土曜の朝の静かなショッピングセンター(「マンハッタンじゃないんだ、郊外だから大丈夫」)。車から降りた男が宝石店で強盗を働くが失敗。運転役の男は慌てふためきその場を去る。
映画はその後、両親の経営する店での強盗計画を立てた兄アンディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)と実行した弟ハンク(イーサン・ホーク)、さらには事件で妻を亡くした父親(アルバート・フィニー)、それぞれの視点で過去を繰り返しながら、ある結末へ流れてゆく。
監督はシドニー・ルメット。原題は「Before the Devil Knows You're Dead」…「その死が悪魔に知られる前に、天国へ行けますように」という諺より。時系列をシャッフルする流行?のスタイルだけど、サスペンスというよりメロドラマだ。
不動産会社の雑用係から始まって今やそれなりの地位に立つが金を必要とする兄が、離婚して慰謝料の支払いにも困っている弟を呼び出す。いつもの店で酒を前に、肩が前にずれこんだシャツと半開きの口で話を聞く弟。兄のほうはぴっちり撫でつけた髪に小奇麗なスーツ。しかし余裕を見せる兄も、のっぴきならなくなると口を開いて座りこむ。ベッドに寝転がる。気のせいか顔まで似ているように感じられるときがあった。
アンディの妻ジーナを演じるマリサ・トメイは、始め誰だか分らなかった。普通っぽいかんじの女性だけど、作中一度もブラジャーを付けない。
冒頭二人がしているセックスが後背位で、女としては相手の顔や体を見ることなくやりすごせる体勢だから、この場合どうなのかな?と思わせられる(横の鏡をちらりと見るホフマンの顔にも色々思わせられる・笑)。その後のベッドでのジーナの仕草や喋り方がリアルでいい。一方やけに上気したアンディは、「こんなふうに生きていきたい」などと口にする。
彼女は夫の弟と「浮気」をしている。母親の葬式において、追い詰められた弟は家の外から携帯を鳴らす。夫とその父親の前で受け答えする彼女の口調は乱暴で、どうにでもなれといったかんじだ(神経の尖っている父親が何か言わないかはらはらした)。
映画は淡々と進んでいくけど、この後、父とアンディが心の内を吐露し合う場面は激しい。「結局、ハンクのほうが見た目がいいから気に入ってるんだろ…?」。「エイプリルの七面鳥」('03)に出てきた、第一子についての「できそこないのパンケーキ」という表現を不意に思いだした。
舞台は暑くも寒くもない時期のニューヨーク。他の映画のように度を越して多忙そうにも、あるいは古臭くも撮られておらず、ごく自然で、実際に行ってみたらこんなふうなのかもと思わせられる。
終盤、夫の許を発つジーナが、スーツケースを運ぼうとするが室内の段差に困り、画面の端の方まで引きずっていきそちらで持ち上げる場面が妙に印象に残った。こういうシーンのある映画って、説得力がある。
ハンクがレンタカーのドアを開けるたびに鳴る警告音、父親が警察に電話で詰め寄る際に背後で使われている掃除機の音など、耳障りな音の数々も効果的で、どきどきさせられた。場面が切り替わる際の演出はベタベタだけど(テレビドラマぽいというのか)それもわるくない。
それから、アンディがクスリを打ちに通う部屋のソファ、というかその置き方がすてきだった。高層階の良さだ。
(08/10/28・恵比寿ガーデンシネマ)
昔一世を風靡した「超一流主義」ミナコ・サイトウの言葉を思い出した。いわく「どんな高価な品物より、手作りのポーチのほうが贅沢なのです」。私も子どもの頃は祖母や母の手製の服や鞄を身につけていたけど、自分自身は何も作れないまま今を迎えてしまった。
この映画は「手作りの素晴らしさ」を訴えはしないけど、全編がいわゆる「エコロジー」…「自然な暮し」であふれている。
スイスの小さな村に暮らす80歳のマルタは、夫に先立たれてから意気消沈。しかし友人の励ましもあり、昔の夢だったハンドメイドのランジェリーショップの開店に漕ぎつける。しかし牧師である息子を始め村の人々は、破廉恥だと眉をひそめる。
何より印象的だったのは、上品な光の美しさ。山間の村の全景や街角を捉えた映像だけでなく、人々が自然光で生活している様子にほっとさせられる。冒頭のマルタをはじめ、皆は夜以外に灯りを使わず、薄明るく差し込む陽の光の中で食事をする。
雑貨屋を片付けた後に作られる、マルタのランジェリー・ショップも照明は最小限。壁にしつらえた棚に一枚ずつ置かれた下着が、レースをあしらった窓から差し込む光を受けている。上品とはこういうことかと思う。ただし手描きの看板は、ピンクを遣い精一杯色っぽくしているのが可笑しい(笑)
その他、画面に虫が飛んでいることが多いのも面白い。花やチーズなどに群がっている。そうそう、普通にしてたら田舎にはこんなふうに虫がいるもんだよなあと思う。
そうしたナチュラルさと同様、ストーリーも地味なものだ。「生き甲斐を見付けることの素晴らしさ」や「すてきなランジェリー」が大きく謳われるわけでなく、保守的な村の人間関係が丁寧に描かれる。
出る杭を疎ましく思う人たちは、一様に「あとで後悔するぞ」が決めぜりふだ。意味がよく分からないし、大体マルタは80なのに。
マルタを囲む3人の女友達もそれぞれ味わいぶかい。
ショップの開店を後押しするのは、ちょっと岸恵子ふうの(でもパリでなく)「アメリカ帰り」のリジー。薄青い瞳が美しい。娘の焼くマフィンがとても美味しそうだった。
その他の二人は、始めは「ランジェリー」なんてものに否定的。でも日々の生活の中で自らが変化し、友達を応援しようと気持ちが動く。
お上品なフリーダは、馬鹿にしていた老人ホームでの暮らしの中でちょっとしたラブストーリーを芽生えさせる。お相手はかんじのいい紳士で、死ぬ前にあんな出会いがあればいいなあと思った。
当初面と向かってマルタを非難するハニエは、車の運転を習い始める。かつてそれを止めた夫も、今は笑顔で見守る。彼女がタバコを吸うシーンに、映画にはやっぱりタバコが必要(なときも多い!)だろう、と思わせられた。
4人がランジェリーを前にあれこれするシーンを見て、身体そのものは(私の場合)男性と喜びを分かち合うためのものでも、下着というのは結局は女…でなくとも同じようなものを身に付ける者同士でこそ楽しさを味わえるものかもしれないなあ、と思った。
(08/10/25・シネスイッチ銀座)
ポスターや予告編からしんみりした雰囲気かと思ってたら違っていた。宣伝文句にある「純愛」「涙」というよりは、チャーミングな映画。こういうの、やっぱり好きだな〜と思わせられた。
オープニング、外出先から喧嘩しながら戻ってくる二人。マンハッタンの小汚く魅力的な建物、エレベータはなく、階段を早足で昇る彼女と、着いてゆく彼。散らかり放題の部屋。言い争いは続き、靴が投げられ、彼は部屋を出てゆく…
そしてオープニングタイトル。ここまでがまずとても楽しい。その後にいきなり葬式シーンというのもいい。
これは、愛する人を失ったことで、「結果的に」大切なものを得る物語だ。冒頭の言い争いの内容は、実はその根幹に関わっている。中盤、ある男に教える「女の秘密」がキーだ(笑)
ともかく部屋と衣装がすてきだった。あの出窓が羨ましい!
ヒラリー・スワンクって、おそらく仁王立ちに近い立ち方や、腕が前に来た猫背の姿勢などのせいだと思うんだけど、後ろ姿やたたずまいが子どもっぽい。それがどの服にも合っていた。
ジェラルド・バトラーについては、こんな映画観たら誰でもこの人、好きになっちゃうよなあ、という時があるけど、まさにその通り。ガタイがよくて笑顔がキュート、男はこれに限る!
予告編では「死んだ夫から手紙が届く」ことが強調されていたので、死後は出てこないのかと思いきや、ヒラリーの妄想や回想の中に何度も現れる。10年前の出会いのシーンでは、二人共「中年俳優が学生服着てがんばってる」感が漂っていて可笑しかった(老けてたからというより、作中「若くして親の反対を押し切り一緒になった」というのが強調されていたため)。
でもってヒラリーの女友達がリサ・クドローとジーナ・ガーション…今日のごはんは箸休めのおかずがないね、ってかんじ(笑)ヒラリーとジーナがバスルームで顔を突き合わせて会話するシーンは「唇対決」だ。アイルランドのパブで男を眺める際、ヒラリーが隣のジーナに顔を寄せる仕草にもぐっときた。ボートのシーンはちょっとやりすぎかなと思ったけど…(ドイツ映画「ヤンババ!」を思い出した。老婆たちが死ぬ間際に銀行強盗する話。へんな邦題だけど結構面白かった)
ヒラリーの母親役のキャシー・ベイツは、なんてことない演技なんだけどやっぱりいい。それにしても彼女の外観は、ずいぶん前から変わらないように見える。
この映画では、「人間が性的な存在であること(性的な存在として求めあうこと)」が強調されている。
ランチを待つ間、ホリー(ヒラリー)に亡くなった夫の名前で呼ばれたダニエルは、「君に男として全てを求められたい」と言うし、ジェリー(ジェラルド・バトラー)はホリーに宛てた最後の手紙に「ぼくは君と出会って『男』になった」と記す。このくだりでは、誰かと関わって相手を変えることは、大いに人生の意義たりえるものだと思った。
男友達に「君は男を身体で評価してるから結婚できないんだよ」と言われたリサ・クドローが、「私には権利があるわ」と理由を述べるシーンは、この映画の中ではシリアスで浮いたものに感じられた。女としての被害者意識もあるんだろうけど、冒頭の葬式での笑いどころが、急に辛気臭いものになってしまったというか。
「…私は独りぼっちだわ」
「そうね」
「たまには気休めでも言ってよ」
「ごめん」
(略)
「…少し歩きましょうか」
(08/10/18・新宿ピカデリー)
インディアナ州ワルシャワ…「白人とクリスチャンと共和党支持者がほとんどを占める、アメリカの典型的な町」を舞台に、高校生活最後の1年間を送る17歳を描いたドキュメンタリー。「the geek=オタク」「the princess=女王様」「the jock=体育会」「the rebel=変人」というそれぞれのカテゴリを代表する4人を中心に話は進む。
100分の間、ドラマチックなシーンやアニメーションが次々と飛び出し、こんなにサービス満点でなくても、ランチタイムの食堂の様子を長々と見せられるほうが面白いんだけどなあ、などと思ってしまった。どうせなら、皆がどういう気持ちでカメラに納まったかも知りたかった。でもどこかの誰かの日常というのは、それだけで面白い。
それから、全然関係ない(映像にも連想させられるところは全くない)んだけど、高校生同士のカップルの姿に、突然「ツイン・ピークス」を思い出してしまった。
「アメリカは実力主義だと教わってきたが、高校の中は完全なカースト制だ」…という冒頭のナレーションは、「マーチングバンド」に所属するジェイクのもの。ニキビ薬を塗ってる姿だけでどんなタイプだか分かる。
「へんな子に好かれ、気に入った子には嫌われる」という彼だが、ガールフレンド欲しさに果敢にアタックを繰り返す。
作中最初に拒否される女の子の家に花束を持って出向き、相手が「帰ったばかりでシャワー浴びてないんだ〜」と言うと、「ぼくは浴びてきたから、逆だね」なんて、それじゃあ会話にならないよ!また、なんとか付き合いに漕ぎ着けた彼女からの別れの宣告の最中、机に突っ伏してしまい、顔をあげるなり「(机に)アブラがついちゃったよ」って、これには笑ってしまった(少々の胸の痛さと共に)。傍から見れば「なんで一緒にいるんだろう?」という二人だったけど、若いときにはそういうこともあるんだろう。
それにしても「ガールフレンドさえできれば自分を肯定できる」という彼の思いは、まるで昔の少女漫画のようだ。どういうときに人はそう考えるんだろう?
女王様のミーガンは成績優秀でお金持ち。私には肉づきのいいマリリン・マンソンにしか見えなかったけど、男子も女子もそのルックスの良さを認めている。一族出身のノートルダム大学に入るために勉強もすれば、幾多のスポーツをこなし、パーティで大きな顔をし、気にくわないことをした相手にはガンガン悪事を働くという、とにかくエネルギッシュな人間で、同じクラスでたまに喋る分には楽しそうだ。
クリスチャンの多い国に育つってこういうことなの?と面白く思ったのは、クラスメイトへの嫌がらせ電話のシメが「あんたのしたことは、何よりも神様が知ってるわ」…冗談にせよ、こんな言い草、私には思いつかない。生徒会長の自宅への落書きは「fag(訳は『ゲイ野郎』)」だ。友達に責められたときの「私だって恥じたわ…でも自分を許したの!」というセリフは最高。なんて頭がいいんだろう!いつか使ってみたい(笑)
終盤、早く大学に入りたい〜という彼女の思いが表現されるアニメーションの内容も、あまりにあまりで笑ってしまった。これまでの「悪事」は、彼女にしてみれば周囲の人たちのせいだったのかあ、と。エンドクレジットによると大学に進んでからは「女王様」をやめたそうだから、当たり前ながら、人は環境によって変わるものだと思った。
映画監督を目指すハンナは、芸術を愛するデリケートな女の子。ドリュー・バリモアみたいにふわふわした顔立ちが可愛い。
保守的な町(同じ住宅が並ぶ風景には相変わらずぞっとさせられる!)を出てカリフォルニアでの勉学を望む彼女に対し、普段は一緒に暮らしていない両親が強硬に反対するシーンは見ていて辛くなった。でも、あんなふうにきちんと話のできる彼女は偉い。あの年頃の私なら、話が通じないと思えば黙ってしまっただろう(もっとも「とくに何もしたくない」私の場合、親の方から夢を持て、海外にでも行け、とやいやい言われたくらいだから、こういう事態はなかったわけだけど…)。
同時に、この先ハンナも変化するし、親の側だって変わるんだ、と不意に思った。
最後に皆が旅立つシーンでは、もう15年も前、自分が上京したときのことを思い出してぐっときた。私の場合は、知人にトラックを借りた父親が荷物を運んでくれたけど、普段から運転しているミーガンやハンナは自分でハンドルを握る。どんな気持ちなのかな?と想像した。
(08/10/16・バルト9)
ニューヨークの高級住宅街。大学の人類学科を卒業したばかりのアニー(スカーレット・ヨハンソン)はひょんなことから、「ミセス・X」(ローラ・リニー)のもとでナニーとして働くことになる。
まずは、あれこれ変わるスカーレット・ヨハンソンとローラ・リニーの対照的なファッションを見るのが楽しい。印象に残ったのは、スカーレットの白いソックス(グレイの「家畜」スーツにまで合わせてるのが可愛い)と、ローラの海辺の家での白い上下(ブラウスとロングスカート?)、潮風になびく金髪。白いソックスというと私はスーザン・サランドンを思い出すんだけど(確か「ハンガー」「さよならゲーム」などで着用)、当然ながら履く人によって色んな魅力が出るものだ。
スカーレットは狭いベッドや袋入りのスナック菓子が似合う。ローラ・リニーは眼の演技がすごい。ふくらはぎ、というか脛に浮き出る筋(の有無)に、「セレブ」とそうでない女との違いを感じた。よいキャスティングだ。
エンドクレジットにポール・ジアマッティの名前があったので、出てたっけ?と思ったら、ダンナだったなんて…前にも増しておっさん化してて気付かなかった。もっともこの役は「顔のない役」なので、誰だ分からなくて正解かもしれない(笑)
全体のストーリーは「映画っぽい」んだけど、ディティールが「映画っぽくない」ところが面白い。例えばよくある映画のパターンなら、アニーの女友達(アリシア・キーズ…「スモーキン・エース」ではかっこよかったけど、ここでは全然)は、もっと含蓄あることを言ったり(「楽に見える道ほど地雷が多い」というのはそれっぽいけど)、いざというときに頼りになったりするものだし、ダンナは浮気現場を見られたことについて何らかの手段を講じるものだし、ダンナの母親にも一つくらい見せ場があるものだ。でもそれがないところが面白い。
スカーレットがクマに向かってキレる内容がこの映画のメイン・メッセージなんだろうけど、「家族を大切に」などという話の中で彼女は言う…「無償の愛は永遠には続かない」。どんな両親であれ、子どもは慕うものだけど、それだって絶対というわけじゃない。
「この夏の経験で…」という最後のスカーレットのナレーションのとおり、ほんの一時のことで人は変わる。だから人生は楽しい。
(08/10/11・日比谷みゆき座)
予告編を見て楽しみにしてたけど、本当に面白かった〜。
2006年に再演された「コーラスライン」のオーディションを追ったドキュメンタリー。3000人の応募者の中から選ばれるダンサーは17名。
「これは、アメリカのある1グループの記録だ」
…とは、「コーラスライン」の生みの親であるマイケル・ベネットが、ダンサーを集め「車座になって、安ワインを飲みながら」聴き取り調査をした際の言葉。
世の中には「ダンサー」という人種がいる。映画は「誰でも受けられる」オーデション会場に、彼等が長い列を作るシーンに始まる。エンディングにも再度その姿が映る。作中では多くのダンサーが「コーラスライン」について「これは『私たち』の物語」と口にする。
私からすると単純に、普段は知らない人たちの日常が垣間見られるという点で面白い。最後に再度「One」が流れると、それはもう、違ったものに聴こえる。
観る前は、オーディションの映像に、ダンサーの普段の生活…どんなところに暮らし何を食べているのか、どのようなトレーニングをするのか…といったことが加わるのかと思っていたけど、そういう描写はほとんどない。その代わり「コーラスライン」誕生に関する逸話がふんだんに挿入される。「コーラスライン」に関する知識の少ない私でもじゅうぶん楽しめたから、思い入れのある人なら尚更だろう。
(初演時の映像がしょぼいのは、ミュージカルはナマで観るものってことなのかな?メインとなるオーディション風景の映像もきわめてラフなかんじを受ける)
まず思ったのは、アメリカ人…というかアメリカに生きる人は皆、とにかく物事を楽しむものだ、ということ。ダンサーへのインタビューでもそうした言葉が何度も出てくるし、審査員にもジョークを交えて対等に振る舞う。「(オーディションの場では)おれが主役」と言い切る者もいる(このセリフは爽快で惚れた)。
同時に、3歳の頃からダンスを習い「私にはこれしかない」「他には何もできない」と言うダンサーの姿に切なさも感じた。しかし他のダンサーの父親…バレエダンサーだったが膝を壊し引退した男性、子どもを抱えた昔の写真がとても良い…の「後悔はしていない、愛するものに身を捧げたんだから」という言葉にほっとさせられる。
「だから私は『コーラスライン』が好きなんだよ」
服装のことも気になった。想像していたより、皆ラフな格好だ。セーターに穴の空いている女性もいた。もっとも役柄に合わせて、あるいは験を担いでいるのかもしれない。加えて、ストッキングは特別なものなのかな?ブラジャーを付けずに踊りにくくないのかな?など、素朴な疑問が湧いてくる。
ダンサーにとって「鏡」の持つ意味が語られるシーン、踊りをやめて喋り始めた途端にライトがまぶしくなるのか、手をかざすシーンなどが印象に残った。
予告編にも使われている、ポール役の彼の演技には涙が出てしまった。本当に不思議、まさに「演技」なのに…
オーディションを受ける中には(カメラが捉える中には)日本人の女性もいる。彼女(高良結香)が狙うのは、低身長に悩むコニーの役。審査の側には初演でコニーを演じ、今回は振付を担当するバイヨークが目を光らせている。情熱的に演じるユカを、皆は「なかなかいい」「君(バイヨーク)みたいにキュートだよ」と評するが、バイヨークは「違うわ、私は戦う女よ」と言う。彼女はインド人と中国人の両親を持つ、チャイナタウン生まれのダンサーだ。指導の際のエネルギッシュな姿は、いつまでも見ていたくなる。
「いつからアメリカにいるの?」
「98年から」
「そう…5歳からFのシートを争ってるようじゃなきゃ、この役はできないわ」
しかしコニー役は彼女に決まる。
作中のエピソードによると、マイケル・ベネットは、試演に来たマーシャ・メイスンの「これじゃあ観客は喜ばないわよ」という言葉を受けてラストを書き直し、成功に繋げたという。当たり前だけど、客観的な姿勢、より楽しんでもらおうという姿勢が伝わってきて良かった。
(08/10/09・よみうりホール試写会)
中国・広東省のジーンズ工場で働く少女の日常を描いたドキュメンタリー。
時給0・5元(約7円)で、納期前ともなれば午前3時まで働きづめ。工場を抜け出して向かう先は、倒れないよう「死ぬほど苦い」漢方茶の立ち飲み。長引く給料未払いに対し、14歳の仲間が先頭になり社長に立ち向かう。
これは面白かった。第一に、不謹慎ながら、刑務所もの・戦争ものなど、限られた不自由な世界が舞台の映画として楽しい。だって家畜並みなのだ。持参のバケツで洗濯をする姿に「自分でやるのか〜」と思っていたら、話が進むにつれてそれどころじゃないことが分かる。
それに、主人公・ジャスミンが都会へ発つシーンに始まり、故郷の話を織り交ぜながら工場に慣れていく様子が描かれるという構成が分かりやすく観易い。仲間の少女たち(ほとんどは16歳の彼女より年下)のエピソードも味わいぶかい。
ある先輩とその恋人…ハタチを前にして日本人からしたら子どものような顔付きのカップルの、他愛ない会話も面白かった。モデルのランウェイを真似、ディスコに出かける彼女の、安っぽいふわふわの洋服にぐっとくる。、顔はというと、眉の手入れもせずそのままだ。アジアの女性って、素のままだとああなんだよなあ、と思った。
女の子たちは一見仲がよく、スキンシップも多い。ああいうところでは苛めや派閥なんてないのかな?忙しいのでそれどころじゃないかな。
皆、髪は長い。美容院どころか、給料から天引きされる「お湯代」を節約するため、ジャスミンは洗髪も控えている。
初めてお金を手にした日、友達と連れ立って夜の町へ出る。彼女たちは路上の夜店でものを買う。ふと、以前NHKのドキュメンタリーで見た、過疎地の巨大スーパーにやってくる外国人労働者の女の子たちの姿を思い出した。
「私の作ったジーンズ、どんな人が履くんだろう?」
ジャスミンは、疲れ切った体でもノートに物語を綴らずにいられない女の子。だからこんなことを想像するんだろうか?それとも他の子も、少しはそういうことを考えるんだろうか?
映画の最後には、そのジーンズの行方が示されている。
工場には、他にも多くの人々が働いている。ホワイトカラーの女性もいれば、少女たちの「2枚目」のタイムカードを押す仕事も兼ねる警備員、お湯を汲むおじさんなど。彼等はどの程度の給料をもらい、どういう生活をしているのか、気になった。
映画は工場の社長・ラム氏の日常描く。元警察署長のラム氏は、書道を嗜み工場内に直筆のスローガンを貼る。ホテルのこじんまりした部屋で、ネクタイはせず、通訳を介して商談をする。物事はあんなふうに決まる。
同行者は彼は「あれは犯罪者だ」と言っていた。
「いちばん大変なのは、労働者を管理することだ
皆に言うんだ、もし君が僕だったら、違った考え方をするだろうって」
観ている間、ナレーションがジャスミン本人のものなら、声入れはどうやって行ったんだろう?もし本人ならば、美味しいもの食べて少しはゆっくりできたのかな、と思っていたら、ラストに諸事情により「吹き替え」の旨が記されていた。
(08/10/01・シアター・イメージフォーラム)
40年代、アメリカ。会社重役のハリー(クリス・クーパー)とパット(パトリシア・クラークソン)は仲のよい夫婦だが、どちらにも若い愛人がいた。ハリーは件の愛人ケイ(レイチェル・マクアダムス)との結婚を望むが、彼の親友リチャード(ピアーズ・ブロスナン)も彼女に心奪われる。
可愛らしいパンフレット(画像)や予告編に惹かれて観に行ったら、面白かった。シンプルなストーリーに、昔風の調度や衣装が楽しい。セリフは、私はもうちょっと猥雑なほうが好み(笑)
脚本や演技のおかげだろうけど、登場人物皆…正確には奥さん以外の皆に感情移入してしまった。とくに前半の語り手であるピアーズ・ブロズナンが「なにかが吹っ切れ」、「特別な日だから」とケイを誘いに行くシーンには心が躍った。「残り20分」の映画を観て、箸を使って中華料理を食べるというデートがとても楽しそう。
二人が懇意になるシーンが直接描かれず、何度目かのデートの別れのシーンで、当然そうだよなあと分かるのも楽しい。ブロズナンの、深々とタバコを吸う姿も素晴らしい。
でもって終盤、新しい恋人に励まされて男に別れを告げるという…何度も何度も経験があるけど(笑)…くだりの描写も良かった。彼女の感情が手に取るように伝わってきて。「あっけなかったわ」…って、絶対そうなる。
クリス・クーパー演じる夫と、パトリシア・クラークソンの妻、それぞれの演技もしぶくて楽しい。とくに運命の朝、夫を送り出す妻の笑顔など、何を考えているのか推し量るスキが全くないほど素晴らしかった。
しかし私からすると、パトリシア・クラークソンのたたずまいは当初から死体っぽいため(年齢のためでなく)、別荘のソファで愛人を待ちながら寝そべる姿など、死んでるのかと思った。フィルムノワールっぽい雰囲気だから、そういう狙いなのかな?
こういう映画を観るといつも思うんだけど、ああいう「きちんとした」調度や服装でもって、男の人と色々してみたい。レイチェル・マクアダムスみたいに見事には着こなせないけど、あこがれる。
(08/09/28・Bunkamuraル・シネマ)
1992年、アラスカの山中で遺体となって発見された青年の物語。裕福な家庭に育った彼は、文明から逃れ自分を試すため、全てを捨てて荒野を目指した。
ポスターなどから大好きな「雪山」「サバイバル」要素のある映画を想像していたら、違っていたので中盤まで少々がっかりしていた。主人公クリス(エミール・ハーシュ)が冒頭の卒業式において名前を呼ばれた際、他の生徒とは変わった行動を取る様子にも、あまり仲良くなれそうにない人だな〜と色眼鏡で見てしまう。エミール・ハーシュの、太陽の下で輝く若さは素晴らしいけど、大自然の中で唸ったり走ったりする姿に、独りのときにあんなことするか?(する人もいるんだろう、それに「映画」だし)と、「アメリカ人の男の子」のプロモーションビデオみたいだなと思いながら観ていた。
でも最終章の直前、クリスが川を目の前にした瞬間から俄然面白くなった。「なすすべもない」という言葉が思い浮かんだ。その後ひょんなことから「自分の死」に向き合わざるを得なくなる。生きたいが死んでしまう。人は何かにこだわるからこそ、(傍から見ていると)面白いものだ。
旅の途中での、主人公と人々との関わり合いが面白い。
農場を経営するヴィンス・ボーンは、別れの際、クリスに「南へ行けよ」と助言する。しかし彼は革のベルトに「N」と刻み、北の荒野を目指す。ふとカウリスマキの「真夜中の虹」を思い出した。この映画では、主人公は愛する人と共に、仕事を得るためヘルシンキから南へと向かう。生きるために南へ向かう者と、文明から逃れるために北へ行く者。アメリカ人にとって、アラスカとはどういうところなんだろう?と思った。
ちなみに観ている間、一番頭を占めていたのは「文字を記すこと」についてだ。ヘラジカを撃った際、かつて教えてもらったメモを頼りに肉を処分するくだりでは、大げさだけど「人間が文字を発明した意義」を感じた。
クリスは宿を提供してくれたヒッピーのカップルに向け、別れの言葉を砂浜に刻んで去る。山中で一人暮らししながら、毎日ノートに記録をつける。そして「自分の死」に際し、心の内をとある文章にして残す。これらにはどういう意味があるんだろう?
そしてラスト、彼は気付いた「あのこと」を本の間に記す。私なら…あんな状況になったことがないから想像するのは難しいけど、ああいうことはしないだろう。彼には必然性のある行動だった。どういう気持ちに駆られたのだろう?
また、アルファベットはナイフで刻むのに便利だなとも思った(笑)
印象的だったのは、川辺で出会った異国語を喋るカップルの女の子のほうが、水からあがってアイメイクをする姿。男前のお客が来たからというのもあるのかな?
それから卒業式の後、家族揃ってレストランで食事をするシーン。両親含め周囲の人々の、食器を遣う音、咀嚼する音が耳障りで、それらから逃れたいという主人公の心情が伝わってくるようだった。そして、おそらく親にしてみれば「無軌道」に見えるであろう若者たちが入ってきたときの、エミール・ハーシュの視線と表情。「対大人」という点では仲間、いやそんな単純なものじゃない、一瞬心を過る複雑な気持ち。ちなみにこのシーンの彼は、かつてのディカプリオのように見えた。
なんだかんだ言っても、最後に実在したクリス本人の写真をみたら、しみじみと愛情のようなものを心に感じた。自分の人間愛を再確認(笑)
(08/09/24・テアトルタイムズスクエア)
韓国の港町に暮らす男子高校生オ・ドング(リュ・ドックァン)が、憧れのマドンナのような「女」になるため、シムル(相撲)大会の優勝賞金獲得に向けて頑張る話。なんてことないんだけど、とても良かった。
男性の身体を持ちながら「女」になりたく思う主人公、加えて「ライク・ア・ヴァージン」のようなテーマ曲とくれば、「プルートで朝食を」のようにそれっぽい既成曲が色々流れるのかなとも思ったけど(「プルート」の場合ニール・ジョーダンだからってのもあるけど)、目立つ曲はこれだけで、あとの音楽は効果を上げる程度のもの。そのシンプルさが、ベタなギャグと相まって楽しい。最後に再度、「ライク〜」でのダンスシーンは楽しかった。
冒頭、部屋に寝転がって「ライク・ア・ヴァージン」を聴く幼少時のドング。「ベルベット・ゴールドマイン」のクリスチャンを思い出したけど、あれほどじめじめしてはいない。
中盤、部屋で口紅を付けているところを見つかるシーンがあるんだけど、固まってしまう父親に対し、ドングはそれを見返すのみ。好きなもののために頑張る、でも大変さも感じている、そういう普通っぽさが、彼の何気ない目つきや表情に表れており良かった。
現代の高校生が「ライク・ア・ヴァージン」を聴くというのは、74年うまれの私が90年代の高校生の頃に60年代前半の曲を聴いているようなものだから、始めはピンとこなかった。でもこの映画は、こういう子、こういう人間がいるよ、という話だ。ドングは白シャツのまぶしい日本語教師(草なぎ剛)を愛し、シムル部のコーチ(アウトローな北王子欣也風)に身体検査をされると「気持ち悪い」と感じ、男前の先輩(イ・オン)との取組には躊躇がない。一体こういう子はそういうふうに感じるものなんだろうか?彼はそういうふうに感じる、そういうことだ。
ドングの恋心への草なぎ剛の対応は、おそらく「普通」の日本人的感覚からすると異常なものだ。しかし彼がお仕置き棒?を常備していることや、ドングの父親が彼を足蹴にするシーンなどから、韓国の日本との違いが分かる。
また父親が定食屋で客のベトナム人に対し「韓国に来たら韓国語で喋れ!」「お前らのせいで仕事がなくなるんだよ」などと絡むシーン(その後、流暢な韓国語を返される)は、韓国映画を観慣れない私には新鮮で面白かった。先月観たケン・ローチの「この自由な世界で」じゃないけど、人もお金も実際、国境を越えてるんだなと。
ドングは部屋の片隅に置かれた机の周りを好きなもので固め、可愛らしく飾り付けている。ショックを受けたある日、帰宅すると、引き出しをまさぐり安っぽい口紅を次から次へと取り出し、唇につける。
私にとって「女」であるために何かをするということは、自分が性欲を感じる相手とギブ&テイクする材料、と言える(他の人は違うのかもしれないけど、自分にとっては、つまるところ)。「自分の認識する性」「性欲を感じる性」「そんなふうに決められない、グラデーションのようなもの」個人の性的要素の組み合わせは色々あるけど、彼のような人が化粧をするのには、私には分からない意味があるんだろう。また逆に、男性器を取り去りたい人が皆、過度な「女」になりたいかというと、たぶんそうじゃないんだろう。そんなことを思った。
韓国の相撲は、ハーフパンツの上からサッパ(まわし)を付けて行う。どうやって着けているのか、日本の相撲を見慣れた目からすると、今にもずり落ちそうでどきどきする。土俵がまるで砂浜のようにざくざくなのにも驚いた。
市大会でのイ・オンのライバルとの一戦は迫力がある上にエロい。形式美が強くて「普通」の人とはかけ離れた世界になってる日本の相撲と違い、学生の大会だからってのもあるけど、身近な感じがして面白かった。
最後に一つ。シルム大会の最中、試合の幕開けに踊りを踊っていた女の子たちが、体育館の隅で輪になって休んでいる様子がちらっと映る。うまく言えないけど、こういう当たり前の「つながり」がある映画って好きなんだよなあ。
(08/09/17・シャンテシネ)
実家の母親とメールしていたら、敬老の日に祖母の希望でこの映画を観に行くと言う。両親はたまに一緒にシネコンに行っているようだけど、祖母が映画なんてめったにないこと。死期が近づいてるから興味があるんだろうか?もっとも昔からジャニーズなどが好きだったから、もっくんも目当てのうちかもしれない(笑)さらに「よく聴こえないから前の席を」との希望だそうで、そういう考え方もあるのか〜と面白く思った。
閑話休題。
この時期に観てよかった。最近、夏が終わるのを寂しく感じていたけど、この映画を観て、冬が来るのが待ち遠しくなったから。日本の北の地方都市の、寒い様子が魅力的に撮られている。自宅でくつろぐもっくんと広末涼子の、白いセーターの微妙なペアルック加減が可愛らしかった。ああいうセーターがサマになる男性というのは少ない。
会社のあるビルや、思わず冬ごもりしたくなる、二人が暮らす古いスナック付きの一軒家など建物もよかった。
「高給保証、旅(立ち)のお手伝い」
職を失ったチェロ奏者の大悟(本木雅弘)は、妻の美香(広末涼子)と共に故郷の山形へ。広告でみつけた「NKエージェント」は、佐々木社長(山崎努)による納棺専門社であった。
しんみりした映画かと思っていたら、程よく笑いあり涙ありで面白かった。山崎努と「死」で「お葬式」、もっくんの○○○姿に「シコふんじゃった」を思い出す(あの「業務用ビデオ」がDVD特典に付くなら買ってもいい・笑)。二人とも役にはまっていた。
「NKエージェント」の事務員を演じる余貴美子もよかった。会社のソファに足を崩して座っている姿がいかにも自然で、こういう所作が出来る女優さんっていいと思う。今のハリウッドで言うならヴァージニア・マドセンみたいなかんじ?
私は広末涼子の演技が苦手なので、時折観ていて辛い場面もあった(ごはんを食べて肩をすくめる仕草など)。もっとも、納棺師の仕事を「穢れている」と拒否する女性には、ああいう記号っぽい軽い演技が合ってたかもしれない。その他、これは彼女の問題じゃないんだけど、例えば郵便バイクが停まったのになぜそっち見ないんだろう?とか、こまかいところが気になる。
主人公の妻は恩着せがましいやつだ。「これまで笑って付いてきたじゃない、だから今回は私の言うこと聞いて(納棺師という仕事を辞めて)」だなんて、私なら、今頃そんなこと言われても知らん、と言いたい。それならそれでわがままで押しがあれば面白いんだけど、作中ではもっくんの人生が強調されるあまり、彼女にはバックグラウンドとなる人生がないかのようなかんじを受けた。知人も勘もない土地に来て、夫の仕事のこともよく分からない、そういう不安も感じられない、かといって不安を感じていないふうにも見えない。一人だけ人間でないようだた。
それから、パンフレットにも使われている、鳥海山をバックにもっくんがチェロを弾く場面。私はどうしても意味を考えてしまうので、あのシーンは混乱した。イメージショットが機能する映画じゃないと思うし…
食事シーンも多かったけど、あまりそそられるものはなし。ただ、単純に「メニュー」として、バゲットに刺身、というのは試してみたいと思った。ちなみにこのシーンでは、それほど忙しくなさそうなのに、自分で料理しないのかな?と思った(勿論そういう人もいるだろうけど、もっくんは家事を疎かにするタイプに見えない)。
「1800万円」のチェロを手放した主人公の、「解放されて楽になった」というようなモノローグが印象的だった。
(08/09/13・新宿ピカデリー)
新宿武蔵野館に行った際、ロビーにこの映画の監督・主演であるジェイ・チョウの等身大パネルが飾ってあり、「カンフーダンク」の人だ〜(「王妃の紋章」ではいまいちだったけど、カンフーのほうは可愛かった)と興味を惹かれたので観てみました。
(以下ネタばれ気味なので、観る予定の人は読まないほうがいいかも)
音楽学校のピアノ科を舞台に、転入生のシャンルン(ジェイ・チョウ)と、「秘密」の曲を奏でるシャオユウ(グイ・ルンメイ)が恋におちる物語。
…なんだけど、ある瞬間で全てがひっくり返る(とある映画を思い出したけど、書くとネタばれになってしまうので書けない)。私はたまに見かける(たまに、だから偏見かもしれないけど)韓国や台湾のドラマの、登場人物のかまととぽい(死語だけど他に言いようがない)演技やメロドラマチックな音楽が苦手で、この映画の前半でもそれらにヤられて座席で小さくなってたんだけど、その瞬間からそのどちらも活きてくる。最後は「感極まって」泣いてしまった。
始まって程なく「シャオユウだけなぜ制服のスカートが長いのか」「髪の長いクラスメートはなぜあんな迷惑な行動をとるのか」という疑問がうまれる。しかしその謎も一気に解ける(スカートの方は、最後のショットでまた崩れたけど・笑)
作中の演奏はジェイ・チョウによるもの。彼のピアノは、情緒があるというより力強くて魅せられた。ピアノバトルのシーンでカメラがピアノの内部に潜っていくのは、アジアのアクション映画ぽいなと思った(笑)その他、「君の手を握れるように」片手だけでの演奏、二人での連弾や背中合わせでの演奏など、若々しい遊びの数々が楽しい。
余談だけど、ほんのわずかながら教員を経験した身としては、ジェイ・チョウの父親の行動はちょっと許せない。卒業式の日にシャオユウを迎えに来たことについて。最後まで責任取れないなら、余計なことして欲しくない。
(08/09/11・新宿武蔵野館)
・新宿武蔵野館にて観賞。レディスデーでもない平日の夜なのに、場内は満員だった。隣は私の父親(60代半ば)くらいの年齢のおじさん。
・大島弓子の作品はたぶんほぼ読んでるけど、原作とする映画はこれが初めて。
・でもこの映画、全然「大島弓子原作」じゃなかった!猫もあまり出てこない。私は猫に興味がないのでいいけど…
・「天才漫画家・小島麻子(=大島弓子)」(小泉今日子)に色々なことが起こる様が、「先生は…」という主語で外側から語られる。だから「少女漫画」的世界でもない。言うなれば「大島弓子応援映画」。
・好きなタイプの映画じゃなかったけど(森三中がおでん?の串持って現れるようなセンスが苦手)、観終わって、大島弓子のことで頭がいっぱいになり、読者と一晩中語り合いたい!と思った。
・以下は、映画の感想というより、いろいろ思ったこと。
・上野樹里演じるアシスタントが「小島麻子」の作品に出会った際の回想シーンが何度か挿入される。縁側に寝転んで「ASUKA」を読みながら泣き始めた娘に、両親が驚く。私は少女漫画を親の近くで読んだことはなかった。正しくは、普通の漫画は家族や友達との共有世界で読んでたけど、「少女漫画」は一人の世界でしか読まなかった。
・私は小学生のときに知った岩館真理子を自分のための作家だと思ってるけど、大島弓子についてはそう思わない。10代前半で出会わなかったから。ただの、普通のファンだ。
・「サバ」の発音が、私が心の中で呼んでたのと違った。麻子とサバとの会話シーンはつまらなくて(加えて長いので)眠りそうになった。
・「砂浜ぜんぶがグーグーのトイレ、ですね」というセリフに、ちょっと「ロストハウス」の「世界を自分の部屋に…」というのを思い出した。
・上野樹里が彼氏の「浮気」を知るのが、ラブホテルから出てきたところに遭遇して、というのもわりと大島弓子ぽい感覚だと思う。
・加瀬亮のルックスも大島作品に合っていた。でもあんな傍若無人な男、見たことない。私は絶対いや〜。
・「読んだ人が幸せになれるような漫画を描きたい」というのは、大島弓子が実際に思っていることなんだろうか?そうは思えない。
・私にとって「独り暮らし」の良さを気張らずに伝えてくれ、共感できたのは、淀川長治と大島弓子だけ。コーヒーカップでのごはん。
・エンディングロールに「取材協力 新條まゆ」とあったけど、何を取材したんだろう?実は冒頭、昔ながらの漫画家の仕事場の様子に、今じゃ新條まゆみたいなところもあるもんな〜と思ったので、ちょっとびっくり(笑)ちなみに作中の作画は秋本尚美。懐かしい名前だ。
・後日追記。サバが漫画内のような青年でなく少女のルックスだったのは、この映画が「少女漫画」ではないから、すなわち少女=大島弓子にとっての世界を描いているわけじゃないからだと気付いた。ちなみに私は、大島弓子は「グーグー」でもって完全に「少女」でなくなったと思っている。
(08/09/09・新宿武蔵野館)
物販コーナーに並んでいた原作本からして、少女が主人公のファミリー向け物語なんだろうけど、観た印象は「ジョディ・フォスターのスター映画」。撮影、さぞかし楽しかっただろうなあと思った。私も観ていて楽しかった。
南の孤島に暮らす11歳のニム(アビゲイル・ブレスリン)は、学者の父(ジェラルド・バトラー)がプランクトンの採集に出掛けたきり戻らないことから、大好きな冒険小説「アレックス・ローバー」の主人公にEメールで助けを求める。しかし実際の著者アレクサンドラ(ジョディ・フォスター)は極度の潔癖症で、家から出たこともなかった。
ジョディ演じる主人公は「ひきこもりの冒険小説家」とされているけど、ああいうのってどういうんだろう、と考えたらきりがない。「誰にも会わないのに身だしなみを整えるものだろうか、いやそういうこともありえるのかな」「しばらく誰とも顔を合わせてないのに、タクシーの運転手とは普通に喋ってるな」などなど。
でもそういうの、ジョディのおかげで気にならない。ポスターでは余裕の笑顔でリゾートめいた格好をしてるけど、作中では体をぶつけたり転んだり、全身多忙な演技。靴を脱ぎ捨て、船を奪って嵐の海に飛び込むあたりから本当に魅せられる(関係ないけど「熟女とボート」つながりで、メリル・ストリープの「激流」って最近地上波で放映しなくなったな。結構好きだった)。
映画は彼女の活躍シーンの他にも見どころがいっぱいだ。海や動物、アビゲイルがパパと暮らす島のおうち。彼女のプチ「ホーム・アローン」体験(でぶの男の子の素朴さが好感度大)。いっぽうサンフランシスコのジョディの一軒家は、船室風の窓に雨が見えるのがすてきで、あんなところならしばらく閉じこもってみたいと思わされる。
ジェラルド・バトラーはアビゲイルの父親の他、インディ・ジョーンズ風の扮装で冒険家「アレックス・ローバー」も演じる。ジョディにはその姿が見えており、唯一の会話を交わす相手だ。「女性作家が、自分が作り出したキャラクターと同棲している」というのはなんとなく見慣れた光景であり(ちょっと違うけど、大島弓子のサバシリーズを思い浮かべた)、エロティックな感じを受ける。
私がこの映画で一番面白かったのは、ジョディがアビゲイル親子の役に全くもって立っていないところ。それなのにラスト、自らの作りだしたキャラクターが去った後、(おそらく理想を具現化した)同じルックスの王子様が現れるんだから、幸せとしか言いようがない。
ちなみに同行者はアビゲイル・ブレスリンが走ったり跳んだりする姿に「あんな暮らしをしてるように見えない、とろすぎる」と文句をつけていた(「リトル・ミス・サンシャイン」ではそれがよかったんだけど・笑)
ところで終盤のジョディを見て思ったんだけど、先日「この自由な世界で」の感想にも書こうとして忘れてたんだけど、最近「ブラのストラップを見せてもいい」世の中になったことが嬉しい。もちろん見苦しい重ね方は自他ともにいやだけど、体型によってはストラップレスは不便だから。
(08/09/07・新宿ピカデリー)
「十二人の怒れる男」('57)をロシアのニキータ・ミハルコフがリメイク。
「汽車が行っちまった、こうなりゃ考えを変えるぞ」
現代・ロシアにて。チェチェン人の青年が義父の殺害容疑で最高刑を求刑されていた。12人の陪審員は、改装中の部屋代わりの学校体育館に閉じこめられ評決を取ることとなる。
全員一致で「有罪」となりそうな雰囲気の中、一人の男が「無罪」に投票する。その理由は「いま全員一致で決定したら、話し合う機会が失われてしまうから」。オリジナル版のヘンリー・フォンダと同じく、彼は「疑問を持つ」「それを表明する」「結論を出す必要があるなら、そのために努力する」ことの大切さを身を持って示す。
その後の展開もオリジナル版をほぼなぞっているけど、(アメリカの暑い夏に対し)寒い夜という状況、現代ロシアの情勢が色濃く盛り込まれていること、それによりラストがひとひねりされていること、室内の様子以外の場面が挿入されること(何度も出てくる、戦車の上で死んでいる男は何なのかよく分からなかった。たんに戦争の悲惨さを表してるのだろうか)、おじさんの話が長いために映画の長さも1・5倍になっていることなどが異なる。シャンテの狭い座席で160分はきつかったけど、それ以外の違いは面白かった。
おじさんの顔ばかり延々と見せられた後、ラスト近くに青年が激しく踊るシーンが入るのがよいアクセントになっており楽しい。
50年前と今とでは、推理ものに求められる緻密さが異なるからというのもあるだろうけど、今作では、青年が無罪であることを論理的に証明するというミステリ的な楽しさは薄い。映画が終わっても、結局のところ真実はあやふやな印象を受け、それが現代らしく面白く感じられた。
「あの(体育館内の)パイプを見たか?40年前から壊れてる。修理されるのは…」「40年後だな」
陪審員たちが携帯電話を預けるビニール袋。私ならあんなとこに私物を入れとくのは不安だ。幾人か…もしかしたら皆…はハンカチを持ってるけど、どれもくしゃくしゃ。用意された美味しくはなさそうなサンドイッチと水筒。日本人の私の目からするとどれもしょぼくて可愛らしい。
この作品はたしかにユーモアも備えているけど、場内では、正直「そんなに可笑しいかあ?」と思うところでも大きな笑いが起きていた。想像だけど、暗い情勢を知らしめされる中で、無理矢理にでも笑いどころを見つけて楽しんでいるように感じられた。
「皆、芝居を観る前から笑いたがってるのさ
ほんとのことを知るのが怖いんだ
俺が真面目な話をしても、冗談だと思って笑いやがる」
(08/09/01・シャンテシネ)