表紙映画メモ>2010.07.08

映画メモ 2010年7・8月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

トイレット / アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち / セラフィーヌの庭 / 瞳の奥の秘密 / キャタピラー / フローズン / ジェニファーズ・ボディ / ベスト・キッド / アイスバーグ!/ルンバ! / 小さな命が呼ぶとき / グッドモーニング・プレジデント / ぼくのエリ 200歳の少女 / 華麗なるアリバイ / インセプション / シスタースマイル ドミニクの歌 / トイ・ストーリー3 / イエロー・ハンカチーフ / ボローニャの夕暮れ / ハングオーバー! / レポゼッション・メン

トイレット (2010/日本/監督荻上直子)

荻上監督の作品は好みじゃないけど(「めがね」なんて宗教ぽくて怖かった)、この映画はいいなと思った。「トイレ」にまつわる筋書きも面白いし、ラストシーンも、トイレに入った瞬間からこれは…と思った通りなんだけど(笑)楽しい。
食事もいきなり出てくるんじゃなく、ちょっとした経緯がある。冒頭の「スシ」が「パックのままだと不味そうに感じられる」のは、日本人ならではの感覚だよなあ。

舞台はカナダ。「引きこもり」の長男、「オタク」の次男、大学生の妹の三兄弟は、母を亡くした後、日本人の「ばーちゃん」(もたいまさこ)と同居することに。ばーちゃんは口も利かなければ食事も摂らず、トイレを使うたびに深いため息をつく。

観ながら、佐々木倫子の漫画に似てるところがあるなと思った。長男の「どうせぼくなんて…」的言動や、次男が火事に遭ったり車ぶつけたりするタイミングのしれっとした可笑しさ、それから性的なものを排除してるところ。しかし後者は少し意味が違った。
末っ子のリサは詩の授業中、フェミニンなワンピースの女生徒の発表を教師が「女らしくていいねえ」というような言葉で褒めるのを「キモい」と吐き捨てる。また美男に惚れて仲良くなるが、キスする際に胸を触られると「やめてよ」と言う。そしてパンプスをやめ、元のブーツに履き替える。
私はこれまで荻上監督の映画は「そういうもののない世界」だと思ってたけど、今作で表されるのは「そういうものを拒否する人が主役の世界」である。若者だから描かざるを得なかったのか。「そういうもののない世界」を娯楽として楽しむ感覚はよく分かるし、良いことだと思うんだけど(エロのない映画なんて楽しいか?と言うのは「酒やギャンブルもやらず何が楽しいんだ」と言うのと同じ)、「そういうものを拒否する世界」となると話は別で、ひとときでもそういうこと忘れたいのに、却って意識するはめになる。性的なもの=悪といった感じになっちゃってるのも気になる。

もたいまさこ演じる「ばーちゃん」の全身ハイセンスなこと。「何かある」と思わずにいられないその表情から、英語分かってるんじゃないかと想像させられる。次男の「目を見てしっかり話すんだ」というセリフに表れてるように、全体を通じて、コミュニケーションについての映画。

猫の「センセー」の出番は予告編から想像してたほどじゃないけど、ちゃんとゴロゴロ言ってて印象的。私は犬派だけど、ピアノには絶対猫!ピアノの先生の家に猫がたくさん居たからだろう。
それからシンガーの足踏みミシン、昔うちにもあったから、あのペダルの重さ、ぐんぐん乗ってきちゃう感覚を思い出した。子どもの頃、調子に乗って指縫ったことある(笑)

(10/08/31・新宿ピカデリー)


アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち (2008/アルゼンチン/監督ミゲル・コアン)

「Cafe de los Maestros」(原題)と題されたアルバムのため、アルゼンチン・タンゴの黄金時代を作ったマエストロたちが一堂に会する。収録後に行われたコロン劇場でのコンサートまでを追ったドキュメンタリー。

冒頭、巨匠の一人いわく「タンゴといえばカフェで聴くものだった」。原題を知らなかったのでそうなのかと思う。そしてとあるカフェに掲げられた「年を取る者と、若さを重ねる者とがいる」という誰だかの言葉。
睡眠不足もあり、眼鏡のずり落ちそうなじいさんたちが旧交を温めたり昔話を語ったりする前半はうとうとしてしまったけど、それも悪くない。ふと目を覚ませば、音の合間に、ごくごく普通に撮られたブエノスアイレスの街並みやカフェ、サッカー場、競馬場などが映っている。マエストロは「酒と女にかまけてなくしてしまった」と、昔のレコードを聴いて楽譜を起こしている。

巨匠によれば「タンゴとは、楽団、客、ダンスの3つによって成立する大衆芸能」。
私はタンゴの知識は皆無で、ピアノとブラバン所属の経験はあるから、この映画では、タンゴの主役であるバンドネオンが最も「接したことがない」楽器として気になった。おじさんたちが最前列で、足並み?揃えて弾いてる様子が可愛い。分解して掃除するシーンや、本番前にじゃばらを動かさず運指だけ練習してるシーン、尊敬する先達の演奏について「こうじゃなく(四角四面に)こうなんだ(情感こめて)」と弾いてみせるシーンなど面白かった。
とはいえピアノの音色にはやはり惹かれる。ちなみにピアノはタンゴにおいては「指揮者のようなもの」だそうで、指揮者がピアノ奏者を兼任しているのが新鮮。
終盤のコンサートシーンでは、へんな言い方だけど、「演奏が上手い」ってどういうことだろう?と思ってしまった。彼らは職人の集団のように見えた。とても高揚させられた。

ビルヒニア・ルーケの歌には心が震えた!また冒頭彼女が口にする「男にささやかれる名前と沈丁花の咲く庭を持つ、私こそがタンゴ」というような詩がよかった。何かの歌詞なのかな?

(10/08/29・Bunkamuraル・シネマ)


セラフィーヌの庭 (2008/フランス-ベルギー-ドイツ/監督マルタン・プロヴォスト)

「ピカソやブラックと親交の深いあなたが、ルソーのような素朴派を擁護する理由は何ですか?」
「素朴(ナイーヴ)とはね…現代的本能(モダン・プリミティブ)と言ってくれ」

(↑ウーデは「素朴派」という言い方を好まなかったのに、作品紹介などではセラフィーヌをそこに属すると書かざるを得ないのが、しょうがないけど、ちょっと引っ掛かった)

実在した画家、セラフィーヌ・ルイの生涯を描いた作品。
20世紀初頭、パリ郊外。家政婦のセラフィーヌ(ヨランド・モロー)は仕事以外の時間を全て絵を描くことに費やしていた。あるとき、勤め先に間借り人として越してきたドイツ人の画商ウーデ(ウルリッヒ・トゥクール)が、彼女の絵に目を留め援助を申し出る。

ミニマムな映像で表される、田舎の自然や、素朴な暮らしの描写にまず惹かれる。草が生えっぱなしの庭に椅子を引っ張り出してお茶するウーデと妹。仲間と川で洗濯の途中、立って用を足すセラフィーヌ。彼女は家の周囲ならば裸足で出歩く。ちなみに一足しか持っていないであろう黒いブーツは、鋲が直接当たってるようなうるさい音がする。
お金のない彼女が「秘密」の絵の具を作る過程も面白い。「赤」について「欠点もあるんです」とは、何を指してるんだろう?

一つ一つのシーンがとても美しい。ウーデが庭に椅子を持ち出し、セラフィーヌを座らせて彼女の才能について話すのを、家主が窓から見下ろす図など印象的だった。このくだりは後に大きな意味を持つ。セラフィーヌがろうそくを前に、知人を呼んで絵を見せる様子は、キャンバスのでかさもあり、自慢のドレスを着替えてみせるよう。
時間の流れもさりげなく映し出される。セラフィーヌを訪ねる際、相変わらず帽子を取った髪をなでつけるウーデは、二度目には部屋に入れてもらえる。始め木に登って「庭」を見ていたセラフィーヌは、年をとってそれができなくなると、椅子を持参して出掛ける。

ヨランダ・モローの仕草、たたずまい、目つき、全てに「セラフィーヌ」が乗り移っており、俗な言い方をすれば、最初から最後までいっちゃってる感じ。家族もなく「昔からずっとしいたげられてきた」彼女は、頑なながら、彼女なりの知恵と優しさとしたたかさを持っている。へんな言い方だけど、それこそ人間の「本能的」な姿に思われた。

実在した画商ウーデは、映画にある通り、ルソーを「発見」した人物だそう。画商というより「収集家」であり、いわく「収集は自己表現」。彼もある種の「芸術家」である。芸術家気質が無い私には「パトロン」という感覚がよく分からないから、どんな気持ちでセラフィーヌに接してるのだろうと思いながら観た。
第一次世界大戦後、彼は画家である恋人(若い男性)と妹と共にフランスに戻ってくる。そして、私の目からすると面白くもない恋人の絵を世に出そうと懸命になる。これも実話なのかな?恋人自身はそのことについてどう思ってたのか、気になった。


(10/08/23・岩波ホール)


瞳の奥の秘密 (2009/スペイン-アルゼンチン/監督ファン・ホセ・カンパネラ)

裁判所を退職したベンハミン(リカルド・ダリン)は、25年前に起きた忘れられない事件を基に小説を綴り、かつて上司だったイレーネ(ソレダ・ビジャミル)を訪ねる。過去に閉じ込めてはおけなかった謎への探究心と彼女への愛が、再び彼の中で生き始める。

冒頭、男はすれ違う女性職員に「天使ちゃん」と声を掛け、すげなくされる。セクハラおやじなのかと思う。目的の部屋に着いた男は、女に「妃殿下」と呼び掛ける。女は喜んで彼を迎える。昔ながらの男と女の話かと思う。しかしそうではなく、中盤、男が「天使ちゃん」などと言うようになった訳、一人の女性にだけそう言えない訳が分かる。相棒の言葉は今も、彼を導き続ける。

「事件」が起きたのは74年6月。ちょうど私が生まれた頃だ。当時のイレーネが纏っているブラウスの数々が、母親のアルバムでこういうの見たなあという感じ。ベンハミンのスーツのくすんだ紺色も、時代を感じさせる。
「殺人犯」を情報提供者として保護し取り立てるような政治状況や、捕り物が行われるサッカースタジアムの賑わい様など、アルゼンチンの事情には疎いけど、当時は(後者に関しては今も?)こんなふうだったんだなあと思う。
Aの打てないタイプライターや閉めない扉などの伏線、男二人の捜査中のドタバタギャグ、エレベーターの鏡や電車の窓の反射を盛り込んだ映像など、どこを取っても憎いくらい上手くできており楽しい。駅での別れのシーンは、音楽などやりすぎだろと思ったけど…ベンハミンの想像力の豊かさを表してるのか(笑)
そして主演のリカルド・ダリン、初めて見たけど、なんて目をしてるんだろう!魅入られてしまう。上まつげの短さや眉の曲線もちょうどいい具合。同居人も「本国じゃきっと人気があるんだろうな」と言っていた。

25年前の二人が「8時30分」のデートの約束をするシーンが印象的。互いに好きでしょうがなくても、「身の程」をわきまえたベンハミンは待ち合わせの時間さえ提示できない。イレーネは「意見を求める」ことしかできない。
ラストシーンでベンハミンを迎えるイレーネの顔は、私でさえ「帰りたく」なる温かさに満ちており、いい気持ちで劇場を出られた。

(10/08/22・新宿武蔵野館)


キャタピラー (2010/日本/監督若松孝二)

太平洋戦争末期、四肢を失い帰還した夫(大西信満)とその妻(寺島しのぶ)の姿を描く。
「反戦映画」だけど、描かれるのは「夫という生き物」との新しい生活、新しい関係。社会が個人に影響を与えるのは当たり前か。夫婦の物語の合間に、ストレートな監督のメッセージが幾度も挟み込まれる。上映時間が短く、シンプルで良かった。

冒頭、四肢のない夫の姿に、悲鳴を上げて田んぼに逃げ込む妻とそれを追った弟が、家に戻る前に泥まみれの服を洗う場面がいい。
ぎこちないやりとりの後に親族が去り、妻と夫、二人だけの部屋。張り詰めた空気が流れるが、夫のおしっこしたいという訴えに妻は走って尿瓶を取りに行き、事を済ませる。本人も妻も、なんとなくほっとした感じになる。
妻はその後「食べて、寝て」「食べて、寝て」と繰り返し口にするけど、作中描写される「営み」はおそらくセックスが一番多い。帰宅後初めてのセックスの後、妻が尻丸出しのまま「新聞の切り抜きと勲章」の所にぶらっと歩いてゆき、「軍神さまねえ…」とつぶやくシーンがいい。ああいう感じってよく分かる。寺島しのぶは作中何度も尻を見せるけど、この尻には意味があるように思う。この場面に限らず、彼女の演技は分かりやすく、時折コミカルにさえ感じられた。

出征前に「毎日」妻に暴力を振るっておきながら、戦地での蛮行が何度もフラッシュバックするというのが私にはぴんとこなかったけど、彼にとって前者は「日常」であり後者はそうじゃない、ということなんだろう。
…とツイートしたら「戦地での蛮行で逃げ遅れ、あのカラダになったからです。行為に及ぶたびに蛮行を思い出し、怯えるのでしょう(略)」と返信をいただいた。確かにそうかもしれない。私は観方が甘くて、あの時に四肢を失ったという確信が持てなかった。ただ、フラッシュバックの映像において、暴行を働いた相手の顔や体が強調されるので、四肢を失ったことよりも自身の「罪」に重きが置かれているように感じた。

出征前の関係なら(私からすると)最悪の夫だけど、今や相手は「新しい生き物」、布団や籠に入ったきりだ。二人のパワーバランスの揺れが面白い。「ごほうびがほしいんですか?」はやがて「ごほうびをあげましょうね」。夫の勲章を自分で身に着け、涼しい顔で「妻の務めですから」。誰にも後ろ指指されない「決まり文句」を言ってのける快感ってあるだろう。

幾度もセックスが繰り返されるが、互いに性欲を抱き合って…という感じの行為はない(あるのかもしれないけど、そう見えない)。やりたい者とやらせる者とがいるだけだ。
自分だったらと考えると、毎日「世話」してる相手、暴力振るわれたことのある相手(振るわれたことないから想像もできないけど)となんて、やりたくない(ほとんど「挿れる」だけだし)。しかし相手が決して逆らえない、全て自分次第となれば、どれどれやってやるか〜と性欲が湧いてくる、そういう可能性って、ないとはいえない。セックスって、支配と被支配の関係において成立しやすい、そうでなくても、最中にそういう擬似的関係ができやすい、ということを思った。

(10/08/18・テアトル新宿)


フローズン (2010/アメリカ/監督アダム・グリーン)

スキー場のリフトに取り残された三人の若者たち。営業再開は一週間後、夜間の気温は氷点下20度という条件の下、脱出しようとあれこれ手を尽くすが…

幼馴染の二人の男と片方のガールフレンドという組み合わせ。始めから、和やかって雰囲気じゃない。
映画は「ズル」してリフトに乗ろうとしている三人の姿で始まる(乗り気な者と、そうでない者とがいるが)。これが結構長い。さらにダメ押しで「カップルじゃないほう」の男が、ちょっとしたアクシデントでリフトが止まると、でかい声で野次を飛ばしたり、彼女が高い所が苦手と見るや揺らしてみせたりと、「イヤなやつ」ぶりを発揮する。
しかし、その後、ギャー!→ちょっとのんびり→ギャー!が繰り返されるんだけど、「ちょっとのんびり」部分の会話において、先の男が「イヤなやつ」じゃないことが分かる仕組みで、白けてしまった(笑)また彼らが語る恋の話はまだまだ子どもって感じで、事故に対する慌てふためいた対処の仕方も、しょうがないか…と納得できる。

予告編を観て私が一番に気になったのは「おしっこどうするんだろう…」ということだけど、リフト停止後、早々にこの問題が現れるので良心的(?)だなと思った。
その場でするしかないのでネタバレとはいえないから書いちゃうと、中盤、彼女がおしっこした後「やれやれ」「ふーっ」といった感じでリセット、へんな言い方だけど「復活」するのが面白い。私ならさっさとしてるけど…そのへんは個々「生活」の中での「排泄」の位置づけの違いだろう。まあ平気でおしっこしちゃうような登場人物じゃ面白くないんだろうけど(笑)

(10/08/14・シネクイント)


ジェニファーズ・ボディ (2009/アメリカ/監督カリン・クサマ)

最高!ってわけじゃないけど、色々思わせられる、憎めない映画。

田舎町の高校に通うジェニファー(ミーガン・フォックス)とニーディ(アマンダ・セイフライド)は幼なじみ。積極的で強引なジェニファーはいつものようにニーディを誘い、お気に入りバンドのライブに出掛けるが、火事が発生し、二人はばらばらに。その夜を境に、ジェニファーは男を食い殺す「悪魔」となる。

「スパイシー」な男の子の演奏姿を眺めながら、隣のニーディの手をぎゅっと握るジェニファー。「相棒」と「セックスの相手」とを別にするというのはある種…いや一番「幸せ」なことだと私は思うけど(それじゃあ社会が困るから、そうさせないようになってるわけだけど)、この二人、そういう関係なのかと思ったら、何だかよく分からない。全編を通して、奇妙なほど、二人の心情が伝わってこない。私に友達が少ないから実感できないのかな〜とも思った。

それとは別の意味で、観ているうちに自分の中で「辻褄が合う」部分が数多くあり面白かった。まずバンドの演奏シーンがやたら長く「本物」なので、違和感を覚えていたら、実はこれ「バンド映画」でもあるのだ。また「学校一の美女」ジェニファーが登場時、学校の廊下をこちらに歩いてくるのを誰も振り返らないのは変だと思っていたら、後のプールでのニーディとのやりとりで、ああ…と思わせられる(笑)
ニーディと彼氏のセックスが全くいやらしくないな〜と思っていたら(セックス=いやらしいこと、じゃないから)、終盤、ジェニファーが彼にぶつける最終兵器は「彼女はあんたの想像もしないようなことしてたわ」。まるで二人のベッドを覗いてたかのように。

オープニング、体を掻くジェニファーの肌がきれいに撮られていないのを意外に感じた。男を食う前にジッパーを下げると、それこそ下着や虫刺されの跡が残っていそうな質感の上半身が現れる。さらに、最後に自室でやり合うシーンでの顔の不細工なこと!まあミーガン・フォックスの提供するエロって、掴めば歪むリアルさを湛えた、そういう類のものなのかもしれない。
彼女が鏡の前で、血色の悪い顔にリキッドファンデを塗りたくるシーンにはぐっときた。大体私は、部屋に男の写真(ミーガンの場合は加えて自分の写真)しか貼らないような女の子って、仲間意識を覚えて好きになってしまう。
「冴えない女子」アマンダ・セイフライドは、意外と肉体労働が似合いそうな骨格、深爪に近いほどの指、ださいドレス、不恰好な走り方で、役にはまっていた。昔の少女漫画では、主人公がよく「私は目ばかりぎょろぎょろしてて痩せっぽちで、可愛くないから…」と自分を卑下してたものだけど、実際には「可愛い」という点も含めて、実写化したらああいう風かもと思った。

(10/08/08・新宿武蔵野館)


ベスト・キッド (2010/アメリカ=中国/監督ハラルド・ズワルト)

84年「ベスト・キッド」のリメイク。主役にウィル・スミスの息子のジェイデンくん、師匠にジャッキー・チェン。
とても面白かった。カンフーやりたくなってしまう。

まずは冒頭、初めて北京にやってきた少年の目に映る「異国」感と、その中での「一人ぼっち」感がいい。映画がデトロイト(母親は車工場勤務)を発つ様子で始まっているため、「ホーム」感との対比で、より強く感じられる。古い校舎のような、ドアも開けっぱなしの集合住宅は、お湯の使い方もアメリカとは全く違う。もやのかかった町並み、公園で体を動かす近所の人々、自転車での通勤風景、お嬢様の住む高級住宅街。ほんとにこんなふうなの?と思っちゃうけど(笑)分かりやすくて楽しい。「鳥の巣」や紫禁城、万里の長城が強調されるあたりは立派な観光映画。

作中カンフーを披露するのは、ジャッキーの他は子どもたちばかり。ドレ(ジェイデンくん)を苛める子どもたち、彼らが通う(ドレが目を輝かす)武術学校の生徒達、ラストの大会に出場する選手たち。皆エネルギーとスピードに溢れており、まさに「疲れを知らない」って感じ。ジャッキーが苛めっ子に「勝つ」のを目の当たりにしても、彼らのほうがすごいんじゃない?と一瞬思ってしまう…でもそうじゃない、とこの映画は語る。
ジャッキーはドレを自分のカンフーの源の地に連れて行くなどし(このシーン、色んな技を披露する達人が観光名所のように点在してるのが笑える)「ときには休むことも大事」と教える。ドレは、バイオリンの練習に忙しいお嬢様を遊びに誘い、同じセリフを言う。するとその後、彼女はこれまでになく晴れ晴れとした演奏をしてみせる。ふと、くらもちふさこ「いつもポケットにショパン」の決め台詞「麻子はシチューが得意です」を思い出してしまった。何事も、それだけでなく色々な経験を積むことにより円熟する。カンフーだってそうなのだ。

ジェイデンくんとお嬢様のカップルが可愛らしく、観ていて楽しい。「ラブ・アクチュアリー」なラブシーンもあり。師匠から教わったことを自分も彼女に教えようとするが、わけわかんなくなっちゃうのが、なんとも「男の子」って感じでいい。彼がプレゼントしたあるものには、さすがウィル・スミスの血が流れてるなと吹き出してしまったけど(笑)

クライマックスの大会が開かれるのは、ちょこっとゲーム風の舞台。大きなモニターが設置してあり、点数を決めるたびにそのシーンがリプレイされるのが、安っぽいながら工夫だなと思った。

(10/08/07・新宿ピカデリー)


アイスバーグ!/ルンバ! (2006.2008/ベルギー=フランス/監督ドミニク・アベル、フィオナ・ゴードン、ブルーノ・ロミ)

ベルギーの道化師夫婦、ドミニク・アベル&フィオナ・ゴードンの長編映画第一作「アイスバーグ!」('06)と、08年の第二作「ルンバ!」('08)が同時上映。休憩入れて3時間超の幸福。

「アイスバーグ!」は、氷山に魅せられた女が家庭を捨てて旅に出る…というあらすじからはイメージできないけど、主に荒海を舞台に、カップルが出来上がるまでのお話。
主人公「フィオナ」が畑のキャベツにじょうろで水をやっている、次のシーンでカメラの角度が変わると、その畑がやたら広い!これこそ映画のギャグの基本だよなあと(勝手に思って)嬉しくなる。そうしたミニマムなギャグの他、固定されたカメラの中で人物が出たり入ったり、動き回ったりというシーンが多い。まるでよく出来た箱庭を幾つも見るような…スクリーンという枠の中に、丁寧に作られた「場面」が、足取り軽く歩くような速度で次々と現れるのを味わう快感。
出演してるのが「道化師」だから、身体の動きそのものが楽しい。パンフレットに「チャップリンやキートンを思わせるサイレント映画の復活」とあったけど、そもそもそうした時代の映画スターはそうした力を持っていたんだろう。スクリーンの中のフィオナの身体を、時には目を見張る観客として(ベッドのシーツで作る氷山の斬新さ!)、時には自分を彼女に置き換えて(船上で波に揺られる楽しさ!)楽しむことができる。

「ルンバ!」は、ダンスを愛するカップルが、交通事故を切っ掛けに不幸の連鎖に陥り、最後に愛を復活させるまでを描いた喜劇。
冒頭、前作の静けさを打ち破るかのように、教師役の「フィオナ」が子ども相手にべらべら喋り出す。窓の外を跳ね回る体育教師役の「ドム」。前作より数段カラフル(目に映る色合いも、比喩的な意味としても)になっている。ルンバに合わせて二人の暮らしを見せるオープニング、小洒落たインテリア、ギターに合わせた歌、可愛いわんこ、美味しそうなパン。ダンス大会で賞を取る場面の鮮やかなこと。ドムがフィオナの病室に入る際のギャグのキュートなこと。二人の夢のダンスの軽やかなこと。
事故によりフィオナは片足、ドムは記憶を失くし、それぞれ目に見える欠損が生まれる。そこから生まれるダイレクトなギャグの数々が楽しい。

壁のない「家」にわざわざドアから入るというギャグには、ドリフの刑務所コントを思い出してしまった(志村けんの囚人が、横っちょから檻の外に出られたのに戻ってきて牢破りに励むやつ)。当たり前か、不偏のギャグだもの。

(10/08/03・TOHOシネマズシャンテ)


小さな命が呼ぶとき (2010/アメリカ/監督トム・ヴォーン)

実話を基に、ハリソン・フォードが製作総指揮を取った作品。
「ポンペ病」に冒された二人の子どもを持つビジネスマン(ブレンダン・フレイザー)が、病気の権威である博士(ハリソン・フォード)と共に製薬会社を設立し、治療薬の開発を目指す。

ここ数年ずっと言い続けてるけど、十数年前には王子様だったブレンダンが、全編どこを取ってもアシカかトドのよう。せっかくエスキモーキス(「ハムナプトラ」でも披露している得意技)や後ろからのハグがあるのに!それでもまあ、彼が眉根を寄せる顔を観ているのは楽しい。一方のハリソンは、得意のはみだし者系「社会性のない科学者」をさらりと演じている。

邦題のイメージとは違い、「家族」に焦点を当てた「感動もの」ではなく、立場も性格も異なる二人が同じ目的のために努力する話。バディ経済ものとでもいえばいいかな。「人命を救う」という、それだけ聞けば誰もが賛同するであろう目的が、ビジネスとしてどうやって結実するか。巨大な製薬会社の壁を飾る、子どもの笑顔のパネルが印象的だ。
「お薬できたの!すごい!」という娘の笑顔のために、パパがどれだけ頑張ったか。家族の描写がほどほどに抑えられいるだけにぐっとくる。

研究の資金繰りに困っていたハリソンいわく「病気の子どもの親なら、ベンチャーのパートナーにはうってつけ」。ブレンは同僚に「製薬ベンチャーの10に9社はつぶれるぞ」と忠告されても、何もせずにはいられないと、妻と共に決意をする。
「お金」と「時間」に制限される中、二人の努力が続く。プレゼンを控え「科学者同士なんだから分かってもらえるさ」と準備もしないハリソンだが、真面目に用意したブレンの資料が役に立たず、結局は科学者としての熱弁で話がまとまったり、大企業に身売りをしブレンが重役となるが「当事者の家族は上司としては煙たい」と言われ意見が通らなかったりと、起業ものとしてのあれこれが面白い。

(10/07/28・TOHOシネマズシャンテ)


グッドモーニング・プレジデント (2010/韓国/監督チャン・ジン)

三代に渡る韓国大統領の「素顔」をオムニバス風に描く作品。
任期満了を控え宝くじに当たってしまう大統領その1(イ・スンジェ)、一青年にあることを嘆願されるその2(チャン・ドンゴン)、初の女性大統領となるも夫婦間の問題に悩まされるその3(コ・ドゥシム)といった具合。

小奇麗なセットに泥臭いギャグ、「愛」のシーンには感動的な音楽という、韓国ドラマに疎い私がイメージする「正統派韓国ドラマ」という感じの作品。もっとも作中では「韓国ドラマ」が愛をもってネタにされており、大統領夫人が「今日は○○が死ぬ日よ」と泣くために観ているのが可笑しい。

「私たちは大統領を特別な人だと思っていますが、彼らも妻であり夫であり親であり、その喜びや悲しみは我々と同じなのです」…というラストのナレーションは、大統領官邸のシェフによるもの。一人目が彼との会話の後にある決意をするんだけど、唐突に感じられ戸惑っていたら、二人目も厨房を訪れあることを決めるので、こういうパターンなんだなと分かる。三人目に至っては「悩みがあるときは訪ねるよう言われたの」と口にする(笑)

普段観ている韓国映画の、小さな座り机の前での食事も美味しそうだけど、大統領官邸のメニューも楽しい。忙しい彼らが落ち着いて取れるのは朝食だけ。「普通のおじさん」はごはんとおつゆ、新聞を読んで妻に「後にして」とたしなめられる。「若きシングルファザー」は西洋風のプレートを前に、朝からミーティング。彼が厨房で食べるインスタントラーメンと「市販の」キムチが美味しそう。「初の女性大統領」の誕生日の朝食は、とあるトラブルのためふいになる。「女性の大統領は韓国の母であり妻であり嫁であり…」というセリフに、そりゃ大変すぎると思わせられた(笑)

(10/07/26・シネマート新宿)


ぼくのエリ 200歳の少女 (2008/スウェーデン/監督トーマス・アルフレッドソン)

いじめられっ子の少年が恋した少女は、永遠に生きる吸血鬼だった。

どこにでもある青春のひとコマ…という感じの話ながら、撮り方がとても好みで楽しかった。ラストのプールでの一幕(何が起こるか予想はついてる、それをあれだけセンスよく見せてくれるなんて嬉しい)、それに続く最高のエンディング。
全篇通じて顔のアップが多く、見応えある主人公オスカーの表情が堪能できる。また、とくに始めのうちは、人物が一人ずつ画面の中に現れることが多く、どこか息苦しい、断絶めいた感じを受けた。

寒々しい団地に母親と暮らすオスカーの日常、まずはそれを観てるだけで楽しい。窓辺のミニカー、机の横の鏡、秘密のスクラップブック。水色のマフラーと茶色のブーツ。
友達のいない12歳のオスカーと、12歳の顔をしながら生きてきた吸血鬼のエリは、ともに「異端者」である。物事は、彼等がともにあれとでもいうように進んでいく。必然のように二人は惹かれ合う。しかしそんな二人の間にもパラーバランスとでもいうようなものがあって面白い。
初対面でのエリの去り際の言葉は「友達にはなれないわよ」。「そんな顔してたかな」と口に出すオスカーが可愛い。数日後、エリに貸したルービックキューブをジムの上に見つけた際の、極上の笑顔。会話を交わすうち、エリが誕生日ともプレゼントとも縁がない、自分なんかよりずっと「普通の子」じゃないことが分かる。彼女は吸血鬼だった。「目を閉じたまま、こっちは見ないで、入っていいって言って」。同じベッドの夜。やっぱり吸血鬼だった。「入っていいよって言わなかったら?どうなるの?」大人の真似をして彼女を馬鹿にしてみる。しかし血の涙を見て、思わず抱きしめる。

(以下いわゆる「ネタバレ」を含む)

ラストシーンが素晴らしい。二人はエリと死んだ中年男のように、吸血鬼とそれを助ける人間として暮らすかもしれないし、吸血鬼カップルになるかもしれない。とりあえず「お金はある」から安心だ(笑)
しかし、エリと男が暮らす部屋は荒れ果てていた、というか、何も手が加えられていなかった。オスカーと共に過ごす場所があのようになるとは思えない。やはり今のところ、彼は特別な存在なんだろう。「生きる」ことしかできなかったエリにオスカーはそれ以外のものを与え、エリはオスカーに「生きる」力を与えたのだ。

終盤、オスカーがエリの着替えを覗くシーンにおいて、エリの股間がアップになるが、(日本公開時には)モザイク処理がされている。その下に何があったのか?「女じゃなくても私が好き?」というエリのセリフからして女性器ではないだろうし、モザイクの大きさからして男性器だとも思えない。ということは「性器」はないのだろう。
吸血鬼であろうとなかろうと、「エリ」が、あるいは誰もが「男」でも「女」でもない可能性は常にある。股間に何も無いということを見せなくても、観客はそう想像できる。それを作り手がわざわざ映像にしているのは、(「男」でも「女」でもないという)「可能性」に気付いてもらうための手掛かり、あるいはそういう「可能性」の存在を主張するためだ。それを傷つけてしまうなんて、無体なことだと思った。

(10/07/22・銀座テアトルシネマ)


華麗なるアリバイ (2007/フランス/監督パスカル・ボニゼール)

アガサ・クリスティー「ホロー荘の殺人」の映画化。

私にとっては、ランベール・ウィルソンが「殺されるモテ男」、ヴァレリア・ブルーニ・デデスキが「その筆頭愛人」というだけで、観たかいがあった。ランベールは足先から、デデスキは手からの登場。ランベールのスーツが似合うこと!あの赤いメモ帳も、あれくらいの男じゃなきゃ似合わない。
冒頭、おしゃべりな女主人ルーシーに起こされた娘が手に取るのは、枕元の時計じゃなく携帯電話。このシーンは原作でもテレビドラマ版「名探偵ポワロ」でも印象的だったので、舞台が「現代」に変更されてるのを妙に感じた。
ルーシー役にミュウ=ミュウ。原作やドラマ版では存在そのものが可笑しな、同時にどことなく怖いキャラクターなのに、この作品ではセリフの内容で笑いを取ってたので残念。彼女なら、あんなわざとらしいこと言わなくても雰囲気出せるのに。個性的な袖のシャツを着こなしてたのは良かった。

以前、市川版「犬神家の一族」を観たときだったか、DVDに収録されてた当時の予告編に「娯楽大作!」というテロップがあったんだけど、おそらく向こうの人(これはフランス映画だけど、クリスティの著作は「聖書に次いで読まれてる」そうだから…)にとってもクリスティって横溝ものみたいな感じで、筋も犯人も分かってる話を、今度は誰があの役を?と期待を持って迎えるものなんだろう。
そういう作品は、俗な「心理学」で説明できるキャラクターが登場するから楽しめるものだと思う。だって「名探偵」がパズルを解くように犯人を指摘するんだから、そういう人物で構成されてなきゃ却って不自然だ。
この映画は、中盤より、原作のそういう作りから離れ、個人がやたら主張してくる。ポワロが出てこないのでどうするかと思ったら、容疑者たちが(主に男女間の感情の揺れから)勝手に動いて事件が解決する。地味な刑事の最後のセリフは「すっかりだまされたな」。ランベールの水着・シャワーシーンや女たちの裸がふんだんに振舞われ、犬じゃなく猫が出てくるあたりはフランス的だ。

アニエス・ヴァルダの息子、マチュー・ドゥミも出演。「カンフー・マスター」のオープニングは何度も繰り返し観たなあ(笑)

(10/07/20・Bunkamuraル・シネマ)


インセプション (2010/アメリカ/監督クリストファー・ノーラン)

他人の夢に潜入しアイデアを盗み取る産業スパイたちが、アイデアを「植え付ける」(=inception)という難れ業に挑む話。加えて、業界屈指の才能を持つ主人公コブ(レオナルド・ディカプリオ)が抱える個人的な問題の解決が描かれる。スパイチームのキャストは他にジョセフ・ゴードン=レヴィット、トム・ハーディ、エレン・ペイジなど。

私にとっては、面白いけど、観るのが難しい映画だった。「夢」「潜在意識」って何だろう?などと考えず(どのみち考えたところで、基となる知識があるわけじゃないから無意味なんだけど)、作中のお約束と構造を理解しなくちゃいけないから。

そもそも映画において、「夢」であるということを大々的に謳って破天荒なことをするのって、少し幼稚な気がする。でもそれをあそこまで見ごたえある画と編集で描いてみせる、そのいびつさが魅力的。マリオン・コティヤール演じるコブの妻の「列車が…」の言葉の意味が分かるシーンには震えた。
話のキモは「夢の中の夢」。例えば、睡眠中の人間を風呂に突き落とすと、彼の夢の世界では洪水が起きたり雨が降ったりする(これは確かにありそうなことだ)。ならば、夢の中で夢を見る場合はどうか?この映画においては「上の層(夢1)」の出来事が「下の層(夢1の中の夢)」に影響する。夢の中で車が宙に浮いていれば、さらにその中で見ている夢の世界では皆が無重力状態だ。そういうもんなのか…と思いつつ、なんだか滑稽で笑える。でもその「壮大な馬鹿」設定のおかげで、登場人物に「超能力」を使わせることなく、「現実味」を保ちながら、荒唐無稽で楽しい見せ場が提供できる。

キャスティングも豪華。まずは冒頭、レオとジョセフ、ルーカス・ハースという、私にしてみれば「この間まで高校生やってたような男の子たち」が真面目くさった顔で仕事の話してるのが、可笑しいやら感慨ぶかいやら。ルーカスが消えると、ケイン様の元気なお姿と声を挟んで、キリアン・マーフィが無垢な坊ちゃん役で華を添えてくれる。どこを見回しても楽しい。

合間合間にちらっと挿入される、皆の寝顔も見どころ。機内で彼らの世話をしてた女性にしてみれば、あんな「ド派手なこと」があった間、皆の寝顔を見てただけだったんだよなあ…と思うと可笑しい。

(10/07/19・新宿ピカデリー)


シスタースマイル ドミニクの歌 (2009/フランス=ベルギー/監督ステイン・コニンクス)

「プレスリーより売れた」という「ドミニクの歌」も、話の内容も知らずに観に行った。そしたら音楽や、歌われている「神」についての映画じゃなく、才気と魅力に溢れた女性が世間と衝突しまくったあげく、最後にある境地に達し「幸せ」になる話だった。

60年代の大ヒット曲「ドミニク」を歌った「シスター・スマイル」の物語。
50年代末期のベルギー。家を飛び出し修道院に入ったジャニーヌ(セシル)は、規律に馴染めないながらもギター片手に「ドミニク」を作曲。教会側の思惑もあってレコードデビューを果たし、有名人となる。

冒頭、汗まみれでサッカーに興じるジャニーヌ。日焼けしたたくましい腕と脚、眼鏡もありセシルと分からなかった(前歯で確認)。そんな彼女の下敷きになった友人アニー(サンドリーヌ・ブランク)が顔を赤らめる。家では同居している従妹が、同じベッドで寝ながら「足をくっつけるといいのよ」と擦り寄ってくる。同性愛的な映画なのかなと思ったら、示唆されるだけでなく、最後までそれが柱となる。ただし「スパニッシュ・アパートメント」でセシルが演じたような明確な「レズビアン」とは違い、彼女自身は性欲も薄く、誰かを愛することもない。愛されることでも満たされない。そういう人だっているだろう。

ジャニーヌは家でも修道院でも、食卓のスープに「塩気が足りない」と文句を言う。運動してるからかな?と思ったんだけど、振り返ってみれば、この言動に「提供されたもの」では満足できない彼女の性分が表れている。
才気溢れるジャニーヌは「結婚してパン屋を継ぐこと」を強いる母親とウマが合わない。アフリカへ救援活動に行こうか、美術学校へ行こうか、など色々考えたあげく、信仰心が厚いこともあり家出して尼僧見習いとなる。
当時の修道院は、母親に言わせれば「男と世間が怖い女が逃げ込む所」。高い塀と頑丈な扉で囲まれ、余暇も面会もほぼ許されない。ジャニーヌは規律に反抗して大騒ぎ、マザーじゃなくても「なんで来たの?」と思うだろう。彼女いわく「人生の意味を求めて」。
エネルギーが満ち溢れているのに何をどうしたらいいか分からず、要領も悪く、「バカには負けないわ」と勝気。その真面目さを痛々しく感じた。

家を出る前、ジャニーヌは馴染みの神父にその道に入った理由を聞き、「本能のままに」と返される。その通りに家を出た彼女だが、どこへ行ってもその心は壁にぶち当たり、満たされない。最後に教会に戻り「誰かを愛したい」と泣く彼女に、神父は「これまで全て強固な意志のもとでやってきたんだから、愛することだってできる」と言ってのける。そしてジャニーヌは、かつて「愛を感じない」と「捨てた」アニーの元へ戻るのだ。
あれだけあがいてきた彼女が、最後は意志でもって安らぎを得ようとする。身辺整理をした二人の顔は「幸せ」そうだった。

マザー(修道院長)が隠れて、あるいは意地汚さそうに食べるお菓子(クッキーとプチシュー?)が美味しそう。彼女の、いい・悪い/敵・味方とはくくれない人間らしさが面白い。

(10/07/15・シネスイッチ銀座)


トイ・ストーリー3 (2010/アメリカ/監督リー・アンクリッチ)

眼鏡の邪魔くささを除けば、初めて「『3D』であることを忘れて」観賞できた。同居人は「3Dに慣れたのかラクになった」と言ってたけど、加えて作りも違ってたんだろう。

ウッディの「皆集まって〜」という呼びかけに「もう集まってるよ」と返ってくる(以前よりおもちゃが減っている)少々寂しいオープニング。グリーンアーミーも3人しかいない。
アンディも今や17歳、進学を控え引越し準備の最中だ。ウッディ以外のおもちゃは屋根裏行きが決まったが、手違いでゴミに出されてしまう。なんとか逃げ出した彼らはその仕打ちに憤慨し、保育所行きの段ボールにもぐりこむ。しかし保育所はくまのぬいぐるみロッツォが支配する「監獄」だった。そのことを知ったウッディは、仲間を救うため戻ってくる。

「トイ・ストーリー」で好きなのが、アンディの部屋でハムと恐竜がテレビゲームをしてる場面。何気ない、あんな時間がいつまでも続けばいいのにと思う。でも「おもちゃ」は自ら「環境」を作ることはできず、その「幸せ」は持ち主に依る。1と2の頃から「彼らは『変化』にどう対応するか」ということを考えてたから、「3」の内容を知り、その答えが分かる気がして安堵した。
「3」には「(おもちゃだって)頑張れば状況を変えることができる」というテーマが、これまで以上に力いっぱい描かれている。「いい持ち主」にめぐりあった幸運とたゆまぬ努力、彼らの幸せはその2つがあればこそだ。

このシリーズにおける「バービー」の描かれ方に興味がある…わりに、1と2に(今回の)バービーが出てきたかどうか覚えてないんだけど、「バービー」としては、2ではじいさん(プロスペクター)にちょっかいを出され、エンドクレジットで「ああいう女性にも感情がある」ということがギャグ?になっていた。今回、本編前の「デイ&ナイト」においては、「バービー」は「ストレートの男性」である「主人公」の欲望の対象になるという単純な役柄(自分と「世界」の感覚がいつも一致するというのは、どんな感じだろうとよく思う)。本編の登場人物であるバービーは、持ち主に捨てられるとびーびー泣き、またその「女子力」のおかげで、期せずして一人だけ「ひどい目」を免れるが、仲間を思い、最後には敵に「バービーらしからぬ」ことを言ってのける。
バービーのパートナー・ケンのキャラクターが最高。男ばかり(調べたら紫タコだけは女らしい)の組織で権力を持って仕事をし、バービーに対して「うちで待ってろ」なんて言いながら、お洋服を愛し、趣味の合う相手がいないことを嘆いてる。ラストの展開には、いわゆる「男」と「女」、両方の資質を持つ者がリーダーになるのが一番なんだなと思わせられた(笑)

またこのシリーズでは「人形を使ってお話を作る」ことが「いい遊び」とされる。毎度「悪役」にされたり放り投げられたりしても、「お話」の中でなら良しなのだ。ウッディを拾ったボニーがおままごとに興じるシーンには少し不気味さを感じたけど、作中では彼女は「おもちゃを大事にする子」である(アンディのセリフより)。私は子どもの頃、人形相手にそんな遊びしたことなかったし(リカちゃんの髪切ったり、方向性としてはシドに近いかも)、自分がおもちゃなら、お話に使われるなんてめんどくさいと思っちゃうだろうから、この世界では落ちこぼれだな…
だから、保育所の(年少の)子どもたちのほうが変わるのでなく、おもちゃたちが協力し合って対応するというラストにはぐっときた。

ポテトヘッドがあれを体にするシーンには周囲も私も爆笑。おもちゃたちの「大脱走」が楽しかった。

(10/07/11・新宿ピカデリー)


イエロー・ハンカチーフ (2008/アメリカ/監督ウダヤン・プラサッド)

山田洋次「幸福の黄色いハンカチ」('77)のリメイク。刑期を終え出所した男(高倉健→ウィリアム・ハート)が、偶然出会った若者(武田鉄矢→エディ・レッドメイン/桃井かおり→クリスティン・スチュワート)と共に、かつて愛する女と暮らした地(夕張→ニューオリンズ)を訪ねる物語。「幸福の黄色いハンカチ」の方は、ひと月ほど前に再見した。

原作のエピソードを忠実になぞっている本作には、かなり「とんちんかん」な感じを受けた。比べて観る楽しさはある。
エピソードには「アメリカ」に即した変更がなされている。ゴーディ(エディ・レッドメイン)がぼこられるのはヤクザ(原作ではたこ八郎)でなく車上生活者だったり、ブレット(ウィリアム・ハート)の連れて行かれた警察署に「ビーフカツ」の出前が来たり。
中には無理矢理と思われるものもあり、例えば健さんは夜道で賠償千恵子の「唇を奪」ってしまい気まずくなるが、ブレットとメイ(マリア・ベロ)が仲互いするのは、キスしてきたメイのスカートに手を入れようとして拒絶されたから。ここはあまりに取ってつけたようで、観ていられなかった。
また、原作で私が一番好きな、健さんの話に涙する武田鉄矢に、桃井かおりが「ごめんね〜」と馬乗りになるシーン(あんなに触られるの嫌がってたのに!)は、若者二人の「まともな」会話で済まされていた。武田鉄矢&桃井かおりの、キモいけど気楽なあの感じは何ものにも代えがたい。もっとも舞台が「現代」の「アメリカ」じゃ、本作のキャラクターがぴったりくるんだろう。

また「幸福の〜」では、小出しにされる健さんと倍賞千恵子の「物語」にじらされ、クライマックスで待ってました!と味わう快感があるけど、本作にはそれがない。冒頭からほのめかされるウィリアム・ハートとマリア・ベロの「物語」(雨に打たれて彼女のシャワーシーンを思い出すなど、いかにもアメリカらしい映像)は、あまりにも大味で「もっと観たい」と思わない。
私が日本人だからかもしれないけど、健さんの「あんたは『奥さん』ですか?」→嬉しくて駆け出すシーンにかなうものはないだろう。そもそも「無口」なはずのウィリアム・ハートが、二人の前で「家族を持つ幸せに恵まれた」…なんてべらべら語る様がそのまま映されてるんだから、わびさびも何もない。

流産の後、機嫌を悪くしたウィリアム・ハートに対し、マリア・ベロは「子どもなんて欲しがってなかったのに、流産したらいきなり責めるなんて!」と言う。まさにその通りで、高倉健=ウィリアム・ハートの言動は理不尽なものなのだ(とくに原作では、殺された人がかわいそうだと思っちゃう)。しかし、本作は二人の間に「まっとうな会話」があるためにつまらなくなってしまっており、この話って、日本のあの頃におけるファンタジーだったんだなと思わせられる。

原作では「大人(健さん)」と「若者(武田&桃井)」の年の差は十か二十ってとこ。対して本作では、クリスティン演じるマーティーンが「15歳」、ゴーディはそれより少し年長か。今は大人と子どもの境目があいまいだから、これだけ離れてないと観てる方もぴんとこないのかもしれない。

荷物を持った男二人に対し、クリスティンは着のみ着のまま。登場時には不自然なほど上下重ね着してるのが、次第に内側の服を脱いでいき、最後にはゴーディのシャツを借りている。メイクはどうしてるの?というのはともかく、これなら汚くないから安心だ(笑)

(10/07/07・東劇)


ボローニャの夕暮れ (2008/イタリア/監督プーピ・アヴァーティ)

チラシから「戦時中のパパの思い出話」的なほのぼの映画かと思ってたら、違ってた。テーマは終始「家族」だけど、まずは「もてない少女と両親の話」、そのうち戦争の色が濃くなり、当時を振り返る娘のモノローグで「ハッピーエンド」に終わる。
ラストの「仲直りには時間がかかった」という言葉に、あの後3人はどうなったんだろう?と思わずにいられなかった。

第二次世界大戦中のイタリア、ボローニャ。美術教師のミケーレ(シルヴィオ・オルランド)は妻デリア(フランチェスカ・ネリ)、娘ジョヴァンナ(アルバ・ロルヴァケル)との三人暮らし。ある日ミケーレの勤める学校で女子生徒の他殺死体が発見され、友人だったジョヴァンナが逮捕される。

冒頭、教員である父親が、娘と同じ学校に向かう途中「あの男の子、お前を見てたぞ」。「もてない」娘を「励まし」(母親に言わせれば「間違った自信を付けさせ」)ているんだけど、なんとなく不穏なものを感じる。学校では、娘と話をしていた男子生徒を呼び出し「あの子は他の子と違って繊細だから」「君の成績は私次第だ」。ここにきて、父親の無邪気な顔が怖くなる。父の言動を受け入れている娘も「普通」じゃない。逆に言えば、彼女がそうだから父親がそうなのだ。それにしても、男とくっつけたがっておきながら「傷」は避けたいだなんて、矛盾を感じる。色恋って、色々あるか何もないか、どっちかだと思う。
母親の方は現実的で、17の娘と余計な会話はせず、パーティのためのドレスについて「ボタンを二つ開けるのよ」とアドバイスする。自身の胸元もそうしており、こなれて板に付いている。後に「私だけいつもカヤの外で!」と言うのは、自分はよかれと放っておいていることを、父と娘が共有しており、入っていけない、という感じか。

セピア調の映像で描かれる、当時の暮らしぶりも面白い。食事は毎回パスタ(一度だけ「パスタとオムレツ」のうち後者が選ばれる)。「これからはドイツの缶詰に慣れなきゃ」「甘くて酸っぱくてへんな味」というセリフ。デリアは寝る前に、寝室の洗面台?にストッキングや靴下を干す。また戦後、父が娘に「今夜はテレビを映画を楽しもう」と言うのは、電気屋のウィンドウのテレビを立見し、出たての「カラー映画」を観るということ。何の映画だったのかな?

保護施設に入った娘が、やたら「うんこ」「尻」などシモ方面の言葉を口にするのが気になった。もともとそうだったのか、あるいはそうすることで、何か解放される部分があるのかな?

(10/07/05・銀座シネパスト)


ハングオーバー! (2009/アメリカ/監督トッド・フィリップス)

宣伝から内田けんじの映画みたいな感じかな?と思ってたら、そうでもあるし、そうじゃないところもあった。センスよりパズルめいた作りで勝負って感じの、落ち着いた映画。

バチェラーパーティのためベガスへ繰り出した男たち。翌朝目覚めると、ホテルの部屋はめちゃくちゃ、新郎は消え、なぜか虎と赤ちゃんが。二日酔いの三人は、失われた記憶を求めて右往左往する。

副題の「消えた花ムコ」は、ポスターにも登場しないように、作中ほとんど出てこない。観賞後、同居人が「3人は『教師』『ドクター』『無職』だったけど、新郎は何だったんだろう?どうやってあんな逆玉に乗ったのかな?」と言うので、そういやそうだなと思った。
冒頭、豪華なベンツでベガスに向かう彼等のちょっとしたやりとりから、それぞれのキャラクターや関係が分かる。「教師」と「無職」が、思いきったことをやるって点では気が合ったり。後半、事態が発展するにつれ、それらも微妙に変わってくる。

ヘザー・グラハムは好きな女優なので(「ブギーナイツ」から特別)楽しみにしていたら、出番はそれほどなかった。こういう話じゃそれが適当かな。
次に出番の多い女性…「ドクター」の婚約者は、「ヤな感じ」で「地味」で「ヤリマン」。たんに都合に合わせたキャラクターという感じだけど、映画やドラマじゃヤリマンって美人や派手なタイプが多いから、こういう登場人物って嬉しい。ヤリマンだって色んな人がいる。一度の「浮気」でそう言われてるならヘンだけど、それは字幕の問題か。

彼等が「ハングオーバー(二日酔い)」になったのが「自分で飲んだ」せいじゃないところがうまい。お酒あまり飲まない私としては、最後のドクターの冗談めかしたセリフ「記憶があったら、もっと楽しかったのに」が一番印象に残った(笑)

(10/07/04・シネ・リーブル池袋)


レポゼッション・メン (2010/アメリカ=カナダ/監督ミゲル・サポチニク)

人工臓器ビジネスが発達した近未来。高額ローンの返済が滞れば「回収人(レポ・メン)」が体を切り裂き臓器を取り上げる。レミー(ジュード・ロウ)は腕利きのレポ・メンだったが、とある事件により人工心臓を埋め込まれ、追われる身へと転落する。

これは面白かった!「逆予告編サギ」って感じ。
「大企業の陰謀を暴く」話かな?と思ってたら、もっと個人的なストーリー。ああいう、自分の都合だけで突っ走る主人公って大好き(笑)
予告編にある、ジュードがナイフ二丁構えての大立ち回りも、本編で観ると気持ちが乗りに乗る(このシーンに限らず、音楽も最高)。しかも、そうしたクライマックスのバカっぽいシーンの全てにつき、最後には「なるほど」と納得がいく。

前半は「マッチョな社会では、波に乗ってるうちはいいけど、落ちこぼれるとえらい目に遭う」、後半は「追うプロが追われる身になる」という話。
人工臓器を扱う大企業いわく「我が社の人工臓器を移植すれば、これまでのように人が死ぬのを待つ必要はありません」。ポリティカル・コレクトネスを重視する上司。dirty workに携わるレポ・メンは客の前に姿を見せず、高給取りながら倉庫のような控え室から出勤する。ジュード演じるレミーは「仕事は仕事」を信条としていたが、とある事情を経て変わってしまう。しかし周囲は「変化」を許さず、孤立を余儀なくされる。
後半はそんな彼の逃亡&大逆転劇。ちょっとした彩りだったユーモアセンスも影を潜める。潜水艦映画好きとしては、ソナー音を思い出してちょこっとわくわくする場面あり。
同じ「追われる身」だから心が通い合う…というのも単純な話だけど、作中では、人工臓器を持つ者のほうが「人間的」に描かれている。それを持たないレミーの妻が、「サロゲート」のロザムンド・パイクを思わせるつるつる顔なのに対し、人工臓器を10個持つベス(アリシー・ブラガ)は熱と汗を感じさせる容貌。鼻の穴ふくらませて頑張る姿が頼もしい。また、着のみ着のままで逃げてるんだから当然だけど、後半のジュードは、一瞬ジャン・レノにも見えた(笑)

ジュードの「相棒」フォレスト・ウィテカーの左右大きさの違う目に、不吉な予感を抱きつつ、バディものなのか?そうじゃないのか?やっぱりそうなのか?と心乱される。
ラストは「映像の乱れ」くらいに止めておいたほうがスマートだよなあと思うけど…あれはあれで面白いかな?

(10/07/02・新宿武蔵野館)



表紙映画メモ>2010.07・08