表紙映画メモ>2010.05.06

映画メモ 2010年5・6月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

SRサイタマノラッパー2 / 彼とわたしの漂流日記 / 闇の列車、光の旅 / 春だドリフだ 全員集合! / クレイジー・ハート / あの夏の子どもたち / ブライト・スター / 告白 / マイ・ブラザー / BOX 袴田事件 命とは / ローラーガールズ・ダイアリー / 冷たい雨に撃て、約束の銃弾を / パリより愛をこめて / アリス・イン・ワンダーランド / 運命のボタン / アドベンチャーランドへようこそ / オーケストラ! / クロッシング

SRサイタマノラッパー2 (2010/日本/監督入江悠)

前作は観てないけど、予告編に遭遇して、どんな映画かな?と興味を持った。

冒頭、自室で寝ている主人公アユム(山田真歩)が父親に起こされる。「かっこいい女になる」という壁の標語と裏腹に、貼りっぱなしでかぴかぴになったフェイスマスク、スナック菓子の袋をかたむけても中は空っぽ。仕事は父と二人のこんにゃく工場。そこへ祖母がやってきて、食べたはずのごはんをねだる…という描写。ポップな「腐り方」。ああいう環境でも、部屋きれいにして、セックスして、楽しくやることだってできるじゃん?と思ってしまった。

かつてヒップホップグループを結成していた5人が10年ぶりに集まるも、とある出来事がきっかけで再び亀裂が生じる。アユムは他のメンバーから、当時の曲について「こんなの、もう歌えない」と言われるんだけど、その歌詞というのが「うちらにはキラキラの未来がある!」みたいなやつ。私が高校生のころ音楽やってたら、あんな歌詞書かないよなあ、と思ったけど、そんな私だから、音楽とか、やらないんだよな。彼女たちは昔、そういうことを言いたくて、ラップしてたんだよな。
終盤、行き詰まり、尊敬する「タケダ先輩」の前でつぶやくアユムの横顔のアップ。「将来は、友達たくさん作ったり、外国行ったり、してると思ってたのに」「ライブできなくてごめんなさい」。彼女が抱いていたのは漠然とした夢。それってきっと、よくあることだろう。

…なんて、違和感はありつつ、楽しかった。10年もの空白の後に、あんなにすらすらリリックが出てくるものかな?とも思ったけど、そのへんは「オーケストラ!」と同じようなファンタジーものなんだろう。途中やエンディングに一人歩きするアユムの姿に、歌うのが好きな気持ちが表れてて良かった。

アユムの仲間役の安藤サクラは「クヒオ大佐」に出演の…と言われても思い出せないけど、この作品ではとても良かった。登場時、ボロ旅館の座り机の前で、厚ぼったい靴下の裏がこちらを向いている。女5人が久々に「Bの部屋」に集まり(このシーンが一番好き!)、ほらほら!え〜?とかやってるうち、不意にラップを始める。プールでの営業が終わった際、文句は言いつつも「書き直さなきゃ」と前向きなことを言うシーンには、さすがの(女にはそんなこと感じない)私も「このまま別れたくない!同じ家に帰りたい!」と思ってしまった(笑)

(10/06/28・新宿バルト9)


彼とわたしの漂流日記 (2009/韓国/監督イ・ヘジュン)

とても楽しい作品。唐突だけど、今、くらもちふさこの漫画にいちばん近い「感じ」の映画を撮る監督はこの人だと思う。しかし媒体が違えば…漫画と映画じゃ「感じ」が似てても受け取るものは違ってくる。悪い意味じゃなく、同じ類の感動は受けない。

自殺しようと漢江に飛び込んだものの、大都会の中の「無人島」に流れついてしまった男(チョン・ジョエン)は、知恵を絞ってサバイバル生活を始める。一方、対岸のマンションで引きこもり生活を続ける女(チョン・リョウォン)が、カメラ越しに彼の姿を見つける。

「ヨコヅナ・マドンナ」(とても面白かった)の監督作と知り観に行った。切れてしまった電話に向かってもしもし!と話しかける、「悪い女」はタバコを吸ってる、そんなベタながら鼻につかない描写の合間に、そうかも、と思わせられる瞬間が挟み込まれる。水に飛び込んだ男が見る幻想が、いかにもで楽しい。
ちなみに遭難した人間が「顔」に話しかけるというので、トム・ハンクスの「キャスト・アウェイ」を思い出した。悲壮さは全く違うけど…

「自殺願望」と「ひきこもり」…前作の「ヨコヅナ・マドンナ」を考えたら、「社会に適応できない」人間を好んで取り上げるタイプの監督なのかな。しかし「ひきこもり」女性の顔に「あざ」がある、という設定は私には少し受け入れ難かった(「あのあざ汚いよね〜」というウェブ上への他人の書き込みがあることから、ひきこもった原因の一つであろうことが分かる)。そうした傾向の助長にならないかとおそれてしまうから。

(10/06/25・新宿バルト9)


闇の列車、光の旅 (2010/アメリカ=メキシコ/監督キャリー・ジョージ・フクナガ)

中米のホンジュラス。少女サイラは、父と叔父との三人でアメリカへの不法入国を目指す。グアテマラ、メキシコを経て、目的地はニュージャージーだ。
メキシコのとあるギャング団の一員である少年カスペルは、移民から金品を奪うため、リーダーと共に貨物列車の屋根に上がり込む。そこにはサイラたちが乗っていた。

原題「Sin Nombre」は「名無し」という意味のスペイン語だそうだけど、この邦題もわるくない。黒々とした闇の中、現れる列車。到着を待って線路の上で寝ていた者たちが次々と起き出す様子が印象的だ。

予告編から想像してたより、ずっと「娯楽的」な映画。描かれるのは不法移民とギャング…ということでロードムービー+ギャングものとして味わえる。
のろのろ進む貨物列車の屋根の上、「早くて2週間」「ほとんどの者はたどり着けない」命懸けの旅。突然の雨にシートを被ったり、通り過ぎる土地によって全く違う物を投げつけられたり、山頂の像を目にしてお祈りしたり…そして、次第に周囲は「都会」になってゆく。
一方、サイラとの「出会い」により、組織を「裏切」ってしまったカスベルは、かつての仲間に追われるはめになる。携帯電話に「殺す」とメールが来るあたり、ギャングの日常生活をしのばせる(知らないけど)。手下だった「チビ」が、組織のために彼を殺すと宣言し、同い年くらいの(ギャングではない)仲間に銃を自慢するシーンに胸が痛くなった。

「なぜこうなった?」と頭を抱えるカスベルと、「一緒にいたい」と彼を追うサイラ。やがて二人は、共にゆく道を選ぶ。カスベルのサイラに対する「絶対に(先に渡米している)家族を探すんだ」というセリフに、真心を感じた。
自分と同行することの危険を諭すカスベルに向かって、サイラは「あなたを信じてるわ」と言う。俗に(テレビドラマなどで使われる場合)男女の仲で「信じる」とは「嘘をつかない」ということだけど、この場合は違う。「信じる」とは、何かが自分にとってただ「信じる」対象になる、そういうシンプルなことなのだ。
サイラが叔父に「あいつに関わるな、命令だ」と釘を刺されるシーンでは、あのとき何もしなかったくせに!と思ってしまった。カスベルは過去の経験がなければ彼女を助けなかったかもしれない、あの状況では父も叔父も手を出せるはずがない、そう分かっていても、あの場で「助けてくれた」ことは絶対だ。

ギャングのリーダーが、サイラについて「サルマ・ハエックに似てる」と言うので、どんな映画観てるのかな?と思ってしまった。

(10/06/24・TOHOシネマズシャンテ)


春だドリフだ 全員集合! (1971/日本/監督渡辺祐介)

「落語映画は花ざかり」特集というので、初めて神保町シアターに行ってみた。

ドリフターズの主演映画が作られたのは67年から75年までだそう。74年生まれの私は、テレビの再放送?で幾つか観た記憶がおぼろげにあるだけ。長さんが火葬場で焼かれるシーンはハッキリ覚えている。

「『道具屋』しかまともにできない20年目の二つ目」の「いかり亭長楽」(いかりや長介)、無理矢理その弟子にさせられた「いかり亭茶楽」(加藤茶)、長楽とは「一緒に隅田川の産湯を使った仲」の今川焼屋主人(高木ブー)と遊び人(荒井注)、長楽の隣に越してくる学生さん(仲本工事)らのドタバタ劇。ヒロインに長山藍子。

おそらくドリフターズ主演の他の映画もそうなんだろうけど、コントの場合と同じく、「善人」は存在せず、たまたま立場が上の長さんが威張り散らすも反撃される、というのがギャグになっている。「虐げられ、逆襲する」のは茶の役目。最後に長さんが「このままでは終わらないぞ!」とどアップでシメるのが気持ちいい(笑)クライマックスのどたばたはしっかり、私の知ってるドリフ風味。

落語ネタについて…といっても私は落語聴き初めて2年程しか経ってないし、ナマで観ることしかしないので、当時の色んな落語家が出演してるんだろうけど分からなかった。
冒頭の舞台は伊賀上野。ストリップ小屋で高座に上った長さんが「早くヌードを見せろ!」などとヤジを飛ばされる様は、円丈がかつての浅草について語るマクラみたい(笑)
長さんの師匠役に円生。歯並びがわるい!どアップで見たことないから知らなかった。とても愛嬌がある。タバコを手に淡々と「マクラなんていいから、ほかのとこやってみな」…フィクションだけど、もしかしてこんなふうに弟子に接してたのかも…なんて思ってしまう。ネタばれになっちゃうけど(今後観る人も少なそうだから書いちゃうけど)、ラスト「真打ちにするのは破談です、私は落語連盟を辞めます」と言うセリフには、しんみりしてしまった。
長さんの弟弟子ながら成長めざましい噺家に左とん平。「らくだ」がおはこ。ちなみに彼と想い合う長山藍子との会話「今頃らくだでもやってんのかと思ったら、聴きに行きたくなっちゃって…」「どうして分かった?らくだをやったんだよ」…噺家との恋ってそういうものなのか(笑)
作中出てくる寄席は、浅草演芸ホールと末廣亭、後者が主。周辺の様子も今とは全然違うし、中もとても狭く、座席が横5列しかない。楽屋も何度か登場し(本物かな?)、お囃子さんが並んで鳴らしてる様子や、円生の出勤?風景が見られる。作り物なんだろうけど、ネタ帳もちらっと映る。
茶が出囃子の太鼓をおかしく叩いて、高座に上った長さんが踊ってしまうシーンは、ドリフのコントそのもの。その後の「へんなお茶」はさながら「くしゃみ講釈」。
ちなみに長さんが作中長々とやってた「二十四孝」という噺、初めて聴いた。

(10/06/17・神保町シアター)


クレイジー・ハート (2009/アメリカ/監督スコット・クーパー)

わるい意味じゃなく、なんだこりゃという気持ちになった。私にとってジェフはいまだに、大好きな「サンダーボルト」のライトフットなので、イーストウッドつながりで「センチメンタル・アドベンチャー」を勝手にイメージしてたら、たんなるおっさんの恋物語…しかも幸せな恋の話だった。

「伝説の」カントリー歌手バッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジス)は現在57歳、アル中で痔持ちの身体を抱えて一人ドサ回りの毎日。トップスターとなった弟子のトミー(コリン・ファレル)からの作曲依頼も断り酒浸りだったが、巡業先で新聞記者のジーン(マギー・ギレンホール)に出会い、意欲を燃やし始める。

ジーンに惚れたバッドの目には、彼女しか映らない。「君がいると部屋が汚く見える」「こんな部屋で申し訳ない」などとしきりに言う。まぶしく感じられる誰かがいるって幸せなことだ。たとえ、重ねた年のせいか、実際に掃除に取り掛かるまで時間がかかるにしても。また、意を決して疎遠だった息子に連絡も取る。これまで手つかずだったことに対してやる気が出るというのも幸せなことだ。
一方、ジーンの「愛」のセリフはどれも唐突で、冗談かと思ってしまった。私と同世代の役柄だから自分と重ねてしまい、いくらなんでもアレ(役作りでぶくぶくになったジェフ・ブリッジス)はないだろ…という気持ちで観てしまったからかもしれない。恋なんて何でもあり、当人同士の問題なんだけども。

「自堕落」なバッドはしょっちゅうベルトとファスナーをゆるめている。長旅の途中に用を足すためでもあるし、そうでなくても、一人のときはたいていそうしている。そのため途中からそこばかりチェックしてしまった。年寄りに対しては、性的な意味じゃなく、股間が気になるものだ。ゆるめてないけど、インディ4のハリソンしかり。

役作りで相当太ったジェフ・ブリッジスは、まさに「肉とビスケット、酒とタバコ」ばかり摂取してる臭そうなオヤジそのもの。ただしギブスからのぞく足先の、白い指とそろった爪が、素の彼をしのばせた。
マギー・ギレンホールの、垂れた頬と胸(これはいつもだけど)、髪型がとても良かった。登場時、事情もあってドアの外で目を伏せてるんだけど、その後もそういうショットが多く、とても魅力的。またベッドで下を触られて浮かべる笑顔がいい。ああいう顔になってしまうセックスっていいものだ。
スター歌手を演じたコリン・ファレルは、なぜか分からないけど、これまでになくかっこよく感じられた。彼がコンサートを行う会場は、どこも豊かな自然に囲まれた…というか周囲に何もない所で、なかなか気持ちよさそう。ジェフともども、歌も上手かった。

(10/06/16・角川シネマ新宿)


あの夏の子どもたち (2009/フランス/監督ミア・ハンセン=ラブ)

ラストに流れる「ケ・セラ・セラ」に、なるほどその通りと思わせられる。

冒頭、映画プロデューサーの父親が、2台の携帯電話とタバコを片時も放さず車を運転するシーンが長々と続き、はらはらさせられる。
予告編から想像してたのと違い、始めの半分ほどを占めるのは彼の日常。一日のほとんどを金策に飛び回っており、映画を担保にしたり差し押さえられたり、車一台の手配に困ったり、経費節約のために見習いスタッフを使って苦情が来たり。その合間に、家族との時間がある。「週末用の郊外の別荘」で、遺跡を訪ねたり、水浴したり。

彼が死んだ後、三人の娘たち(というか上の二人)に周囲の大人がかける言葉が印象的だ。
大きなショックを受けたであろうママも、娘にはいわく「死は人生の数ある出来事のひとつよ」。パパの相棒は「パパは君たちのことを思ってたけど、昨日は苦しくて一瞬忘れちゃったんだ。でももう苦しんでない」「(私たち、これからどうなるの?)君は若い女性に成長して、恋人を作るんだ」。

パリを発つ日、清算中の事務所に立ち寄ったママと娘たちの、笑顔とキスの嵐が印象的。
作中通して、出てくる女性たちの、普通っぽい体型に適当な服(ワンピース一枚に、肌寒ければ何か羽織ったり)が、いかにもフランスぽくて良かった。

(10/06/14・恵比寿ガーデンシネマ)


ブライト・スター (2009/イギリス=オーストラリア/監督ジェーン・カンピオン)

「たとえば湖に飛び込む、その目的は岸に辿り着くためでも泳ぐためでもない、
 感じるためなんだ」


25歳で夭折した詩人ジョン・キーツ(ベン・ウィショー)と、彼が愛した女性ファニー(アビー・コーニシュ)の物語。ジェーン・カンピオン監督作。

始まってすぐ、アップで現れるのはファニーの操る針と糸。次から次へと画面に生地が広がる「モリエール」のオープニングを思い出した。どちらも「芸術家」の恋物語、いずれも今年観た映画の中でベスト3に入る。

19世紀初頭、ロンドン郊外の暮らし。とにかく映るもの全てがすてきで、画面を見ているだけで楽しい。姉妹の小さな寝室(ベッドに座って小さな机で手紙を書く姿がいい)、理想的な出窓、台所。素晴らしい「家」が、おもに窓を通して外の自然と調和する。日差し、雨、雪、風、花、虫の声。雨にそぼ濡れる白い洗濯物や、ガラスと薄布の間から外を見る後頭部など、印象的な画の数々。ばさっとした場面の移り変わりも、それらを引きたてている。

全篇に流れる「詩人」と「お裁縫家」の血…言葉とお洋服に加え、「詩人」の実情も少しうかがえる。「詩を習いに」訪ねてきたファニーにジョンが語る冒頭のセリフ。後に「木立の上で美しい人にキスをした」夢を「体感」してみるジョンの姿が可愛い。
「どうやって詩を作るの?」との問いに、ジョンいわく「生まれてこないなら、生まないほうがまし」。相棒ブラウンによれば「ぼくらが外を眺めてぼーっとしていても、ひらめきを待っているのだから…」それを受けてファニーの母は「いつでも食事にいらして」。詩人と普通の人とでは、会話がかみ合わないこともある(笑)
それにしても、ものを作る男はたくさんいるけど、「好きな男が書いた詩を自分でくちずさむ」って、どういう感じだろう?と想像した。状況だって色々だ、一人で、彼の前で、また彼を失って…

物語はシンプルだ。ファニーの一家(母と弟、妹)は「家賃の節約にもなる」というセリフから大層裕福ではないんだろうけど、作中では「仕事」せず、子どもたちは学校に行くわけでもなく、日がな「家」で過ごしている。そこにジョン・キーツが相棒と共にやってきて、二人は恋におちるが、ジョンが貧乏で病弱なために結婚できない…というだけのこと。ゆったりした枠の中で、愛し合う二人の姿が美しく丁寧に描かれる。

ジョンとブラウンの仕事部屋にファニーが入ってきて、まるで結婚したらこんなふうかも…というふうに黙って執筆と裁縫に向かうシーンが可笑しい。もっともブラウンが出て行くと、二人は即座にソファで体を寄せ合うんだけども。

ベン・ウィショーのもしゃもしゃの髪(ソファでファニーに頭を預けるシーンが可愛い)、常にこちらを覗き込んでいるような目、薄皮の下から血が、情熱がはじけ出してきそうな赤い唇が良い。
それから、ファニーの弟役にトーマス・サングスター…「ラブ・アクチュアリー」でリーアム・ニーソンの息子、「トリスタンとイゾルデ」でジェームズ・フランコの少年時代を演じた彼。当時はあまりの可愛さに(人の顔を覚えられない私も)一発でインプットしたものだ。今や声は低くなったけど、お尻は服の中で泳いでる。作中では母の手足となり目となり姉を見守る役で、当時のこういう家の男の子はたいへんだ(笑)

(10/06/10・新宿武蔵野館)


告白 (2010/日本/監督中島哲也)

「私の娘が死にました…このクラスの生徒に殺されたのです」

冒頭、松たか子が生徒たちの前で長々と話すシーンは、教員(らしき経験がある者←私)ならいたたまれなくなること必至。しかし、映画はその後、関係者数人の「告白」で進んでいくが、松たか子がどんな教員だったか、生徒たちがどんな生徒だったか、ほとんど描かれないので、気楽に観られた。

私は「学校」を端的に表すものとは「喧騒と静寂とのギャップ」だと思っている(学校を舞台にした映画で、これが表されてるものは大体楽しい)。この映画の、上記の「第一の告白」シーンでも、大騒ぎと静けさとが繰り返されるけど、ここでの「静寂」とは、織り込まれる他のシーンだ。へんな言い方だけど、そこのところに、すごく人工的な感じを受けた。

関係者のうちの一人、ある女生徒は松たか子演じる先生に「手紙」を書き続ける。彼女は先生をどう思ってたんだろう?なぜ「手紙」を書くんだろう?と思いながら観た。
話は突然変わるけど、かつて漫画家の岡田あーみんが、自身の作品が文庫化された際のあとがきに「めちゃくちゃな話でも、主人公の女の子だけはまともにしてしまう」というようなことを書いており、印象的だった。この映画も終わってみれば、あの女生徒はそうした「女主人公」だったんだなと思った。

(10/06/07・新宿ピカデリー)


マイ・ブラザー (2009/アメリカ/監督ジム・シェリダン)

「戦争の行方は死者だけが知るって言うけど、ぼくは…」

壊されるだけ壊されて、生きて戻った人、その周囲の人はどうすりゃいいの?って話。

米軍大尉のサム(トビー・マグワイア)と、銀行強盗で服役中の弟トミー(ジェイク・ギレンホール)。サムのアフガニスタン出征と入れ替わりのように出所したトミーに、元海兵隊員の父(サム・シェパード)やサムの妻グレース(ナタリー・ポートマン)は嫌悪感も露わに接する。
そんな中届いた、サムの訃報。打ちひしがれるグレースと妻たちは、手を尽くしてくれるトミーと打ち解けあう。しかしサムは死んではいなかった。

夫婦二人と、子どもの演技が見もの。トビーの後ろ姿…首から肩、肩甲骨、肌の下にあふれる緊張感、最後に静かに流れる涙。ナタリーの、生活感あふれる「すごい美人」ぶり。
娘二人はもともと「イイ顔」なのが、どうやって演技つけてるんだろう?と思わせられるほど表情がすごい。父親に、使い古されたなぞなぞ聞かされてるときの顔には参った。
(長女役のベイリー・マディソンって「テラビシアにかける橋」の妹だった子か〜)

自分が「死ぬほど愛してる」相手のもとから離れている間、そばに誰かがおり、戻ってみたら「ティーンエイジャー同士」のような関係になってるなんて、そりゃあ穏やかじゃいられないだろう。加えてあんな体験をしてきた後なら、その心境は…しかし子どもたちにはそこまで想像できない。パパ好き、怖い、なんで?と移り変わる感情がありありと顔に表れる。それでいて、両親が「男と女」だという感覚がないんだろうなと思っていたら、あんな一撃を放つんだから、面白いものだ。

一度だけ触れ合った後の、サムの涙の意味が、考えてみたけど私にはよく分からなかった。一方遺書に手を伸ばすグレースの気持ちはよく分かった。

前半、一家のごたごたとアフガニスタンで捕虜となっているサムとの状況とが交互に描かれるんだけど、後者が遠い場所での出来事…まるで「現実じゃない」かのように感じられたのには、少し怖くなった。

(10/06/04・新宿武蔵野館)


BOX 袴田事件 命とは (2010/日本/監督高橋伴明)

題材は実在の「袴田事件」。昭和41年、静岡県のみそ製造会社の専務宅において強盗殺人放火事件が発生。従業員の元プロボクサー・袴田(新井浩文)が逮捕され、19日後に自白するも、裁判では一転して無罪を主張。主任判事の熊本(萩原聖人)は、自白の信憑性に疑問を抱く。

期せずして舞台挨拶に遭遇した。上映終了後に高橋伴明監督、萩原聖人、新井浩文、石橋凌が檀上で挨拶。まずはほぼ全員が「映画館に来てくれてありがとう」。
監督いわく、一番言いたいことは「冤罪はいかん!」。また、モントリオール映画祭に出品決定したことについて「ありがたいけど、裁判員制度のために作ったから、日本の皆に観て、評価してほしい」。
主演の萩原聖人によると「最近はほとんどの監督がモニター見てるけど、伴明監督はいつもカメラの横にいるから緊張する」。新井浩文はくだけた調子で会場の空気を柔らげ、石橋凌は「類型じゃない、一人の人間を演じるよう努力した」と述べた。

萩原聖人の登場シーンが学ランだったのにはびっくり。ギリギリいける(笑)
(ちなみに90年代前半に私が高校生だった頃、彼は女子に大人気だった)

オープニングから陰鬱な音楽が延々と流れて、暗い気持ちになる。その後は正直、長い講習ビデオを観てるようだった。萩原聖人が弁護士の後輩に向って「アウシュビッツでのそうした例を知ってるか?」「知りません」「それはね…」というように、色んなことが懇切丁寧に説明される。予告編を観た際には、なぜ彼がこの役を?と思ったけど、こういう分かりやすさには合ってる。
物語はちょっとした昭和史にもなっており、冒頭では、実写フィルムを挟み込みながら、昭和11年に生まれた袴田と熊本が育っていく様子が描かれる。彼等が教科書を黒塗りする(塗りつぶされる)シーンに、もしこれが外国映画なら、このレベルの「歴史的事実」であっても、私の知らないことってたくさんあるんだよなあ、などとふと思った。

映画が始まると、画面に大きな「○」と「×」が出現する。そしてラスト、「あなたが裁判員ならどう裁きますか?」というナレーションに続いて、再度「○」と「×」が映し出される。
「映画」を根拠にそんな判断していいのか?と一瞬思ったけど、考えたら、そういうことじゃない。重要なのは、作中萩原聖人が何度か口にする「裁判において、裁判官もまた裁かれている」というセリフ。「17歳の肖像」の感想に書いたことにもつながるけど、人間が人間相手に何かを行う場合、それは決して、一方的な行為ではありえない。大きな意味では、そのことを改めて考えるための映画だと受け取った。

(10/05/29・銀座シネパトス)


ローラーガールズ・ダイアリー (2009/アメリカ/監督ドリュー・バリモア)

「これは接触(contact)するスポーツなんだ、接触を恐れるな」

ドリュー・バリモアと同世代の私としては、フォックス・サーチライトの(20世紀フォックスの)ファンファーレが流れた時点で、初監督作かあ!とじんときてしまった(笑)あれもこれもと盛り沢山の内容が、いかにもドリューらしい。

テキサスの田舎町。17歳のブリス(エレン・ペイジ)は、母に言われるままミスコン漬けの日々を送っているが、やる気はゼロ、結果も芳しくない。ある日、ひょんなことから出会ったローラーゲームに心奪われ、入団テストを受けに隣町へ出向く。

始まってほどなく、友達に突き飛ばされて男の子の胸へ、彼の顔を見上げるエレン・ペイジの瞳、そして会場の電気が落ちる…という、なんてことない一連のシーンにぐっときた。あえて言うなら、見られたり憧れられたりという「対象」じゃない、「自分が主役」の世界の感覚。これってやっぱり気持ちいい。ドリューにずっと映画を作っていってほしいと思った。
主役のエレン・ペイジもとても可愛く、内股気味の彼女が、美容室の洗面台で貧乏ゆすりしたり、レコード棚の前にしゃがみこんで脚を掻いたりという仕草の数々も魅力的(若干浮いて感じられる所もあり)。

それにしても、ローラーゲーム、やりたくなる!楽しそう!選手同士でアザを見せあう姿は、マフィア映画で銃弾や傷の跡を自慢し合う男同士のようだ(そんな映画があるのか知らないけど・笑)。
画面を埋め尽くす女たちは始終群れ合っており、男が入っていけない、という場面が幾つかある。コーチは飲み会に来ないよう言われるし(「でも行く」けど)、司会者は選手を口説いて嫌な顔をされ、ブリスと親友のパシュが働くバーガーショップ?の店長は2対1ということもあり立場が弱い。しかしそれらは明るく処理されているし、真面目に接すれば真面目な関係が生じる。

ブリスの両親役に、マーシャ・ゲイ・ハーデンとダニエル・スターン。帰宅した尻を触り合うのが「おかえり」のしるし。袖なしシャツを愛用し、正装時にはカウボーイハットを被るパパも素敵だけど、作中ではブリスと母親とのやりとりが胸にくる。

「今は非難しないで」
「ママと居ると後ろめたい気持ちになるの」「それは嬉しくないわ」
「私の気持ちを受け入れてくれる?」「難しいけどね」


自分の気持ちを率直に言い合う様子が気持ちいい。この二人に限らず、当然ながら登場人物の信条やセンスはそれぞれ異なっているが、彼等が「接触」をやめることはない。ブリスの「尊敬する人」は始め「アメリア・イアハート」だったのが(この場面において、彼女は例え気が乗らない場でも、本心を表す人間だということが分かる)、そうしたあれこれを経て「ママ」になる。
また、「美しい時は短いのよ」と叱咤激励されたブリスの「ママは今でもきれいよ」というセリフも心に残った。「美」とは誰かがそれを感じた所に生まれるものだから、ママは本当にきれいなのだ。ちなみに私も子どもの頃から今まで、自分の母親は美人だと思っている。

その他、エレン・ペイジを取り巻くのは、「唯一の親友」パシュ(アリア・ショウカット/体型や服装がイイ)、チームの仲間、マギー・メイヘムにクリスティン・ウィグ。入団テストを受けに来たブリスに声を掛ける彼女、カメラがひくと、その格好が実用一点張りというか、日本で言うならヨーカドーあたりで揃っちゃいそうなのが、分かってるな〜という感じ。
大人の男として、コーチにアンドリュー・ウィルソン(やっぱりウィルソン兄弟は金髪がいい・笑/しかも私、あのジーンズ切ったやつ好きなんだ…)、ゲームの司会者に「2番目のキス」でドリューの彼氏だったジミー・ファロン。
そしてライバルチームの「アイアン・メイヴィン」、ジュリエット・ルイスが最高!ぺたんこの胸がたまらない。「またこんな役か〜!」と私が嫌になるまで、ああいう役やり続けてほしい(笑)
ドリュー自身もチームの一員として出演。後ろに小さく映ってるときでも、しゃがれた笑い声が響いてる。とにかく楽しそうなので、観ているこちらもいい気分。ちなみにコーチが彼女を怒る文句は「また遅刻か!」じゃなく「遅刻がかっこいいと思うなよ!」

(10/05/23・TOHOシネマズシャンテ)


冷たい雨に撃て、約束の銃弾を (2009/フランス-香港/監督ジョニー・トー)

「This is 映画」、最高に面白かった。こういうのを劇場で観られれば幸せ。
オープニングに匂う「こりゃいいぞ!」感、全篇に渡る、爆発させない程度に手綱を締めた高揚感、ラストのはかない幸福感、安易な例えだけど、普段こういうセックスができれば幸せだな〜って感じの映画。

愛する娘とその家族を襲われた初老のフランス人・コステロ(ジョニー・アリディ)が、マカオで復讐を誓う。かつての傷により記憶を失ってゆく身の彼だが、「全財産」を投げ打ち、クワン(アンソニー・ウォン)ら殺し屋三人組を雇う。

ジョニー・アリディはほぼ全篇、ソフト帽にトレンチコート、その襟を立てている。うちの父が母によく「こうしたほうがかっこいいんだから〜」と襟をいじられてるのを思い出してしまった(笑)ケガをしようと、記憶を失おうと、ジョニーの襟は立ったまま。ダンディな男なのだ。

冒頭から心躍るシーンの連続。まずは娘役のシルヴィー・テステューが素晴らしい。子どもを抱えてひきつる顔、銃を撃つ姿、そして涙。魅力的な「普通」っぽさがある。
その現場をコステロたちが訪れる場面には、作中最も高揚させられた。荒らされた「家」を調べる殺し屋たちの姿の合間に、彼等の手で検証されてゆく、事件の様子のフラッシュバックが挟みこまれる。一方で、冷蔵庫を覘き、娘の買った食材でパスタを作るコステロ。そして「三人の東洋人と一人の西洋人」は、共に食卓を囲む。娘の暮らすマカオに、コステロは「初めて来た」と言う。そんな彼の過去が一つ、ここで明かされる。

月明かりの下で行われる、第一の銃撃戦。「撃ち合い」そのものだけじゃなく、その状況、さらには銃を持つ人間のポリシー…俗に言う「美学」が面白い。子どもの投げたフリスビーを背に無言の男たちには笑いもこみあげてきたけど、彼等が揃いでキメている「美学」に胸打たれる。
殺し屋やマフィアが出てくる映画なんて、つまらなかったら「しょせん人殺しじゃん」で終わりだ。でも面白い映画って、観ている内は「我に返らない」。丹念に描き込まれる(「敵」側には無い)主人公側の「美学」、加えて「悪役」の分かりやすいワルさに、心が燃える。
また、この映画では終始、色んな意味での「ファミリー」が強調されており、クワンの「いとこ」と殺し屋たちが「それじゃあまたな〜」「今度めし食おうな〜」と別れる時に流れる、作中唯一の牧歌的な音楽が印象的だった。

劇場に貼ってあった監督ジョニー・トーのインタビューによると、主役は始めアラン・ドロンに依頼してたそうだけど、ジョニー・アリディ、最高だった。「記憶障害、年寄り、異国人」という「ハンデ」が活きている。映画においては「弱い人間」の「強さ」が輝く。
雨の中、迷子になるシーンでは、そのぶさいくで年取った犬のような、でもよく見ると愛らしい顔、小さな目に泣かされた。ちなみにこの「傘」のシーンは黒澤映画を思い出させた。

(10/05/21・新宿武蔵野館)


パリより愛をこめて (2010/フランス/監督ピエール・モレル)

「96時間」コンビ(リュック・ベッソン&ピエール・モレル)による、トラボルタ&ジョナサン・リース=マイヤーズのバディアクションもの。トラボルタ演じる「かっこいい破天荒オヤジ」…というより「破天荒なオヤジって、かっこいいだろ?」とムリヤリ言い含められてるような一時間半。

初めて人を撃ったジョナは返り血にまみれるが、「一時間に一人以上」をあっさり片付けていくトラボルタのスキンヘッドは、つるっときれいなまま。作品のナイーブな部分を全て受け持つジョナに対し、まさに超人だ。その「超人」ぶりが面白い映画なんだけど、体調のせいもあってか、いまいち乗り切れず。

「万能」なトラボルタはセックスも強い。彼が売春婦と姿を消すと、ジョナのいる隣の部屋が揺れる…というような描写ってありがちだし、この場面ではこれがジャストなんだろうけど、半ばギャグとはいえ「ガタガタ」=充実したセックス=(男が憧れる)イイ男、みたいな記号的表現って、やっぱり萎える。私にとっては、固いちんこの誇示って、いやらしさから最も遠いから、でもって、男の人にはいやらしくあってほしいから。この作品では、所々にとってつけたようなフェミっぽいセリフを差し込んでおきながら、事後の女の表情は映さないあたり(売春婦とはいえ、ここは満足した!ってのを表すべきだろう・笑)気が利かないな〜と思ってしまった。
(近年この「ガタガタ」描写が楽しかったのは、アダム・サンドラーの「エージェント・ゾーハン」のみ)

トラボルタが「エッフェル塔で朝食といこう」と言うので、どんなとこだろう?と思ったら、西武池袋のホームあがる前の立ち食いコーナーみたいな所(少なくとも映画の中ではそう見えた)。でも「royal with cheese」好きなトラボルタ、ひいては彼等にとっての「パリ」って、そういう所なんだろうなあと思わせられ、悪くない。
ちなみにこの「royal with cheese」や、二人がスタートレックについて交わす会話はタランティーノ作品の、二丁拳銃などを駆使した銃撃戦はジョン・ウー作品のオマージュ?と思われるんだけど、これらのお遊びは、トラボルタの背負う(「ゲット・ショーティ」じゃないけど)映画愛…映画「業界」のわびさび感によってのみ、見られるものになっている。大体、あんな不味そうなバーガー何度も大写しにすることない、箱だけでいいのに(笑)

(10/05/15・新宿ピカデリー)


アリス・イン・ワンダーランド (2010/アメリカ/監督ティム・バートン)

映画を観てあらためて気付いたのは、熱心なファンじゃない私にとって、「アリス」の魅力とは「アリスのような体験がしたい」に尽きるということ。穴に落ちながら棚のものを取ったり、小さくなって周囲の物にびびったり、動物と喋ったり。それらを「体感」するという「想像」が楽しいわけだ。子どもの頃「鏡の国のアリス」を読んだ後は、母親の鏡台をためつすがめつ眺めてたもの。
だから、「私の」理想の「アリス」映像化とは、終始アリス視点で、彼女自身の姿も無し、加えて、ちょっと遊びたいだけだから、めんどくさいことは嫌。そういう意味で、主観がほとんどなく、あちこち飛び回って戦わなきゃいけない本作は、あまり楽しくなかった(笑)
(まあ私の理想を突き詰めたら、映画じゃなくバーチャル遊園地になっちゃうか…)

原作なら、不思議の国は荒唐無稽で不条理で、現実世界とどっちがいいか?なんて比較しようと思わないけど、この作品の不思議の国のキャラクターは「人間的」で、ある意味「リアル」。冒頭に描かれる、行き場のなに「現実」よりずっと居心地よさそうなので、物語が終わりに近付くにつれ、帰ってしまって大丈夫?と一抹の恐ろしさを覚えた。
もちろん(ディズニー映画の)アリスは自ら「帰る」ことを選び、映画とはいえあまりに無茶な「成長」ぶりで、「現実」を打破してみせる。しかしその態度は、自分が「善い」と思うことを相手にもしてあげるという、(私が苦手とするところの)「アメリカ」的なものでがっかりした。若さゆえの潔癖さ、残酷さと取ればいいのかな?ともかく、この「とってつけた」感に、こんな話、冗談だよ?というバートンからのメッセージを無理矢理読み取ることにした(笑)

作中もっとも心打たれるのが、ヘレナ・ボナム・カーター演じる赤の女王の「やっぱり、愛されるより恐れられたほうがいい…」というつぶやき。「アリス」ってそういう、胸打たれたりするもんじゃないよなあと思いつつ、映画は映画だし、バートン作品だし、とも思う。
彼女の「私が長女なんだから!」とのセリフに、同居人が「横溝正史ものみたい」と言うので、ふしぎの孤島を訪れた金田一アリスか〜と可笑しくなった。

ちなみに新宿ピカデリーで3D字幕版を観たんだけど、今のところ私は、映画鑑賞において「3Dがもたらしてくれる奥行き」がさほど必要だと思えない。「眼鏡かけてる」違和感と差し引きすると、マイナスになってしまう。でも、以前にも書いたけど、モノクロとカラーみたいなもので、たんに慣れの問題なのかな。
何だかんだ言いつつ、それぞれの衣装やお茶会のテーブルなどのビジュアルが楽しかったので、2Dでもう一度観るつもり。見た目がいちばん可愛かったのはカエル☆

(10/05/11・新宿ピカデリー)


運命のボタン (2009/アメリカ/監督リチャード・ケリー)

リチャード・マシスンの原作をふくらませにふくらませたこの作品は、映画として一つの「正解」だと思う。大画面ですがすがしいハッタリを観るのは楽しい。ジェームズ・マースデンがあそこを抜けるシーンなんて、今どきかなりチープな描写なんだけど、気持ちよくさえなってしまった。

1976年、アメリカのヴァージニア州。ノーマ(キャメロン・ディアス)とアーサー(ジェームズ・マースデン)の夫婦が一人息子と暮らす家に、「箱」(原題「The Box」)を持った男(フランク・ランジェラ)が現れる。いわく「箱の中のボタンを押せば100万ドルが手に入るが、代わりに知らない誰かが死ぬ」…

「The Box」にまつわるスジの通った物語ではない。教員であるキャメロン・ディアスが「欠損している」足を生徒に見せる冒頭から、思わせぶりで「奇妙」なものが次々と提示される。美少年、ぼけた写真、シンメトリー、整列、蛍光灯の灯り…70年代という舞台が活きている。
観ているこちらの、「自分(主人公)以外の誰もが怪しい」という不安は、最後には、身をゆだねてみたいという不思議な気持ちへと変わる。終盤、涙を流してフランク・ランジェラにある「愛」を告げるキャメロンや、アレの中に飛びこんでゆくジェームズの姿も、すんなり受け入れられる。

とはいえ私が観ていて楽しめた理由の大方は、ジェームズ・マースデンがこれまでになく可愛かったから。薄給の身で派手なクルマに乗りながら「お金がないと幸せになれないのかい?」なんて聞いてくる、職場で妻への贈り物をせっせと作っている、無邪気で思いやりのある男。
キャメロン・ディアス演じる妻は、弱音ひとつ吐かず頑張ってきたけど、本当は今と違う暮らしを望んでいる。長身にまとうコートやスカーフ、厚ぼったい質感のスリップなどの70年代ファッションが見もの。
舞台が「1976年」だからなのか、現代の映画ではあまり観られない、素直に父親の言うことを聞く子どもの姿も新鮮だった。

(10/05/10・新宿武蔵野館)


アドベンチャーランドへようこそ (2009/アメリカ/監督グレッグ・モットーラ)

(10/05/08)


オーケストラ! (2009/フランス/監督ラデュ・ミヘイレアニュ)

「僕たちの音楽は、技術じゃなく魂、エスプリなんだ」…なんて、ニセ楽団がパリ公演だなんて、全くありえないけど、最高の夢物語。

ボリショイ劇場で清掃員として働くアンドレイ(アレクセイ・グシュコフ)は、30年前にとある事情で解雇された「伝説の指揮者」。仕事中に出演依頼のファックスを手にした彼は、かつての仲間を集めて楽団になりすまし、パリのシャトレ劇場へ乗り込むことを思いつく。

ラストの演奏シーンは勿論だけど、準備にかかる前半も楽しい。「昔の仲間を集める」シーンってやっぱり燃える。2週間で「55人」(渡仏するのは「56人」だけど)のメンバーを揃えるため、アンドレイとでぶの相棒サーシャはおんぼろ救急車で走りまわる。人数分のボックスを紙に書き、名前を埋めていく様子に、指揮者の頭の中にはああいう図がちゃんと入ってるんだな〜なんて思ったり。
仲間の中には、違う形で演奏を仕事にしている者あり、楽器を手放してしまった者あり。かつての才能を最初に見せてくれるのは、ミュージシャンではなく「ボリショイ最高のマネージャー」でもあった、当時の支配人イワン(ヴァレリー・バリノフ)。今も変わらぬハッタリに、にやりとするアンドレイの顔がいい。
明るく豪奢な環境に暮らすパリの劇場主やソリストのアンヌ・マリー(メラニー・ロラン)に対し、一度音楽を「奪われた」アンドレイと仲間たちは、比喩でなく、陽の当たらない場所で生きている。とくにアンドレイの場合、「仮の生活」感があったんだろうと思わせられる。

アンドレイの妻イリーナ(アンナ・カメンコヴァ)が良かった。「田舎に畑が欲しい」なんて、家でも仕事にきりきりしてるけど、夫のことが大好き。あれだけ愛し、尊敬できる相手がいるって幸せなことだ。「二度と彼を傷つけたら許さない」とタンカを切る場面(と、その後の男達の行動)が最高。「君がいればなあ…」と電話口で寂しがる夫に「国際電話は高いから切るわよ」ってのも可笑しい。
アンヌ・マリーの育て親兼マネージャーにミュウ=ミュウ。最後にマスカラの溶けた黒い涙を流す。

(10/05/07・Bunkamuraル・シネマ)


クロッシング (2008/韓国/監督キム・テギュン)

北朝鮮の炭鉱の町に暮らすヨンス(チャ・インピョ)は、肺結核を患った妻の薬を入手するため中国へ渡る。しかし誤解により「亡命」してしまい、家へ戻れない。その間に妻は亡くなり、一人残された息子ジュニは父に会うため国境を目指すが、強制収容所に収監される。

冒頭に描かれる、北朝鮮の「普通」の人々の風景。貧しくとも家族三人、楽しい暮らし。私からするとボーイ・ガールスカウトのような制服姿で歌いながら歩く子どもたちに、それこそ日本の「ALWAYS」のような、教育的意味合いをも含む、イメージビデオのような印象を受けた。「脱北者の話」というだけの前知識から、勝手にドキュメンタリータッチのものを想像していたので意外だった。

しかし、この国の家族の笑顔はもろい。他の国では乗り越えられる問題が、全てを崩す原因になる。
直接的には「(北朝鮮では)薬が買えない」という理由から、父は国境を越える。その後は、父と息子のけなげさ、適度なスリルが(不謹慎な言い方だけど)楽しませてくれる。「雨」や指輪、サッカー、靴といった映画的グッズ、感傷的な音楽、スローモーションなどが駆使され話が進むけど、全てが「本当にこうなんだろうな」という感じで説得力がある。「映画っぽい」がゆえに、観ている間は憂鬱にならないけど、後で考えたら、自分がどうしたらいいのか分からなくなる。

「国境越え」が何度か出てくるけど、最後にジュニが越える国境は、砂漠に貼られたそまつな鉄条網。そのあっけなさが哀しい。
また、暴力を行使する「国」側の人々が、銃を持ちながら、「裏切者」を手足でぼこぼこにするのも印象的だった。

(10/05/04・銀座シネパトス)



表紙映画メモ>2010.05・06