表紙映画メモ>2010.11.12

映画メモ 2010年11・12月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

エリックを探して / きみがくれた未来 / キック・アス / 君を想って海をゆく / トロン:レガシー / クリスマス・ストーリー / ロビン・フッド / アメリア 永遠の翼 / キス&キル / ゲゲゲの女房 / Space Battle Ship ヤマト / Ricky リッキー / 黒く濁る村 / ハリー・ポッターと死の秘宝 Part1 / 442 日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍 / 義兄弟 / ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人 / エクリプス トワイライト・サーガ / リトル・ランボーズ / クロッシング / 100歳の少年と12通の手紙

エリックを探して (2009/イギリス-フランス-イタリア/監督ケン・ローチ)

「一番美しい思い出が時に一番辛い、それが人生だ」

予告編見かけるたびにケン・ローチぽくないと思ってたけど、観てみたらやっぱりそうだった。こんなにハッピーなコメディを撮るなんて、何だか感慨深い。
ふとカウリスマキの言葉を思い出した。「映画監督は何かを目指して、同じような作品を幾つも幾つも作る」(手元に本がないのでうろ覚え)。でも、そういう時期もあれば、そうじゃない時期もあるんだろう。実際アキの映画も色々変わったし。

勿論、一見してケン・ローチぽい所もたくさんある。終盤、主人公の家の台所での「実は…」「たまには思い切って頼ってみてもいいのよ」「いや、やっぱりやめとく」という会話、何気ない場面なんだけど、すれ違いの怖さというか、大げさだけど凄みのようなものを感じた。実際その後、作中随一のショッキングなシーンが訪れるんだけど。

主人公のエリックには「仲間」が大勢いる。見たことのない(映画出演のない?)「イイ顔」のおっさんたちが、カメラの前にうじゃうじゃ現れる。
サッカー好きな彼らが試合を観るのは、近所のバー。「サッカー場には高級車ばかり」「有料放送なんてくそくらえ」などの会話から、「庶民」の暮らしぶりや、彼らがポリシーを持ってスポーツに接していることが分かる。主人公の家には車が一台しかないから、肝心な時には自転車使うか借りるかしなきゃいけない。また始めのうち、息子二人は家でテレビばかり観ている。「貧乏人」にはテレビが必須、というあたり「フローズン・リバー」を思い出した。もっとも「エリック」の登場人物たちはテレビを無くすことで幸せになるが、「フローズン・リバー」ではテレビがちょっとした幸せの象徴でもある。「エリック」のほうがファンタジーってことかな。

エンディングに流れるニュース映像?がいい。作中の主人公の言葉とも掛かってるし、エリック・カントナって私は知らなかったけど、ああいうこと言う、へんなおじさんだってのが分かる(笑)

(10/12/26・Bunkamuraル・シネマ)


きみがくれた未来 (2010/アメリカ/監督バー・スティアーズ)

公開初日に観賞。夕方の回は10〜20人程度の入り。
昨年の私のベスト3に入る「セブンティーン・アゲイン」に続く、バー・スティアーズ監督&ザック・エフロン主演作。「17」にはかなわないけど、なかなか面白かった。結構凝った作りなんだけど、大仰じゃなく、さらっとしてるのが好み。

チャーリー(ザック・エフロン)はヨットで奨学金の資格を得て高校を卒業するが、車の事故に遭い、同乗していた弟サムを亡くす。それから5年、進学もヨットもやめた彼は、弟が埋葬されている墓地の管理人として働いていた。

町のおもちゃ屋の店員として、「JUNO」や「ジェニファーズ・ボディ」で印象的だったアジア系の女の子(名前調べたらヴァレリー・ティアンという女優さん)が出ていた。彼女の仲間も、ヒロインのテス(アマンダ・クルー)も、ザックを見ると髪をいじり出す。女の子をそういうふうにさせたり、テスに声掛けられて船のへりから落ちそうになったり、仕事場でガチョウ相手に大騒ぎしたり…という描写の数々が、嫌味なく「さわやか」なザックにぴったりはまっている。冒頭のヨットシーンは勿論、弟と雨の中ゲームに興じるのも、得意の体を使った場面として楽しい。そのうちパパ役としてこんなことするんだろうなあ、なんて思ってしまった。

話はいわゆる「ゴースト」もの。かつて「光を見た」(死にかけた)チャーリーは「心残りのため『こちら』に留まっている死者」が「見える」ともとれるし、全て彼の頭の中で起こった出来事と解釈することもできる。見えない誰かと話す彼を周囲は「イっちゃってる」と評すが、上記の通り「さわやか」なせいか、それなりに温かく受け入れられている。私からしても「異常」にも「気味悪く」も見えず、彼がそう言うなら、そう思うならそうなんだろう、という感じ。だってあの目を見たらね(とはいえ、いつか「異常」な人物の役をやったら面白いだろうなと思う)。
自分が散々「留まって」おきながら、事故に遭った他人に対して無邪気に「先に進まなきゃ」的なことを言ってのけるあたりも、ザックなら許せてしまう(笑)

テスがヨットの「世界記録」に「普通」に挑んでいるあたり、最近観た「アメリア」をふと思い出し、隔世の感を覚える。
また、ザックの母親としてキム・ベイジンガー、彼を救う救命士としてレイ・リオッタが出演してるんだけど、前者は艶が全くないし、後者は艶というか妙な空気がありすぎるので、救急車の中で二人きりになるシーンが怖かった(笑)

(10/12/23・新宿武蔵野館)


キック・アス (2010/アメリカ-イギリス/監督マシュー・ボーン)

クロエ・モレッツの唇!キックアスを残して向かいのビルへ飛び移った後の赤い唇が目に焼きついた。マスクにつぶされ子豚ちゃんみたいになってる目元も可愛い。

キックアス(アーロン・ジョンソン)とヒットガール(クロエ・モレッツ)はどちらも魅力的なんだけど、終盤実際に絡んでくるまで、彼のパートと彼女のパートが全然ばらばらに感じられ、気持ちが乗らなかった。大勢の「ヒーロー」が絡んだストーリーは面白いけど、雰囲気がちぐはぐなもんだから、キックアスとマフィア、あるいはヒットガールとマフィアの話のどちらかを集中して観たいと思ってしまった。

冒頭、ヒットガールがチョコレートファッジを食べながら「子犬とお人形」について言う「冗談」、本音なのかな?と一瞬思った。本当は「バタフライナイフ」が欲しいと言うんだけど、あまりそうは見えず、つまりナイフや殺戮に対する愛着が感じられず、敵地に乗り込む際の音楽がアレなんだからそういう映画なんだろうけど、もっと楽しそうにやるのが好み。ジョーン・ジェットの曲が、とってつけたように感じられた。これも好みなんだろうけど、全体的に音楽がうるさかった。

私は「男」が「頑張って恋人を得る」よりも「魅力で女を惹きつける」方が好きだから、デイヴ=キックアスが「学校一の美少女」とくっついちゃうのが楽しかった。だってアーロン・ジョンソンだから!ただあの女の子はもっと明るくしてるべきだよなあ、ゲイじゃないんだ、それならセックスしよ〜って(笑)
デイヴが「おたく」である、あるいは「おたくの友達」を持ってる必要ってあるのかな?「友達のいない」クリスとの対比かなとも思ったけど、友達二人とのつきあいの良さって、とくに表れてなかったし。それに白ぽちゃメガネとくっついてた女の子の描写が、いくらなんでも都合よすぎて不快になった(笑)

クリスが一番美味しい役だよなあと思ってたら、ラストカットが彼だったので可笑しかった。マスクで強調される、口元の肉の憎憎しさが最高。

(10/12/22・シネセゾン渋谷)


君を想って海をゆく (2009/フランス/監督フィリップ・リオレ)

とあるクライマックスで感動的な音楽が流れ、「その後」はBGMも無く淡々と話が進み、泣けてしまったところに、知らなかったタイトル(原題)がどーんと出る。作中印象的に使われてた言葉。涙が少し止まった。

フランス最北の港町カレー。17歳のクルド難民ビラル(フィラ・エヴェルディ)は、恋人が住むロンドンを目指しイラクから歩いてやってきた。密航に失敗した彼はドーバー海峡を泳いで渡ろうと決意、練習に向かったプールでコーチのシモン(ヴァンサン・ランドン)と知り合う。

仕事帰りにスーパーマーケットに寄るシモンを見掛け声をかける女性、会話から離婚調停中の妻と分かる。彼女は彼が「難民」に対し無関心なことを非難する。彼女を送って車のドアを閉める彼の手に、まだ指輪が光っている…
予告から想像してたのと違い、彼の側にもじゅうぶん重きが置かれた映画だった。ヴァンサン・ランドンのたたずまいによるところも大きい。今年日本で公開された「すべて彼女のために」もこれも、どちらもよかった。前者では自分が教員、後者では妻が教員の役(笑)彼女が携帯電話で話す後ろに、子どもの声が響いてるのがいい。二人の「ラブシーン」も、ああいうの、ありそうでいい。

シモンとビラルが海辺に車を停めて話をするシーンに、社会情勢がどうであれ、「誰か」を知ってしまったらもう後戻りできない、という感じがよく出ていた。
シモンが妻に向かって「彼は恋人のために海を渡るんだ、ぼくは目の前の君だって手放そうとしてるのに…」なんてロマンチックすぎるセリフだけど、実感として伝わってくる。

ビラルの恋人の一家は許可を得てイギリスへ渡った。恋人とその兄が、ビラルからの電話が父親にばれないようびくびくしている様子から、家長の権利が強いのが分かる。彼女の婚約を知らされたビラルも「父親の決定は絶対だ」。加えて一族で仕事を世話しあう描写に、そうした描写は珍しいものじゃないけど、「マイ・ビューティフル・ランドレット」を思い出した。少し前にフリアーズの「シェリ」観たからかな?

作中唯一ビラルの笑顔が見られるのが、久々の(もしかしたら「初めて」の)ベッドに友人と喜ぶシーン。人間ってそういうことが大事なんだと分かる。

(10/12/21・ヒューマントラストシネマ有楽町)


トロン:レガシー (2010/アメリカ/監督ジョセフ・コジンスキー)

公開初日に3D字幕版を観賞。2番目に大きいスクリーンが、夜の回で8割ほどの入り。
前作「トロン」('82)をレンタルしていながら未見だったんだけど、「オレンジ=悪者」程度の認識でじゅうぶん楽しめた。

冒頭の現実世界の「家」のシーンのしょぼいこと(美術館などで「昔の建築物をよみがえらせてみました」と見せられる映像みたい)。とはいえ主人公サム(ギャレット・ヘドランド)が、エンコム社でのどたばた、父の旧友とのあれこれを経て、ゲームセンターから「コンピュータの中」へ入りこむまでの描写が結構面白く、前作が存在するのにこんなこと言うの変だけど、80年代にジョン・バダム(←好きな監督)が撮ってたらどんなだったろう、なんて思ってしまった(笑)

舞台が「コンピュータの中」に移ると、しょぼさを感じなくなる。3D技術がどうというより、3Dで観るのが「普通」な世界と認識し「自然」に感じてしまう、と言うのが正しいかな?
パパ(ジェフ・ブリッジス)の住処のベランダ?越しの親子二人、その部屋に押し入る「悪者」たちなど、手前にでかいものを配した場面がやたら多く、無理やり奥行きを活かしている感じを受けた。それから、初めて観た3D作品「センター・オブ・ジ・アース」の時から感じてることなんだけど、どういう理屈なのか、人間が「ジオラマの中の人形」に見えてしまう時がある(この映画では、終盤3人がモノレールみたいな乗り物で出口に向かってる時)。
最後に現実世界に戻ってきてからは、疲れたので3Dメガネを外したところ、2Dで撮ってるようで、支障なく観られた。

最新コンピュータがどうとかいう話なのに、冒頭サムはオールドスクールな「泥棒」プレイをするので(でぶの警備員に屋上へ追い詰められるなど)可笑しく思っていたら、終盤でも、肝心な所は親子でアナログにキメる。パパの一撃には吹き出してしまった。その後は他人の活躍に「yes,yes」と感心してるだけかと思いきや、最後にものすごいことをやってのける(あれは何なのか?意味が分からなかった)。

ジェフ・ブリッジスのファンとしては、若返り顔が見られて嬉しかった。また、時計じかけ〜的、旧態依然としたクラブの描写はどうなのか…と思ってた所、彼が登場するカットがかっこよかったのでよしとする。
それにしても、最後の「いいもの」って犬のことじゃないのか!パパも「犬はいいなあ」って言ってたじゃん(笑)

その後、前作「トロン」のほうも観てみた。
「レガシー」では禅がどうとか言ってるジェフ・ブリッジスが、ここではただのやんちゃな青年なのが可笑しい。「コツは手首」という口癖、肝心なところでアナログな行動に出るシーンが確認できてよかった(笑)
生まれてこのかた「コンピューターゲーム」に触れたことのない私にとっては、「レガシー」よりこちらの方が新鮮に感じられ楽しかった。「平面」ぽい…「現実」からかけ離れた映像の中に「人間」がいるほうが面白い。「パワー」を表すシンプルな光の描写や、「bit」が「yes,yes」と肯定を繰り返して喜ぶ?シーンなど味わいがあった。

(10/12/17・新宿ピカデリー)


クリスマス・ストーリー (2008/フランス/監督アルノー・デプレシャン)

作中の台所に飾ってあるアドベントカレンダーのように、断片が一つずつ開かれ、形づくられてゆく、といった感じの映画。「そこにある」ものを活かした楽しいシーンや、テレビで「映画」を観ている場面が多いこともあり、コラージュっぽい感じも受けた。

アベル(ジャン・ポール・ルシヨン)とジュノン(カトリーヌ・ドヌーヴ)の夫婦は、フランスのルーべで二人暮らし。クリスマスを前に、ジュノンが白血病に罹ったことが発覚。そして長女エリザベート(アンヌ・コンシニ)、二男アンリ(マチュー・アマルリック)、三男イヴァン(メルヴィル・プポー)、そのパートナーや子どもたちがやってくる。

「家族の皆が音楽に造詣が深」いこともあり、なかなかの音楽映画でもあった。本当に色んな音楽が流れてくる。
冒頭、ドヌーヴ演じるジュノンの病気にまつわるシーンや、長女の息子のとある行為の場面で流れる音楽は、恐怖映画っぽい(バーナード・ハーマン?)。ジュノンが診療台で血を抜かれるシーンはライティング含め吸血鬼もののよう、全然違うけど「ショック療法」まで思い出してた(笑)こうした雰囲気は、未知のものに対する彼女の心理状態を表してるのかもしれない。
しかし、映画の最後に置かれた手術シーンはさわやかだ。自らの子どもの骨髄を移植することについて、彼女いわく「出したものをまた戻す」。長いとはいえない生存年数が算出されていながら、「新しい命」が誕生した印象さえ受ける。またこのくだりで、ジュノンの「無菌」ゾーンと、骨髄を提供したアンリのそうでないゾーンとの「区切り」が強調されているのも面白い。麻酔から目覚めたアンリは、慌てふためいて母親のもとへ向かう。

舞台は一軒の家…「家庭」だけど、そこには色々な人間がいる。中心にいるが周囲に関心を持たない者、皆をまとめようとする者、はじき出され戻ろうとする者、血のつながりも婚姻関係もないが意思によってつながりを持とうとする者、また「通りすがる」だけかもしれない者。
アンリの恋人であるフォニア(エマニュエル・ドゥヴォス)は、一家にとって「予期せぬ」初対面の人物。クリスマスは「一家で新聞を読んで過ごす」というユダヤ系であり、イブの前にアンリに見送られそっと帰宅する。「外部」者といっていい彼女が、ぶち切れるアンリを笑いながら眺める姿が楽しい。ドヌーヴと彼女が美術館で会い一緒にお洋服屋さんへ、試着しながらの会話の場面もいい。
「家族」があれば、それとリンクする「家族」がある。「家族」の物語に触れると、いつもそのことを思う。この物語は、たまたまある「家族」をセルクルで抜き取ったものなんだって。

上映時間は150分と長いけど、ごてごてした家の中を見ているだけでも楽しい。犬映画、ドールハウス映画でもあった(後者は始め何の気なしに見ていたら、途中である使われ方をする)。食べ物については、家族揃っての食卓が大々的に描写されるというより、映画の作りと同じく、単品で数多くが登場する。パパがこねてたのは何だったのかな?

いわゆる「確率」の話が出てきたので、昔から思ってることをまた思った。例えば「30代女性の4割はA、6割はB」という場合、「私」はAならA、BならBのどちらかだ。しかし、まるで「私」の中に「4割のA、6割のB」が存在するかのような捉え方をされる(ように感じる)場合がある。個人の問題なのに。

「死ぬときは死ぬ、それだけだ」

ところで、私が日本で観ている「現在のフランス映画」では皆めちゃくちゃタバコ吸ってるけど、実際の所、現地での体感はどんなものなんだろう?
イブの夜にドレスとタバコで「王座」に着くドヌーヴの姿は素晴らしかった。常備のマルボロでなく、細いの(何だったかな?)をくわえるメルヴィル・プポーにもしびれた。

(10/12/15・恵比寿ガーデンシネマ)


ロビン・フッド (2010/アメリカ/監督リドリー・スコット)

「(おれたちが持ってないはずの)種が芽を出したら、奇跡ってことにすりゃあいいのさ
 教会は奇跡に文句は言えない」


ラッセル・クロウをロビン・フッドに据えた、リドリー・スコットの新作。めちゃくちゃ面白かった!
こういう「普通に面白い」映画こそ、大きなスクリーン、満席状態で観たいものだけど、新宿ピカデリーでは(公開3日目にして)一番小さいレベルのスクリーンでの上映。とはいえ平日の夜ながら席はほとんど埋まっていた。

ケイト・ブランシェット演じるマリアンが、荒涼とした領地を「女手」で守る姿に次いで、前書きの文章が表れるオープニングに、何やら予感がしてわくわくさせられる。その後、弓をひくラッセルのアップにタイトルがかぶさるカットに、へんな言い方だけど、この映画が3Dじゃなくてよかった!とつくづく感謝した。
その後のストーリーは見事の一言。一本の剣、一つの文章を手にしたロビンが「運命に導かれ」るように「ロビン・フッド」となる様は、おとぎ噺の趣もある。ラストの海岸での戦闘も見ごたえ十分。ただ、アクションシーンでちかちかするのは苦手…。戦闘シーンなら、私は「簡素な城での接近戦」が一番燃えるから、北方の何とか侯のお城での一幕が楽しかった。状況は全く違うけど、「十三人の刺客」で尾張藩が斉宣の通行を拒むシーンを思い出した(あのシーンも良かった)。

水面下?で順調に進むロビンとマリアンのべたなラブストーリーも楽しい(入浴の手伝い、薄布越しに見える下着姿、祭りの夜の盛り上がりなど・笑)。暖炉の前でのシーンはきれいだった。ラッセルに添い寝する犬の可愛いこと!
スキンヘッドでシンプルかつ完璧な悪役を演じるマーク・ストロングのかっこよさ、マックス・フォン・シドーによる爺さんの食えなさと見せ場。「国のためを思っている」と言ってのける、摂政マーシャル(ウィリアム・ハート)の存在も面白い。基本的には、これまでの人生を感じさせる「大人」たちの物語だけど、時折出てくる子どもの姿も印象的だ。

ラッセルは苦手だし、その顔しか出来ないのかよ〜と思うけど(ケイトを馬に乗せてやって見上げる時の、あの顔!)、この映画にはぴったりはまっていた。
そして、フランス女はやっぱりすきっ歯だった(笑)

(10/12/13・新宿ピカデリー)


アメリア 永遠の翼 (2010/アメリカ/監督ミーラー・ナーイル)

映画におけるアメリア・イヤハートといえば、「ナイト・ミュージアム2」だけでなく、「キット・キトリッジ」のアビゲイル・ブレスリン演じる主人公が、秘密基地に写真を貼ってたのが印象的だった。女の子の憧れなんだなって。

冒頭は1937年、世界一周飛行の途中、機上のアメリア(ヒラリー・スワンク)。大自然の映像に音楽の雰囲気もあいまって、ふと「野生のエルザ」を思い出してしまった。
次いでアメリアとジョージ(リチャード・ギア)の出会いが描かれる。「女性は操縦に向いてない」と言うジョージだが、「それはそれ」として、二人の間の空気…冗談の「タイプ」が似通っており、なんとなく相手を許せちゃう、という感じはそこそこ出ていた。
この映画で描かれる「アメリアの生涯」はこの出会いが起点だ。それまでの生い立ちは、この時点でのアメリアの描き方に託されている。彼女はどんな人間か?
ジョージに結婚を申し込まれると(この映画では、ジーン(ユアン・マクレガー)と一緒の所を見て不安に駆られた彼がたまらず求婚、というふうに描かれている)、彼女は「私は結婚に向いていない」と答える。そしてしばらく後「あなたに誠実な夫であることは求めません/私にも古臭い貞操観念はありません/一年経って幸せを感じなければ、離婚して下さい」と伝える。さらには結婚式の誓いにおいて「敬うようにはするけど、従うかどうかは状況によるから分からないわ」笑ってジョージ「そこはカットして」。「とにかく飛びたい」「そのためなら何でもする」彼女が、他人に真面目に対しているのが分かる。

アメリアは、作中自身で言うには「ただの、空の冒険家」。しかし、少しでも多くその側面を描こうと頑張ったのか、一つのセリフ、一つのシーンに、多くの意味を背負わせすぎている感を受けた。アメリアが「女性運動家」でもあったことは知らずとも推測できるから、同性の後輩となればそこに意味が出てくるはずだけど、実在したエリノア(ミア・ワシコウスカ)を登場させながら「そこにいる」だけなんて却って不自然。自分に熱狂する人々に疲れて「不況なのに皆はしゃぎすぎよ、ホームレスだって多いのに」というセリフも唐突だ。
例えば大学での講義に機上の格好のままで行こうとするのを、根っからの商売人のジョージが「ファッションは戦略だ」とか何とか言ってドレスを薦めるシーンなどは、彼女の「素朴」さが出ており面白い(しかしヘアスタイルは場面ごとに微妙に変えられており、どれも素敵)。ちなみにドレスについては、ユアン演じるジーンとの終盤のやりとり「私の脚はきれいじゃないもの」「そんなことない、だからパンツを履くのかい?男と張り合ってるのかと思った」「かつてはそうだったけど、今はそういう気持ちはないわ」というやりとりが印象的だった。これは実話なんだろうか?

ユアン好きの同居人が言うには「あの笑顔がいいんだよな〜憧れる」。私は久々にタバコ吸うところが見られて満足。
ヒラリー・スワンクは、「ミリオンダラー・ベイビー」の時もそうだったけど、肩甲骨が美しい。流行もあるんだろうけど、背中を出したドレスが多く目を楽しませてくれた。ユアンとのただ一度のラブシーンで、彼はその肩甲骨に手を伸ばす。
それからヒラリーって、上着を「掻き合わせる」仕草が似合う。ふわふわの襟巻きが付いたコートを着てるシーンでそういうのが多かった。

私が持っているアメリアの関連本は「アメリア・イヤハート 最後の飛行」のみ。この本は彼女の「最後の飛行」に関するある説を(多くの資料に基づいて)主張するもので、このようなタイプの伝記映画にはあまりかぶるところがない。しかし例えばジョージの求婚を六度断っているなどの「事実」は、知っていると面白い。
ちなみにアメリアが「レディ・リンディ」と呼ばれることを嫌がった(どのような資料によるものかは不明)という記述もあり、これは彼女の言動からして当然だと思われるので、映画においてその呼び名が何度か出てくるのにそのことに触れていないのは気になった。

(10/12/10・新宿武蔵野館)


キス&キル (2010/アメリカ/監督ロバート・ルケティック)

「あの神々しいボディ…
 毎日見てれば慣れるかと思ったけど、全然そんなことないの」


バカンスでの出会いを経て結婚した王子様は、CIAの凄腕エージェント。「3年目の危機」は、足を洗ったはずの夫に迫るハンターだった。主演にアシュトン・カッチャー&キャサリン・ハイグル。

もうこういうのダサいんじゃないかと思われる、昔の007風レトロなオープニング、ヒロインと両親の全然粋じゃないやりとり。出会いの後、彼女と一時別れて海に飛び込むアシュトンの姿(撮り方)のかっこ悪いこと。ダメ押しに、その後の「いそいそする彼女と、その間ひと仕事する彼」のくだりが「ナイト&デイ」の心躍る機内シーンの劣化版という感じで、どうなるんだろうと一抹の不安を抱いていたら、ハナシはちょっと意外な展開を見せる。
アシュトン演じるスペンサーが「恋に落ち」たことをはっきり示すのだ。「彼女を愛してる」といった類のセリフがしつこいほど繰り返され、「映画的」にもそれが「真実」であることが分かる。彼の心情が明かされたことで、物語は彼を主人公とした少女漫画(ってのもへんだけど)とでもいうような様相を見せる。以降、それが活かされるかっていうとそうでもないんだけど(笑)愛し合う二人のちょっとしたやりとりが面白い。

もう一つの意外性は、これも予告からは分からなかったことだけど、舞台が「うちの近所」に限られてること。郊外の、BIG・Kマートがあるような町だ(彼女はそこで「棒」を買う)。「隣人たちが豹変する」という展開からして、軽いゾンビもののような楽しさもある。

アシュトン大好きな私は、スクリーンに彼が映ってるだけで満足。色んな格好を披露してくれるけど、始めのほうのパーカー姿が特にキュートだった。次のシーンでよその旦那もパーカー着てるんだけど、その「意味」が全然違う(笑)その他、アクションシーンでちゃんと息が荒いのも嬉しい。
キャサリン演じるジェンの両親役、トム・セレック&キャサリン・オハラも、いい味付けになっていた。

(10/12/05・TOHOシネマズ有楽座)


ゲゲゲの女房 (2010/日本/監督鈴木卓爾 )

ドラマ版は未見。映画版では布枝に吹石一恵、茂に宮藤官九郎。
宣伝での水木しげるのコメントじゃないけど、なかなか面白かった。漫画に描かれた絵が動き出すシーンは、実写映画内のアニメーションとしては屈指じゃないかな?

舞台は昭和30年代だけど、都会でのロケにおいては、CG処理などせず背景をそのままにしている。冒頭、高層ビルを背に工事中の東京駅が映った時はわざとらしく不自然に感じたけど、中盤、調布のパルコの前に金内さん(村上淳)が立ってるシーンで、へんな言い方だけど不意に「分かった」。北島マヤが体育館で「女海賊ビアンカ」を演るのと同じ…ってちょっと違う気もするけど(笑)大事なものさえあれば、物語は「見える」んだって。
その晩、茂は布枝との会話の中で「人は目に見えないものを信じない」と口にする。ああこれかと思った。茂の母の「いかる」だって、今すぐ東京に飛んで行って嫁にあれこれ言いたいことだろう、だから、目に見えずともそこに「居る」んだ。

茂が作中唯一声を荒げて「『おれたち』の暮らしのことが、お前らなんかに分かるもんか!」、作中一番の大笑いをして「餓死するやつがいるなんて」…飄々として気持ちの読めない彼の、数少ない「感情的」なセリフが印象的。夫婦の歌声に、二階の金内さんがおもちゃのピアノを弾きながら涙するカットの長さも心に沁みた。強者は出てこない、弱者たちの物語なのだ。

上記の調布駅でのシーンにて、金内さん「似顔絵いかがですか/そっくりの似顔絵いかがですか」。うまく言えないけど、このセリフの「貸本」ぽさ。全編に散りばめられた、この「貸本」ぽさがいい味付けになっている。

「泥棒が入っても取るものがない」とはまさにこういうことを言うんだろうなあ、という感じの生活は、私には楽しそうに見えた。「見合いから5日」で結婚した相手の家で暮らすなんて、さながら冒険だ(米屋の来訪に慌てて印鑑を探すシーンが面白い)。まあ「プレイ」としてだから、実際そうなったら一日で逃げ出しそうだけど(笑)

(10/12/03・新宿武蔵野館)


Space Battle Ship ヤマト (2010/日本/監督山崎貴)

公開初日、新宿ピカデリーにて観賞。夕方〜夜の回は満席だった模様。
私は「古代進」という名前すら知らなかったほどヤマトに関する知識はなく、木村拓哉は好き。以下そういう者の感想。

いつものキムタクがそこにいた。

松本零士の作品には疎いけど、女性=「美」「善」みたいなイメージがある。そういうのって苦手なんだけど、この映画に出てくる女性は少なくとも「紅一点」じゃないし「普通」に描かれてるから観やすかった。
その他の色々な側面についても、嫌な気持ちになることはない。しかし全体としては、そう面白くない。ただただむず痒い思いをしながら、宇宙の彼方のくせしてどこの東京の街角だよっていう、キムタクの言動を眺めるのみ(笑)さすがにタバコは吸ってくれなかったな…

不満を覚えたのは、時の流れが全く感じられないこと。だから最後の艦長の決めゼリフや、「あなた/お前がいなきゃ」レベルまで進展している古代と雪の仲に違和感を覚える。そのくせ邦画「大作」にはつきものの「はやくしろよ」シーンが満載。
ラストシーンはなかなかよかった。木村拓哉の髪もいい仕事をしてる(何せヘルメットが似合わないから)。それに、ああいう昔ぽい女声スキャットが流れると、色んなことが許容できる(笑)

原作ではどうなのか分からないけど、敵に「個」がないのが面白いなと思った。それに沿ったガミラスの描き方もいい。対して「地球人」にはそれがあるから、古代はあれこれ悩むわけだ。

(10/12/01・新宿ピカデリー)


Ricky リッキー (2009/フランス-イタリア/監督フランソワ・オゾン)

翼の生えた子どもを産んだ母親カティ(アレクサンドラ・ラミー)と、その家族の物語。
とても好みだった。オゾンの映画は少女漫画でいうと山岸凉子ぽいと思ってたけど、今回は大島弓子という感じ。

ミニマムな作りの中に、「赤ちゃん」を扱ってるからこその、カメラを廻してるうちに撮れたんだろうなあと思わせられる場面がふっとあり、観ていて楽しい。うんこにちんこ、流血などが画面に現れるのもいい。登場人物の言動はとても「自然」に感じられ、好感が持てる。馬鹿みたいだけど、うちにああいう子どもがいたらどうするかな?と思いながら観てた。

カティと娘のリザ、「夫」のパコの3人の関係は、どんどん形を変えていく。必要な場面のみが重ねられ、ある時とある時の間の時間はばっさり切られているので、次のシーンではもう、誰かと誰かかの間の空気は変わっている。出来すぎってぐらいのラストシーンの後、彼らの関係がどうなるか分からないけど、「翼のある子」は、彼らにとって楽しいプレゼントだったに違いない。

7歳のリザは、母のカティと二人暮らしの時から「愛情に飢え」ているところに、男はくるわ、赤ちゃんは産まれるわで、余計に寂しくなる。その顔のアップの撮り方やセリフ…赤ちゃんに半分(以上?)取られた自室でつぶやく言葉など…は、わるい意味でなく感傷的で、彼女がこの映画のメロドラマ担当といった感じを受けた。
母の出産シーンなど、ちょっとした重大事に流れる音楽が、昔の恐怖映画を思わせる風なのも奇妙に面白い。

冒頭、パコがカティに初めて声を掛けた時、彼女はベンチで目を閉じ、顔にあたる陽射しを楽しんでいた。毎日変わらず忙しい中で、仕事や家事から解放され、一人の時間を持てた安らぎ。映画の最後のカティも、家のベッドで朝陽に目を閉じる。しかしそこには違う安らぎがある。悪くないラストだった。

(10/11/28・Bunkamuraル・シネマ)


黒く濁る村 (2010/韓国/監督カン・ウソク)

ラスト、主人公が再び村を訪れる際の車窓の風景が印象的。日本でもいやというほど見られる、都会からずいぶん走って田舎に入る手前の、あの風景。この物語の最後に見せられると、「昔」の世界に「今」の手が入っていくようで、何かから目覚める感じがした。

ソウルに暮らすヘグク(パク・ヘイル)は、長年音信不通だった父親の訃報に、山奥の村を初めて訪れる。しかし村長のチョン・ヨンドク(チョン・ジョエン)や取り巻きの男たちは、あからさまに彼を煙たがり、追い払おうとする。不審に感じたヘグクは、腰を据えて父の死因を探ることに。

勝手に横溝映画のようなものを想像していたせいもあり、前半は、村の「いやな感じ」が伝わってこないのに拍子抜けした。「現代っ子」である主人公ヘグクも、嫌がらせにあまりダメージを受けない。葬式の席で村長の酒を断り「おれの杯が飲めないのか」と言われるとそれじゃあ、とごく普通の顔で飲み干し、周囲に返杯する。前後のやりとりは忘れちゃったけど、何らかの目に遭って「へへっ」と笑ってみせる場面もある。
村そのものが、映画のセットのように(と「映画」の感想に書くのもへんだけど・笑)作り物めいて感じられる。観ている私が、村長を演じているのがチョン・ジェヨンだということ(老けメイクをしているが「実際」は若いこと)を知っているのもそれに拍車を掛ける。知らずに観たらどうだったろう?
村の成り立ちを考えたら「箱庭」ぽいのは当然だし、「作り物」だからつまらないってわけじゃない。しかし、例えばチョン・ジェヨンがヤクルト?飲んだ後、腕を振って老人がやりそうな体操をする仕草なんてコントのようで笑ってしまったし、雨の中の立ち聞き!振り返ったらテープレコーダーが!(見つかるように置いたにせよ)といったシーンも、漫画っぽくていまいち入り込めず(漫画がどうっていうんじゃなく、映画には映画の機微があると思うから)。
後半、ユ・ジュンサン演じるパク・ミニク検事が活躍するようになってからは、彼の明朗さやヘグクとの奇妙な絆が楽しく、また明かされていく「真相」も興味ぶかく、面白く観た。

作中唯一の女性が、尻から登場するヨンジ(ユソン)。中森明菜のような顔立ちと表情、ゆるくまとめた髪、あり合わせの衣服。彼女は「1978年」の時点と比べて、「現在」においても老けていない(老けメイクをしていない)。「特別」な女なのだ。「特別」な女しか出てこない物語って、あまり好きじゃない。途中から予想してた通りのラストにも白けてしまった。

「生食」に始まり、食べ物描写は充実しており楽しかった。小皿が幾つも並ぶ庭先の卓、パク検事がありつけないスープ、村長が準備するレトルトのサムゲタン(「義兄弟」でも鶏肉が出てきたなあと思い出す)。でも一番のお気に入りは「コーヒーうまいなあ」のシーン(笑)あのカップの感じ、あのコーヒーの色具合、とても良かった。

(10/11/24・シネマート新宿)


ハリー・ポッターと死の秘宝 Part1 (2010/イギリス-アメリカ/監督デヴィッド・イェーツ)

公開2日目、新宿ピカデリーにて観賞。満席だった。

いわゆる「ファンタジー」魂が無いためか、私はこのシリーズの楽しさを主に「学校もの」「おっさん天国」に置いてるから、ストーリーの柱に関するエピソードのみをみっちり描いた、若者3人のロードムービーである今作は観ていて少々飽きてしまった。

オープニング、「くそ」(うちでの彼のあだ名)の声と目のどアップにわくわくさせられる。
冒頭、ハリーと仲間たちがロンの家に集合するまでが最高に面白い。とくに子どもが主人公の「ファンタジー」ものは、「ホーム」(「現実」)に始まり「ホーム」に終わるものが好きで(「エクスプロラーズ」のラストなんて大好き…適切な例じゃないか・笑)、このシリーズもダーズリー家から始まってこそだと思ってるので、まずは「ホーム」に別れを告げるハリー(とハーマイオニー)の姿にぐっとくる。戻って来られるか分からないけど、あんな「家族」であっても、最後には何らかのやりとりがあって欲しい。
てきぱきながらもちょっとした笑いを挟んで出発、追手を振り切って逃げるアクションシーンに心が躍る。その後の結婚パーティの描写には、初期の頃には当たり前のようにあった「魔法の楽しさ」の名残が見られ、最後の宴のようで寂しい。杖を使ってテントを設営し、並んだグラスにシャンパンを注ぐ。
その後は延々、ハリー、ロン、ハーマイオニーの3人が「追手から逃亡しながら分霊箱を捜して破壊する」過程が描かれる。テントは張るものの食事シーンなどは一切なし。ただ「分霊箱を身につけると心がネガティブになる」という設定と、その影響もあって色んな距離を取る3人の様子が面白かった。

前半のクライマックス?は、3人が魔法省に分霊箱の一つであるロケットを奪いに行くくだり。職員に化けて忍び込むので、まずはよくある「中に別人が入ってる人」の演技が楽しめる(それほど面白くないけど)。途中で魔法の効果が切れ、何とか逃げ切るんだけど、以前なら大人の中に紛れた子どもが頑張る、という風だったのが、今やとくにロンなんて、ガタイがとんでもなくいいもんだから、デカイもん同士の攻防になっており、なんだか妙な感じを受けた。

今のところ、シリーズ中もっとも「単独で観る」ことを想定されていない内容だといえる。しかしこのような続編映画(しかも7作目!)がこれほど人気だなんて、へんな気がする。満員の場内のどれだけの人が、これまでのストーリーを踏まえて観てただろう?私もおぼろげだったけど、話がつかめなかったらつまらなくないかな?世の人々はどういう動機で「映画」を選んでるんだろう?やっぱり「有名」だから?
それほど複雑じゃない「エクリプス/トワイライト・サーガ」でさえ1・2作目のダイジェスト付きだったんだから、こちらにもあればいいのにと思った。さらに「ミレニアム」のように、登場時に名前と役柄のテロップが付けばもっといい(笑)

(10/11/21・新宿ピカデリー)


442 日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍 (2010/日本-アメリカ/監督すずきじゅんいち)

「史上唯一、大統領に直接迎えられた」アメリカ陸軍442連隊に関するドキュメンタリー。元兵士の証言を交えながら、真珠湾攻撃の後に収容所に送られた日系人の境遇、ハワイの日系二世が第100隊を結成、本土で442連隊が創設されるまでのいきさつ、その後の「功績」の数々が語られる。

兵士らの顔と言葉だけでも面白く、価値がある映画。作中「我々は消耗品だと分かっていた」という言葉があり、しょうもない感想だけど、本物の「expendables」だなあと思ってしまった。死傷率は314パーセントだという。

442連隊は「これまでの部隊が2年かけても出来なかったことを、30数時間で成し遂げる」ほどの最強陸軍。終盤、オリエンタルな音楽をバックに、彼らがなぜこれほど「活躍」できたか語られる。いわく、一世が教えた「努力」「辛抱」、「恥」を忌む…これらの「大和魂」のためである。東条英機の手紙や松岡洋祐の講演における「君たちアメリカ国民はアメリカのために堂々と戦え」という言葉にも触れられる。
端的には、日系人の地位向上のため、家族を収容所に人質に取られてるから、でもある。元兵士の一人によれば「出撃の前、昨夜何を考えたと聞いたら、皆『家族が恥をかかないように』と答えた」そう。「国にひどい仕打ちをされたからってクサったりせず、忠誠心を見せる」なんてすごいことだけど、それしか道がなかったのだと思うと胸が痛む。クサることもできない世の中は、できれば小さくあってほしいと思った。

満州に従軍していた私の祖父は、当時の話をあまりしなかった。母によると「したがらなかった」らしい。戦争ドキュメンタリーを観ると、そうした「語らない人」のことを思ってしまう。
映画の最後には、兵士たちが患った、あるいは患っている精神的な病について述べられる。精神科医いわく「彼らは他の人々と違い、辛かったことでなく楽しかったことを語る」。元兵士たちの口からは「アメリカは世界で一番いい国」という言葉が幾度か聞ける。もっとも、そう思える人だけが口を開いてるのかもしれない。

オープニングには鮮やかすぎるほど鮮やかなグリーンの中でゴルフに興じる元兵士の姿、ラスト近くには自宅で料理をする彼らの姿が挿入される。ハムサンドを作って奥さんと食べる者、ベーコンと卵にコーンフレークの食事を、さっと手を合わせた後に一人で食べる者。当たり前の幸せ。

喜太郎の音楽の使い方が、私にとっては集中力を阻害されるほどうるさく、それだけが残念だった。

(10/11/20・K's cinema)


義兄弟 (2010/韓国/監督チャン・フン)

国家情報員ハンギュ(ソン・ガンホ)は、ソウル市内で起きた銃撃事件において北朝鮮の工作員を取り逃がした責任を負い失職。6年後、彼の前に姿を現したのは、事件の際に現場から逃走したジウォン(カン・ドンウォン)であった。二人は互いに、相手が自分の素性に気付いていないと思い込み、探偵稼業のパートナーとなる。

韓国映画のいいところを掬い取って上手くまとめたような感じ。「男二人・スパイもの」なら今年は「フェアウェル」がお気に入りだけど、こっちは誰にでもお勧めできる作品。冒頭の緊迫した銃撃戦から観客の期待に応えるラストシーンまで、アクション・コメディ・人情ものと、あらゆる要素を味わえる。
美しすぎるカン・ドンウォンが静かな存在感で迫るのに対し、ガンホは動きまくり。登場時のスーツ姿はなかなか目を楽しませてくれるんだけど(ガタイはいいもんね)、「6年後」には汚い部屋に汚い(汚そうな・笑)部屋着。中盤はその一挙一動に場内爆笑。力強くも笑えるパンチや蹴りも結構見られて楽しい。ラストシーンの顔には渥美清を思い浮かべた。

以下馬鹿みたいな感想。
ガンホがテレビのニュースを観て「北朝鮮のやつら、またこんなことしやがって」とつぶやくシーンに、日本人がそう言うのと、韓国人のそれとでは、重みが全然違うんだろうなあと思った。「ベトナム人女性のブローカー」というのも韓国映画で初めて観た。
とあるシーンに出てくるジウォンの妻子が、揃ってカーディガンにロングスカートという格好なので、北朝鮮の女性のファッションってこういうふうなのかな…なんて思ってしまった。

(10/11/17・シネマート新宿)


ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人 (2008/アメリカ/監督佐々木芽生)

公開初日、シアターイメージフォーラムにて観賞。パイプ椅子+座り観も出る盛況。
「お給料の範囲内」「アパートにお持ち帰り」という条件で現代アートをこつこつ集めてきたNYの公務員夫婦、ハーブとドロシーを追ったドキュメンタリー。彼ら本人、二人を「家族のよう」と慕うアーティストたち、芸術関係者、皆の言葉がとてもいい。時間を掛けて丁寧に撮った映画という感じ。

上映後に佐々木芽生監督による舞台挨拶あり。来てくれたことに対する感謝、2002年に二人について知り衝撃を受け、映画を作ろうと思い立ったこと、小品のはずが、彼らが「巨人」だと気付き大作となったこと、国内の配給会社に持ち込むも「現代アートの映画なんて客は入らないよ」と言われ苦労したことなど。「情熱があれば、人は予想できない所まで行くことができる」。

勿論「アート」についての映画でもあるけど、ハーブとドロシーにとって「それ」がたまたまアートだったというだけで、これは二人と、二人の「それ」についての映画だ。
大型トラック5台分!の作品があふれた1LDKのアパートにおいて、二人の居場所はリビングの机の前の椅子のみ。小さなテレビの中の映像と、猫と亀だけが動いている。「本の中身が頭に入っていれば、それを持ってるだけでいい」との例えのように、「自分が好きで、分かっているものを、所有する」。アーティストの一人が「彼らに一つでも売れというのは、私の絵の一部を切り取れというのに等しい」と言うように、人生そのものが、日々更新されるアートだと言える。ドロシーいわく「楽しくなくなったらやめるわ」。

二人が作品に向かう場面が一番面白い。私にはゴミみたいに見える物体について、ハーブに「小さな作品で偉大さを感じさせるのは難しい」と言われると、確かにそうだなと思う。
彼らは学術的な言葉を使うわけではないが、芸術に関する勉学を修め、毎日外へ出掛けてギャラリーやスタジオを回り、作品に向かう際には、その作家の全てを知ろうとする。そうすれば「分かる」。ドロシーの「だってすてきでしょ?」という言葉に至る。二人の顔のアップが多く、その目がとても印象的だ。

穏やかながらも社交的で「プロデューサー」肌のドロシー(「うちでパソコンに向かってデータを作るなんてイヤ、外に出掛けたいの」)と、わが道をゆくハーブ(「指図されたくないから、学校は嫌い」「郵便局で働いた30年間、私が芸術を好きだなんて周囲の誰も知らなかった」「他人が芸術作品をどう売買しようと構わない」)。
観ているうち、パートナーとしての二人をより知りたいという思いが湧いてくる。それに応えるように、ラストシーンは、ナショナルギャラリーの入口に刻まれた自分たちの名を見上げる二人の姿。さらにエンドロールで、楽しい場面を見せてくれる。いい気分で観終わった。

(10/11/13・シアターイメージフォーラム)


エクリプス トワイライト・サーガ (2010/アメリカ/監督デヴィッド・スレイド)

2時間超の半分ほどが「俺とあいつとどっちを選ぶんだ」ともちゃもちゃして過ぎるという内容に唖然としたけど、終了後に女子高校生らしき集団が「かっこよかった!」とはしゃいでたので、まあいいかと思う。そりゃあ、もっと面白ければもっと良かったけど(笑)

原作を省略しているのかそのままなのか、3作目にして初めて、杜撰に感じて乗り切れない部分が多々あった。小さいながら引っ掛かることとしては、例えばベラがエドワードとの関係でパパと揉めているシーンの直後に彼女がエドワード一家を訪問してるなんて、どうやって出掛けたんだろう?と気になってしまうし、大ごとで言えば、「彼女は『勇気』という素質を持っていた」と語られるエピソードは、クライマックスにおけるベラの行為につながる重要なものなのに、あんな見せ方では「彼女」は単にアタマが足りなかったのでは、と思わせられてしまう(笑)

ベラは(本人いわく)「何の取り得もない普通の女の子」なのに、男に好かれているがために、彼の所属する「特殊」な世界(吸血鬼や狼人間の一族)に仲間として迎え入れられる。私はこういうの嫌いなんだけど(こんなに「特殊」じゃなくても大なり小なり経験があるがゆえに、その現実に嫌気がさす)、今作ではさらに、エドワードの仲間たちが彼女に「心を許し」、自らの過去や心情を吐露し始める。かなり唐突な感じを受けた。

観ながらしじゅう「現代の」吸血鬼ものであることを意識させられた。何かというと結婚を迫るエドワードに対し、ベラは「今の時代、若くして結婚するのは『妊娠しちゃった』ってことよ」と言う。数百年の時を生きるエドワードいわく「昔は単純だった、もし昔なら、僕らは付き添いと一緒に散歩して、ポーチで紅茶を飲んでたよ」。こういう会話は面白い。
私は「吸血鬼」ものにそれほど興味も知識もないけど、民間伝承の時点からある意味では誰かの嗜好が入ってるんだろうから、この話のように色々アレンジするのはいいことだと思う。

ベラの友人が卒業式のスピーチで自分の行く末について「哲学科に進んで、就職に困る」とジョークを言うので、同居人と笑ってしまった。
(私は哲学科出て就活してないから・笑)

(10/11/11・新宿ピカデリー)


リトル・ランボーズ (2007/イギリス-フランス/監督ガース・ジェニングス )

全編どこを切り取っても、男の子が男の子のことを気にかけ、憧れている。かつて少女だった私は、「少女の素晴らしさ」なんて言われてもアホかと片付けてしまうから、こういうのフェアじゃないんだけど、最後の映画館のシーンで、男の子ってなんて素晴らしいんだろう!と涙がこぼれた。だってウィルとリーは、どんな大人になっただろう?はっきり言って知りたくない、「男の子」のままであってほしい。そう思ってしまう映画って、いいのか悪いのか…(笑)

80年代初頭、イギリスの田舎町。11歳のウィル(ビル・ミルナー)は、学校一の「問題児」リー(ウィル・ポールター)と知り合い、彼の家で観た「ランボー」に魅了される。それは厳しい戒律の元で暮らすウィルにとって、初めての「映画」。二人は、自分たちの「ランボー」を撮り始めるが…

映画に「ものづくりをする子ども」が出てくる場合、その内容や表現に重きが置かれると、ひねくれてる私は、そりゃあ大人が考えた「子どもが考えそうなこと」でしょ?なんて思ってしまうから、そのへんの描写があっさりしてたのは良かった。描かれるのは、あくまでも彼らの気持ちや関係だ。

冒頭に描かれるウィルの日常。学校の壁の落書きは、彼の目線に沿った帯状に部屋をぐるっとデコレーションしている。聖書の中身。金魚鉢の記録。まるで、世界に彼だけのレイヤーがかかっているような感じ。このあたりの表現にまずぐっときた。
リーの方は、チラシに「スタンド・バイ・ミー」が挙げられてたからってわけじゃないけど、リバー・フェニックスをいい意味でしょぼくした感じ。映画館の客席での登場シーンなんて、いかにも昔のリバーがやりそうなカッコ、彼なら様になるのが、どこか隙と味わいがある。とにかく顔が素晴らしい。

そして、私にとって重要なのは、舞台が「1982年」だってこと(←とチラシにあるけど、作中カーターが病院で観ているテレビに「80年」という文字が出る。どっちなんだろ?)
74年生まれの私は、80年代「始め」のあの感じ、日本の女のコ的に言えば「8ビートギャグのネタの数々」的な世界は、弱冠後追いで憧れるしかなかった。だから冒頭、学園バンドの演奏と共に(というか、演奏止めてしまうんだけど・笑)ディディエが登場するシーンから炸裂する「あの感じ」に胸ぐらつかまれた。彼のかっこよさにではなく、そうだよね、あの時代に生きてたら当然ああしたいよね、っていう「同志」的な感動。Tシャツに漢字!一方のイギリスの女の子は、白いソックスにヒールの靴!「6年生の娯楽室」のきらめき(と、「消しゴム」「ドンパッチ(じゃないけど・笑)」などの可笑しさ)。
交換留学が終わって学校を去るバスの中でのワンシーンで、ディディエのフランスでの日常が分かる。これは私にとって「どんでん返し」であり、作中一番ぐっときた。

(10/11/10・シネクイント)


クロッシング (2008/アメリカ/監督アントワン・フークア)

原題が「Brooklyn's Finest」(ブルックリンの警官たち)だなんて知らなかった。邦題は「クロッシング」、宣伝文句に「三人の正義が交錯する」なんて言われたら、それぞれ事情を抱えた男たちのたどる運命が最後に一箇所でぶつかるのかな?なんて安易な想像をしてしまうけど、そういう話じゃない。情の押し付けや、「実はこうでした」なんて快感の安売りをしない、上品な映画だと思った。だからこそ、イーサン・ホークがエレベータの中で祈りを唱えるシーンにはぞくぞくさせられる。

冒頭、イーサン・ホークに向かって(と、その時は分からないが)ある男が一方的に喋りまくっている。物事に善悪の境界線はない、より善いか、より悪いかの、いずれかだ…その通り、三人の男たちは、その時その時の気持ち・状況に応じて行動する。
リチャード・ギアの、地味ながらも夢の中を生きているような感じの佇まいが素晴らしい。また、最後に映るイーサンとドン・チードルの横顔には、同じような処理(というのか、詳しくないので分からない)がなされており、宗教絵画のように見えた。

特筆すべきは警察の上司を演じるエレン・バーキン…といっても実は最後まで彼女と分からなかったんだけど。映画において男女が対峙するシーンには、どうしても「男」対「女」という作り手の意識が(あるかのように)見えてしまうけど、彼女とドン・チードルがやり合うシーンはただ「人間同士」のもので、見ていて心地良かった。ああいう「普通」のおばさんが出てくる映画って貴重だ。

(10/11/03・新宿武蔵野館)


100歳の少年と12通の手紙 (2008/フランス/監督エリック=エマニュエル・シュミット)

「私なら、痛いときは思いっきりわめいちゃうわ」

一昨年の私のベストワン「地上5センチの恋心」のエリック=エマニュエル・シュミットの原作・脚本・監督による作品。余命わずかの少年オスカーと、ピザ屋のマダム・ローズ(ミシェル・ラロック)との12日間を描いた物語。

「地上5センチ〜」の第一の魅力は、安っぽいながらも…安っぽさこそが醸し出す、独特のロマンティックな雰囲気。主人公はヨーカドー的な店で化粧品を売り、ごてごて飾り立てた家に住んでいるけど、奇妙に心惹かれる。例えばジュネの映画を観た時のようにセンスの良さにほうっとなるんじゃなく、学園祭に迷い込んだような、うきうきした心持ち。今作はフランスの寂しい田舎が舞台だけど、オスカーいわく「僕の家」である病院の内部や、マダム・ローズのピザ・カー、彼女の母親(ミレーヌ・ドモンジョ!)が営むグッズ店などの、どことなく地に足着いてない感じが楽しい。
ローズの、その名の通りピンクのスーツにパンプスという格好は、前作で女っぽくも実用的なピンクやブルーの服を着こなしていたカトリーヌ・フロ(今まで観た映画の中で一番「(もうちょっと歳取ったら)してみたい格好」!)を少々「がさつ」にした風。頭髪の抜けたオスカーは、数ある帽子の中からピンクのものを選んで被り、水色のお姫様に恋をする。彼の想像する、ローズの「対戦シーン」の馬鹿馬鹿しさ。ミシェル・ルグランの音楽が流れるダンスシーンのチープさもたまらない。

「一日を10年のつもりで過ごし、思ったことを神様への手紙に書いたら?」…「時間のない」オスカーに対し、ローズは「待つ」ことはせず日々色々な指示を出す。オスカーはそれらを「体験」することにより、反抗心を覚え、好きな人と触れ合う心地よさを知り、「晩年」には「人生を味わうにはセンスが要る」ことに気付く。「若い時はばかでも楽しいけど、年を取ったら、頭を使わなきゃ」。好きな人と手を重ね、「僕たち」の音楽を聴く幸福。
一方、「病院」も「ボランティア」も「『愛してる』と言うこと」も避けてきたローズは、こちらもたったの十数日でそれらを受け入れるようになる。「17歳の肖像」のにも書いたように、広義の「教育」においては、教える側も影響を受け変化することが重要だけど、この作品では、そのことがわざとらしいほど強く示される。足りない部分を補い合える二人がめぐり合ったお話、とでもいうべきか。
「病気は事実なのよ、罰じゃない」「あなたの両親も、私も、いつかは死ぬのよ」。こんなにも「正しい」ことを言うローズが「神」に重きを置いているのがぴんとこないけど、それこそ私には分からない感覚なんだろう。

オスカーが死ぬのを「超自然」的に知るのは彼の母親であり、ローズではない。オスカーは「人生」を経験し、ローズは「私の人生はこれからも愛で満たされる」という確信を得る。二人は与え合ったが、「他人」のままでもあった。そこが素晴らしいと思った。

(10/11/02・TOHOシネマズシャンテ)



表紙映画メモ>2010.11・12