界」におけるミクロな物語と分かっていても、(一部の)舞台が学校じゃあ、どうしても、そこで行われている「教育」が気になってしまう。もっとこまかな描写があるだろう原作を読んでみたくなった。
子どもたちに与えられる「俗」っぽいものは、外の世界で「ごみ」となったものだけ。テレビや雑誌もないようだけど、トミーに対し、キャシーは感謝の意を示す頬へのキスを、後にルースは性的なキスをする。ああいうの、どこで覚えるんだろう?
とはいえ主役三人…私はキーラの顔はあまり得意じゃないから、キャリーとアンドリューを見てるだけで楽しい。オープニング、もさっとしたコートを着た後姿のシルエットに、ああキャリーだなと思う。二人ともああいう、どうでもいい感じの服が似合う。とくに寄宿舎にいるときのキャリーの格好は、ありあわせ感もありつつ可愛い。
キーラは髪型のせいかアゴばかりが目立ち斉藤洋介みたいだった。彼女のセックスは、「ポルノ雑誌見てるってことは欲求不満なのね」などととんちんかんなことを言う人らしい感じ(笑)でもキーラの魅力もあり、憎めないキャラクターになっていた。
話は変わって、先日初めて「エンド・オブ・ザ・ワールド」を観た。
「渚にて」(小説)の再映画化(TVムービー)。59年の映画「渚にて」に比べあらゆる要素が「現代」化されているのは当然ながら、全ての場面が説明過多、死体や暴動をはじめ様々な描写が付け加えられ、3時間以上の長尺。でも面白かった。
「わたしを離さないで」を観ながら、状況は全然違うけど、どちらも未来を断たれた者の話だなあと思った。未来があるからこそ色んなことに意味があると思うけど、それでも、そういう時でも人間って「人間らしい」ことをするのかもしれないなあと。
(11/03/30・TOHOシネマズシャンテ)
「兄さんはぼくのヒーローだよ」
「昔はな、昔は…(I was, I was...)」
実在するプロボクサー、ミッキー・ウォードをモデルにした作品。私の二大・特別な人の共演なので楽しみにしてた。ラスト、ミッキー役マークの試合シーンに胸が熱くなった。
マサチューセッツ州ローウェルに暮らすプロボクサーの兄弟。兄ディッキー(クリスチャン・ベール)はかつての名選手だが今は薬物に溺れている。弟ミッキー(マーク・ウォルバーグ)は、兄や母アリス(メリッサ・レオ)の言うままに試合を重ねるも芽が出ない。しかしバーで働くシャーリーン(エイミー・アダムス)と出会い、父の後押しもあり自らの今後を考え直すようになる。
オープニング、かつて街のヒーローだったディッキーが「カメラ」に向かって喋っている。この「ドキュメンタリー番組」は後に憎いほど活かされる。「カメラ」はくたびれたローウェルの街に出て、兄弟と街を映し出す。「街」映画でもあったのだ。話はその後、兄弟とそのファミリーの問題を追い始める。ボクシング映画って感じじゃないなあと思ってたところが、終盤一気にくる。ボクシングの場面が現れるに至って、それまでの、ボクシングじゃないシーンも「fight」だったんだと分かる。世界戦の相手の方には、どういう家族がいるだろう?なんて思ってしまった。
クリスチャンは、私、この人のどこが好きだったんだろう?と思わせられるほど、冴えないクズ男を熱演。でもちょっと違和感を覚えてしまった。溜り場で仲間と「爛れた」時間を過ごす様子や、母親が来ると二階の裏窓から飛び降りるが毎度見つかってしまう…というギャグ?など、生来のお坊ちゃんぽい感じと合ってない。真面目な警官が「潜入捜査」してるみたい。マークも同様で、彼らのケツの重い雰囲気が、醸し出そうとしてる「軽い感じ」の邪魔になってる。私は二人のそういうとこ、好きなんだけど。
(ちなみにクリスチャンのボクシングガウン姿には、「悪魔のようなあいつ」で赤ちゃん背負ってる細川俊之を思い出してしまった・笑)
試合を終え、リムジンで帰る場面。一杯飲んで上機嫌の母は、外に出て行こうとする息子に対し当たり前のように「家族が一緒じゃなきゃ意味ないじゃない」と言う。
「母&兄」と「父&恋人」の板挟みになったミッキーが「皆大事なんだよ〜皆でやりたいんだよ〜」と訴える場面。「自分のことを思っている人が、自分のよい助けになるわけではない」ということをしみじみ思わされる。マークの抑えた演技がいい。
ディッキーが「弟のために」シャーリーンの家を訪ねる場面。クリスチャンの罵倒を受けるエイミーの顔つきが印象的。
ミッキーが負け戦以来久々に「いつもの店」に顔を出す場面。ベタなシーンだけどじんとしてしまった。
ウォード家の7人娘の格好がいい。霜降りのスパッツとか履いちゃって。
シャーリーンのことを、彼女たち、あるいは後に家を訪ねて来たディッキーは「MTV girl」と蔑む。ニュアンスが分からないけど字幕では「尻軽女」ぽい表記。女同士でそんなことが悪口になるなんて、好き勝手やってるようで、全然「自由」じゃないなと思った。
(11/03/28・新宿ピカデリー)
映画としてはそう面白くないけど、出演してる落語家さんたちを見るのが楽しかった。皆いい演技。一番嬉しかったのは喬太郎の見事な啖呵(でも役には合ってない・笑)。その後しばらく、映画の内容より、久々に彼の高座観たいなあということに思いを馳せていた(笑)
ピエール瀧演じる師匠に惚れて弟子入りした青年を中心に、おかみさん(田畑智子)、前座仲間や厳しい師匠、テレビで人気のアイドル噺家など、現代の落語人たちの姿が描かれる。
落語家が監督だからか、登場人物のセリフ全てに「こういうこと感じてる落語家さん、いるんだろうなあ」と思わせられる。でも「羅列」っぽいというか、監督のエッセイ読んでるみたい。セリフを生み出す「お話」が大事なのに。
私が落語は笑えりゃいいと思ってるからかもしれないけど、描写が辛気臭くもったいぶってるのも辛い。病室のシーンなんて耐え難く、それこそ落語会でやたら長い人情ものに遭遇したような気分。最後の主人公の高座のくだりは楽しくて良かったな。
寄り合いにて「女の古典(落語)はどうもね〜」などと話してる師匠たちが、朝丸(三遊亭小円歌)に気付いて「いや、師匠は美人で華があるから」とか何とか言う。「女の古典」についてどう思うかなんて人それぞれ、その後の対処が最悪なわけだけど、そういうとこも含めて、女噺家へのセクハラについては、ぎりぎり、そういうことがありますよ、という姿勢として受け取れる。対して「落語娘」なんて、セクハラ自体をほのぼのギャグとして扱ってるから、嫌なこと思い出して吐き気がしたものだ。
アイドル的な女噺家が「下着をたくさん干した部屋でコンビニ弁当を食べ、道ならぬ恋をする」ってのはあまりにあまりな描写。でも、そもそも落語ってそういうものなんだろうな。型でもって描くというか。
田畑智子の体調が悪くなると、外で犬が吠える。私が昔飼ってたのにそっくりでめちゃ可愛い犬なんだけど、最後のシーンで飼い主のピエール瀧に全然なついてないのにちょっとがっかり(笑)
(11/03/27・東劇)
「俺って同じ話ばかりしてるか?(あいつにそう言われた)」
「そう?気付かなかったわ」
「気付けよ!これからはそういうの、気にしろよ」
76年エレイン・メイ監督、日本ではビデオのみリリースされてた作品がニュープリントで劇場初公開とのことで、ユーロスペースにて観賞。
組織に追われるニッキー(ジョン・カサヴェテス)が幼馴染マイキー(ピーター・フォーク)に助けを求める…とあらすじ書くのも馬鹿馬鹿しい、カサヴェテス&フォークの腐れ(縁)オヤジ二人組が延々とドタバタを繰り広げる話。「押問答」がテーマのスケッチが幾度も繰り返されるとでもいえばいいかな。カフェのカウンターを飛び越えるフォークに親友を蹴ろうとしてずっこけるカサヴェテス、二人のアクションも楽しい。
始めフォークが、その後はカサヴェテスが、入れてくれとドアを叩く場面が繰り返される。女たちは抵抗しながらも彼を入れたい、入れてしまう。しかし最後のドアだけは開かなかった。
私はめそめそした女しか出てこない映画は嫌いだから、この映画も、面白いけど好きじゃない。もっと明るく!やることやって追い出せよ!と幾度も苛つかさせられた(笑)
真夜中少し前から、早朝までの物語。ネオンは最小限で町は暗いのに、お店も人も宵っ張りで、これからの日本もこうすりゃいいのにと思った(笑)12時過ぎてもバスは動いてるし、汚い飲み屋じゃ老カップルが談笑、オールナイトの劇場にもそこそこ客が入ってる。ボスは仲間とチーズをつまみながらカードの最中。ごく普通の朝の光とともに迎えるラストシーンがいい。
登場時からしょぼい殺し屋を演じるネッド・ビーティもいい。エンドクレジットでは二人と並び、メインキャスト3人という扱い。「ホテル代ひいたら儲けなんてゼロ」「3つの仕事のうち、簡単そうだから選んだ」「俺にも標識くらい見える!」などぶつぶつ言いながらハンドルを握る。
…なんて書きながら、この人何に出てたっけ?と検索したら、デビューはジョン・ブアマンの「脱出」(面白い!)の、早く風呂に入れてやりたくなるキャラナンバーワン、あの白でぶかあ。来月公開の「キラー・インサイド・ミー」にも出演してるらしいから、楽しみ。
(11/03/25・ユーロスペース)
「お前たちは神々だが、人間として死ぬだろう」
実話を元に制作。アルジェリアの山間に暮らす、8人のフランス人修道士。96年、内戦の激化によりその身は危ういものとなる。残るべきか否か、彼らは思い悩む。
とても面白かった。冒頭の文章は、映画の始めに示される旧約聖書の詩篇の文句。まさにその通りの物語が、美しく描き出されていた。具体的な何らかの宗教についての話という感じではない。人は神を内包しているかもしれないが、死を感じた時には、それぞれの思いを抱き、それぞれの行動に出る。それが「人間」なのだ。
前半は、修道士たちの日常の一場面が丁寧に積み重ねられていく。祈りや労働に加え、医療行為などの奉仕活動を行い、村に溶け込んでいる。修道院での食事や後片付け、各々の質素な部屋の様子なども楽しく、この時期ちょっとした「節電キャンペーン映画」のよう(笑)はちみつの瓶のラベルが可愛い。
彼らを頼って修道院を訪れるのは女性ばかり、「あなた方は枝、私たちはそれにとまる鳥」と言われるほど信頼されている。男たちとは交流がないわけではなく、修道院長のクリスチャン(ランベール・ウィルソン)は自らコーランを学び、地元のイスラム教徒の会合にも出席している。この場面では、別室に「女たち」だけが集っている様子も映されるが、字幕はない。雄弁な表情から「お喋り」であることが分かる。
彼らが住まう修道院は、終盤になって初めてその全体像を現す。爆音と共に下りてくるヘリコプターとの対比は、陳腐な例えだけど、捕食者とその獲物のようだ。
主役であるランベール・ウィルソンの美しいこと!武装集団に対峙する時の青年のような瞳の輝き、「最後の晩餐」での心底からの笑顔、その後の表情の変化。羊を追って笑ったり、水辺で頭を垂れて祈ったり、小さな書き物机で万年筆を走らせたり、全ての場面が素晴らしい。もっとも修道士の格好が、白シャツに黒いセーター肩掛けしてるように見えちゃうこともあったけど(笑・そういう役柄のイメージが強いもんだから)
彼の思索や文章の内容、また修道士たちがテーブルを囲み、自分たちの今後について議論を交わす場面など、いかにもフランスらしいなと思った。
作中「フランスの女性記者が取材を申し込んできたが、どうしたものか」「記者は『希望』になんて興味ないさ」というやりとりがあったけど、実際何らかの取材ってあったのかな?
ちなみにシネスイッチにて観賞時、上映事故により、冒頭、修道士の一人が薬を探す場面まで音が出ず。タイトルあたりでおかしいな、伝えに行こうかなと気が散ったため、ランベールの初登場シーン(と思われる)を見逃してしまった。残念。
「私たちの使命は共に生きること
死からは、ぎりぎりまでそれを避ける努力をするのだ」
(11/03/22・シネスイッチ銀座)
まさに「映画のための映画」、余計な心など全くこもってないところがいい。映像も素晴らしい。もっともコーエン兄弟なら、先月観た「シリアスマン」の方が全然好みだけども。
壮大な西部の風景が、どこか作り物めいて感じられた。ジェフ・ブリッジス&マット・デイモンがその空気にぴったり合っている。
冒頭、まるで落語の「壷算」を思わせる、14歳のマティ(ヘイリー・スタインフェルド)と商人とのやりとり。彼女が出向いた裁判所での、保安官コグバーン(ジェフ・ブリッジス)と弁護士とのやりとり。どちらもうんざりするほど長い。旅に出れば出たで、コグバーンは喋りに喋る。ジェフの声がいい。その代わり?ラビーフ(マット・デイモン)はあまり口をきかず、のそっと現れたり消えたりする。
とても見栄えのする、高く吊られた死体目指して木登りするシーンや、雪の中で「熊」に遭遇するシーンなどの「いかにもコーエン兄弟」な見せ場は、真面目にやってきたからこのへんで…という感じがして可笑しい。
原作となった同名小説は未読だけど、69年のジョン・ウェイン主演版「勇気ある追跡」は観た。
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「映画的」に時間を扱っている今作に比べ、前作は「ここからここまで」を切り取っただけの牧歌的な作り。この物語については、私は前作の方がずっと好き。そちらでのマティは、自分を大人だと思っているが、女だとは思っていない、幸せな時期にある。本当に子どもなのだ。色々「調べて」自分の強みにするところも印象的。
今作の方が良かった点も幾つかある。私は映画における「荷物好き」…その荷物が間に合わせであればあるほどわくわくするので、前作には無かった「馬用のりんごを袋に詰める」場面なんて嬉しい。マティが何かというと口にする「弁護士」が、セリフ内の登場だけで、しっかりコーエン兄弟印のギャグになってるのも面白かった。
(11/03/20・新宿武蔵野館)
原作「ラプンツェル」は、子どもの頃、青地に金の線で絵が描かれた重たい本で読んだ。ディズニー映画版は「塔のてっぺんから出たことのない、髪の長い少女」というロマンチックなモチーフを使い、現代的な、楽しい物語に仕上がっている。
少々不満もある。原作では魔女は約束を破った夫婦の娘をさらう。映画ではそうした経緯はなく、ラプンツェルの「私は約束を破らないわ!」というセリフが妙に強調されているのに対し、魔女の方はほんとにただの「悪役」(考えたら「魔女」ですらない)。冒頭、魔女がラプンツェルの髪をつたって塔に上る場面に、スリル満点!といった感じのBGMが流れるので、「悪役」も魅力的に描かれるのかと思ったら、その後の魔女の歌&踊りも、そのキャラクターもいまいちなので拍子抜けしてしまった。
彼女が不老を願う理由もよく分からない(鏡に向かって言うセリフなどから、望みは「不死」ではなく若さと美だと分かる)。悪者二人組を誘惑して従わせるなど、「世の中ってそういう嫌なものだよなあ」という場面があれば、むしろ納得できるんだけど(笑)女が若さや美を望むのは資本主義と男性主義のせい…というのを通り越して、現代とは、ただ単にそれらを求める、いわゆる「美魔女」時代ってことなのか(笑)それなら余計、「リアル」なだけじゃない、強烈な魅力が欲しかった。
子どもの頃の私が好きだったのは、魔女が切り落としたラプンツェルの髪をつたって上ってきた王子が、塔から落ちて失明してしまうところ。うまく言えないけど、「悪意を持った表面的な美」に騙され、体に「障害」を負う…という所に何とも言えないエロスを感じた。映画でも一瞬、それを思わせるシーンがあるのでどきどきしたけど、全然違う展開になる。まあ現代じゃ、「失明を治す」という展開だと「盲目は『悪(治すべきもの)』なのか」ってことになるからダメなのかなあ。
「トゥルー・グリット」と「塔の上のラプンツェル」は、「馬にはりんご」つながり。
(11/03/16・TOHOシネマズ六本木ヒルズ)
史実を元に、ヨーク公アルバート王子(コリン・ファース)が、オーストラリア出身の言語療法士ライオネル(ジェフリー・ラッシュ)と共に吃音症に立ち向かい、「国王ジョージ6世」となってゆく姿を描く。
「私は王だが、組閣も課税も宣戦布告もできない」とセリフにあるように、作中では、国王があくまでも「役者」であることが強調されている(一方、長年役者を目指しているライオネルが「王の役」のオーディションに落ちてしまうのが面白い)。「役者」なのだから、効果さえあげれば、ライオネルが言うように「友達に…私だけに語りかけるように」喋ればいいのだし、映画として、ベートーヴェンの交響曲がBGMに流れたっていいのだ。
国王の周囲には、何か考えてるに決まってるティモシー・スポールによるチャーチル達がうろうろしているが、そのことには何の含みも感じられない。「正しい政治」の存在は大前提なのだ。
戴冠式のリハーサルにおいて、アルバートはライオネルに対し「Because I have a voice!」と言い、一人の人間として声をあげることに目覚める。しかしそのことにより、「役者」としてのセリフと「自分の声」との間に亀裂が生じるわけではない。何だか不思議な感じもしたけど、この映画における「speech」とはそういうものなのだ、と思った。
ライオネルいわく「生まれつき、どもる人間はいない」。彼はアルバートに向き合い、彼が吃音症となった原因を解き明かしていくが、ドラマチックな告白場面が設けられているわけではない。そのあたりに前向きな印象を受ける。
役者は皆、顔のアップが印象的。「酸いも甘いも」という感じのジェフリー・ラッシュをはじめ、アルバートの妻であるエリザベス1世を演じたヘレナ・ボナム・カーター、ライオネルの妻を演じた、ヘレン・ミレンを若くしたような女優さん、皆とても良かった。
美術や調度品も素晴らしい。「クイーン」同様、王室の生活を垣間見られるのが楽しい。「レコード」を初めて聴いてみるシーンでの、下ろした髪に寝巻きとガウン姿のコリンがかっこよすぎる。隣室から現れるヘレナの(首から下の)様子もいい。
ジョージ5世が崩御するくだりでは、あのくらいのことが(弟にとっては)「失態」になるのかとしみじみ思った。そもそも私には、映画におけるエドワード8世(ガイ・ピアース)がそれほど嫌な人間には思われず。まあ、彼の「私生活」の影響をもろに受ける当時の英国民だったら違うのかもしれないけど。
王の演説をラジオで放送するのに何人もが持ち場に付いてる様子や、大きなラジオマイク、ライオネルが使う「最新式の録音機器」など、当時のメディアのあれこれも面白かった。
(11/03/13・新宿武蔵野館)
1975年。ダコタ・ファニングは双子の妹が男といちゃつくのにうんざり。クリステン・スチュワートは貯めた小銭で「男物」の革ジャンを手に入れる。彼女が舗道を駆け抜ける足元に「The Runaways」のタイトル、大音量で流れる「Wild One」…というオープニング。現状に少々苛立つこの二人、シェリー・カーリーとジョーン・ジェットを主役に、「元祖ガールズバンド」の誕生から終焉までが描かれる。
原作はシェリーの自伝。私はランナウェイズを「ジョーン・ジェットがいたバンド」としてしか知らないから、こんな経緯だったのか〜と思いながら観た。ロック一筋のジョーンに対し、シェリーが好きなのはボウイと自己表現であり「ロック」にこだわりはない。
クリステンの、ジョーンとそっくりなこと!歌もギターも上手いし、普段ほとんどお目にかかれない笑顔も見せてくれる(笑)ダコタについては元々いいと思ったことがないせいか、いまいちぴんとこず。ただし日本公演の場面は、撮り方もあって輝いて見えた。
映画は路上に滴る鮮血で始まる。「初潮を迎えた」シェリーは、「トイレットペーパーを股に挟んで、妹から借りたパンツでおさえる」。「女」であれば否応なしに降りかかってくる出来事に、とりあえずの対処をする(しかし、そんなんじゃ対処しきれないものだ)。またこのシーンから、彼女が「母親にあまり目をかけられていない」ことが推測される。
作中では主にシェリーとジョーンによる、「人目をはばからない」オナニーやセックス、おしっこなどの行為の描写が挟み込まれる。70年代を意識してるような撮り方や演じ手二人のため、小奇麗な雰囲気。
シェリーが「下着姿」で歌うことを決めたのが日本公演の最中だとは知らなかった。ジョーンの「なぜそんなカッコで?」という問いに笑って「(以前言われたことを踏まえて)ちんこで考えた」。映画の宣伝文句には「たった16歳でロック界に殴り込み」とあるけど、そんな歳だから出来たんじゃないかと思う。
プロデューサーのキム・フォーリー(マイケル・シャノン)がトレイラーにメンバーを集めて練習させるシーンが面白い。「男たちは女装して咥え合ってる、だから女の方は牙を向くんだ!」「男が女に許す居場所は台所か膝の上、ステージなんてとんでもない!」「客は女の子が頑張ってる姿なんて見たくない!」などと事実をつきつけてるんだかうさんくさいんだか、「フルメタル・ジャケット」的叱咤が続く。それにしても「女のリビドーの叫び」なんて、今聞くと間抜けな言い様だ。
近所の子ども?を使って「野次を飛ばす客に対応する練習」をしたり、ライブツアー中、クリステンがやなやつのギターにおしっこしたりするシーンが楽しい。私としてはこういうのばかりならいいんだけど、全体的に辛気臭いんだよなあ。この二人が主役なんだから仕方ないか。
(11/03/12・ヒューマントラストシネマ渋谷)
最高に面白かった!予告編から「女が学問するのは大変」という辛気臭い話かと思ってたけど、そうじゃなく、つくづく観てよかった。
4世紀末のエジプト・アレクサンドリアでは、貧民層の救済を訴えるキリスト教が勢力を広げていた。科学者達は古代の神を侮辱するキリスト教徒に報復するが、返り討ちに遭った上、ローマ皇帝の命によりアレクサンドリア図書館を放棄せねばならなくなる。
観賞後、いや途中から、始めに戻って見返したくなる。冒頭、壇に立って、時には腰掛けて話をする学者ヒュパティア(レイチェル・ワイズ)、傍に控える奴隷ダオス(マックス・ミンゲラ)、意見を戦わせる弟子のオレステス(オスカー・アイザック)とシュネシオス(ルパート・エヴァンス)、彼らがその後、あんなふうに道を分かつなんて。
ヒュパティアは、自分を慕うオレステスに対しとある「ハンカチ」を渡し、「(あなたは私の中に調和があると言うけれど)私の中には美も調和もない」と言う。その感覚はよく分かる。何らかの状態、誰かからの対象として静止するのは嫌なものだ。彼女は自ら「美」を求めて動き続ける。
天文学に生きるヒュパティアにとって、「美」とは当時の完全形であった「円」のこと。太陽の動きについて「中心がないと寂しいわね」「円は完全なのに何故そうでないものと共存するのかしら」などと言う。終盤ついに、ヒュパティアはその呪縛から逃れ、「美」には違う形も有り得ると気付くのだが、違う「呪縛」が彼女を飲み込んでしまう。
映画は頑なに「美」(=完全、真理)を追う彼女を中心に、そうしたものからはほど遠い、「人間らしい」者たちのあれこれを描く。要所に「宇宙から見た地球」の映像が挟み込まれているのが、ベタながら面白い。寄ってみなければ、当時も今も、見た目は変わりゃしないのだ。
物語はヒュパティアだけでなく、彼女に仕える奴隷ダオスの目線でも描かれる。彼が登場する場面は、全て見所だ。「先生」が他の男に取られないよう「天」(=神)に早口で祈る夜、その足にそっと触れる夜、覚悟を決めて忍ぶ夜。高揚の中で「キリスト教徒」になる瞬間。修道兵士になり、宇宙談義をする仲間に「お前なら分かるだろ?」と問われて返す言葉。そしてヒュパティアとの最後のひと時。どれもしびれさせられた。
映画では、これが事実ならば、キリスト教がダオスのような奴隷・下層民を取り込んで勢力拡大する様子がよく描かれている。ヒュパティアは冒頭の講義において「私たちは皆兄弟、争いは奴隷と下層民のものよ」と当たり前のように言う。奴隷制の上で恵まれた環境に生まれ、学問を楽しめるなんて、今の目で見れば呑気なものだ。そういう主人公に、レイチェル・ワイズの明るく賢い雰囲気が合っている。
セットやその使い方、撮り方もとても良かった。図書館を防御する際、扉に杭?を立て掛け、下に三角形の木片を差し込む、ああいう描写がたまらなく好き(笑)
(11/03/09・新宿ピカデリー)
タイのとある森。農園を営むブンミは、死期が近いことを感じ、亡き妻の妹ジェンを呼び寄せる。やがて彼らの前に、妻の幽霊や、数年前に行方不明になった息子が現れる。
映像には魅力があった。映画って不思議なもので、それじゃなきゃダメって場合がある。脚の悪いジェンが盆を手に地下室への階段を下りるシーンの美しいこと。なぜだか分からない。
多くのシーンにおいて「手順」をうるさいほど長々と捉えており、そういうのを見るのが好きな私にとって、ブンミの透析を行う使用人や妻の手際なども面白かった。
しかし、全体的にはいまいちぴんとこなかった。好みの問題かな。テラスのテーブルで食事中、妻の幽霊と、姿の変わった息子がそれぞれ違う登場の仕方をして、空いた椅子に座っていく展開なんて面白いけど。
ブンミは「人間でも動物でもなく、男でも女でもない」存在について語る。死んだ後も生きた者に会いに来る者もいれば、そうしない者もいる。森の中ではボーダーが消え、混沌がある。「死期が近いことを察して精霊や動物が集まってくる」というのは、生と死のどちらでもある存在の「匂い」を嗅ぎつけてやってくるってことなんだろうか?それならば、そうでない人間は何なのか?またそうした(ボーダーレスな)場で「美醜」の感覚があるというのもよく分からない。
私の知識不足を差し引いても、仏教や輪廻転生へのこだわりはさほど感じられなかったけど、ジェンの甥のトンがとあるものを見るラストシーンには、「映画」表現への強いこだわり、メッセージを感じた。
伝統職?にある男性の肉体がやたら強調されている(ように見える)。「しし」って感じの肉付きで美しい。
(11/03/08・シネマライズ)
ケイン様の魅力爆発の一作。老人ハリー・ブラウン(原題「Harry Brown」)が、不良どもに制裁を下す。
ドラッグ売買や銃の発砲、盗難事件などが多発する地区。団地に一人住まいのハリー(マイケル・ケイン)の日課は、意識のない妻の見舞いと、唯一の友人とのチェス。しかし近所にたむろする不良たちのせいで妻の死に目に立ち会えず、友人も命を落とす。
ジャケやタイトルから想像されるようなスーパー爺さんものではない。暴力に満ちた非情な世界において、一人の老人がその頭脳と肉体を使って「処刑」を行う、極めて「現実的」な物語。ストーリーはしっとり進むが、要所ではアクションもサスペンスも味わえる。
ハリーは元海兵隊員。訪ねてきた警部補(エミリー・モーティマー)とのやりとりに、頭の良さが分かる。銃の知識も、度胸も冷静さもある。しかし足取りはもたつき、少し動くと息があがる。そんな条件での戦いだ。
紅茶とマーマイトで始まるハリーの一日。様々なものを目にし、思い悩むケイン様の表情がたっぷり楽しめる。お墓にキスするシーンなんかもいい。
妻との馴れ初めを語るセリフに若かりし頃の姿が、海兵隊との言葉を聞けば、軍服着てたあの映画この映画が思い浮かぶ。それだけでも楽しい。歴史を湛えた横顔のあごのたるみは、まるで鍾乳洞みたいだなと思った。
(11/03/07)
「ジョンキューが80年代に」という情報だけで楽しみにしてた作品。監督は「ハイ・フェディリティ」でジョンと脚本を書いたスティーヴ・ピンク。
昔からの親友だが今では疎遠な中年男三人が、うち一人(ジョン・キューザック)の甥も連れ、気晴らしに思い出のスキーリゾートへ。しかし若かりし頃の天国は廃墟寸前だった。ジャグジーで飲み明かした4人は、86年にタイムスリップしてしまう。原題「Hot Tub Time Machine」。
作中でも言及される…というか下敷きになってる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などと比べたらそりゃあゆるいけど、必要なことは全部入ってる。ジョン・キューザックものだけあって、今の「バディもの」と違い登場人物が極めて「普通」なのが好み。何より「親友」の話を聴くジョンの目、めでたしめでたしの席で笑うジョンの目を見るだけで嬉しくなる。
何だかよく分からないチェビー・チェイスの他、BTTFのパパことクリスピン・グローバーが重要な役どころで登場。彼が片腕を無くすのを皆が待ち望むという展開がいい。思わず救っちゃたりとか、そういうの無い。
作中のジョンいわく、80年代は「エイズとレーガンの時代」。恋人と別れてしまった当時を振り返って最悪と言うけれど、今だってぱっとしない。いつも「前向きじゃない」から。
あんなにイイ女だと思ってた恋人がポイズンのライブに馬鹿騒ぎする姿には、疲労を覚える。あの時代をバカにしてるふうではなく、ただ自分はあれから時を過ごしてしまったんだ、という感じ。ここからの展開は少々「あの頃ペニーレインと」ぽい。
鏡や他人の目には若い頃の姿が映るけど、仲間内(自分の実感)ではそのままというのが、例え過去にタイムスリップしても内面まで昔に戻るわけじゃない、というのを表すのにいいやり方だなと思った。大島弓子ものみたい。
男のキャラクターが数人いれば、一人は「お前はゲイか?」「男らしくしろ」などと「啓蒙」してくるやつがいるものだ。でも彼なりの「マナー」(「しぼんでてもフルでも失礼だから…」)も可笑しく、全然不快じゃない。
女性も皆可愛い。ジョンの恋人が彼に飛びついたりキスしたりする仕草なんて、いかにも「あなたと一緒でハッピー」という感じでいい。
80年代ネタはベタベタなのが満載。「Home sweet home」が大フューチャーされる他、テンション高いシーンで流れるのは「Kickstart my heart」(でもオチはいかにもジョンキューもの・笑)。当時小学生で、少し後にモトリー聴いてた私としては、86年のああいう様子って「憧れたけどつかめなかったもの」みたいなもんだから、どのシーンにも混ざって騒ぎたくなった(笑)
(11/03/03)
前2作も劇場で観たので、3作目も出掛けてみた。
私にとって他のこうしたファンタジー同様、ナルニアも冒頭の「異世界へ行くまで」が一番楽しみ。今回は戦時中で前回のような制服の眼福はなし。「子どもでなくなった」長男長女は物語を去り、次男エドは年をごまかしての入隊に失敗、姉のキスシーンに「大人になれば分かるの?」と言っていた妹のルーシーは、すてきな男の子を意識して髪をなでつける。
主に海上が舞台のため、風によって髪が乱れてカスピアン王子ことベン・ハーパーのかっこよさも3割増し。でもよく見るとすごい美形ってわけじゃない。そのことに、よりによってラストの「ぼくは王だ!」のキメの大アップで気付いてしまった。
初登場のウィル・ポールターは、「リトル・ランボー」に比べたら全然!輝いてないけど、イイ顔だし、最後にやっぱり涙を流すんだった。
ローワン・アトキンソンにしか見えないエドはさておき、今回はルーシーが姉の美貌に対し劣等感を抱いていることが判明する。結局「自分自身でいることが大切」という所に落ち着くんだけど、(原作者の)ルイスって「女は外見にかまけがち」みたいなことを指摘するけど、そんなこと言ったって、社会の方にも要因があるんだからさあ、と思う。
クライマックスの海上戦「やつらは相手が恐れるものになる」→エドの「ごめんなさい!(ぼく想像しちゃった!)」のくだり、性的じゃなくてもああいう妄想って恥ずかしいものだ。よりによってあんなやつだし(笑)
(11/03/02・新宿ミラノ3)
本作の上映に関する「監督主義プロジェクト」の謳い文句「アカデミー賞受賞監督たちが本当に撮りたかった映画はこれだ!」の意味はよく分からないけど、コーエン兄弟が撮りたい映画ってこういうのかあと思った。徹頭徹尾「ユダヤ」にまつわる内容なので伝わってない部分も多いんだろうけど、面白く観た。映画としてのセンスは、そういうのが分からなくても楽しめる。
トルストイの劇の一幕みたいなへんてこな小話が終わると、ジェファーソン・エアプレイン「Somebody to Love」に合わせてキャストの名前が次々に飛び出してくるオープニングが気持ちいい。同曲で閉められるラストにも、これまでの作品にない快感を覚えた。とにかくきっちりしてるところが好み。
無防備な中腰で登場する主人公…おそらく「呪われた」ユダヤ系の中年男性が、「一難去らずにまた一難」状態に首まで漬かっていく様子が描かれる。
冒頭アップになるのは、主人公の息子(と後で分かる)が授業中に聴いているラジオから伸びたイヤホン。コードがやたらくねっている。これは教師に取り上げられ、ラストまで彼の手を離れる。自宅では「厄介者」の叔父さんが「吸い込み器」を常用しており(こんなの本当にあったのかな?)、このコードも相当くねっているのが印象的だ。
主人公が屋根に上ってアンテナを直す場面では、ラジオのチューニングなんかもそうだけど、手探りでぴんとくるものを突き止める感覚、最近忘れてたなあと思った。
中盤ふと、主人公以外の視点でこの世界に触れてみようとしたものの、うまくいかない。そんな所へ「第一のラビ」が「車を初めて見たつもりになるんだ!」「人生は駐車場だ!」などと「視点の転換」を持ち出すもんだから、見透かされたようで驚き楽しかった。
(11/03/01・ヒューマントラストシネマ渋谷)