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映画メモ 2009年11・12月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

アバター / アンヴィル!夢を諦めきれない男たち / ビッグ・バグズ・パニック / ジュリー&ジュリア / カールじいさんの空飛ぶ家 / 千年の祈り / Disney'sクリスマス・キャロル / ニュームーン/トワイライト・サーガ / 理想の彼氏 / 母なる証明 / パイレーツ・ロック / E.YAZAWA ROCK / ゼロの焦点 / 運命を分けたザイル2 / ファッションが教えてくれること / イングロリアス・バスターズ / きみがぼくを見つけた日 / マイケル・ジャクソン THIS IS IT

アバター (2009/アメリカ/監督ジェームズ・キャメロン)

22世紀。人類は衛星パンドラで発見した希少鉱石の取得を目論んでいた。元海兵隊員のジェイク(サム・ワーシントン)は、亡くなった兄に代わり採掘のためのプロジェクトに参加する。それは鉱脈の上に暮らす先住民ナヴィと人類のDNAから作り出された肉体「アバター」を操縦し、仲間として彼等と交渉するというものだった。

「頭の空っぽ」なアメリカ人青年が、自分の居場所を見つける話。彼は頭が空っぽだからこそ、別世界で生き伸びることができた。

面白かったけど、3D映像を楽しんだという感じはしない(3D版を観たからこそ言えるのかもしれないけど)。私が劇場で初体験した3D映画「センター・オブ・ジ・アース」の、ブレンダンが歯を磨いてぺっ→わ〜かかっちゃう、というような映像に比べたら確かに段違いだけど、私にとってはあっちの方が楽しいとも言えるし(笑)それよりも、他の映画も持っている要素…ストーリーや画面の方に惹き付けられた。
ちなみに一番良かった3D映像は、冒頭の、低温睡眠カプセル?がずらーっと並んだ様子。奥行きが見事だった。例えばスター・ウォーズシリーズの元老院の会議場なんかが3D映像になったら、壮観だろうなあ。

私にとって面白いのは、作品内の「アバター」という要素のうち、「リンク」していない時に、「アバター」が実体として本人の眼前に現れるというところ。予告編にも使われている「主人公が自分のアバターと対面する」シーンが、一番ロマンチックに感じられた。だって、バカみたいだけど、例えば自分がもう一人いたら(定義はあいまいなのでそのへんは適当に・笑)、体をしげしげ見たり、ケアしたり、色んなことが出来て楽しいだろうなあと想像するけど、この映画におけるアバターは、それに「似た」願望をかなえてくれる。

作中のジェイクも観ているこちらも、ストーリーが進むにつれ「アバター」という要素を忘れてしまう瞬間があり、また、思い出させられる瞬間もある。そこのところも面白い。
彼がシガニー・ウィーバー演じる博士に「あなた、いつシャワー浴びたのよ〜」と言われるシーンは、「もう一人の自分」にかまけて実際の自分の体のケアがおろそかになってしまう、そのまんまを表していて可笑しい。
物語の最後、ジェイクは愛する人に「本当の自分」を受け入れてもらい、さらにはそれを捨て「なりたい自分」となる。可能ならそれもいいかな?と思う。

アバターとリンクする際にパチパチパチ…というの、他に何か表現方法ってないのだろうか?表現しなきゃならないものなのかな?あそこだけ、ものすごい安っぽさと違和感を覚えた。

「ナヴィの体に海兵隊の精神なんて、最高じゃないか!」
 (冒頭、大佐がジェイクに向って。最後のバトルでそれが発揮されることになる)


(09/12/26・新宿ピカデリー)


アンヴィル!夢を諦めきれない男たち (2009/アメリカ/監督サーシャ・ガバシ)

「30年以上も続いているバンドは世にそうない。ストーンズ、ザ・フー…そしてアンヴィル」

私にとっては、機微やパワーがあまり感じられず、期待してたほどじゃなかったけど、楽しく観た。メタルってあまり分からないけど、ツイステッドシスターのディー・スナイダーが出てきた時(字幕でそうと分かった時)には、声が漏れてしまった(いい人そうだった・笑)

「皆は彼等を利用し、そして捨てた」…80年代初頭の一時期、メタル界に多大な影響を与えたアンヴィルは、現在も地元カナダで活動を続けている。主要メンバーは学生時代からの友人同士、ボーカルのリップスとドラムのロブ。音楽で稼ぐことはできず、日々の糧を得るための仕事に追われ、20年ぶりのヨーロッパツアーではトラブル続き。しかし旧知のプロデューサーに連絡を取り、アルバム制作に漕ぎ着ける。

アンヴィルが売れなかった理由は「インディーレーベルから発売したせい」。当時を知るプロデューサーとのやりとりでも「自分たちでやろうとしたから失敗したんだ」という結論に落ち着く。しかし映画の終わり、再起を掛けた新譜がレコード会社から見放されると、彼等は「CDをファンに直接売ることにした」「他のバンドもこうすればいいのに」などと言い出す。本心からそう思うようになったんだろう。このくだりは作中ではあっさり流されてしまうので、その後の経緯と、今の考えを知りたいなと思った。

たしかに全編これ「スパイナル・タップ」なんだけど、ロブがレコード会社に自主制作CDを届ける場面(後頭部のハゲ具合がイイ)は、「ハードロック・ハイジャック」の冒頭(の、ルックスが全然違うけど、ブレンダン・フレイザー)を思い出した(笑)
感情丸出しのリップスに対して常に冷静なロブの方が、レコード会社では熱心にアピールするのが面白い。

ラストの日本公演のシーンにおいて、「メタル・オン・メタル」を演奏する際、84年の彼等の映像が挟まれるの、よくある手法だけど、まるきりコメディ映画みたいで、どういう意図があるんだろう?と思ってしまった。

人生の残りのうち、死から一番遠いのは今日。だから「今やるしかない」というの、本当に「やってる」人の口から出ると、重みがある。

(09/12/23・K's cinema)


ビッグ・バグズ・パニック (2009/アメリカ/監督カイル・ランキン)

虫好きなので観に行ったんだけど、分かってはいたんだけど、私が好きなのは本物の虫であり、これはそういう映画じゃなかった(笑)でもとくに後半は、とても面白かった。

職場で閃光と爆音に失神したクーパー(クリス・マークエット)が目覚めると、自分含む周囲の人間は繭に包まれ、辺りを巨大昆虫が跋扈していた。居合わせた人々は、家族の安否確認などのため、建物を出て目的地に向かう。

オープニングタイトルはB級恐怖映画の趣。前半は、よせばいいのに外に出る者やうざい女などこの手の映画につきものの要素ばかりで、私はそういうの得意じゃないから、ずっとこんなんだったらどうしようと思ってたんだけど、男達がクーパーの実家に辿り着くあたり…人が減り、それぞれのキャラクターがはっきりするあたりから面白くなる。
中でも見せてくれるのは、老眼鏡が見つからないのに「お前には読めないだろう」と息子には地図を見せようとしない、クーパーの父親(レイ・ワイズ)。元軍人の彼は、独裁に文句を付ける元妻や息子をヒステリー扱いし、久々の再会に思いやりも見せない。今後ちょっと頑張った所で私は見直さないぞ!と思いつつ(笑)「久々に興奮してきた」というセリフにこちらもうきうきさせられ、ベタながらも感動的な最期にはほろっときてしまった。

人間を襲う巨大昆虫は「それほど精巧でもない大きな模型」といった感じで、「ああ虫だなあ」と思う。
映画はクーパー親子の関係や「非常時に人間同士が排除し合う恐ろしさ」など様々な要素に広く浅く触れながら、シンプルなクライマックスに突入する。かつて「ヒーローに憧れ」たが現在は「独我論」的人間である主人公が、人間の世界を昆虫から救う。「歩くより速いし、(虫を引き付ける)音もしない」と自転車移動したりと、牧歌的な雰囲気が楽しい。

冒頭、クーパーの着ているスーツのよれよれ具合に驚いた。もちろん彼はそういうキャラクターなんだけど、あまりにリアルだったので。
「一人くらい見栄えのする男を出してくれればいいのに…」と思いながらも、彼の口にするセリフがいちいち楽しく、最後には応援していた。

それにしても、「女性の化粧直し」でコンパクトを手に口紅塗る姿というのは、PCに堪能な人物がやたらキーボードかちゃかちゃしてるのと同じ「お約束」だなと思った。口元ばかり気にしてる女性ってあまりいない。

(09/12/16・銀座シネパトス)


ジュリー&ジュリア (2009/アメリカ/監督ノーラ・エフロン)

「この映画は、二つの実話を元に作られています」。
50年代のパリ。アメリカからやってきたジュリア・チャイルド(メリル・ストリープ)は、コルドン・ブルーに学び、フランス料理の研究家となる。
時は流れて現代のニューヨーク。人生に行き詰まったジュリー・パウエル(エイミー・アダムス)は、ジュリアの本に載っている524の全レシピに挑戦し、ブログで発信することを思い付く。

映画は「ジュリア」のパートから始まる。メリル・ストリープ演じるジュリア・チャイルドが、外交官の夫と共に越して来る。50年代のパリは建物や市電、地下鉄、道具屋や食料品屋、化粧室、全てが過剰なまでに素敵で、メリルの大仰な演技とがっつり組み合っており楽しい。予告編にも使われている、時間を持て余したジュリアが「私、何をすればいいのかしら?」と口にするシーンも、パリを堪能し尽くす最中の心の高揚がうまく表れていて印象的だった。
キッチンでのジュリアは人柄そのまま、大胆で情熱的。映画によると、料理については「科学的であること」「分量」にこだわりがあったようだ。「誰にでも作れる」レシピにするためだろう。

一方の「ジュリー」は、住まいにも仕事にも不満を抱いており、状況を変えるために「料理&ブログ」という新たな挑戦を始める。
やがてそのブログは多数の読者を擁することになる。しかし「コメントが付いた」と喜びはしても、彼女が返事を書き込むシーンは無い。「誰かに必要としてほしい」という思いはあっても、ジュリーがブログを続ける理由は、読者との触れ合いではなく、自分に目標を課すこと。だから「作ったことにする」なんて思いつきもしないし、八つ当たりをくらった夫に出て行かれれば、素直に反省する。

この映画は、二組の夫婦の話でもある。
ジュリーの夫エリック(クリス・メッシーナ)は、登場時こそ少々無神経な感じはするものの、二人はちゃんと「絡み合って」いる。コミュニケーションがなされている。
印象的だったのは、編集者に来訪をキャンセルされ落ち込むジュリーに、エリックが気を遣い「そのぶん余計に食べられていいよ」と言うが、彼女の方は「今日くらい悲しませて」と返すシーン。これが言える関係っていいなと思った。
ジュリアと夫のポール(スタンリー・トゥッチ)の方は、もっと単純に、お互い惚れているといったふう。とはいえ私からしたら、ダンナの方が少しクールすぎる感もあり。バレンタインのカードを作るシーンがとても良かった。
そしてどちらの夫婦も、嬉しいときにセックスする。なかなか健全だ(笑)

終盤、とあることにショックを受けたジュリーにエリックが掛ける言葉…「ジュリアは君の心の中の『ジュリア』なんだ、それでいいじゃないか」。とても重要なセリフだ。この映画は、ジュリーと、ジュリーの中のジュリアの物語なのだ。ジュリアのとあるエピソードについて、ジュリーが「だって本に書いてあるもの」と言うシーンからもそれが分かる。
そう考えると、ジュリーが受けるショックも、それを乗り越えたラストシーンも、味わいぶかく感じられる。

ジュリーの友人達が「寄付を募って材料費にあてれば?」と提案するのは、いかにもアメリカ人らしいなと思ってしまった。
作中一番美味しそうだったのは、ジュリアのレシピじゃないんだけど、引っ越し後にジュリーが作る、フライパンで焼いたパンにサルサソース?を乗っけた、温ブルスケッタとでもいうような一品。思い切り頬張ってみたい。

(09/12/13・TOHOシネマズシャンテ)


カールじいさんの空飛ぶ家 (2009/アメリカ/監督ピート・ドクター)

とにかく素晴らしいの一言。まさに「総力をあげて」作られた、という感じ。

冒頭に綴られる「思い出」のくだりには涙がこぼれてしまった。
子どもの頃の二人が、室内に紐でつった毛布をテントのようにしているシーンに、小学生の頃、仲の良かった子の家にあった三つ折りできる赤いマットレスを三角の土管のようにして、中に入って遊んでたのを思い出した。

一番印象的だったのは、エリーが「冒険ノート」の表紙に貼った「NEW」という一言。幻の滝を夢見る少女は、ノートの最初にその写真を貼り、「そこに行けたら、その後の冒険を

一番印象的だったのは、エリーが「冒険ノート」の表紙に貼った「NEW」という一言。幻の滝を夢見る少女は、「冒険ノート」の最初にその写真を貼り、「いつか行けたら、その冒険をここに書く」と決めていた。しかし風船売りのカールと結婚し、一軒家に暮らすうち、彼女は自分の夢を「更新」する。愛する人との日々こそが、夢であり幸せであり、冒険なのだと。そして滝での冒険を綴るつもりだったページの続きに、二人の写真を貼っていく。
エリーを失い、冒険の末に行き詰ったカールじいさんは、彼女の遺した「新・冒険ノート」でその思いに触れた後、思い出に別れを告げ、自分に出来る新たなことのために立ち上がる。
対象的なのが冒険家のマンツだ。彼は若い頃の夢にその後も囚われ続ける。カール少年のヒーローだった彼が途中から「悪役」になるのが少し意外だったけど、観終わってみれば、「悪役」でなければならなかったのだと分かる。

予告編からは分からなかったけど、私の好きな「立ち退き映画」でもある…と思ったら、最後どうなったのか曖昧なままで残念。見逃したのかな?冒頭、ブラッド・バードが脚本書いてる「ニューヨーク東8番街の奇跡」を思い出すシーンあり。

(09/12/06・新宿ピカデリー)


千年の祈り (2008/アメリカ/監督ウェイン・ワン)

ウェイン・ワンが、中国人作家による「千年の祈り」を映画化。

アメリカで暮らす娘の離婚に胸を痛めた父親が、中国からはるばる訪ねてくる。
原題は「A Thousand years of good prayers」。娘は、中国の諺「同じ舟に乗り合わせるなら百世もの前世の縁があり、枕を共にして眠るなら千世もの縁がある」をこう訳す。分かりあえなくても愛している、あるいは愛しているが分かりあえない、そういう類の関係についての物語。

先日上京した両親と過ごした後、同居人が「パパとママは(私に対して)何をしてあげられるかっていう、そればっかりだね」と言っていた。彼いわく、私の親に対する感情は「愛しているけど、呪ってもいる」…確かにそうかも。そういうことを書き始めたらきりがないので、この映画を観た時に起こった感情を率直に言うと、フィクションと分かっていながら、後半のあるシーンでは、父親がうざくてうざくて、劇場の椅子に座ってるのが大変だった。前半では娘の方に対して、せっかく会ったんだからもっと楽しめばいいのに〜なんて思ってたのに、現金なものだ。

映画の前半では、娘が仕事で留守の間、アメリカ初体験の父親が一人で行動する様子が淡々と描かれる。宗教勧誘人を部屋にあげてみたり、殺風景な住居に工夫をこらしてみたりする姿には、ちょっとした可笑しさがある。しかし後半になると…いつまでもこうしてはいられない。ああ、この不穏な感覚。「お父さんはいつまでこっちにいるつもり?」「お前が元気を取り戻すまでだ」。「私」の幸せと他人の幸せが違う、ということが、いつだって問題となる。致し方ない問題とも言える。

「英語を勉強したいんだ」とメモ帳を手放さない父親は、中国から出たことがないだろうに、片言でそれなりに誰とも会話をする。私もアメリカに行ったらあんなふうに喋るだろうけど、あそこまで咄嗟には単語が出てこないだろう(ちなみに日本で外国人相手だと、日本語やジェスチャーでほとんど済ませてしまう…)。
父の口から出る、娘との会話以外の中国語…すなわち相手に伝わらない言葉には、字幕がつかず、何を言っているのか分からない。彼が知り合うイラン人マダムの場合も同じで、彼女が片言の英語の合間に喋るペルシャ語には、字幕がつかない。いずれも、伝えるためでなく、自分を調整するためにアウトプットする言葉ということだ。私も異国では、あんなふうに日本語を挟んで話すかも、と想像した。

「高齢者の料理教室」に通ったという父親は、毎晩料理を作って娘を待つ。絵に描いたようなごちそうだ。娘のほうはちょぼちょぼとしか箸をつけない。炒め物なら肉じゃなく、もやしの一片を口に運んで終わり、といった具合で、観ていてイライラしてしまうけど、そういう心境なんだろう。

「中国語で感情を表すことは学ばなかったから、英語のほうがラク、新しい人間になれるの」

(09/12/03・恵比寿ガーデンシネマ)


Disney'sクリスマス・キャロル (2009/アメリカ/監督ロバート・ゼメキス)

今回も窓口で「後ろの方が観易いですよ」と言われたけど、頑なに前から4列目で観賞。
3Dの感じはというと、まずは最初に映る窓辺の様子がすてきで、同居人と顔を見合わせてしまった。それに続く、12月の街並みもいい。商会の看板や教会の十字架などを「真上」から見下ろすショット…こういうのは実写でもあるけど、好きなんだよなあ。
ゴーストの旅にもそれぞれ趣向が凝らされてるけど、何といっても楽しそうなのは、現在のゴーストが連れて行ってくれるもの。部屋が舟になる。精霊いわく「上から見下ろせるのは、特別な者だけ」。スクルージの顔もほころんでいる。

ところで、「クリスマス・キャロル」で私が一番楽しみなのは、最後に豹変するスクルージと、それに驚く周囲の人々の姿。今回のスクルージは、走る馬車の後ろに(バック・トゥ・ザ・フューチャーよろしく)くっついて滑ってみたり、聖歌に突然加わってみたり、そのはしゃぎぶりは、パフォーマンス・キャプチャーだけあって、ジム・キャリーの姿をしのばせて面白かった。

(09/12/01・シネマサンシャイン池袋)


ニュームーン/トワイライト・サーガ (2009/アメリカ/監督クリス・ワイツ)

前作の輝きは何だったんだろう?少々がっかりしてしまった。

吸血鬼エドワード(ロバート・パティンソン)と愛し合う人間の少女ベラ(クリスティン・スチュワート)だが、諸々の理由で離ればなれになってしまう。自分に気のある幼馴染ジェイコブ(テイラ・ロートナー)との触れ合いに慰めを見出すものの、彼は吸血鬼の宿敵・狼一族の末裔だった。

冒頭、登校したベラの前にエドワードとジェイコブが続けて登場するシーンにはわくわくさせられたけど(くらもちふさこの昔の漫画で、白髪と黒髪が一緒に出てくるような贅沢さ)、その後はずっと、のっぺりした感じ。
オープニングに、クライマックスシーンとベラのナレーションを持って来て謎めいた雰囲気を演出したり、見下ろすカメラがぐるぐるしたり、「若者」っぽいシーンになるとそれっぽい音楽が流れたり、そういった部分は前作と同じだけど、心躍らない。ストーリーの唐突さやセリフの陳腐さは同じでも、前作が面白かった理由は、うまく言えないけど、揺らぎや雑然さのためだと思う。今作の冒頭、学食に集まる皆の前にあまりにも整然と並んだトレイに不安を覚えたけど、その通り、何の動きも感じられない映画だった。じっとりした土地に佇む建物や、衣装・小物の魅力も失われたよう。

テイラ・ロートナー演じるジェイコブと仲間達はずーっと上半身裸・裸・裸なので、楽しい反面、男の人と観ていて少し申し訳なくなってしまった。加えて、あれほど恵まれた環境なのに何のいやらしいこともしない主人公に人間性を感じられず、どんな気持ちで観ればいいのか分からなかった(笑)
出番の少ないロバート・パティンソンの方は、前作では、一見不気味だけどスクリーンの中で動いてると魅力的だなあと思わせられたものだけど、今回は見せ場がない。前述の登校時のちょっとした笑顔が、2時間中いちばん魅力的だった。
ベラやジェイコブのパパたちがあまり出てこなかったのも残念。ベラのパパ、結構タイプなのに…

今回のメインといっていい「狼」の特殊効果は良かった。一瞬の変身シーンも、群れの動きも見ごたえがある。ジェイコブの眼にベラが映り込むシーンも、王道!だけど、いい。
「動物に変身する」…変態する人間ってなぜかセクシャルに感じるけど、狼になったジェイコブにベラが触れるシーンが無かったのが残念。

笑い所はたくさんあったけど、違う意味で笑っちゃったのが、マフィンのでかさ。よく動くからあんなにでっかいの、食べるのかな?

(09/11/29・新宿ピカデリー)


理想の彼氏 (2009/アメリカ/監督バート・フレインドリッチ)

原題は「The Rebound」。作中でキャサリン・ゼタ・ジョーンズと女友達が「彼をはずみ(rebound)に次の男にいきなさいよ」「はずみなんかじゃないわ」…などと話していたから、そういう意味合いなんだろう。邦題「はずみの彼」でも悪くないと思うけど(笑)「偶然の恋人」(←妙だけど、好きな邦題)みたい。

離婚して子連れでニューヨークへ越してきたサンディ(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)が、カフェで働く16歳年下のアラム(ジャスティン・バーサ)と恋におちる話。

よくあるカタチのロマンチック・コメディだけど、観ていて気持ちがいい。「マッチョ」なもの…あまりいい言い方じゃないけど、他に適切な言葉が見つからない…が出てこないから。唯一、ボクシングのリング上でカード?を掲げる女性が映った時、こういう世界あったよな〜と思い出した。自分の周りには「マッチョ」なものってあまり無く、感じるのは主にメディアやフィクションに対してだから、こういう映画って、自然に感じられて楽しい。

予告編には「リッチで大人な彼との結婚生活に破れ…」というようなナレーションが入ってるけど、そもそも元夫のルックスや佇まいがしょぼすぎて、別れて惜しいなんて全然思えない。彼女自身も、離婚後だいぶ経ってから「あの頃は楽しいと感じたことがなかった」なんて言う。主人公が新たに生き始めるという話で、邦題「理想の彼氏」じゃぴんと来ない。

サンディは、新居の階下のカフェの店員であるアラムにベビーシッターを頼む。仕事が忙しくなってくると、「フルタイムで頼める?」とさらっと言ってのける。これって、女から男へはなかなか言えないセリフだ。実際は、頼むのも断るのも自由なんだから、誰が誰に言ったって構わないんだけど。
やがて、アラムがベビーシッターを続けるために企業の採用を辞退したことが判明する。いわく「(偽装結婚の被害者経験を経て)僕にとって、大切なのは人間関係だって分かったんだ」。社会生活より身近な人間関係を重要視する人は老若男女問わずいるのに、フィクションにおいてはあまり描かれないから、ここまで言い切るなんて、いいシーンだなと思った。

ラストシーンがあっさりしてるのもいい。タイトル通り?ひょんなことから付き合うことになった相手が、じつはベストパートナーだった…という感じをうまく表してる。ホール&オーツの「everytime you go away」(君が行ってしまうたび、僕は哀しい…)に聴き入ってしまった。

冒頭、サンディが女友達に薦められてデートする「トイレ男」、そんなに悪い奴じゃないのに、散々な嫌がられようで可哀そうだった(笑)便器に座りながらキスだってするのが、ロマンチックな関係なのに。まあこの場合、事情が事情だけど。それよりも、このくだりでは、何を「エロい」と感じるかは人によって全然違うという、当たり前のことを改めて思った。自分を顧みても、そんな者同士でセックスするんだから、考えたら不思議なものだ。

監督・脚本を担当したのは、ジュリアン・ムーアの夫だそう。キャストも結構味わい深く、アラムの父親にアート・ガーファンクル(クレジット観るまで分からなかった)、元夫にローレン・バコールの息子(調べて分かった、びっくり)。ロブ・カーゴビッチ演じるアラムの友人の演劇青年役は、20年前ならブシェミ、10年前ならリス・エヴァンスに振られそうな役。顔が似てるだけか(笑)

(09/11/27・新宿ピカデリー)


母なる証明 (2009/韓国/監督ポン・ジュノ)

ポン・ジュノの映画は大好き。今回も、その美しさには、近年ではアン・リーの「ラスト、コーション」を観たときと似たような衝撃を受けた。でも、美しすぎて、心が動かされるというより、少し乾いてしまった。隙が無くて、息吹が感じられないというか…

冒頭、トジュンを連れ去る車の運転手が一言「見事な走りだな〜」→あっ後ろ向いちゃってるよ→ドカン、というタイミング。焼け跡にたたずむ三人のショットの、ちょっとした短さ。ラストシーンの、車内で踊る人影を映す長さ。ああいう時間的なセンスがとても好きだ。
息子の罪を晴らすためにあちこち嗅ぎ回る母は、危険な目にも遭いそうになるが、カットが変わると、えっもうそんなとこまで逃げてるの?というシーンが何度かあって、可笑しかった。

私は「(着衣で普通に)おしっこをしている男性」が性的に好きなので、ウォンビンの立ち小便のシーンも良かった。でも「薬が入って、尿が出る」カットが、あまりにもきれいすぎて、ここでまず、心が冷めてしまった。

観終わって、ああいうふうに愛を注ぐ対象を持てるっていいなあと思った。結局のところ私は、愛を受ける側でしかない。母親になったところで、皆が皆、ああいうふうになれるわけでもない。

ところで、殺された子の携帯電話をあそこに隠したのは、本人だったか、おばあちゃんだったか?大事なポイントだと思うんだけど、観・聴き逃してしまって分からなかった。あの「量」と、彼女がトジュンに言い返した言葉とを考えると、ぐっとくる。

(09/11/23・シネマライズ)


パイレーツ・ロック (2009/イギリス/監督リチャード・カーティス)

ビル・ナイのスーツ姿も最高で、楽しかったけど、好みのルックスの男性がいなかったこと(しいて言うならカール?)と、ジョークや人情の羅列が主で「ロック」という感じはあまりしなかったのが残念。じゃあ「ロック」な映画ってどういうの?と言われると、返答に困るけど…
さらにはDJの数が多すぎて、人の見分けが苦手な私は、だいぶ経ってから「こんな人いたんだ」「この人とこの人、違う人なんだ」ということが幾つかあり、そんなんで終わってしまった。

最後にたくさんの助けが来てくれるの、ロマンチックだなあと思ったけど、「今まで電波だけで繋がってたDJとリスナーとの御対面」というわけじゃないんだよなあ。しかも助ける側が選り好みしてるし!…と言ったら「そこがイギリスっぽくて面白いんだよ〜」と返されたけど、たまたま縁があった者同士、仲良くなるほうがいいのに。

映画における「曲名=女の子の名前」で一番に思い出すのは、「デトロイト・ロック・シティ」で流れる「ベス」。可愛らしいあのシーンもいいけど、今回の「エレノア」は、男の子にとってはシビアなのが良かった(笑)
私の好きなスモーキー・ロビンソンの「Ooo Baby Baby」でも女の子が登場。最初に現れた時には輝いてたのが、二度目では、こんな普通の子だったっけ?というふうに私には見えて、男の子の心情を表してるようで、面白かった。

(09/11/22・新宿武蔵野館)


E.YAZAWA ROCK (2009/日本/監督増田久雄)

バルト9のロビーのでっかいスクリーンで予告観て、興味を持った。以下の感想には余談多し。

「矢沢永吉 RUN&RUN」('79)のプロデューサーが、再び現在の永ちゃんを追ったドキュメンタリー。私はヒット曲しか聴いたことないけど、楽しく観られた。永ちゃんいいなって思った。加藤ひさしがたくさん歌詞を提供してるの、知らなかった…。

冒頭、撮影スタジオそのままの部屋で目覚めた永ちゃんが、オレンジジュースを飲んで海辺を走り出すシーンが、BGM含めて、豪華なカラオケ映像という感じで、ちょっとびっくりしたけど、その後はリハーサルやライブの映像が盛り沢山で、面白かった。しかし忘れた頃にまたイメージビデオっぽくなる。ファンにはああいう需要もあるのかもしれない。それにしても終盤、自転車に乗った永ちゃんが親指立てながら通り過ぎるのをスローで捉えたシーンには堪え切れず笑ってしまった。

ライブのリハーサルにおいて、音はもちろん演出についても永ちゃんが一人で仕切っている様子は、「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」に通じるものがある。
もうひとつ「THIS IS IT」との共通点は、上映時に、あちらこちらで抑え切れない喋り声がしていたこと。普段あまり劇場に来ないお客さんが多いのかな?映画の内容によるけど、そういう気楽な雰囲気っていいなと思う(私は上映中、話したくてうずうずしてるタイプ)。

永ちゃんのライブというと、思い出すのがナンシー関の「信仰の現場」。このドキュメンタリーを観て、彼の存在が何となくクローズドに感じられる原因の一つは、同世代や同業者とのつながりが見えないことかも、と思った。作中でも、彼についてコメントするのはバックミュージシャンの面々のみ。実際は、最後に本人が言う通り、多くの人と関わりながら活動してきたんだろうけど、あまりにわけへだてなく人と関わっていると、逆に外からはそれが見えにくいものなのかもしれない。

74年生まれの私は、永ちゃんが言う「ロックには会場を貸してもくれない」時代を知らない。80年代半ばに「日本のロック」に目覚めた時は、どこだってロックが聴けた。永ちゃんのおかげかも、と思った。
お馴染みの、白いテープでぐるぐる巻きのマイクスタンドも登場。ロッド・スチュワート永ちゃん(と西城秀樹)が受け継いだんだろうけど、80年代半ばにはもう色んなジャンルの人が使いこなしてたから、私としては、二つの時を埋める、日本人歌手のマイクスタンド使いの歴史をまとめたものが見てみたい。

永ちゃんは、いわゆる「Tシャツ」を着ない。意外なことに?今のステージ衣装はどれも結構好み。そのセンスは一貫している。私も、持ってる服の数は多いけど、似たようなものばかりだから、勝手に親近感を覚えてしまった。

『言い過ぎだ』っていうのは、大抵『ほんとのこと言うなよ』って意味なんだ」
 (永ちゃんって、こういう、ちょっとしたこと言うのがうまい)


(09/11/21・バルト9)


ゼロの焦点 (2009/日本/監督犬童一心)

松本清張生誕100周年記念作品。被害者の妻を広末涼子、社長夫人を中谷美紀、その元同業者の受付嬢に木村多江。

(有名な作品なので、色々ばらしてます)

19世紀末が舞台の「シャーロック・ホームズ」シリーズにおいては、「結婚前に他人に宛てたラブレター」をめぐる事件が頻発する。今の感覚じゃぴんと来ないけど、実際にそんなことがあったかどうかはともかく、グラナダのドラマなど観ると、すんなり入り込める。ある「社会」をリアルに感じられれば、その中で起こっていることは自然に受け止められる。むしろ現代の日本が舞台の作品のように「自分なら…」なんて考えないから、観易い。
今作では、日常生活で見慣れた面々が、「パンパン」がキーとなる話を演じる。原作が書かれた時代の雰囲気が出ていなければ、なぜそんなことで人殺しを?と違和感を覚えてしまうだろう。

記録映像や新聞記事でもって当時の世相を伝えるオープニングには、少し白けてしまった。それに、杉本哲太が火鉢の石でタバコに火をつける場面や、警察署でハンコ台がくるくるしてる所など、当時の風俗をああして大げさに撮るのは、好みじゃない。
語り手である広末涼子が、始めはパンプスで滑っていた冬の金沢の町を、長靴で歩き回るようになるに及び、謎解きやサスペンスを期待したけど、そちらもあまり満たされない。キャラメルの箱を拾う場面には拍子抜けした(笑)

今回の映画化には、原作にも野村芳太郎監督の映画版にも無かった「女性の社会進出」というテーマがある。「元パンパン」の社長夫人が、「初の女性市長」の誕生に向け尽力している。そして、夫人を演じた中谷美紀が、そのテーマを妙な形で盛り上げている。
彼女の演技は全編大仰なので見ていて疲れるけど、この映画においては、その存在自体が「女と女のつながり」…セックスする相手、生活を共にする相手は男であっても、女が分かりあえ、支え合えるのは同じ女だけ…というメッセージを、(その正否は別として)強烈に訴えている。とりわけ、帰京する広末涼子を抱擁して送り出す場面や、何も知らない木村多江を車に乗せて走る場面では、ほとばしるようなものを感じて圧倒された。
最後の選挙事務所でのシーンは、ひねくれた見方かもしれないけど、「パンパンなんてせず、耐えて大人しくしていた者が、幸せになれる」と言いたいかのようだった。実際にそういう側面もあったことを表してるのかもしれない。

木村多江の垢抜けない女ぶりは、鼻の下に、生えてないはずの産毛のヒゲが見えるようだった。
社長役の鹿賀丈史が広末涼子を眺めての「あなたの所へなら帰ってくる」のセリフには、吐きそうなほどムカつかされた(いい役者ってことか・笑)。野村版の、哀愁漂う加藤とは全然異なるタイプだけど、どちらも違う意味で、パンパンとかそういうことを気にするように見えない。夫人としては、自分の気持ちの問題なのかな。

残念だったのは、駅や列車は出てきても、「移動感覚」がなかったこと。地図を指で辿って、長い時間を電車やバスに揺られて行く…そういうのがなきゃ。久我美子は金沢駅から散々乗り継ぎして「ヤセの断崖」のある港町まで出てたけど、今回はあっという間に着いていた。何か設定が違ってたのかな?

(09/11/15・新宿ピカデリー)


運命を分けたザイル2 (2007/イギリス/監督ルイーズ・オズモンド)

「運命を分けたザイル」を観たのは4年半以上前。山好きなこともありとても面白かった。原作も何度か読んだ。

日本で続編として公開された今作は、「死のクレバス」(「運命を分けたザイル」原作)の著者であり、全身創痍でシウラ・グランデから生還したジョー・シンプソンが、伝説の登山家トニー・クルツがアイガー北壁で命を落とした事件についてまとめた「The Beckoning Silence」を基にしたドキュメンタリー。北壁を舞台とした再現映像(実際の撮影はどこで行ったのか?)に加え、少年時代よりアイガーとクルツに魅せられたジョーが、リハビリの後に同ルートに挑む姿が描かれる。

アイガー北壁といえば、大好きで何度も観た、映画「アイガー・サンクション」。暗殺を請け負ったイーストウッドが登山チームに紛れ込むが、北壁は観光客から丸見えなので、事故に見せかけなければいけない。ふもとのペンションに滞在中のジョージ・ケネディが覗く、双眼鏡越しの画面がサスペンスフルで印象的だった。
このドキュメンタリーの冒頭でも、アイガー北壁の特徴として、ここでの登山は「公開」となることが挙げられる。それにしても、作中の観光客がしているように、なすすべもなく遭難中の光景を望遠鏡まで使って見るなんて、私にはできないな…。皆でよってたかってそんなものを眺めてしまうところや、クルツの死後に政府が登山を禁じるものの、反対に遭い4ヶ月後にすぐ解禁されるあたり、日本と違って自己責任を重んじてるんだなあと思った。

チラシに書かれた「成功率0%」というコピーが、観終わると、間違ってはいないことが分かる。前作の映像・内容の鮮烈さには及ぶべくもないけど、北壁の迫力はすごい。30年代の登山の様子が再現されているのも楽しい。あんな装備でよく凍死しないものだ。
山の映画というだけで楽しめる私は、前作を観ていなくても面白いだろうと思ったけど、同居人いわく、案内人のジョーがどれだけ山において辛酸を舐めたか分かっていた方が、解説に重みが増すだろうとのこと。確かにそうかも。

(09/11/08・シネクイント)


ファッションが教えてくれること (2009/アメリカ/監督R.J.カトラー)

アメリカ版ヴォーグ誌の編集長、アナ・ウィンターを追ったドキュメンタリー。
原題は「September Issue」=9月号。「ファッション業界の年明けは9月、女性たちは新しいことをしたくなる」。取り上げられるのは、一年で最も分厚い9月号が出来上がるまでの5か月間。日本での公開がもう少し早ければよかったかな?

私なんて着ることもなさそうな、高価な服ばかり載ってるヴォーグ誌だけど、作り手側を追ったこのドキュメンタリーの映像や音楽は庶民的だ。ファッションというより仕事の映画。それにヴォーグ誌だって「アメリカ女性の10人に1人が買う」わけだし、最後に売店に並んでる様を見ても分かるように、やはり庶民の娯楽の延長線上にあるものなんだろう。

冒頭、周囲の人々が「『ヴォーグ』はアナの教会」「彼女は教皇」などとコメントする。でも、観る前から予想してたことだけど、素人の私には、アナの何がすごいのか分からなかった。作中で主に彼女がしているのは、「必要以上に気さくにはしないで」スタッフにあれこれ命じることと、これは要らないあれも要らないと判断すること。「アナはすごい」というのは分かるけど、何がすごいのか分からない。
一方、20年来の同僚である、クリエイティブ・ディレクターのグレースの能力は分かりやすい。自ら着付けまでしてプロデュースした写真の数々は、スクリーンで見ても素晴らしい。

観進めるうち、アナとグレースの根っこでのつながりが浮かび上がってくる。一言でいえば、よしながふみの定義による「やおい」っぽい関係(私はそういうのには熱くなれないけど)。
「常に前進」がポリシーのアナに対し、グレースは自らを評して「ロマンティックな過去の遺物」。アナは早々にセレブに目を付けて成功したが、グレースは「セレブには興味がない」。公私共にカラフルな服を好しとするアナと、全身ほぼ黒づくめで、歩きやすそうな靴のグレース。二人が顔を合わせるシーンはほとんどない。「5万ドルを掛けた」仕事をボツにされたグレースは、アナの居ぬ間に自分の自信作が通るよう手を尽くす。そしてアナの最終チェックを経て、最後にグレースいわく…「私の特集号みたいなものね」。
ラストはアナ自身が自らについて語る。グレースは天才よ、私のほうは…

アナのトレードマークはボブカットとサングラスに毛皮だけど、季節柄、また室内でのシーンが多いため、フェミニンですてきな洋服がたくさん見られて楽しかった。可愛らしいガマガエルのような顔も見飽きない。
9月号の表紙を飾ったシエナ・ミラーは、この映像内では魅力的に感じられなかった。やっぱり女優さんは映画の中が一番かな。

映画「プラダを着た悪魔」と通じるのは、アナが手にするスタバのカップと、グレースがデスクでとるサラダだけ?の食事くらい。私はアナがらみの映画なら、実際にちょこっとだけ出演してる「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」のほうがずっと好きだ。

(09/11/07・バルト9)


イングロリアス・バスターズ (2009/アメリカ/監督クエンティン・タランティーノ)

東京国際フォーラムで開催されたジャパン・プレミアにて観賞。
上映前のステージに現れたブラッド・ピットが、「(タランティーノの作品は)脚本通りに演ればキャラクターがちゃんと出来上がる」というようなことを言ってたのが印象的。

それは、これまで裸の上半身を見せびらかして輝いてた男の人が、身体にぴったりしたスーツを着て、袖や胸元から名残の肉体をちらりと見せているような、しぶいけど昔も懐かしいような映画、また、お遊びやB級感覚によって「映画の魔法」が解けてしまいそうな、そんなギリギリの所を味わうような映画だった(似たような印象をデパルマの「ブラック・ダリア」の際に受けた)。

「マカロニ風戦争映画」でありながら、「映画の映画」、それも「映画館の映画」なのが嬉しい。大好きなジョー・ダンテの「マチネー」を思い出した。
おそらく散りばめられてるであろうパロディやオマージュについては知識が無くて分からないけど、セリフに出てくる映画ネタはそのまま楽しめる。少し前に観た、レニ・リーフェンシュタールの山岳ものが出てきたのが嬉しかった。「たいまつ持って滑ってるのが…」あれか〜と(笑)

アップになったブラッド・ピットの顔の老けぶりにびっくりしたけど、考えたら「ベンジャミン・バトン」でCGによる若返りを見てしまってるからかも。

「どうせ小言をくらって終わりさ、いつもそうなんだ」
 (笑えるシーンやセリフは結構あるけど、何気に可笑しかったのがコレ)


観ながら思い出したのが、サキのとある短編。列車内で退屈している女の子に、主人公が「お城によばれた『とっても良い子』が、たくさん着けてる勲章のせいで狼に食われてしまう」という話をして、母親に嫌がられるというもの。映画には全然関係ないけど、ナチス側の二人がよく勲章をいじってたので頭に浮かんだんだろう。

(09/11/04・東京国際フォーラム ジャパン・プレミア)


きみがぼくを見つけた日 (2009/アメリカ/監督ロベルト・シュベンケ)

上品で後味のよい映画。同居人いわく「素敵の一言」。

自らの意思に関係なくタイムトラベルしてしまうヘンリー(エリック・バナ)と、彼に出会ったクレア(レイチェル・マクアダムス)が愛し合い、ともに過ごす物語。

「SF」のことはよく知らないけど、私にとってはこういうのがそうかも、と思った。
私がいわゆるSFを苦手とする第一の理由は、それってどういうこと?と色々考えちゃうからなんだけど(例えばカンタンに「心と体」などと言われても、心や体の定義って?と考えてしまう)、この物語では、ヘンリーがタイムトラベルをする理由は、特にない(出てくる学者も何の役にも立たない・笑)。「普通じゃない」事象に、登場人物が翻弄されるだけ。だから余計なことを考えず、楽しく観られる。

主役二人のキャラクターは、「タイムトラベラーとその恋人」として以外、それほど深く描写されるわけじゃないけど、だからこそ余計、物語中の「タイムトラベル」について、あるいは人間関係について、ちょっとした発見があって面白い。
また、タイムトラベルものにつきものの「種明かし」ネタ(タイムパラドックス?)が最低限のものだけ、というのも安っぽくなくていい。

途中から、「The Time Traveller's wife」(原題)はこんな体験ができるんだなあ…あるいはしなければならないんだなあ、という視点で観ていた。
ヘンリーは生涯を通じて、愛する人たちに会いに出掛ける。忙しい男だ(笑)ただし重要なのは、その邂逅は、彼の考えでは「待ってはいけない」ということ。確かに私なら、彼が一度でも目の前から消えちゃったら、寂しくてよそに行ってしまうだろう。もっともそういう人(私)には、ああいう人は寄ってこないか。

(自分の娘が、もう少し大きくなった自分の娘と一緒に居るのを見て、ヘンリー)
「へんな感じがする?」
「ううん、magicalって感じ」

マジカルということが、ロマンチックに感じられるのはなぜか?何か語源に関係するのかな?と思った。

二人の結婚式では、Broken Social Sceneがジョイ・ディヴィジョンの「Love will tear us apart」を演奏。これはオリジナルのほうが好きだな…

(09/11/02・バルト9)

マイケル・ジャクソン THIS IS IT (2009/アメリカ/監督ケニー・オルテガ)


(09/11/01・新宿ピカデリー)



表紙映画メモ>2009.11・12