表紙映画メモ>2010.03.04

映画メモ 2010年3・4月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

ファンボーイズ / プレシャス / 17歳の肖像 / アイガー北壁 / 月に囚われた男 / シャッターアイランド / シェルター / やさしい嘘と贈り物 / マイレージ、マイライフ / 幸せのきずな / 抵抗 死刑囚の手記より / ダレン・シャン / 渇き / フィリップ、きみを愛してる! / モリエール 恋こそ喜劇 / プリンセスと魔法のキス / パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々 / しあわせの隠れ場所

ファンボーイズ (2008/アメリカ/監督カイル・ニューマン)

お供に「ファンボーイズセット」(ブルーミルク+キャラメルポップコーン)を購入したけど、ブルーミルク、飲みきれなかった…(笑)
上映前に、この日だけのイベント?「掃除係の逆襲」という寸劇あり。

「スター・ウォーズ エピソード1」公開間近の1998年。余命わずかな友人の「新作を観たい」という願いをかなえるため、仲間たちはフィルムを盗みにルーカスのオフィス「スカイウォーカー・ランチ」を目指す。

「誰がそんなこと気にするっていうんだよ!」
「I do, I care! (「STAR WARS」)」


この(「STAR WARS」)の部分に笑いながら、スターウォーズじゃなくても、物事って、生きるってそういうものなんだよなあと思った…って何のことやらだけど、観れば分かる。

主人公たちは1998年に24歳、私とおない年だ。始めの3作はリアルタイムで観てないだろうから、公開時に劇場体験できるとなれば、そりゃあ嬉しいだろう。私がハノイの再生ライブに嬉々として行ったようなものかな。「駄作だったら?」という冗談ともつかないつぶやきも胸に染みる(笑)
冒頭のハロウィンパーティのシーンなど、雰囲気が懐かしかったけど、それ以降「普通」の人が出てこないため、あまり時代が感じられない(笑/ちなみに映画でいうと、更に数年前だけど「クルーレス」などが私にはファッション的に懐かしい作品)。

そして主役を演じるサム・ハンティントンは、大好きな「デトロイト・ロック・シティ」('99)のジャム!登場時に画面に大写しになった顔は、へんな言い方だけど、まさにあれから成長したまま。脚を開いて猫背気味に、家の前に立ちつくす感じもそのままだった。
「デトロイト〜」と比べてもあまり意味ないけど、同じ青春ものでも、あっちがよくできたほんわか系の話なら、こっちはもっとエッジがきいてるというか、雑然としてるというか。でもどちらも、KISSやスターウォーズにさほど詳しくなくても楽しめる内容だ。

「クイズ」シーンが二度もあったので、ああいうファンの人たちって本当にクイズが好きなんだろうなあ、というか、せずにはいられないんだろうなあと思った。ちなみに同居人はスターウォーズ好きだけど「一つも分からなかった」そう(笑)

(10/04/28・渋谷シアターTSUTAYA)


プレシャス (2009/アメリカ/監督リー・ダニエルズ)

先日観た「17歳の肖像」と同じく、こちらも少女が「教育」により変わる話。その内容は全く違うけど、彼女たちは「教育」により、待つ身から抜け出し「自由」の可能性に気付く。

ハーレム、1987年。16歳の「プレシャス」(ガボレイ・シディベ)は、父親にレイプされ二度めの妊娠中、母親(モニーク)からは虐待を受ける毎日。学校を追い出され、フリースクールでレイン先生(ポーラ・パットン)に読み書きを教わることになる。

物語の最後に出る言葉は「全ての愛しい女の子たちへ」。プレシャスのモノローグや「彼女自身」が夢の自分を演じる空想、過去の体験などが混ぜ合わさって進む感じは、少女漫画みたいだなと思った。不幸の原因になった(さらに背景があるのかもしれないけど、ここではキリないから…)男の顔がほとんど映されず、姿を消したままというのもそれっぽい。レイプされた経験がフラッシュバックする映像において、男がベルトを外すのが印象的。あの仕草、音って、その時によって色んな…いずれにせよ何か強い感じを受けるものだ。
プレシャスは「不幸のてんこもり」状態でありながら、耐え忍んでいるふうでも、感情が消えてしまったふうでもない。しじゅう文句と物を投げつけてくる母親を適度に無視し、適度に反撃する。巨体でクラスメイトに立ち向かえば結構強い。そのへんの「普通っぽさ」が、観ていて気持ちよかった。

プレシャスの母親は、年がら年中テレビの前に座りっぱなし。テレビがなかった時代なら、こういう境遇の人ってどうしてたんだろう?なんて思ってしまった。テレビが枠ごと大写しになってるだけの場面も何度かあり、それはまるで、彼女の心の空虚さを表してるようだった。
一方のレイン先生は、家でテレビを観ない。夜の団らん(プレシャスのためか、スクラブル?をしたり)に加わったプレシャスが「テレビで観るクリスマスみたい」「テレビの討論番組みたい」と思うのが、せつなく可笑しい。

プレシャスは彼女なりにおしゃれに熱心だ。就寝時には前髪を丁寧に巻き、外出時には鮮やかな色のスカーフやネックレスなどの小物をあしらう。鏡台の前には幾つもの身だしなみ用品が並ぶ。買い物の様子は出てこなかったけど、どんなふうに選んでるのかな?と思った。
終盤プレシャスは、愛用していた赤いスカーフを、同じ建物に住む女の子の首にそっとかけてやる。深読みすれば、自分同様に虐待を受けている彼女が、あと数年はそれを必要とすると考えたのかもしれないけど、過去の自分の「お守り」を粗末にしない所がいいなと思った。
そしてその時、プレシャスは、これまでの「細く、肌が白く」なりたいという気持ちが、「今のままでいい」に変わっていることに気付く。目の前の大きな鏡に、初めてそのままの彼女が映る。

看護師役のレニー・クラヴィッツ、食事はやりすぎじゃないかと思ったけど(笑)いい男すぎる。「退院したらマクドナルドを好きなだけ食べるんだな、でもここでは健康に気を付けて」という言い様、プレシャスの友達にからかわれた時の引き際もいい。

(10/04/27・TOHOシネマズシャンテ)


17歳の肖像 (2009/イギリス/監督ロネ・シェルフィグ)

「あなたの小論文はいつも私の励みになってるけど、それは励みにならないものだわ」

先生のこの言葉に涙があふれ、まさにこれは「an education」(原題)についての映画なんだと思った。

1961年、ロンドン郊外。16歳のジェニー(キャリー・マリガン)は、オックスフォード大学目指して勉強を重ねる毎日。しかし年上の男性デイヴィッド(ピーター・サースガード)と知り合い、世界が一変する。

「教育」は必要なものだが、おこがましい概念でもある。私が教員を辞めた理由の一つは、あるとき、自分の指示通りに全員が作業してるのを見て、空恐ろしくなったから。教育する側には、「大層なこと」をしているという認識と、自らも影響を受け変化するのだという自覚が必要だと思う。私にはそれを持って頑張る強さがなかった。

高校生のジェニーにとって、眼鏡にひっつめ髪のスタッブス先生(オリヴィア・ウィリアムズ)は「死んだような」存在。「彼」の話で盛り上がっていると、「恋愛の時間は終わり、現実に戻るわよ」なんて注意される。
「彼」と憧れのパリへ出掛けたジェニーは、友達へのおみやげの傍ら、先生にシャネルの香水を買ってくる。それに対するセリフが冒頭のものだ。自らも影響を受けていることを伝え、「正しい」と思うアドバイスをする。なんて心のこもった教育者の言葉だろうと胸を打たれた。終盤の二人のやりとり、「その言葉を待ってたの」というセリフにも泣かされた。

では、同じくジェニーを「教育」するデイヴィッドの方はどうか?そのぴっちりした髪型、贅肉のついた体、板に付き過ぎたユーモア、彼のは一見、全てにおいて出来上がってしまい揺るがない感じがする。「君は与えた全てを吸収し、それ以上に求める子だ」という言い様からは、支配欲や尊大さが感じられる。しかし彼も、ジェニーを「特別」に思うようになり、変化する。ただし変わりようのない部分もある。ジェニーは彼によって変わり、彼もまた変わったが、それは(ジェニーからすれば)微々たるものだった…ということだ。
そもそも、性的な間柄においては、教育って成り立たないものじゃないかとも思う。人生の、自分の一部にプレイとしてあるなら楽しいものかもしれないけど。実際、デイヴィッドが辛抱たまらなくなってジェニーにプロポーズしたあたりから…彼が「教育プレイ」を踏み越えた愛情を表す頃から、映画には陳腐な恋物語の匂いが漂う。そして、たんなる年の離れた二人の関係は終焉を迎える。

初めての音楽会の夜、デイヴィッドの「仲間」であるヘレン(ロザムンド・パイク)の見事な毛皮に思わず触れるジェニー。「チェルシーで買ったのよ」との言葉に、フランス語で「私には高級ね」と返すが、通じない。相手構わずそういうことを口にしてしまうジェニーの世界の狭さ。このシーンには一抹の切なさと、不吉な予感を覚えた。

全体を通して強く感じたのが、私の体感し得ない「60年代」。
まずはジェニーの、フランスへの強い憧れ。家ではグレコのレコードを聴き、友人とは煙草片手にカミュを語る。後の彼女が実際に訪れる「パリ」の普通っぽさに比べて、それらにはゆがんだ輝きを感じた。
また、当時は「お勉強」と「カルチャー」、「子ども」と「大人」がはっきり分かれており、あれもこれもというわけにはいかない。「勉強しながらおしゃれはできない」「進学できなければ結婚」なのだ。私の感覚からすると「大人の男」との関係は「それはそれ」であり、進学含め気楽に色々するのがいいように思うけど(実際、自分や友達もそうしてきたけど)、ジェニーの態度は頑なだ。彼女の性分だけじゃなく、そういう時代だったんだろう。そもそも、観ている分には楽しいオープニングタイトル(ジェニーの学校の授業の様子がテンポよく流れる)も、自分の身に置き換えたら窮屈そうだ。

見どころの一つが、エマ・トンプソン演じる校長先生のかっこよさ。堂々たる体躯で着こなされる服とアクセサリー。

「要点は分かった?」
「…帰ってもいいですか」
「いいわよ」


「勉強を続ければ、教員になれるわよ」(中略)「教員だけでなく、公務員にもね」という彼女のセリフには笑いが起きてたけど、実際そうだったんだろう。10年ほど後になるけど(国も違うけど/景気も関係するけど)、私の母も「四大を出た女子の就職先は、教員か司書くらいしかなかった」と言っていた。

60年代ファッションも見ていて楽しい。体育の授業の際の、白いポロシャツにグレーのミニスカートという格好に、ミニスカートが動きやすさを重視して作られたものだということがよく分かる。

(10/04/23・TOHOシネマズシャンテ)


アイガー北壁 (2008/ドイツ-オーストリア-スイス/監督フィリップ・シュテルツェル)

面白かった。「山の映画」好きとしてじゅうぶん満足。

実話を基に制作。
1936年。ナチス政権がドイツ人によるアイガー北壁初登頂を望む中、共に23歳のトニー・クルツとアンドレアス・ヒンターシュトイサーが挑戦を決める。現地にはベルリンで新聞記者として働く二人の幼馴染、ルイーゼも到着。オーストリア隊に追われながら登攀を開始するが、負傷や悪天候に見舞われ、状況は悪化してゆく。

山が好き…といっても、山を題材にした映画や本が主で、自身では近場にちょこっと出掛ける程度の私にとって、まずは「山」周辺を分かりやすく魅力的に描く前半が面白かった。
ナチス政権下の「山」事情に関する冒頭の説明が、本作オリジナルの登場人物であるルイーゼが勤める新聞社の様子で強化される。次いで、若き登山家・トニーとアンディが仲良く登場。アルプスを望む山岳猟兵学校の様子が面白い。貧しい二人は自宅でハーケンを作り(!)、アイガーまで700キロの道のりを、自転車で荷物を引っ張ってゆく(!!)
物見高い「傍観者」たちは列車でアイガーを目指す。窓の外に山肌が現れる瞬間の、胸の高鳴り(それが終盤、再度映る際には全く違って見える)。クライネシャイデックのホテルに到着したルイーゼの、都会では見られなかった、うっとりした瞳。彼女が泊まるのは、北壁を望む「バス付き」の部屋だ。ディナーに集うのは、登山に「ロマン」を感じる裕福なゲストたち。窓から見下ろすベースキャンプには、各国から「登山界の有名人」が集まり、腹の探り合いを始めている。

「私たちに本当のドラマは見えない、想像するしかないんだ」
とはルイーゼの上司の弁だが、後半はその「ドラマ」がたっぷり観られる。直近では「運命を分けたザイル2」で事の成り行きを叩き込まれてるだけに、出発時から緊張してしまった。
天候によって豹変する世界。30年代の登山装備(彼等の場合アイゼンも無し…/ちなみにこの手の描写で一番好きなのは「氷壁の女」)、アンディが考案した「振り子トラバース」、メンバー間でのすれ違い(幅数十センチの岩棚で相手に手を掛ける場面も)など、見せ場がいっぱい。
岩肌に響く負傷の絶叫、凍傷で黒い炭のようになった腕など、肉体的な「痛み」はもちろん、どうにもならない恐怖と絶望感がひしひしと伝わってくる。どんなアクションものでも味わえない、山の映画ならではの感覚だ。

晴れた日にはテラスで楽しそうに望遠鏡を覗き、登山者を応援する観光客が、雪が降れば暖かい部屋から出ようともしない。愛する誰かを送り出した者だけが、胸を痛め山を仰ぐ。しかし登山者は、この場合はそれぞれ背景があったとはいえ、自ら「物好き」と言うように、結局は意思で出向いてるわけだから…そのへんがつくづく、人間の面白いところ。
救助に向かう列車内で、何とか頼み込んで来てもらったガイドに向けるルイーゼの、一見半笑いにも映る表情が何とも言えない。

ホテルが振る舞う「アイガー北壁ケーキ」は、映画に出てくるデザートの中でも忘れられないものになりそう。奥さん「登山者も一人ちょうだい」/ダンナ「オーストリア人なら良かった」というセリフが笑える。
「マン・オン・ワイヤー」に、ワールドトレードセンターを制した綱渡りの男を(見ず知らずの)女が待ってた、というくだりがあったけど、命を危険にさらしてる男の「生」を喰らってみたいという欲望って、自分の中にもあるかもしれないと思った。

(10/04/18・新宿バルト9)


月に囚われた男 (2009/イギリス/監督ダンカン・ジョーンズ)

近未来、燃料生産会社ルナ産業の社員サム・ベル(サム・ロックウェル)は、エネルギー源採掘作業のため、独り月面に派遣されていた。任期終了まで2週間となったある日、作業中の事故で意識を失う。目覚めると、そこには自分と瓜二つの人間がいた。

観ながら「なぜ?」と感じる部分が幾つかあった。大企業がたった「一人」を派遣する。ロボットやコンピュータが「近未来」のものに見えない。ロボットの言動の基順が分からない。サムはどうやって助けられたのか…など。これらは、実際に行われる場合にはそういうものであるか、あるいは古いSF作品のオマージュなのかもしれない。いずれにせよ、そうした曖昧さは、基地内部の真っ白な柔らかさに溶けてゆき、邪魔にならない。雰囲気としては、昔の萩尾望都の漫画を思い出した。

映画の「主人公」への感情移入が揺さぶられる構造が面白い。
くたびれ果てた古いサムに対し、目覚めたばかりのクローン人間である新しいサムは、しゃきっとしており、「非人間」的な、不穏な存在に見える。サングラスの影からこちらを窺い、「おれの」娯楽室を勝手に…暴力的に使い、話しかけても、不快な動作で音を立てシャットアウトしてくる。新しいサムは、古いサムとのやりとりを通じて「人間」的になってゆく。しかし古いサムは、たった一人で3年を生きて、ああいうふうになった。「人間」になるのに何が必要なのか?性分と環境。時間を経るということ。

印象的だったのは、古いサムと新しいサムとが、共有している記憶の話をするシーン。二人は妻との出会いを楽しそうに語り合い、古いサムは笑いながら意識を失ってゆく。苦痛をやわらげるため、新しいサムがこの話題を振ったのだろう。この場面に意外な感じを受け、私は「記憶」は自分だけのものだからこそ価値がある、「記憶」は「移植」すればするほど「薄く」なる、と思ってることに気付いた。
別のシーンでは、サムがサムに言う…「あいつを殺すことなんてできないよ、おれにも、お前にも」。なるほどクローンだから、自分がそうなら相手もそうだって「分かる」のか。これも体験し得ない感覚だ。

「つなぎ」好きとしては、こういう「作業員もの」「(正確には「宇宙飛行士」だけど)って楽しみなものだけど、そもそもサム・ロックウェルは私にとって特にかっこよくないし、この作品では新しいサムが卓球をする時、つなぎを腰まで下ろして結ぶ姿だけが良かった(笑)

(10/04/12・恵比寿ガーデンシネマ)


シャッターアイランド (2009/アメリカ/監督マーティン・スコセッシ)

1954年。ボストン沖合に浮かぶ孤島「シャッターアイランド」は、精神病に侵された犯罪者の収容施設。連邦捜査官のテディ(レオナルド・ディカプリオ)は、相棒チャック(マーク・ラファロ)と共に、女性患者が行方不明になった事件の捜査に訪れる。

本編前に散々「結末は他言無用」「映像中の表情や手の動きに注目」といった表記がされるので、つい「謎解き」目線で観てしまい、前半はぴんとこなかったけど、どんな話かつかめてきた後半からぐんぐん面白くなった。テーマは作中ベン・キングズレーが口にする「妄想」。また人の心の奥に潜む「暴力」についても語られる。
じめじめした建物や波の砕ける崖、灯台のデコラティブならせん階段など、「古色蒼然」といった感じの舞台が楽しい。終始額に縦ジワを刻んだレオの歯くいしばり顔に笑わせられた。

他の分野でも同様のことってあるけど、映画においては、「私」にとっての世界が、多くの場合、いわゆる「本人目線」でなく、当人を含めた「客観的」映像で表現される。そこにズレ…怠慢、あるいは様々な可能性がある。この映画では、その「可能性」を楽しむことができる。
終盤、○○が○○に向けて空の銃を発砲すると、血が流れる映像に次いで、そうではない(何事も起こらなかった)映像が流れる。「妄想」と「現実」との境界、あるいは「妄想から覚める」ってそういうことなのか?と、ここのみ安っぽい感じを受けた。でも同居人は良かったと言うから、たんに好みの問題か。

(10/04/09・ユナイテッドシネマとしまえん)


シェルター (2009/アメリカ/監督マンス・マーリンド、ビョルン・ステイン)

「こう考えたら?自分の見たことこそ現実なんだと」

精神分析医のカーラ(ジュリアン・ムーア)は、「多重人格」とみられるデヴィッド(ジョナサン・リース・マイヤーズ)に引き合わされる。「多重人格」を認めないカーラが彼の身辺を探ると、意外な事実が次々と判明する。

今更ジュリアン・ムーアとジョナサン・リース・マイヤーズかあ…と思いながら、どんな話か知らずに臨んだところ、ジュリアン出演作の多くがそうであるように、彼女の魅力で楽しく観られた。
上唇の上のしわ(老婆のしるし)、寄せも上げもしない胸(夜はノーブラ)、寸詰まりって感じの横顔、どれも見ていて心地いい。スクールガール風の格好(コートの下にタートルネックとプリーツスカート)を色違いでコーディネイトしてるのが、私も気に入った衣類は色違いで揃えるタイプなので、共感しながら観た。

「医者として科学を信じ、人として神を信じる」というカーラ。彼女の「多重人格なんてマスメディアや映画が作り上げたもの」というセリフから、それじゃあ、この映画ではどんなものが見られるのかな?と思っていたら、多重人格ものじゃなく、いわゆるオカルトだった。でも、へんな言い方だけど、「オカルト」としての謎解きが合理的にされていくので、すっきり観られる。

冒頭、ジュリアンとジョナが入った部屋のドアを捉えるカメラからずっと、「ジュリアン・ムーアに危険が迫る」という感じの撮り方がされる。大仰で俗っぽい音楽もそれを煽る。しかし不思議と、いい意味で落ち着いて観ることができる。実は胸の十字架(に表れている信仰心)が彼女を救うんだけど、私が安心して観ていられた理由は、ジュリアンが「触られる」のでなく「触る」側の女だから。そこに生命力を感じるから。昔から彼女って、そういうイメージがあるこの作品内でも、幾つかのシーンでジョナに触れ、時には廃屋のバスルームのカーテンをつかんで謎に迫る。「母性」「肉食」なんて言葉ではしっくりこない、ジュリアンのそういう「触り」ぶりの良さを、改めて感じた。

大変な目に遭う、ジュリアンの弟の部屋で大きく目立ってるのは、ジョイ・ディヴィジョンと「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」のポスター。ちなみに監督はスウェーデンの二人組だそう。

(10/04/05・新宿バルト9)


やさしい嘘と贈り物 (2008/アメリカ/監督ニコラス・ファクラー)

アメリカの小さな町に暮らす老人ロバート(マーティン・ランド―)は、スーパーに勤めながら、独り身を寂しく感じていた。
ある日、向かいに越してきたメアリー(エレン・バースティン)と知り合い、デートを重ね親密な仲になる。実は、彼女は認知症のロバートが忘れてしまった妻だった。

二人が「イチから」デートを重ねる前半は、楽しそうだなんて、罪深い観方をしてしまった。私は(たとえ付き合って一ヶ月の相手であっても)「他人プレイ」をしてみたくなるし、「向かいの家に帰る」って気楽そうだし、「リタイア」してるから日がなデートができる。
おしゃれなレストランで「(小声で)実はこれ、マズいの!」なんて言って笑い合う。プレゼントを贈り合う際、ロバートがこれ!というものの他にこまごま用意するのは、もともとの性分なんだろう。そういうのって変わらないものだ(笑)これらのシーンに、二人の過ごしてきた長く豊かな時間を思った。

とはいえ始めのうちは、あまりに上品すぎる絵空事に感じられ、話に入り込めなかった。ロバートを取り巻く人々の言動は邦題通り「やさしい嘘」なんだから作り物めいてて当然なんだけど、セットや音楽、撮り方などが、私にはファンタジーすぎた。手の届かない棚にまで間隔を置いて並べられた器の数々(後に、おそらく妻の手によるものだろうと分かるんだけど)、出来すぎのコメディ然とした仲間のデート指南、「ロバートからロバートへ」の贈り物の中身、そりのデートで流れるアヴェマリア!(ただし音楽の多くは、ロバートの目覚ましのラジオから流れるものに繋がっているので自然に聴ける)
でも、まずは、マーティン・ランド―とエレン・バースティンが互いの名前を教え合うシーンで、胸がいっぱいになった。役者の力ってすごい。中盤、二人が「初めて」キスを交わすと、イルミネーションがぱあっと輝く。もうそんなもの、気にならない。
そして、物語の最後に「家族」が登場し、画面にバラの花びら?が舞い散るのが、まるで(作中キーとなる)スノードームのようで、こういう箱庭的ファンタジーなんだなと思った。

認知症のロバートの脳内?を表す、シナプスをイメージしたような映像に、なぜかドラマ「悪魔のようなあいつ」でジュリーが倒れるシーンを思い出してしまった(笑)ちょっと古臭い感じ。
ロバートが真相を知るクライマックスはまるで古い恐怖映画の趣で、脳こそが恐怖の根源なんだとつくづく思い知らされる。

一つだけ分からなかったこと。冒頭から何度か画面が分割される。中盤、ロバートとメアリーがそれぞれのベッドで眠りに着くシーンにも使われており、そっか、一緒に居た頃は寝る時の「位置」が決まってたはずだから、それを表してるんだなと思ったら、後半、実際に判明した「位置」はそれとは違ってた。ちょっと納得できない…

(10/04/02・シネスイッチ銀座)


マイレージ、マイライフ (2009/アメリカ/監督ジェイソン・ライトマン)

年に322日の出張をこなすライアン・ビンガム(ジョージ・クルーニー)の仕事は、リストラ宣告人。航空会社のマイレージ1000万マイルを達成する日を夢見ていた。目標到達間近の彼の前に、同様に国内を飛び回るアレックス(ヴェラ・ファーミガ)、社に「出張廃止」案を提出した新人ナタリー(アナ・ケンドリック)が現れる。

ジョージ・クルーニーって苦手だけど、初めてかっこいいなと思った。顔も体もすっきり絞られており、笑顔もキュート。「笑顔のすてきな人」が好みというヴェラ・ファーミガが、彼を求めるのも分かる。「人との繋がりを求めない」、「ホーム」を持たないからこそ、それこそ「見た目が10割」状態なのかもしれない。実際、心境の変わったラストシーンの彼の顔には、それまでになかった疲れと老いが現れている。

予告編にかぶさる文句「あなたの人生のスーツケース、詰め込み過ぎていませんか?」から、「マイルを貯めることが生きがいの男」が「改心」して生活を変える話なのかと思っていたら、そういう単純な話ではなく、面白かった。「Mr.empty backpack」…「動かないのは死んでるのと同じ」という考えの男が、二人の女性の出現によってこれまでになかった経験をし、変化する。原題「up in the air」とも取れる雲の上の情景に、広い空で、幾つかの人生が交差する様を想像した。

手荷物検査ではアジア人の後ろに並べ、と言うライアンに「人種差別よ」と文句をつけるナタリーが、機内でリストラ通知法のフローチャートを作っているというのが何となく可笑しい。決めつけ…しかしそれが有効な場合もある、という点では同じじゃないのか?この映画はそんなことだらけで、淡々とリストラ宣告をこなしてきたライアンは自身が仕事を奪われそうになるし、恋人からメールで別れを告げられショックを受けたナタリーは、自身もメールで会社に辞意を示す。彼等は頑なで、周りが見えていない感じがする。しかしそういう二人でも、互いに影響を及ぼし合い、変わり得る。

ヴェラ・ファーミガは好きな女優。細い体にパンツや原色のコートが似合う。若いナタリーが「ポイントの高い男」について話す間に挟み込まれるヴェラの顔には、色んなものが湛えられており、人生の余白の味わいのようなものを感じさせられた。

(10/03/28・新宿武蔵野館)


幸せのきずな (2008/アメリカ/監督マーク・エイブラハム)

一人の男が、「僕のモナリザ」の名誉を守るために大企業と闘う話。
前半は、グレッグ・キニア演じるうぶな発明家が気の毒で、観ているのが辛いけど、丁寧な作りで面白かった。

60年代のデトロイト。大学教授のロバート・カーンズ(グレッグ・キニア)は「まばたき式ワイパー」を発明し、契約を前提にフォード社に試作品を提供。しかしフォード社は契約を破棄、数か月後に同様のワイパーを備えた製品を売り出す。その日から、ロバートの生涯にわたる闘いが始まった。

原題「Flash of Genius」(天才のひらめき…特許法に関する法律用語だそう)に対し、しょうもない邦題だなと思ったけど、確かに作中では「家族の絆」が強調されている。
主人公ボブは、家族が一丸となってアメリカン・ドリームを達成することを夢見、「チーム・カーンズ」「カーンズ・カンパニー」といった言い方をしきりにする。法廷においても、一人で現れる(当たり前だけど・笑)フォードの代理人に対し、ボブは常に子どもや仲間に囲まれ、「ファミリー」対「非・人間」の闘いが繰り広げられる。ラストシーンで、今は「若者」になった子どもたちが、カフェのテーブルを囲んでクリームたっぷりのサンデー?を食べるのが良かった。

観ていて不意に「ハート・ロッカー」を思い出した。誰かが信念を通すことにより、その過程において、周囲の者に影響が及ぶ。影響の大小、どう感じるかはそれぞれだけど、世の中そういうことって多い。
ボブの妻は、8年目にして「もうやっていけない」と家を出ていく。自分(私)にとっては、ごはん食べたり散歩したりの暮らしで満足してる人とパートナーであることが、幸せの条件かもしれないなあと思った。
中盤、「壊れてしまった」ボブと話した精神科医は、「あなたの書いた本の著者名が突然書き変えられたら?」という問いに、「そういうことにばかり気を取られると、病院のほうがおろそかになる」と答える。色んな人がいるわけだ。

フォードからの示談金の申し出をはねつけたボブは、「FMラジオの発明者が案を盗まれ自殺」という新聞記事の切り抜きを取り出して見せる。うちには同じような境遇の人から手紙がたくさん来ている、皆自分に希望を託していると。弁護士は、彼のそうした話にうんざりしており、手をふって遮る。
「FMラジオ」の話は知らなかったので検索したら、エドウィン・アームストロングという人らしい。ウィキペディアには彼の死に関する記述はなかったけど、何らかの記録のようなものはあるのかな?

映画じゃアメリカの弁護士ってああいう最終弁論ばかりしてるけど、まさか実際もああじゃあるまい。肝心な時に例え話をする人間にろくなやつはいないと私は思ってるけど、ひどすぎる(笑)

(10/03/25)


抵抗 死刑囚の手記より (1956/フランス/監督ロベール・ブレッソン)

ジャック・ベッケルの「穴」など、脱獄ものは大好きだけど、これを観るのは初めて。面白かった。
1943年のリヨン。ゲシュタポに捕えられたレジスタンスの中尉が、独房から脱獄する姿を描く。

独房から出られるのは、用便捨てと洗面の時だけ。濡らした布で顔をこすりながら、男たちは手早く会話を交わす。シンプルな言葉の中に、あるいは言葉を発しないということに、彼等の信条が表れる。「祈ることはあるのか?」と問われた主人公は、自分の意思こそ重んじていると言う。
その他、小窓や壁越しの通信などのささやかな接触で、監獄の中の者たちはコミュニケーションを取る。情報をやりとりし、励まし合う。主人公も周囲の生命や安全を気遣う。ところが終盤、自分の房に脱走兵が放り込まれると、脱獄に向けそいつを殺すという考えがあっさり頭に浮かぶのが面白い。

脱獄ものの多くは、「仲間」での作業の様子や駆け引きのスリルが主な見どころだけど、この主人公は終盤まで常に一人、穴を掘るなどのでかい仕事をするわけでもない。限られた物資を利用し、着々と準備を重ねる。そこには「手作業」を見る楽しさがある。スプーンを砥いでノミを作り、ドアの羽目板の隙間を削り、布を裂きベッドの金網を外しより合わせ、窓枠を鉤型に曲げ…一つ一つの作業が順に、丁寧に映される。時折あたりをうかがう涼やかな眼や、屋外の砂利の上での、注意に注意を重ねた足取りも印象的。

音楽もほとんど流れない中、決行の夜、淡々と鳴る鐘の音。0時、1時…そして4時。最後の壁を前に、主人公は「勝ち目が失われていく」と意を決する。そして「外」に出た男たちは、気持ちの高ぶりが爆発する寸前って感じの早足で遠ざかっていく。おそらくずっと忘れられないラストシーン。

(10/03/23・岩波ホール)


ダレン・シャン (2009/アメリカ/監督ポール・ワイツ)

少年ダレン・シャン(クリス・マッソグリア)のもとに、「奇怪なサーカス」のチラシがやってきた。ショーで見かけた毒グモに惹かれ連れ帰ると、友人スティーブ(ジョシュ・ハッチャーソン)が噛まれてしまう。ダレンは彼を救うためにバンパイアのクレプスリー(ジョン・C・ライリー)と取引し、ハーフ・バンパイアとなる。

内容を知らずに観たけど、面白かった。何度か出てくる「運命」という言葉。主人公ダレンと友人スティーブ、彼等を取り巻くバンパイアや何だかよく分からない大人たちの関係が提示され、「ぼくはダレン・シャン、吸血鬼になったけど、中身は人間としてがんばるぞ〜」と次に続く。

優等生のダレンに対し、不幸な家庭を嘆き「バンパイアになりたい」と願う少年スティーブにジョシュ・ハッチャーソン…というと「小さな恋のものがたり」→「テラビシアにかける橋」→「センター・オブ・ジ・アース」のブレンダンの甥。背は伸びないけど大きくなった。
「君は恵まれてるから分からないのさ、僕なんて君の『秘密の友達』という立場しかない」というセリフが泣ける。そして彼は、「抜け駆けして」バンパイアになったダレンと、自分の「血」を拒否したクレスプリーを憎み、認めてくれたミスター・タイニーに着いて行く。「悪の魅力」のようなものはないから、普通の男の子がただ頑張ってる感じで切ない。
自らの血を注いだダレンを体を張って守る先輩バンパイアに、ジョン・C・ライリー。ぶさいく顔での二枚目演技が味わいぶかい。ヒゲ女のサルマ・ハエックに言わせれば「なんであの子を吸血鬼にしたの?寂しくなったの?ミッドライフ・クライシス?」。本人いわく「俺が愚かだからさ」。

リトル・ピープル(の特定の一人)が「シュレック」の長靴猫みたい…という感想は同居人と一致したけど、可愛いってのには同意されなかった(笑)

(10/03/19・新宿ピカデリー)


渇き (2009/韓国-アメリカ/監督パク・チャヌク)

人体実験に志願したことから「バンパイア」になった神父のサンヒョン(ソン・ガンホ)と、幼馴染で今は人妻のテジュ(キム・オクビィン)。久々に再会した二人は惹かれ合い、テジュの夫ガンウの殺害を企てる。

他の多くの映画のようにジャンルでくくれない、色んな要素の混じり合いが、心をあちこち揺らしてくれ面白いんだけど、私にとってはたんに「浮いて」感じられ馴染めない部分もあった。
まずは冒頭、後に「いい人だけど意識がない」ことになる彼の歯があまりにきれいで、心がくじけてしまった。裕福に育った過去があるのかも…と想像するのも意味がない。
病室で義母がサンヒョンに向かって自分について語るのを聞いている、画面に大映しになったテジュが、漫画みたいな表情で顔をしかめるのにも、違う意味で違和感を覚えた。それから、店のガラスに顔型の広告?が貼られた後ろに(顔が重なるように)彼女が立つシーンも、懐かしめのスタイリッシュな映像って感じで意表を突かれた。パク・チャヌク監督作の場合、アイドル発掘映画でもあるってことなのかな。

観終わってすぐは「日の出前、見渡す限り何もない崖っぷちで、男と女が○○を奪い合っています。さて何があったのでしょう?」というウミガメのスープを映画化したようなものだと思った(笑)飛躍感。厄介な者同士がめぐり合ってしまった、それも悪くなかった、という話。
相手のすること(この場合、殺人)が気に入らないなら別れればいいのに、「僕には君しかいない」なんて、頭をかちわってでもそれを止めるサンヒョン。神に仕える者って分からない。一方のテジュは「信仰がないから地獄へは行かない」と言い切り、最後にサンヒョンに「地獄で会おう」と言われると「死んだら終わりよ」と答える。

「頑なに脚を開かない男」ってめったに見ないから(笑)ガンホといえどもぞくっとさせられた。「はげしすぎたかな?」には笑っちゃったけど。

(10/03/18・新宿武蔵野館)


フィリップ、きみを愛してる! (2009/フランス/監督グレン・フィカーラ、ジョン・レクア)

交通事故を切っ掛けに自分らしく生きる決意をしたスティーヴン・ラッセル(ジム・キャリー)は、妻子と別れ「ゲイの暮らし」を満喫。しかし金のために詐欺を重ねて逮捕される。刑務所でフィリップ・モリス(ユアン・マクレガー)と出会い熱烈な恋に落ちるが、釈放され共に自由の身になっても詐欺を止めることはできなかった。

病床のスティーヴンのナレーションで物語が始まる。彼の振り返る人生の内容も、その語り方も、時系列順でありながら、かなりとっ散らかっている。悪い意味でなく、スティーヴンってそういう人間なのだ。思考があちこち飛び回る様に、自分と似たものを感じて憎めなかった(笑)
チラシや予告編では、彼が働く詐欺のあれこれが整然と紹介されてるけど、作中ではそれらはごちゃごちゃした物語のピースに過ぎない。スティーヴン本人にも「華麗な詐欺師」という自覚はないだろう。弁護士と偽って裁判に勝った際に見せるはしゃぎぶりが笑える。
彼には「兄弟の中で一人だけ養子に出され」「成長後名乗り出ても邪険にされた」という過去がある。その問題は、解決したようで、忘れた頃にふと顔を出す。

冒頭、スティーヴンがゲイであることが観客に明かされるシーンから、クライマックスの大きな「仕掛け」まで、作中ではその場限りのミスディレクション(と言うのかな?)が多用される。
そのほとんどは、語り手であるスティーヴンが観客(+その他)に仕掛けるカタチなんだけど、唯一彼がだまされる場面…ユアン演じる「金髪で青い目のゲイ」フィリップの性分が明らかになる場面が可笑しい。スティーヴンがフィリップと初めて言葉を交わすのは、彼がエイズに罹った友人のために不慣れな法律書に挑もうとしてた時(だからスティーヴンは弁護士を装うことになる)。なんて優しいやつ。しかし実は、この可憐なフィリップは、周囲に血の雨が降ろうと「自分と自分の好きな人の幸せ」だけを願うタイプなのだ。中盤、大騒ぎの牢の外を尻目に二人だけの世界に浸る場面が可笑しい。作中のユアンは、話し方や仕草によるパッと見の可愛らしさ、その下にある頑固さや身勝手さ、全てを常に湛えており、最高に魅力的だ。

スティーヴンの元妻デビーは、何かというと「主の御心」、他人の心の機微にはお構いなしという(「ゲイだからあんなことしたんじゃないかしら」って・笑)うざいことこの上ない女だけど、同時にとても私の好きな類の強さを持っている。一大事を「え〜そうなの!」で済ませ、その後は普通にしていられる。演じているのがレスリー・マンなので、とても可愛らしく見える。

ロドリゴ・サントロ演じる「愛人」はいかにも金のかかりそうな様子だったけど、「一緒にいたい」と願うだけのフィリップにもスティーヴンは同じように金を掛ける。フィリップはちゃんと享受する。もらえるものはもらう、まあそんなものだ(笑)

作中やたら男性器(実物ではない)が出てくるのが印象的だった。スティーヴンは雲にそれを見、仕事中にふと空いた手でそれを描く。彼自身のそれなのか、求めるそれなのか、それともどちらでもないのか、よく分からない。

(10/02/25・なかのZERO試写会)


モリエール 恋こそ喜劇 (2007/フランス/監督ローラン・ティラール)

喜劇作家モリエールの生涯における「空白の時間」を描いた物語。
17世紀半ばのパリ。貧乏劇団の若き座長モリエール(ロマン・デュリス)は、貿易商ジュルダン(ファブリス・ルキーニ)から借金の肩代わりを申し出される。条件は、サロンで人気のとある未亡人(リュディヴィーヌ・サニエ)の気を惹くための演劇指導。司祭のふりをして屋敷に赴いたモリエールは、夫人のエルミール(ラウラ・モランテ)と惹かれ合う仲になる。

オープニング、画面いっぱいに広がって揺れる生地の数々(キャストのクレジットごとに交代する)に、劇場で観てよかったとつくづく思わせられる。モリエールが「殿下」に謁見するベルサイユ宮殿の庭などのロケ地、襟や袖などにデコラティブな工夫がこらされた衣装が、見ていてとても楽しい。
ロマン・デュリスとファブリス・ルキーニといえば「PARIS」でも「素顔の」パリを眺めてたけど、時代は違えど今回も、豪奢なばかりではない、パリの人間臭いごたごた感と共にある。
舞台となるお屋敷も、豪華だけど手が届きそうな温かみがあり、とくに何度か挿入される夕食のシーンが、昔の日本のドラマのお茶の間のようで楽しい。モリエールの正体を知った夫人が笑いを抑え切れなくなるシーン、最近観た映画の中で一番ってくらい好きだ。

このフィクションで描かれるのは、「喜劇では人の心を動かすことはできない」と考えていた若きモリエールが、愛する他者の意見を受け入れ、「喜劇」によって「名前を売る」ようになったいきさつだ。
即興喜劇に笑い転げる夫人に対し、モリエールはこんなもの本懐じゃない、悲劇を演じたいのだと告げる。やってみせてとの頼みに重々しく喋り出すが、夫人は吹き出してしまう。よく言うように、笑わせるんじゃなく笑われてしまう。彼には喜劇がお似合いなのだ。
「喜劇はうわべの笑いしか与えることができない」と断言するモリエールに、彼女はそんなことはない、魂に触れる喜劇をあなたが作るのよ、と言う。さらには有名になることの大切さにも触れる。

「ものごとは、楽しいか退屈かのどちらかよ」

ストーリーにはモリエールの作品が色々織り込まれているようだけど、私には分からない。しかし多くの人間が思いを抱き、会話をし、「演技」に挑み、事態が流れていく様子がとても面白い。才気とエネルギーにあふれるモリエールを演じたロマン・デュリスは勿論、間抜けな町人貴族を演じるファブリス・ルキーニの愛らしさ、「成熟」とはこういうことかと思わせられるラウラ・モランテの美しさ、リュディヴィーヌ・サニエの顔のくだらなさ、全てが素晴らしい。

ラストシーンで涙をしぼっておきながら、「時をかける少女」じゃないけど(笑)可笑しな具合に現実に戻らされるエンディングも良い。

(10/03/12・Bunkamuraル・シネマ)


プリンセスと魔法のキス (2009/アメリカ/監督ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ)

ニューオリンズに暮らす少女ティアナの夢は、自分のレストランを持つこと。ある夜、仮装パーティで出会ったカエルに、王子の姿に戻してくれるよう頼まれる。ところが呪いを解くためのキスにより、彼女もカエルに変身してしまう。

「ディズニー初、アフリカ系で、王子様との結婚を夢見ないプリンセス」。内容を知らず「かえるの王様」の改作かな?と思ってたら、全然違っており、主人公ティアナと王子は作中7割ほどカエルの姿。後ろ脚で立つとすらりと人間風で、ティアナはほっそり、王子の方は王子様ならタイツの下に備えてる、なまめかしい筋肉がちゃんとある。「うまそうな脚だ」って言われてるし。

ディズニー映画のオープニングに流れる、シンデレラ城に花火があがる映像を見ると、どことなく不安な気持ちになる。煙をあげて橋を渡る列車は素敵だけど、お城の中にも、その奥に広がる町並みにも、誰もいないような感じがするから。
この映画では、この映像に次いで、シンデレラ城でも王様のでもないけど、とある豪邸が出てくる。ティアナの母親がメイドの仕事を終えて乗り込んだ路面電車は、お屋敷を出ると、高級住宅街を抜け、黒人ばかりが暮らす貧民地区に着く。ああ、あの映像のバックにあるのはこんな世界かもと初めて思い、胸がじんとした。

ジャズと女が大好きな王子は「働くのが嫌い」。私も働くのは嫌いだけど、いつか変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。そういうふうに共感して観た。
終盤、船上で王子がティアナへのプロポーズに臨むシーンが楽しい。手作りの指輪にくるみの箱、カップの椅子。遊んでばかりの彼だけど、お金がなくてもカエルの姿でも、何だって用意できる。あんな豊かな食卓を作れる人って魅力的だ。二人なら、さぞかし素敵なレストランもできるだろう。
王子が「君に習った」ごちそうで彼女をもてなそうとするように、友達からの誘いも断り働きづめだったティアナも、彼の得意分野に踏み込んでいく。「ユーモアだってあるのよ」と胸を張り、「ダンスは苦手」とうなだれる彼女に、王子いわく「ダンスだってみじん切りと同じさ」。やがて、華麗に舞う彼女に目を見張ることになる。

とはいえ私は、ティアナのような女性は観ていて疲れるから苦手。ディズニーとしては新しい「お姫様」かもしれないけど、落語で若旦那としっかり者の女が所帯を持つってんじゃないんだから、ああいう男女の組み合わせには飽きた。それに、ティアナも「自分に必要なもの」が分かっていないというのは面白いけど、力を持つ年長者が若者を導くというパターンは不変なんだろうか?
お金持ちのパパを脅して贅沢三昧してる幼馴染のシャーロットの方がよほど好きだ(笑)冒頭「かえるの王様」を読んでもらっている時のはしゃぎぶりからして可愛いし(長じてからも、ドレス含めた彼女の動きはとても楽しい)、仮装パーティーの夜、ダンスしながら「見て見て!」サインを送ってくるシーンも最高。ラスト、愛し合う二人の姿に涙を流して「真実の愛に憧れてたの」というセリフの意味を考えてしまった。

オープニングの星のきらめきが、いつもより何倍増しに見えたのは、後で思い返した時の錯覚かな?

(10/03/10・新宿ピカデリー)


パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々 (2009/アメリカ/監督クリス・コロンバス)

観終わって同居人が開口一番「こんなくだらない映画、久々に観た」「でも楽しかった」…私もそう。冒頭から爆笑させられた。「人間がデカイ」ってだけであんなに可笑しいなんて。

「アメリカでハリー・ポッターより売れた」原作を、クリス・コロンバスが映画化。
ADHDで難読症の少年パーシー(ローガン・ラーマン)は、ある日、自分が海の神ポセイドンと人間の母親との子どもだと知る。全能の神ゼウスに「稲妻を盗んだ」疑いを掛けられ、冥界の神ハデスに母をさらわれた彼は、仲間と共に神々目指してアメリカ横断の旅に出る。

「ハリー・ポッター」シリーズの時と同じ疑問を抱きながら観た。すなわち、この子どもたち(半神半人の「デミゴッド」たち)は、なぜああいうキャンプに通うのか?何のために訓練を受けるのか?
「特別な力をうまく使うため」の学校、と言うので何をするんだろうと思っていたら、剣を振り回して戦いの練習ばかり。冒険の果てに、ハデス(スティーヴ・クーガンの無駄遣い/あんなギターの「ミック・ジャガー」ってない)の「じゃあお前、何しに来たんだ?」という問いに「話し合いに…」と答えるパーシーを見る目が変わったと思いきや、一騒動の後にやっぱりキャンプに戻る。色々事情はあるんだろうけど、自分の力に酔ったか?と思ってしまった(笑)

興味深かったのは、パーシーが父親であるオリンポスと対面するシーン。知の女神アテナとその娘は、同様に初めて顔を合わせたのにも関わらず互いにさっと場から離れるが、オリンポスは「ちょっと話を…」と息子に近寄る。
二人は抱きしめ合ったりしない。パーシーは「なぜ僕らの所に顔を出さなかったんだ?」と問う。父親が「神としての仕事が出来なくなるから」と理由を述べると、パーシーは彼を「人間(?)としては認めるが、父親としては認めない」とでもいうような顔で見る。血のつながりだけじゃ家族になれないのだ。手を離す際の、息子の「はあっ」というため息が、まあしょうがないかとでもいうように感じられて面白かった。

パーシーの守護神であるサテュロスのグローバーが「まだ下級だからツノがないんだ」と言うので、山岸凉子の「妖精王」を思い出した。しかし彼等は(「妖精王」の二人のように)助け合うことはなく、守護神の方が身を呈してばかり。
最後に再会したらツノが生えてるので、「女」と一緒だったから?と思っていたら「頑張ったからゼウスが生やしてくれた」。やっぱりそういうの、神から与えられるものなんだな。

「half god」同士で子を成すことだってあるだろうから、神の血は4分の1、8分の1と次第に薄くなってくのかな?そうすると血が濃い方が「偉い」ってことになるのかな?馬鹿みたいじゃない?と言ったら、同居人いわく「(稲妻を盗んだ)彼はそういうふうにしたくなかったのかも」。彼の望む「新しいイメージの世界」に興味が湧いた。後の作品で判明するのかな?

(10/03/05・新宿ピカデリー)


しあわせの隠れ場所 (2009/アメリカ/監督ジョン・リー・ハンコック)

実話を元にした作品。帰る家も持たない少年マイケル・オアーは、ある晩、裕福な白人女性リー・アン(サンドラ・ブロック)に声を掛けられたことがキッカケで、家族の一員となる。

オープニングの、アメリカンフットボールに関するサンドラ・ブロックのナレーションに、この映画はスポーツものだと感じ、わくわくさせられる。原題「blind side」の意味も説明される。クォーターバックという花形の「死角」を守るレフトタックル。この映画は、運よくその才能を開花させた、あるスター選手の物語だ。
(ちなみにこの場面で、数をかぞえるのにone mississippi…というの、私は「フリージャック」のミック・ジャガーのセリフで覚えた・笑)

「私はいい人間?」
「ぼくの人生史上いちばんね」
「私ってなぜ人助けするのかしら?」
「(冗談ぽく)病的な満足を得られるからじゃないか」


作中、リーと夫のこのやりとりは少々浮いて感じられた。
ランチの席で「白人の責務を感じてるの?」「年頃の娘さんは大丈夫?」と言われたリーは「Shame on me!」と言い放つ。私のほうこそ彼によって変わったのだと。「もしぼくが(アメフト選手じゃなく)レストランの皿洗いになったら?」と問うマイケルには「自分の人生よ」と返す。映画のラストでは「大学をやめてしまった彼」のその後に触れ、自分が助けることができたのは、星の数ほどいる不運な者の中の、ほんの一人でしかないことを示す。
「白人が黒人を助ける」話なので、至るところにこうしたエクスキューズが散りばめられており、却って「そんなに気を遣わなくてもいいのに…」と思ってしまった。私が日本人だからそう感じるのかな。

この映画の魅力のほとんどは、はまり役を得たサンドラ・ブロックにある。明るく元気で、カルガモのように家族を従えるママ。みっちりした化粧にとっかえひっかえの衣装を見るのも楽しい。
冒頭、学校帰りの息子SJがダッシュボードに足を乗せるのを注意する口調は、しつけというより、自分のBMWを汚されたくない!という感じ。そういう、自分のやりたいことをやる人が、やりたいことをやり、(映画を観る限りでは)何人かが幸せになったんだから、よかったなあと思える。
エンドロールに流れる「実物」の中、本物のリーが一人で試合場のベンチに座ってる写真が良かった。ちょっと子どものような姿。

大学のフットボールコーチが次々やってきて、マイケルとSJの大小コンビを前にプレゼンするシーンも楽しい。
また、リーがマイケルの実母から「あの子はいつだって里親の元を逃げだして、私のもとに帰ってきたのよ」と言われるシーンでは、息子とはいえ一人の男をめぐる二人の女の微妙な空気を感じて面白かった。もっともサンドラは、彼女の手にそっと触れ、そんな空気を即座に吹き飛ばしてしまうんだけど。

(10/03/01・新宿ピカデリー)



表紙映画メモ>2010.03・04