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映画メモ 2008年11・12月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

PARIS / ラースと、その彼女 / ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて / シャイン・ア・ライト / WALL-E/ウォーリー / 未来を写した子どもたち / バンク・ジョブ / DISCO ディスコ /ヤング@ハート / かけひきは、恋のはじまり / ハッピーフライト

PARIS (2008/フランス/監督セドリック・クラビッシュ)

「ウディ・アレンはニューヨークでしか生きられない」と言ったのは本人だったか、村上龍か誰かだったか。「自虐の詩」の幸江は「あんたはここでしか生きられない」と「東京」を指し示される。ある町でしか生きられない人間がいる。今の自分もそれに近いと思う。
この作品の最後には「パリで気楽に暮らせるなんて幸福だ」というモノローグがあるけれど、一見気楽そうに見える彼等の中にも、よそに適応できる人間と、そうでない人間がいることだろう。そんなことをふと思った。

現代のパリ。病に冒され、外の人々を眺めてその人生に思いを馳せる青年ピエール(ロマン・デュリス)。街をゆくのは彼を気遣うシングルマザーの姉(ジュリエット・ビノシュ)、市場で働く男女(アルベール・デュポンテル他)、女子学生に恋をする大学教授、その弟の建築家…。
予告編から冬の群像劇、ということで「ラブ・アクチュアリー」パリ版のようなかんじかな?と思っていたら、通じるところはあったけど、もっと…キャラメリゼされたような、ちょっと何かを覗きこむようなかんじの作品だった。

映画はエッフェル塔からのパリの眺めに始まる。他にも何度か遠景が出てくるけど、そのたび、すてきだなあと思うと同時に、なんて狭い街だろうと思う。
作中描かれるのは、いわゆる「素顔のパリ」。道路工事やビル建設の現場、ゴミ収集の様子。遠くのエッフェル塔が霞んでいるときもある。
そしてラスト、青年の目を通して見るパリの名所の数々は、少し違ったふうに見える。

登場人物の普段着らしいファッションも面白かった。以前から思ってたけど、向こうでは男の人がジャケットの下にジッパーのついた服を着ていることが多い。
ジュリエット・ビノシュがワンシーンだけ見せる、キャスケット(でふざける)姿も可愛かった。フランスの大女優つながりで、今年は「DISCO」でエマニュエル・ベアールのキャスケット姿も見たっけ。私の好みとしてはビノシュのほうが可愛い(昔より断然良い!たとえ頭が「サラダ菜のようにぼさぼさ」でも・笑)

街角のパン屋のたたずまいは、「赤い風船」に出てきたお店を思い出した。でもって偏見の激しいマダムを演じてるのは…見たことあるけど、誰だっけ?沢口靖子ぽい、目を見開いた演技が可笑しい。フランスではバゲット、手づかみなんだよね。

「偶然に身をまかせるんだ、ぼくが保証するから」
   (今年最後?に劇場で聴いた、言われたら嬉しいセリフ)


(08/12/27・Bunkamuraル・シネマ)


ラースと、その彼女 (2007/アメリカ/監督クレイグ・ギレスピー)

あの町、あの場所でしか成立しないおとぎ話だけど、主人公を演じるライアン・ゴズリングのまなざしを見ていると、納得させられてしまう。

アメリカ中西部の田舎町。独り住まいのラース(ライアン・ゴズリング)は、仕事場と自宅を行き来するだけの毎日を、兄夫婦はじめ周囲に心配されている。そんなある日、彼が皆に紹介した「彼女」は、リアルドールの「ビアンカ」だった。

まずはラースが職場の同僚に「リアルドール」を勧められるシーンの後に出る「6週間後」のテロップに、色々想像させられて可笑しい。
巨大な木箱に入れられてやってきたのは、「ブラジル人の宣教師」ビアンカ。リアルドールの売りは(同僚いわく)「自分好みにカスタマイズできること」だけど、ラースの好みはああいう女性だったのか、それとも同僚が世話を焼いたのか、そこのところが気になった。服はあれしかなかったのかな?とか…
いずれにしても、遠い異国からやってきた、自分を救ってくれる人、ということだ。私は、心の安らぎと性的な要求とを同じ相手に求めなければならないことの葛藤(そういう社会に馴染んでいるがための苦悩)を感じるけど、ラースにそういう迷いはないようだ。

ラースが「おかしくなった」のか否かは描かれないけど、私は作中ずっと、リアルドールを「生きている」と認識するのはともかく、その声が聴こえるというのはどういうことなのか、考えていた。ラースはビアンカの口に耳を寄せ、彼女の意図を代弁する。「彼女はお酒は飲まない」「ぼくのことを知りたがってるんだ」など。これがどういうことなのか、よく分からなかった。
だから、彼が(自分とビアンカの)声を使い分けて「LOVE」を歌うシーンはとても面白かったし、町のドクター(パトリシア・クラークソン)の「彼が決めてるんです、始めから全て」というセリフには、そりゃそうだよなあ、と安堵させられた。そうなんだ、当たり前のことだけど、世界は、ある誰かのものでしかないんだ。
ちなみに同行者は、「あれが『人形』(の声を聴く)だと変人に思われるけど、『神様』だと偉くもなれるんだから、へんなものだ」と言っていた(笑)

兄を演じるポール・シュナイダー(今となっては「ヒーローズ」のサイラーに似てるとしか思えず笑える)、その妻のエミリー・モーティマー、またドクター役のパトリシア・クラークソンなど周囲の人々の存在がとてもいい。
とくにドクターはとても感じがよい(パトリシア・クラークソンはもともと好きな女優)。きわめて普通の、常識的な女性。お昼にデスクで食べてた、タッパーに入ったものはなんだろう?また「無理に話さなくてもいいのよ」というのがカウンセリングの基本なんだなと改めて分かった(笑)

ラースは、兄夫婦の自宅(元は兄弟が両親と暮らしていた家)のガレージを改装して住んでいる。中にはベッドとちいさな机に椅子。夜に帰宅して、一瞬の後に即座に明かりが消えるシーンが可笑しかった。

(08/12/24・シネ・リーブル池袋)


ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて (2008/ドイツ/監督トマス・グルベ)

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の、アジア6大都市をめぐるツアーを追ったドキュメンタリー。
音楽や音楽家についてどうこうというより、「様々な人間で構成された」「文化を持つ」あるひとつの社会について、色々想像させられる映画だった。

指揮者のサイモン・ラトルいわく、ベルリン・フィルのメンバーとは「個々で最高レベルの演奏を求められつつ、団体の一部とならなければいけないという、世界で唯一の仕事」。確かに、最高の演奏者たちが総合的に美しいハーモニーを作り上げるのは奇跡のようなものだ。
日本人の首席ヴィオラ奏者・清水直子は冗談めかして言う、「夫は私の頑張りを不思議がるの、君の音なんて聴こえないのにって」(ちなみに以前テレビ番組で観たところによると、夫も音楽家である)。しかしメンバーの誰かが口にするように、カラヤンの言葉によれば「最も後部座席の者によって団体のレベルが決まる」。だから皆必死に練習を重ねる。

映画はちょっとしたロードムービーでもある。楽団員は飛行機からタクシーへ、ホテルへ、そして会場へと移動に次ぐ移動を重ねる。リハーサルでは肩を揉む者、しかめつらで楽器を口から離す者、それを横眼で観る者などが映し出され、見ていて飽きない。
その合間に挟みこまれる、メンバーの独白。繰り返し登場する数人は、126人の中からどうやって選んだんだろう?また、インタビューの順番はあのとおりなんだろうか?
始めのほうでは、若手が自らの子ども時代の苦難(「友人の集まりに呼ばれない」など)を、ベテランは楽団の伝統やそのあり方について語る。そしてツアーが進むにつれ、苦悩や不満が漏れる。技術的なことは勿論、家庭と仕事の両立や集団生活の難しさ…何といっても最大の問題は「ベルリン・フィルの中で自分の居場所を確保すること」だ。
だが終盤になると個々も全体も上り調子で、メンバーの口からは演奏で得られる喜びが語られる。「歓喜の波」「今死んでもいい」…ラトルによれば「ドラッグのような快感」。台北で大歓迎を受けた後、アジア人のメンバーが「僕らのやっているような音楽への渇望を感じた」と述べていたのも印象的だった。
そしてラスト、皆は人生について語り始め、ツアーは東京で「最後の夜」を迎える。

私は小中学生のときブラスバンド部に所属していたんだけど、そんな(ベルリン・フィルとは比べものにならない)ささやかな経験でも、皆で音を合わせるときの気持ちよさは今だに体が覚えている。作中、若手メンバーがユースオーケストラでの体験について語る内容はよく伝わってきた。

原題は「Trip to Asia」。映像の合間に、いかにも「エキゾチック」なアジアの風景が挟みこまれる。各都市の建物や働く人々、ネオンや煙。東京では紅葉した樹木に停まるカラスに始まり、明治神宮へ。ちょうど七五三の時期だったのかな?着物姿の子どもなどが映される。
香港公演において、屋外の公園?で、ドライブインシアターのような開放的な雰囲気でパブリックビューイングを楽しむ人々の様子がとても良かった。映画のカタチが違うとはいえ「シャイン・ア・ライト」の仕込みみたいな同じ顔付きばかりの客とは違う(笑・感想には書かなかったけど、唯一がっかりした点)。

(08/12/14・ユーロスペース)


シャイン・ア・ライト (2008/アメリカ/監督マーティン・スコセッシ)

「長く続ける秘訣?…運が尽きないだけさ」

私はストーンズにはあまり詳しくない。知ってる曲のイントロのリフを聴いてもピンと来ず、何だか分からない。黒人音楽体質じゃないとか、ベース主体じゃないからとか、理由はたぶん色々だろう。でも聴いてると気持ちはいい。

冒頭、本番が迫りながらセットリストを作り上げないミックと、「最初の一曲だけでも」と困り果てるスコセッシとが交互に、しつこく、わざとらしく映される。ミックのほうが飛行機の中などで優雅な曲をバックにリストを確認してるのに対し、映画製作者側がストーンズの曲を流しながら話し合ってるのが可笑しい。でもって大きなプロジェクトであるがゆえに、おそらく誰のせいでもなく?セットが訳のわからないものになっている(ミックが「ドールハウス」と言うジオラマ風のセットの模型がちゃちくて笑う。日本人なら精巧に作るだろう!)
続けて当日の映像。本番前にクリントン一族と挨拶し合うメンバー。その後スコセッシの一言でライブが始まる。合間に昔のインタビューやニュース映像がちょこちょこ挟まれる。ポシティブでシンプルな内容のものばかりだ。ちょっとがくっときたラストシーン(笑)に至るまで、明るくカラッとした雰囲気で、観ていて気持ちがよかった。

ライブ映像は楽しく、昔の映像では、ミックの顔の可愛らしさに改めて心を動かされた。
観ているうちに、日本でも以前、ストーンズにあこがれて似たようなことしてたバンドがいたなあ、などと思い出した。なぜかというと、ミックのステージングが、まさに彼のエッセンスを凝縮したようなものになってたから。普段ものまね芸人の方ばかり見ていて、久々に本人を見たらそれ以上にクドくてびっくりした、というかんじ。

ミックといえば、ぴたぴためのシャツに長いコート、加えて羽根というのがイメージなので、最後にそれっぽいかんじの上着を着てくれたのは良かった。肘をあげる歌い癖のおかげで、腹もよく見える。観賞後のトイレではおばさま二人が「懐かしかったわね〜」「ミックは体脂肪率が少なそうでいいわね〜」という語らいをしていた。
キースは本当に気持ちよさそうで、ストーンズの曲は自分の快感のために作ってるんだなと改めて思った。
チャーリー・ワッツは相変わらずチャーミング。60年代からずっと、あの持ち方、あの叩き方だ。あの年であれだけ出来るのはすごい。
ロン・ウッドのことはよく分からない。運のいい人だな〜と思う。

ストーンズのライブ盤を聴きたいなと思って(itunesには入ってなかったので)棚を見てみたら、64・65年録音の「Rough,Dirty and Irresistible!」というブート盤があった。なぜこれを持ってるのか分からないけど(10代の頃に買うか貰うかしたんだろう、たぶん)、ブライアン・ジョーンズのいる頃の写真は雰囲気がいいので好きだ。

(08/12/07・新宿武蔵野館)


WALL-E/ウォーリー (2008/アメリカ/監督アンドリュー・スタントン)

新宿ピカデリーにて公開初日。物販コーナーをチェックしたら、どのグッズより、前売り特典のストラップが可愛かった。買っておいてよかった。もっとも観賞後には、ウォーリーより超キュートなモーのグッズが(無いけど)欲しくなっちゃったけど(笑)

人類が去った地球でひとり働き続けるロボットのもとに、宇宙からイブがやってくる…
これまで観てきた予告編では地球の場面が主で、ウォーリーがイブを追ってロケットにしがみ付くところで終わっていたので、それ以降にあんなに色々あるだなんて思わなかった。前半はボーイ・ミーツ・ガールのラブストーリー、後半は冒険活劇だ。
私は前半のほうが好みだけど、中でも楽しかったのは、ウォーリーが独りで繰り返してる日常生活。クローゼットにネクタイを下げるように、夜にはキャタピラを仕舞って休むなんて可愛い。棚のコレクションに先割れスプーンを加えるシーンには笑った。
ウォーリーのささやかな住居の描写はもちろん、「彼」が続けてきた仕事の成果を一瞬で表現するシーンも素晴らしい。「彼」がその作業を始める描写があるのも嬉しい。
イブがやってきてからは、「彼女」を自分の部屋に連れてくるシーンが好きだ。「突然だから掃除するヒマはなかったけど…」(とは言わないけど・笑)。ぴかぴか光る電飾、くるくる回る棚から取り出される宝物の数々。そして突然動かなくなった「彼女」を守り、日々仕事を続けるウォーリーの姿には涙がこぼれてしまった。←作中泣いたのはここだけ!

前半のウォーリーとイブは「この星でたった二人」だ(ゴキブリは除いて)。その後の舞台となる艦内には、無数のロボットが存在し、イブと同型の仲間もたくさんいるけど、一度絆ができると、宇宙の中で、相手は唯一無比の存在。何百年ぶりに?あんなにたくさんの仲間、さらには人間を目にしたというのに、「彼」の目には「彼女」しか入らない。不思議に感じつつも、ぐっときた。でも、あの胸のマークがなければ見分けることができたんだろうか?と意地悪くも思った(笑)
人間同士の繋がりは、「運命」でも「気が合うこと」でもなく、「一緒に過ごした時間」によってこそ出来るものかもしれないと思う。それが幻想であっても。それにしても、ウォーリーがイブに惚れたのは、ひとりぼっちのところにぴかぴかの「彼女」がやってきたからだけど、イブがウォーリーに執着するようになったのはなぜだろう?再生された録画で自分に尽くすウォーリーに見入るシーンには、動機付けじゃないの?と思ってしまった(笑)

ウォーリーとイブはロボットなんだから、性という概念無しに観てもいいんだけど、なかなかそうはいかない。まあ男同士には見られるけど(笑)それだって性を付与してることに変わりはない。彼等に(性差を前提とした)名前を付けてしまうように、人間というのはそこから離れられないもんなんだなと思った。
また「ロボット」の「知能」についてはよく知らないけど、考えたらめんどくさいことになるから、例えば「スピードレーサー」が、車の知識がないクリエイターによって作られたからこそ面白いように、原則以上のことに踏み込まず作られてるからロマンチックなのかもしれない、と思った。

その他面白かったのは、艦内のロボット修理室のシーン。想定外の機能を発揮するようになったロボットたちがつながれている様に、「カッコーの巣の上で」などの精神病院を思い出してしまった。でも、艦内からは日々あんなにゴミを排出してるのに、ロボットをいちいち直してるなんて不思議だ。
(ちなみに同居人は、スター・ウォーズ エピソード4の冒頭に出てくる、R2-D2とC-3POが捕まって売られるボロ船?を思い出したと言っていた)
艦内でもゴミ処理をしているのが「ウォーリー」であるというのも面白い。ゴミの固め方が甘いから、大先輩?であるウォーリーは、頑丈なビルを作るためにああして固くするようになったのかな、と思った。
…というように、色々疑問というか、後になって気になることがたくさん出てくる、密度の濃い映画だった。

(08/12/05・新宿ピカデリー)


未来を写した子どもたち (2004/アメリカ/監督ロス・カウフマン、ザナ・ブリスキ)

インドのとある売春街で生まれ育った子どもたちが、女性カメラマンの開いた写真教室を通じ、人生を変化させてゆく姿を追ったドキュメンタリー。

当然ながら町には色んなタイプの子どもがいる。映画の冒頭、ある女の子の言葉で彼等が手短に紹介される。
まずは、女の子たちの格好について色々想像した。派手な色合いでフリルのついた、ごたごたした服の数々は、どこで作られ、売られ、買われているのか。髪を編んだり、リボンやヘアバンド(いつもずりおちそう・笑)を付けたりしてる子は、家族にしてもらっているのか、自分でするのか。また、この服はお気に入りとか、そういうこだわりがあるのかなあ、などと考えた。

子どもたちにとって、自分の家で行われている売春は「見えないよう吊るされたカーテンの向こうで行われているもの」「客が金を払わず逃げれば追いかけるもの」だ。そしてその暮らしは「いつもお金のことばかり」。
作中「売春」を直接感じさせる映像は、街角に立つ女性たちを映したもののみだけど、その結果は、映画の最初から最後まで貫かれている。彼等にとっては、カーテンの奥で何が行われているかなんてことより、売春の「結果」のほうが大きいのだ。街を抜け出したく思っても、学校への入学許可は下りない。

カメラマンのザナは写真の面白さについて子どもたちに教える。よい写真とは何か?情報が多いこと、構図やアングルが面白く、個性があること。
そして、子どもたちの一人、アヴィジットの作品はたしかにそうだ。当初、他の女の子の口から「太ってる」とだけ紹介された彼には、写真の才能があった。インド代表としてアムステルダムの子供写真展に招待された彼は、服を新調し、肩で風切って海岸を歩く。
アヴィジットは、写真展でとある作品を前に「これは少し悲しい感じがするけど、ちゃんと見なきゃね」と言う。街の他の男の子も「うちは汚いんだ、お皿の横に靴がある。それをそのまま撮って伝えたい」と言っていた。学校に行かなくたって、そういうこと…写真の意義、を自分なりに考えている。
勿論彼等は、真面目な顔でカメラを構えているばかりではない。皆で海へ行くシーンでは、遊びながら写真を撮るってあまりないよなあ(普通は遊ぶ人と撮る人とが別だから)、楽しそうだなあと思った。しかし、町ゆく人にカメラを向けると「このガキが、どうせ盗んだカメラだろ」などと罵声を浴びせられる(それゆえ撮影には「度胸」も必要となる)というのは想像に難かった。
彼等が日本に来たら、どんな写真を撮るだろう?とも考えた。

ザナが街へやってきたのは、売春婦の女性を撮るため。しかし子どもたちと出会った彼女は、人生のチャンスに気付いてもらおうと活動を始める。「ワーカーでも教師でもない自分にできることは限られてる」と嘆きながらも、学校へ入れる資金作りに彼等の写真をサザビーの競売にかけ、展覧会を開く。
私は、少なくとも日本において教員…あるいは子どもにものを教える者に必要な資質とは、「なんでもあり」のこの世の中において、子どもに対し、自分の立ち位置をはっきり示し、付いてこさせるだけの自信を持っていることだと思う。彼女にはそれがあると感じた。

ちなみにこの映画の入場料金の1パーセントは、ザナが設立した支援基金に寄付され、売春窟の子どもを受け入れる寄宿学校の建設運営基金に充てられる予定だそう。映画を観ることでも、少々のことはできる。

「動物園のゾウは、ビニールが落ちてると餌と間違えて食べちゃうんだ、お腹を壊すのにね」

(08/12/01・シネスイッチ銀座)


バンク・ジョブ (2008/イギリス/監督ロジャー・ドナルドソン)

「イギリス最大の強奪事件」を基に作られた作品。
1971年のロンドン。中古車店を営むテリー(ジェイソン・ステイサム)は、幼馴染のマルティーヌから銀行の貸金庫破りの話を持ちかけられる。借金に追われる彼は悩んだ末に仲間を集めるが、それは王室スキャンダルに関わる罠。様々な事情が絡み、彼等は政府や警察、裏社会のボスなどに追われる身となる。

主人公一味を追う男がある男に「驚いたことに全員素人だ」と言うように、テリー始めメンバーは皆そこらにいる普通の男、かつての小悪党。仲間に加えたトンネル堀りのプロに道具の使い方を教えてもらい、びびるシーンが可笑しい。
登場時のジェイソン・ステイサムはくたびれたおやじといったふう。酒場に昔の仲間を集め「死ぬ前に一度はでかいことをしたい」「モーツァルトは何歳で作曲し始めたと思う?5歳だぞ」などと誘う姿がバカっぽくて可愛い。しかし窮地に陥ると俄然頼れる男になるので、観ていて安心だ。そして物語は、各々にとってのミスや偶然、運の積み重ねで流れていく。
唯一のアクションシーン…勿論ジェイソン・ステイサムが複数の相手をぶちのめすシーン…がぴりっと効いており、カッコよくて見もの。頭突きにはああいうアタマじゃなきゃと思わせられる。

手練れのマダムが言うように、貸金庫とは「内容を知られずに預かってくれるところ」。最後のテロップによれば、ほとんどの顧客が盗難品を申告しなかったそうだ。
作中では無機質に並ぶロッカーのような金庫の中に、現金や宝飾品、金の延べ棒などの他、ワインや下着なども入れられている。ドリルでひとつひとつ鍵を壊し、大騒ぎしながら中身を出していくシーンが楽しい。

事件が警察に発覚した原因は、一味の無線を一市民が傍受していたこと。私は始め、この男はたんなる無線マニアでなくMI-5の一員か何かかと勘違いしていた。休日の夜なのに整えた髪、ぱりっとしたカッターシャツで無線機の前に座っていたから。かつて「ワル」だった中古車店主のジェイソン・ステイサムも普段からスーツを着用しているし、当時のイギリスってそういうふうだったのかなあ、と思う。

とある事情から貸金庫破りにテリーを誘う「ゴージャス」なマルティーヌは、シャーロット・ラングリング風のしぶい美女。お気に入りのテリーに対し、控え目にアプローチする。一方庶民的なテリーの妻は、事件を知って、まずはマルティーヌとの仲を取り上げ「尽くしてきたのに!」と責める。このあたりの対比はベタすぎると思ったけど(笑)女優さんははまっていた。
ポルノ王役でデヴィッド・スーシェが見られたのも良かった。あのクスリは思わせぶりだったなあ?

(08/11/23・シネマライズ)


DISCO ディスコ (2008/フランス/監督ファビエン・オンテニエンテ)

冴えない40男がディスコダンスで奮闘…という、かなり今更感あるお話だけど、フランスらしいゆるさが心地よくて楽しかった。

ノルマンディーの港町。失業中のディディエ(フランク・デュボスク)は故国に帰った前妻に息子を取られ、会うこともかなわない。一緒に暮らす母親は、その甲斐性の無さを責めるばかり。
彼にはダンストリオ「Bee King」としてフロアを席巻した過去があった。町にディスコを開いたジャクソン(ジェラール・ドパルデュー)は、友人を気遣いダンスコンテストへの出場を促す。優勝賞品が旅行券と知ったディディエは、息子とバカンスを過ごすため、仲間のヌヌイエとウォルターを呼び戻す。

ジェラール・ドパルデューの「80年代へようこそ!」というセリフからして、フランスのディスコブームは日本より少し遅かったのかな?それとも設定を変えたんだろうか。
映画の幕開けは(この曲が流れればどうしたって胸がしめつけられてしまう→)「サニー」、コンテストの予選で使われるのは「ネバー・セイ・グッドバイ」、決勝戦に「セプテンバー」、その他流れるのはビージーズ(これのみ全てカバー)、既成曲以外のスコアはミシェル・ルグラン。なかなか気持ちよかった。
(ところで、ジャクソンの奥さんが連れてきた歌手は誰なんだろう?向こうじゃたぶん、出てきただけでお目出度いってかんじなんだろうなあ?)

坂の多いノルマンディーの町。ディディエが母親と暮らす家は、長い長い階段の上にある。一度だけ挿入される夕暮れのシーンが印象的だ。それにしても、あんなディスコ、あんなコンテストが若者で大盛況だなんて、フランスってそうなのか、それともそういう町なのか、あるいはファンタジーなのか。
主人公ディディエを演じるフランク・デュボスクは有名なコメディアンだそうだけど、私は初めて見た。登場時、サングラス+白いジャージで町を歩く姿に、同行者が「クソの人(←うちでのビル・ナイの呼び名。「ラブ・アクチュアリー」から)の若い頃みたい」と言う。
田舎町で傷心を癒す元バレリーナ・フランスにエマニュエル・べアール。ディディエの家を彼女が訪ねるシーンでは、ディディエのカットと彼女のみが映るカットとでは、まるで違う映画のよう(笑)ラフなダンススタイルが多かったけど、外出時の普通のジーンズ姿と、最後のパーティ姿がすてきだった。キャスケットを被ってるのが可愛い!
ちなみに終盤ふいに、へんな言い方だけど、彼女がやたら「フランス語」っぽく喋るシーンがあって面白かった。
トリオの一人、ウォルターを演じたサミュエル・ル・ビアンという俳優さんは、ジェイソン・ステイサムを無骨に&可愛くしたようなかんじで、「寡黙な肉体労働者」という役柄も相まって超タイプで惚れてしまった。腕の入れ墨がちらっと見えてるシーンがキュートすぎる。
(って今調べたら、観たことある映画に出てるんだけど、全然分からなかった…他の映画じゃ全然違うのかな)

主人公トリオやエマニュエル・べアールのダンスシーンは、ばっちり決めたふうには撮られていない(べアールは「8人の女たち」なんかのダンスを知ってるから、余計・笑)。ジェラール・ドパルデューも、彼が出る必要を感じさせないラフな演技だ。
加えて、唐突にアフロヘアのウィッグをつけたカモメが出てきたり(可愛いけど!)、ラストは「愛の風車」があんなことになったりと、観てる側にしてみれば思いつきのような場面が次々と挿入される。また例えば決勝戦の場面で審査員のミスなんとかがむすっとしているなど、リアルといえばリアルだけど、ハリウッドのダンスものなんかに比べたらずいぶんゆるい雰囲気。最後は不思議と、幸せな気分になった。

「次に登場するのは、地元ル・アーヴルからの挑戦者です!」

(08/11/16・シャンテシネ)


ヤング@ハート (2007/イギリス/監督スティーヴン・ウォーカー)

アメリカ・マサチューセッツ州のコーラスグループ「ヤング@ハート」の平均年齢は80歳。レパートリーは指導者のボブが選ぶロックやR&Bの名曲の数々だ。映画は次の公演に向けての新曲の練習の様子と、メンバーの日常生活とを織り交ぜたドキュメンタリーになっている。

オープニングは93歳の花形スター、アイリーンがクラッシュの「Should I stay or I should I go」を歌うどアップの映像。その後も知ってる曲が目白押しだ。
(エンドクレジットに使用曲としてゾンビーズの「She's not there」が出てたけど、どこに使われてたのかな?気付かなかった)
ボブは練習法について「歌詞から入るんだ、彼等は詞の意味から曲を自分のものにしていくからね」と言っているので、音だけでなく詞にも重きを置いて選曲しているのだろう。
練習初日に曲を聴かされたメンバーはぽかんとしているが(耳をふさぐ者も)、ステージではどれも素晴らしいものになっている。皆が自分の言葉として歌うことのできる曲を選ぶボブの慧眼、また当初は「騒音」程度にしか聴こえなかったであろう曲を受け入れて練習するメンバーと、指導を続けるボブとの間の信頼関係…あるいは双方の好奇心…に感動した。

彼等は歌もそれほど上手くないし、歌詞さえ忘れる時もある。でも、歌って、歌う人間のキャラクター、容姿含めて全てがその要素になるんだと当たり前のことを改めて思った。JBの曲の冒頭のシャウトとか、爺さんじゃないと出来ないし(年の功って意味じゃなく・笑)
私はどんな歌手であれ、プロモより実際に歌っている映像のほうが好きだけど、「ステイン・アライブ」のプロモなどは面白かった。映画「アクロス・ザ・ユニバース」で、同じようにボウリング場を舞台に「I've just seen a face」が流れるシーンを思い出した(笑)

指導者であるビルがグループを創ったのは、自身が20代の頃。現在50代の彼はTシャツを着た普通のおじさんだけど、どことなくカリスマ性がある。といっても押しつけがましいものではなく、自分より何十歳も年上のメンバーに対し、自信と忍耐を持ってごく自然に振る舞っており、見ていて気持ちがいい。
練習時は並べた椅子にメンバーが座り、ソロパートを持つ者が前に出て歌うという形を取っていたけど、椅子との間に必ず帯状のシートを敷いていたのが印象的だった。「ステージ」をより意識させるためだろうか?

同行者は「年を取るとその人のエッセンスが凝縮されてオモテに出てくるから、つまらない生き方ってできないなあ」と言っていた。自分はどういう老人になるんだろう?ともかく今以上に、話が飛ぶことにはなるだろう…
ちなみに観賞後のトイレでは、上品そうな奥様二人が「アメリカは公園も家も広くていいわね〜」「年を取ったら、ああいうところで暮らしたいわね〜」と話していた。公演当日、メンバーたちがブラウスにアイロンをかけたり靴を磨いたりする姿が印象的で、おばあちゃんになったら、ああいう家事を色々やれる程度の(でも掃除がめんどくさくない程度の)部屋に暮らせたらいいなあと思った。

インタビュアー(イギリスのテレビ局)の質問内容がストレートなことにも感心した。「癌が再発するのが心配?」「歌詞はもう間違えない?」など、日本ならあまり口にしないことをずけずけ聞くし、相手もはっきり答える。
体調の悪さなどをネタにした老人ジョークも面白い。ああいうの、日本でもあればいいのに。

ラストのコンサートシーンには子どもの姿も多く見られた。一番前の席に、おそらく父親に連れられてきたであろう女の子がおり、無表情で姿勢よく座っていた。つまらないのかな?と思ったけど、同行者と話していたら、彼もその子が気になったそうで、でも自分があのくらいの年だったころを思い出してごらん、そんなに騒がなくても、心に残ったことってあるんじゃない?と言われた。そういうものかもしれない、確かに外からは分からないものだ。

ちなみにうちの父親も60を過ぎてからグリークラブに所属し、海外公演などに行っている。考えたことなかったけど、いつまでやるつもりなんだろう?この映画を勧めてみようかな、と思った。

(08/11/14・シネカノン有楽町)


かけひきは、恋のはじまり (2008/アメリカ/監督ジョージ・クルーニー)

ジョージ・クルーニー監督第三作。
日本版の予告編やポスターからレニー&ユアンの「恋は邪魔者」のようなラブコメをイメージしていたら、全く違っていたので驚いた。「変化の時代を生きる中年男」の話だった。
映画自体はスクリューボール・コメディ風に撮られている。古き良き時代の男同士のファイトや酒場での騒動、「風と共に去りぬ」を思い出させるキスシーン、ランディ・ニューマンの音楽。少々気恥しく感じる部分もあり、ジョージ・クルーニーって真面目な人なんだなあと思った。同行者は観終わっていい気持ちになった、と言っていた。

1920年代のアメリカ。40過ぎのドッジ(ジョージ・クルーニー)はプロフットボールチーム「ブルドッグス」の主力選手。しかしプロリーグの集客力は乏しく、チームは解散を余儀なくされる。そこで彼は「戦争の英雄」として人気を博す学生選手カーター(ジョン・クラシンスキー)を入団させようともくろむ。一方、「英雄」の暴露記事を狙う記者のレクシー(レニー・ゼルウィガー)も彼に接近していた。

プロチームが出来たばかりのアメフト界。炭鉱や農場出身の男たちは、試合後のユニフォームを移動中の汽車の窓の外に干す。ブルドッグス=ジョージ・クルーニーはラフでトリッキーなプレイを得意とするが、世間の認識の高まりと共に「ルール」が制定され始め、戸惑いつまずく。そしてラスト、フットボールを愛する彼の結論は…「楽しんでいこう」。
話が少しそれるけど、数年前に放送されたドラマ「美女か野獣」で、松嶋菜々子がテレビ局の敏腕プロデューサーを演じていた(今関東地区で再放送してるようなので思い出した)。ちらっと観ただけなんだけど、私生活を投げ打ってお偉方と近付きになり特ダネを得る「キャリアウーマン」の役柄で、とにかくぴりぴりしており見ていて辛かった。「かけひきは〜」のレニーは出世を目指す敏腕記者ながら、しごく自然で楽しそうで、そういう部分はハリウッド映画っていいよなあと思ってしまった。最後の試合時の記者席で、放送禁止用語を連発するシーンが可笑しい。

レニーは登場時、前回劇場で観た「ミス・ポター」の時より随分老けたなあと思ったけど、光る目に法令線も魅力的だった。やけに髪がぼさぼさな場面があったのは何だったんだろう?
ジョージ・クルーニーはいつも通り。まずはフットボールのユニフォーム姿、次いでスーツにレザージャケット、終盤にはパジャマやスーツのよれよれ版など色んな格好になるけど、コスプレ感や有難味が全くない。顔力が強すぎるんだろうか?
二人を含め、登場人物のファッションが飛び抜けておしゃれなわけではないのが、リアルで面白く感じた。
男の子の姿が多く挿入されるのも印象的だった。ちび版のスーツに帽子を身に付け、指示を受けて悪事(笑)をしたり、タバコで休憩したり。彼等はあの後、どんな大人になっただろう?

原題は「leatherheads」=当時のフットボール選手が被っていた、革製のヘッドギア(?)。ジョージのそれは、最後、バイクのサイドカーの座席に放り込まれ、二人とともに一本道をゆく。

(08/11/08・新宿武蔵野館)


ハッピーフライト (2008/日本/監督矢口史靖)

私は電車やバスが好きだけど、飛行機には…機体そのものにも、空港やその仕組みにも…あまり興味がない。
この映画において当の「ホノルル行き1980便」が飛び立つ場面で突然、その理由が分かった。端的に言うとレールや駅がない、パイロットの腕一つで空をゆくという自由すぎるイメージ(あくまでも「イメージ」であって、実際は緻密にコントロールされており、だからこそこういう映画が作られるわけだけど)に面白さを感じないのだろう。
裏を返せば、この映画には、飛行機自体のそうしたイメージが表されていたということになる。

上記のこととは関係なく、映画は楽しかった。ただし飛行機好きな人が観たらもっと楽しめるだろうなあと思った。
予告編ではキャビンアテンダントとパイロットばかりが強調されてるけど、あの鉄の巨体に関わる様々な業務が登場する。田辺誠一の水滴まみれの顔(悪い意味でなく、この人の場合まったく汗に見えない)と綾瀬はるかの頑張り顔ばかりじゃ飽きるけど、他の大勢の仕事ぶりに心が躍る。岸部一徳と田畑智子はとくにもうけ役。皆の表情に垣間見える、部署内での仲間意識や、共通の敵(笑)を見つけた際の同僚同士通じ合う心などが可笑しい。
ちなみに冒頭「搭乗時の注意」のフェイク映像が流れるんだけど、働く人々が紹介される映画の前半は、ミッキー吉野による心地いい音楽も相まって、その手の(自動車学校で観るあれのような雰囲気の)映像を観ているようなかんじがした。

始め、新米キャビンアテンダントの綾瀬はるかと同僚二人が空港行きのバスの中でしている会話が、私の苦手なタイプのガールズトークだったので(女の子たちがどうこうというより「水をいっぱい飲んどいたほうがいいんだって〜!」などとという会話のセンスが苦手)、ちょっと動揺したんだけど、その後登場した、これも新米?パイロットの田辺誠一と同僚もかなり嘘っぽいボーイズトーク?をする。それで、ああこういうノリの映画なんだ〜と納得することができた。同行者は「こんな映画、リアルだったら怖いよ!」と言っていた(笑)
しかし社会見学に来る子どもたちは結構生々しい。子どもが苦手な人なら、余計嫌いになるかも(笑)

ちなみに私は飛行機に乗ったことがない(旅行とか、なんとなく断ってしまう)。
でもって「私が」「この映画が面白かったか否かは関係なく」観賞後に飛行機に乗りたくなったかというと…逆に乗りたくなくなった。機長の時任三郎におんぶされて海を泳いで渡ったほうがまし!と思ってしまった。
考えてみたら、飛行機が離陸・着陸するだけじゃ映画にならないもんね…だから昔から、飛行機映画といえばパニックものなんだ。

(08/11/06・メディアプラスホール試写会)



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