表紙映画メモ>2008.07・08

映画メモ 2008年7・8月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

デトロイト・メタル・シティ / アクロス・ザ・ユニバース / この自由な世界で / 百万円と苦虫女 / 白い馬/赤い風船 / 帰らない日々 / ハムナプトラ3 / チェブラーシカ / ダークナイト / いま、ここにある風景 / スピード・レーサー / テネイシャスD 運命のピックを探せ! / バグズワールド / ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!

デトロイト・メタル・シティ (2008/日本/監督李闘士男)

予告編を見て、松山ケンイチってやっぱりすごいなと思ったので観に行った。面白かった。
コメディというのは「設定」がコメディなのだから演技は普通でいいわけで、いかにも「コメディぽい」演技だと見苦しい。彼の演技はきわめて「普通」、たんにああいう格好をした人、の演技だから、観ていて気持ちがいい。

オープニングはスパイダーマンを思い出させるアメコミ風。「我等がDMC…」という字幕が流れるが、この映画はその言い草が受け入れられるように、すなわち観た人誰もが「DMCっていいね」と思えるように配慮されている。クラウザーさんが東京駅からライブ会場まで走り抜けるのをファンがサポートするなど、いかにも日本のドラマっぽい、見慣れたシーンも多い。
ああいう類の(例えば「デスメタル」をああいうものとして描く)フィクションは、漫画ならファンの服装などの非リアルさも気にならないけど、映像化されると綻びが次第に大きくなってきていたたまれなくなるものだ。でも今作は色々深入りしないので見易かった。作中の音楽も聴きやすい。

原作を読んでいつも思っていたのは、キモい「ゴボウ男」でありながら、あのスーツを身につけるとそれなりの威圧感が出る体型ってありえるんだろうか?ということなんだけど、松山ケンイチが見事にそれを体現してたので感心した。ちなみに観賞後のトイレでは女性二人が「手がきれいだった〜」「たまらんね」などと話していた。

社長役の松雪泰子はブナンに役をこなしていた。顔や胸の肉の微妙な垂れ具合が良い。私が彼女を知ったのは15年前のドラマ「白鳥麗子でございます!」(高校生当時、教室での回り率ベスト10に入る漫画だった)なので、漫画の実写版に頑張って臨む、というのがイメージではある。
DMCファンの男二人が大倉孝二と岡田義徳というのも豪華。ドラマ「CHANGE」で、総理の木村拓哉とSPの大倉孝二が狭い喫煙所で顔突き合わせるシーンはよかった(余談だけど、私が木村拓哉を好きな理由の一つは、どのドラマでもタバコを吸ってるから)。

クラウザーさんの故郷である犬飼町の風景を見ながら、ああいうとこに住んでると、どこにどうやってCD買いに出るのかな?と思った。

(08/08/24・ワーナー・マイカル・シネマズ板橋)


アクロス・ザ・ユニバース (2007/アメリカ/監督ジュリー・テイモア)

全編ビートルズの曲で構成されるミュージカル。
夏の始めにサントラを購入し、何度か聴いた。原曲で同じ順のプレイリストも作って聴いた。ビートルズの曲は、どんなカバーであろうと、その後に原曲を聴きたくなるからふしぎだ。
同居人が事前に「マジカル・ミステリー・ツアー」を観返そうと言うので、借りてもきた。新宿のツタヤではみつからなかったけど、検索したら在庫があるようだったので店員さんに出してもらった。今は棚に並んでるの、うちらのおかげだ(笑)

映画はテンポがよく面白かった。実際の人物や出来事の程よいからめ具合も楽しい(「ヤング・インディ」シリーズを思い出した)。雰囲気は健全で、へんな言い方だけど、田舎にいるときに夢見る都会の甘さのようなものを感じた。
一番良かった曲は「I've Just Seen A Face」。もともと好きな曲だけど、恋におちた主人公がはしゃぐボーリング場のシーンでは、更に速く流れて楽しい。
他の曲の数々も見せ方、聴かせ方にいろいろ工夫がなされており、皆の手によって歌われるので飽きない。ラストのボノによる「Lucy〜」だけはいまいちだったけど…。

ジム・スタージェスを「ラスベガスをぶっつぶせ」で観た際(撮影は「アクロス〜」のほうが先だそう)、素晴らしくスーツが似合うことにびっくりしたけど、今回もその長い手脚の魅力が発揮されていた。暗闇でも陰を持つ長いまつげ、でかい人特有の猫背ぶり、つなぎフェチの私には作業着姿もぐっとくる。
冒頭とラスト近くに出てくるリバプールの町も味わい深く、ふつうのおじさんたちの着るPコート、海辺でお弁当を食べるジムの傍らの黄色い水筒などが印象的だった。

(08/08/20・アミューズCQN)


この自由な世界で (2007/イギリス-イタリア-ドイツ-スペイン/監督ケン・ローチ)

ロンドンに暮らすシングルマザーのアンジーは、職業紹介所をクビになった後、ルームメイトと共に外国人労働者を企業に斡旋する仕事を始める。馴染みの経営者から不法入国者を働かせてはと提案された彼女は、いったん断るものの心が揺れる。

アンジーの言動はストレートで気まぐれで、そして迂闊だ。不法入国者の暮らしぶりを見れば連れ帰って冷蔵庫の中身を提供するし、ローンを早く支払いたいばかりに違法行為を犯すし、愛する我が子を「映画の続きが観たいから」とピザ屋の支払いに外に出す。
私はあんなにエネルギッシュじゃないし…そもそも働くのが性に合ってないから、(そして環境が少しは彼女より恵まれてるから)人生のほとんどをぶらぶらしてるけど…彼女の行動、仕事に対するそれはもちろん、男に対する言動、暴力に遭ったときの対応などがリアルに感じられ、共感できた。そういう映画はともかく観ていて気持ちがよい。
彼女を始め、出てくる人物の表情も見ていてとても「自然」で、例えば冒頭、仕事をクビにされたことに抗議するアンジーの横でそれを聞く同僚女性の顔つきや、仕事のパートナーであるローズに不法入国者を「救う」ことについて咎められたときのアンジーの顔つきなどはとくに印象的だった。

アンジーは、母親からは「そろそろ腰を落ちつけなさい」、30年同じ仕事をしてきた父親からは「不法なことはしてないだろうな?」などと言われると、「もう批判はたくさん」「少しは誉めてよ」などと言い放つ。不渡りを出した経営者(彼もまた、上に搾取され騙されもする)に対しては、怒鳴りながらも「助けてよ」と詰め寄る。彼女だけでなく周囲の人々も、あれだけぎりぎり、やれることをやっている状況では、とにかく自分の気持ちをストレートに言うしかない。

アンジーは33歳、私とほぼ同い年だ。だからというわけじゃないけど、少女時代や今より若い頃はどういうふうだったんだろうと思いを馳せた。好きな音楽とか、あったんだろうか?ヘアスタイルやその格好から想像してしまった。
彼女がハーレーに乗るシーン、とりわけポーランドから出稼ぎに来た青年・カルロを後ろに乗せて走るシーンは、音楽も相まって、80〜90年代のケン・ローチの作品(「リフ・ラフ」など)を思い起こさせた。
ちなみにこのシーンでは、どんなカタチでの所有であれ、自分の「バイク」があれば、好きな相手を乗せられるんだなあとも思った(笑)

「やるなら自分のお金でやって、私は気にしないわ
 自由な世界よ」

「あんな目に遭うのが、もしあなたの息子だったら?」
「…私の息子じゃないわ」


(08/08/17・シネ・アミューズ)


百万円と苦虫女 (2008/日本/監督タナダユキ)

21歳の鈴子(蒼井優)が、「100万円が貯まったら引っ越す」ことに決め、日本各地を転々としながらアルバイト生活を送る物語。

観ている最中…また観終わってすぐの感想は、「若い(若い二人)っていいなあ」ということ。私にはもうああいう恋はできないだろうなあ、いやべつに、できるかも、などと思った(笑)スーパーで偶然出会うシーンが最高にいい。
森山未来の普通の大学生ぶりが好ましく、意外とがっしりした腕(鍛えてるというより、若い男の子の、男の子だからゆえの腕)にどきどきした。
蒼井優は、作中言われるように「細いけど丈夫そう(よく働きそう)」。何をしても器用なのが可笑しい。

ラスト近く、「新しい女の子」が「彼」に「いいんですか〜、誤解されたままで…」と言うなどのありがちすぎるシーンにはがっかりしたけど、はっとさせられる場面も多々あった。晴れた日の、学校の保健室の静かさや冷たさ。「帰宅してドアを閉めた後、カギを掛ける」という(当たり前の)動作がちゃんと入ってるのも嬉しい。
一つ一つのエピソードが程よくきれいごとで片付けられていくけど、ああいうの…例えば農村での一幕など、色々考えると怖くていられないから、あれくらいの味付けでよかったと思う。

物語の前半、鈴子が「前科者」になる原因は、雨の日に拾った子猫を捨てられてしまい、そのお返しに相手の所持品を全て捨ててしまったから。この時点では、その行動が彼女にそぐわないように感じられたけど、話が進むにつれ、彼女は、自分に災難が降りかかっても戸惑うばかりだが、愛するものが傷つけられれば激昂するタイプなんだなと思った。またそういう自分に薄々勘付いているからこそ、「別れが辛くて距離を取ってしまう」んだなと。
それで、昔のことをふと思い出した。私(74年うまれ)が子どもの頃は文通が流行っており、転任する先生や転校する同級生と手紙のやりとりをしたり、雑誌で見知らぬ相手を探したりしたものだけど、私はいつも、始めこそ熱心に書くものの、どうしていいか分からなくなって、自分の側でいつもストップさせてしまっていた。先のこと、余計なことを考えないようにやっていきたい。そういう気持ちってよくわかる。

(08/08/10・ユナイテッド・シネマ豊洲)


白い馬/赤い風船 (1953・1956/フランス/監督アルベール・ラモリス)

アルベール・ラモリス監督「白い馬('53)」「赤い風船('56)」と続けて上映されたため、フランスの極端な田舎と都会を両方楽しむことができた。前者の舞台である南仏の沼地は力強く荒廃した西部劇のような趣、後者のパリは、空地やごみの目立つ、坂だらけの(石畳でなきゃやってられない理由がしみじみ分かる)、でも魅力的な街並み。冒頭は「レミーのおいしいレストラン」を思い出してしまった。

「白い馬」は野生の白馬に惹かれた少年が「馬飼い」から逃亡の手助けをしてやる話、「赤い風船」は男の子が赤い風船を拾い、連れ歩く話。

「白い馬」の冒頭、薄汚れた下着兼作業着?を身につけた少年が小舟に乗ってやってくる。川べりの小屋に、ひげもじゃのお爺さんと妹と住んでいる。「自然は芸術を模倣…」じゃないけど(意味が違うけど)、萩尾望都の漫画かと思ってしまった(笑)片目が隠れるさらさらの髪、彼が惚れる白い馬も、たてがみが斜に流れているあたり同士のようにも取れる。馬同士の対決、長丁場の追跡劇など、リアルでスリリングで面白かった。映像が美しく、撮影にどれだけ時間がかかったんだろうと思いを馳せてしまう。あのウサギ、なかなか思い通りには走らなかったんじゃないかなあとか。
「赤い風船」の主人公はスウェットのような上下にパパのお下がりのような鞄を提げて登校する。一張羅のジャケットのちぐはぐさが可愛らしい。風船と一緒に電車に乗ろうとすると、邪険に振り払うおばさんが印象的。街をゆく一組の「カップル」を、様々な目でみつける大人たちの表情が面白い。

同行者いわく「どちらの話も、見方によっては辛い現実から逃れた結末だな」。確かにその通りだけど、映画ってなんでもありなんだなとしみじみ思った。

ちなみに上映前に「ホウ・シャオエンのレッド・バルーン」の予告編が流れたんだけど、出てくる男の子のあまりの可愛さに目を奪われた。見ているだけで幸福、とはああいうのを言うんだろう。

(08/08/09・シネスイッチ銀座)


帰らない日々 (2007/アメリカ/監督テリー・ジョージ)

コネチカットに暮らす大学教授のイーサン(ホアキン・フェニックス)は、家族での帰宅途中に息子のジョシュを車に轢かれ亡くす。運転していたドワイト(マーク・ラファロ)はとっさの判断でその場から逃げ去った。しかし後日、遅々として進まない警察の仕事に業を煮やしたイーサンが調査を依頼した弁護士こそ、ドワイトであった。

ストーリーにはボストン・レッドソックスが重要な位置を占める。マーク・ラファロとその息子はとくに熱烈なファンで、作中のコミュニケーションはほとんどがレッドソックスがらみのものだ。離婚した彼は息子と会う時間を限られており、物語の最後には「試合期間中は一緒にいさせてくれ」と前妻(ミラ・ソルヴィーノ)に頼みこむ。
現場近くでの調査を続ける警察いわく「人間は習慣の生き物です、いつも同じ道を通るもの」だそうだけど、マークは事故を起こした際に身に着けていたレッドソックスのキャップをその後も被り続ける(それがキッカケで、ホアキンは彼が犯人だと気付く)。あれだけ恐怖におののいてるのに、そういうことってあるんだろうか、いやあるのかもしれないなあ、などと考えた。

舞台はコネチカットの田舎町で、登場人物たちには共通項やつながりがある。亡くなったイーサンの息子とマークの息子は同級生だし、イーサンの娘がピアノを習っているのはマークの前妻だ。
小さな弁護士事務所に勤めるマーク・ラファロは、私なら絶対に仕事を頼みたくないタイプ。挙動不審だし頼りない。父親としても、息子との食事はいつも宅配ピザだし(アメリカではあれが一種の「普通」なんだろうか?)、話を最後まで聞かずに怒鳴るし、どうかと思うけど、息子はそんなパパを尊敬し、愛しているから、幸せな関係だ。
いっぽうホアキンは、現場で泣きじゃくるなどの姿も見せず、事故後も努力して仕事を続ける。しかし犯人への復讐心に憑かれるあまり、妻(ジェニファー・コネリー)に「私たちを置いていかないで」「愛してるの、助けてほしい」などと言われる。当たり前のことだけど、何事かが起こることにより、人間のこれまでとは異なる面が見える、人間同士の関係が変化する、ということがあるんだなあとしみじみ思った。
それから、「○○のパパ(あるいはママ)」というハンドルなりニックネームは、ああいう場合なら納得できるものだなと思った(笑)

これほど車があふれていてこれだけの事故数で済んでいるのが信じられない、とたまに思うことがある。私も2年ほど車を常用していたことがあるけど、その間に事故を数回起こしたので(駐車場に停まっている他の車にぶつける、お店のコンクリにぶつけるなど)、自分には向いていないと思って乗るのをやめた。否応なしに誰もが運転手にならなくてはいけない社会は怖い。

(08/08/06・シネ・リーブル池袋)


ハムナプトラ3 (2008/アメリカ/監督ロブ・コーエン)

90年代、私の王子様(の一人)はブレンダン・フレイザーだった…ことを知っている人がジャパンプレミアに誘ってくれた。「老けてるだろうけどいい?」
前作から7年、今回の話の内容を知ったとき、主演作の中で最もお気に入りの一本「タイムトラベラー('99)」では「35歳の少年」を演じた彼が、「22歳の息子を持つ父親」の役を演じることにまず驚いた(実際に観ても、やっぱり違和感が)。
舞台挨拶では相変わらずハイな様子で、マイクも持たず、でかい声と身振りで話していた。スーツがはちきれそうだな〜髪型っていうか髪がちょっとな〜などと思いつつ、やっぱり、遠くから走って飛び付きたい!(←男性に対する私の最大の好意の表れ)と思う。舞台の袖に消えてしまうのが名残惜しかった。
ちなみに日本語吹き替え版で彼の息子の役を担当した上地雄輔も来場した。スクリーンにアップになった顔は疲れてたけど、目元が魅力的でとてもキュートだった。

今回の舞台は中国。蘇った悪の皇帝のミイラ(ジェット・リー)とオコーネル一家が戦う。
冒頭「ヤング・インディ」シリーズみたいだな〜とのんきに構えていたら、とにかく目まぐるしく忙しく、頭がちかちかした。人間主体のアクションというより、セットが大規模。
それにしても、「ライラの冒険」しかり、最近の戦闘(シーンを含む)映画は、いろんな種族を味方につけて戦うものが多いけど、そんな単純なもんか?と思わなくもない(笑)
また「40年代のファミリーもの」である点には、アメリカの今の流行りなのかなあ、などと思った。冒頭、平凡で穏やかな生活に馴染めずにいるオコーネル夫妻の描写は、ちょっと「おしどり探偵」(映画「アガサ・クリスティーの奥様は名探偵」)を思い出した。

今年公開される映画は、中国にまつわるものが多い。印象的だったのは、「ドラゴン・キングダム」でアメリカ人青年が目覚めて一番に見る風景。あの農村が、ザ・中国…ハリウッドの考える美しい中国ってこんなんかな?というかんじだった。今回のエンディングロールは「カンフー・パンダ」同様、漢字をあしらったもの。

いつものことだけど、スーツに探検家ルック、傷を負った裸と、結構コスプレ要素もあり。
舞台挨拶でミシェル・ヨーが「見どころは彼(ブレンダン)の腹筋!」と言っていたので、楽しみにしていたら、結構すごかった。しかしあの「裸コート」(大好き)は10年前に見たかった…(笑)
それから冒頭(まだ事件に巻き込まれる前)、ダイヤを相手に渡す際、お手玉のように何度かほいほい投げて遊ぶシーンが、いかにも手技のうまいブレンダンらしくて嬉しかった。

(08/08/04・東京国際フォーラム ジャパンプレミア)


チェブラーシカ (1974/ロシア/監督ロマン・カチャーノフ)

まず同作者の「ミトン」('67)、その後に「チェブラーシカ」4話('69'〜83)が上映された。「チェブラーシカ」のほうを観るのは初めて。
マークシティ内にずらりと並んだ吊り広告には、「(チェブラーシカと友人のワニ・ゲーナの)二人の優しさが、街に幸せを生み出してゆく」とかなんとか書かれてたけど、そういうかんじは受けず、何も知らない二人が色々する話だった。でもとにかく可愛いからいい。

「ミトン」の冒頭、女の子が家の中から雪の積もった外を眺める、その窓は見事に曇っている。「チェブラーシカ」においても、建物からチェブラーシカの顔まで、その汚れ具合がいい。かんなくずなどもリアル。でもデザインなどが好みなのは「ミトン」のほうかな。

物語は、動物園で働くワニのゲーナが出した「友達募集」の貼り紙を、南国から箱に詰められてやってきたチェブラーシカが見掛け、彼を訪ねるところから始まる。その他の仲間も友達がおらず、皆で集まって何をするかというと、とりあえず手持ちのものを使って時間をつぶす。たんなる「友達」という関係の面白さを感じる。
結局彼等は「友達がいない人のための家」を作る。これに限らず全篇、ゲーナもチェブラーシカも、常に何かしなければという勤労意欲にかられており、いかにもロシアの子ども向けっぽい。そのわりには「万引き」や「銃」などが出てきたり、外国人の観光客はひどく描かれてるのが可笑しいけど。

もう一人の主要キャラクターは、かばんの中にねずみを連れたいじわるおばあちゃん。とにかく他人を嫌がらせるために駆けずり回っている。
しかしゲーナもチェブラーシカも、なんだかんだ言って彼女から離れようとしない。「人の性格とは固定されたものでなく、その関係ごとによって決まる」と私は思っているけど(岸田秀などもそういうようなことを言っている)、まさにそのとおりで、おばあちゃんは彼等にとって「いじわる」ではないのだ。たとえ199キロの道のりを歩かされそうになっても。ラスト、列車の「上」に乗ってゆく3人の姿が印象的だ。

(08/08/01・シネマ・アンジェリカ)


ダークナイト (2008/アメリカ/監督クリストファー・ノーラン)

東京国際フォーラムで開催された、「ダークナイト」のジャパンプレミアに出かけてきました。クリスチャン・べールを見た!

舞台挨拶に立ったクリスチャンは、「イメージそのまま」のアーロン・エッカート(ポケットに片手突っ込みっぱなし…わるい意味ではない)と違い、爪をいじったり足をばたつかせたり、受け取ったマイクを腿にコツコツしたりと、全然落ち着きがない。少し痩せた…というかやつれたようで、短髪のせいもあり「小坊主」というかんじ。でも魅力的だった。
バットマンのあの格好、動き、モービル、バイクなどから、アメリカってでかくて重いものがかっこいいとされる国なんだなあとあらためて思ったけど、そんな映画の主役を務めているのが彼だなんて、いまだにふしぎな気がする(本人も「いつもは観客が5人くらいの映画に出てるので…」と冗談を言っていた)。

年上の男と好んでつき合う女の中には、いつまでも自分が「年下」でいられることに快感を覚えるタイプもいるという説がある。現在の映画版バットマン=ブルース・ウェインの魅力は、年寄り衆に支えられることで際立つその坊ちゃんぶりだ。暮らしぶりのダサさも、それによって逆に好ましく映る。もう若者とはいえない年齢のブルースが、酸いも甘いも…というかんじでユーモアにも溢れたマイケル・ケインとモーガン・フリーマンに尽くされ、彼等の話を聞いてるのか聞いてないのか分からないような顔で受け流したり会議室で爆睡したりする姿は、最高に可愛らしい。
ちなみにもう一つの魅力は、傷だらけの身体が真白なシャツに包み込まれているところ。今回はトレーニングのシーンがないのが残念だった。まあそういう話じゃない。

舞台挨拶でクリスチャンの口から、あるいはエンドクレジットでヒース・レジャーの名が出るたびに、会場では拍手が沸き起こった。
作中いちばん見ものだったのは、バットマンとヒース・レジャー演じるジョーカーとのやりとり。アクションものというより、「正義の味方」と「悪者」…あるいはそれ以外の者、それぞれが自らの思惑を言葉で、行動でぶつけ合う話だ。

アーロン・エッカートは、パンフレットなどで「最凶」というコピーをつけられてるわりには、(変化後の)容姿もキャラクターもきわめてオーソドックスで拍子抜けした。あんなふうにアメコミ風のフリークスになったり、声を荒げて相手に迫ったりというのは、彼のイメージじゃない、というか、私の期待する彼じゃない。
ただ「トゥー・フェイス」になった際の、枕もとのシーツ?にちらりとついた血(あるいは体液)のさりげなさに、妙な色気を感じた。アーロンについては、演技しているところより、たんなる顔やたたずまいのほうが魅力を感じる。今回も、法廷で登場した際の表情に、他人には理解されない道を共犯のように堕ちてみたいタイプだな〜と思わせられた。

「バットマンは正義のしるしだ、怖くなんかないぞ」
「それが怖いんだな…おれには分かってるんだ」
 (バットマンの偽物と、それをいたぶるジョーカーとの会話)


冒頭、ゴッサムシティではバットマンの偽物が横行し、弱いながらも悪者を退治しようと奮闘している。彼等はなぜそんなことをするのか?
「正義」とは、マフィアやジョーカーによれば「ルールを守る」「ルールだらけ」の者の行動だ。それにすがることで救われたい者もいる。いっぽう、金にさえ目もくれず、暴力で町を混乱に陥れようと駆けずり回るジョーカーいわく「おれは本能のままに生きる」(この言い方には疑問があるんだけど…)。
公開されたら再度観に行くつもりなので、このあたりのことについては、またそのとき書くつもり。

(08/07/28・東京国際フォーラム ジャパンプレミア)


いま、ここにある風景 (2006/カナダ/監督ジェニファー・バイチウォル)

「タンカーを見るとつながりが分かる、
 あの中のどれかに積まれてきたオイルを、ぼくは自分の車に給油している」


「産業の発展によって変化した風景」を撮り続ける写真家、エドワード・バーティンスキーが、「世界の『工場』」中国を訪れてその姿をカメラで捉えたドキュメンタリー。
冒頭、「自然から生まれた人間にとって、自然破壊は自己破壊に等しい」という彼の「哲学」が語られる。唐突なかんじを受けるが、この映画は、彼が記録した風景を通して、そうした考えに至った理由を伝えるものだ。

私は写真のことは分からないけど、彼の作品ややこの映画の映像は、(見せ方を含めて)極めてオーソドックスなスタイルのものだ。しかしともかく、大きいもの、何かの多くの集合、を見るシンプルな面白さが味わえる。

現場の写真や映像だけでなく、映画は「仕事をする彼の姿」も追う。光の具合を気にしたり、撮り直しをしたりする姿が何度も挿入される。ポスターに使われている写真(画像)を、「人が集まってるかんじを…」と言いながら撮るシーンもある。ポラロイドをその場で見てはしゃぐ現地の人々の姿も映る。こうして「写真家」の仕事ぶりを伝えることに、どういう意図があるんだろう?と考えた。
彼の写真展の様子も映るけど、例えば新聞に掲載される投書が、結局それを書く「類の」人の目にしか留まらないように、ああした展覧会も同じなのではないかという気持ちに襲われる。彼は「自分の仕事が政治的なものになればいい」と言う。

見終わっては話した第一の感想は、日本は小さい、ということ。同行者いわく、領主の土地も小さいから一揆などが可能で、為政者もある程度は民衆を尊重せざるを得なかったんだろうなあと。当たり前だけど、国の大きさや資源などの特性によって、その性格は決まってくるんだなあと思った。
上海の写真は、いま私が暮らしている新宿(の東側)のようだと思った。昔ながらの住宅街の奥に高層ビルが見える。でもカメラが引くと、規模がぜんぜん違うことが分かる!あんなに巨大な都市だなんて、日頃のニュースからは知らなかった。

(08/07/21・東京都写真美術館)


スピード・レーサー (2008/アメリカ/監督ウォシャウスキー兄弟)

うまれて初めて、劇場内に観客が二人(同行者と私のみ)というのを体験。裸足でばたばたしたり色々話したりできて楽しかった。

観ながら、原作アニメ「マッハGoGoGo」の魅力とはどういうものだったのかと考えた。
第一に、40年を経た実写映画でもそのまま使える、マッハ号の造形とその装置の数々。加えて当時の日本ならば、リアルタイムで観たわけじゃない私の想像だけど、主人公一家の生活…広い洋館、でっぷり貫禄のお父さん、きれいでおしゃれなお母さん、などのアメリカぽい暮らしぶりも魅力だったろう。それを当のアメリカ人が再現していることに、ちょっと面白さを感じた。
他国の人々、とりわけ監督のウォシャウスキー兄弟にとっては何だったのだろう。当時のアメリカの他のアニメにはない美学、のようなものかな?
ラストで新聞の見出しに「家族の勝利」とあるように、映画ではハリウッドらしく家族愛が強調されているから、そういう部分も魅力だったのかもしれない。そのわりには肝となるマッハ号の改造を、赤の他人が行っているあたりがよく分からないけど…

原作のオープニングアニメでは、マッハ号がキリンや象を追い抜いたり砂漠を駆け抜けたりと世界中を巡るけど、映画版のレースはそれを拡大したように、わけのわからない無国籍な舞台において行われる。「フジレース」において、事態は深刻なのに、一家が首にレイなどかけて周囲に溶け込む格好で観戦しているのが笑えた。

一番楽しかったのは、最後のレースを前に、家族総出で「32時間で!」マッハ号(マッハ「6」号)を作るシーン。
パパが設計図をひき、クリ坊とチンパンジーのチムチムが塗装をし、ママはピーナツサンドを振る舞う。スピード(エミール・ハーシュ)とガールフレンドのトリクシー(クリスティーナ・リッチ)の青いつなぎ姿も可愛い。作中唯一の、二人の薄汚れ姿だ。ちなみに最後のレースではエミール・ハーシュは汗など掻いたふうのリアルな顔つきだったけど、CGで作り上げられた原色ギラギラの世界では浮いているように感じた。

ちなみに私が「マッハGoGoGo」を観たときに感じたことのひとつは、剛のガールフレンドであるミッチーのキャラクターに対する新鮮さだ。今の、というか私が物心ついてからのアニメや漫画では、女の子は大抵「男勝り」「真面目」など何らかのキャラクターに分類されるけど、ミッチーはただの「女の子」で、特徴がないように思われた(もちろんヘリを運転するなど「活発な」「お嬢様」であることは確かだけど)。映画版のクリスティーナ・リッチもあまり余計な色を付けられておらず、好感が持てた。レースにまで参加するのはびっくりしたけど(笑)

「教えてくれますか…あなたはなぜ走るのか」
「何かに駆られるからだ」
「じゃあぼくは何のために走るのですか…?」
「…君がみつけるのさ、君なりのものを」


(08/07/15・)


テネイシャスD 運命のピックを探せ! (2006/アメリカ/監督リアム・リンチ)

ポスターから「テネイシャスD主演のロック映画」とだけ認識していたんだけど、実際観てみたら、ロック映画というより「ベン・スティラー(の仲間)映画」だった(彼がプロデューサーだと知らなかった)。男二人の「相棒」加減、ティム・ロビンス扮する悪者の顛末、JBの動き、「これはほんもののロッカー専用の無線だ!」などのこまかいセリフまで全てにその息吹が感じられる。「ギグ・シュミレーション」(の最中、紙の観客が「パパ」になるところ)なんてそのまんま。JBのスピード感とはあまり合わないようにも感じた。

とはいえ楽しんで観たし、主役であるJBの「華」について、あらためてしみじみ感じ入った。冴えないカイル・ガスと並んでるから余計。
旅の途中にキノコでハイになったJBが着ぐるみから顔だけのぞかせるシーンがあるんだけど(ここもまた強烈なベン・テイスト)、観賞後のトイレでは女性二人が「主役の人、あそこだけイケメンだったよね〜」と語り合っていた。たしかにアップにも十分耐える顔だ。楽器屋でベン扮する店長の話を聴いてるときの眉毛演技も、分かりやすくて可愛い。
ちなみに彼の子ども時代を演じているのは、「ナチョ・リブレ」でも幼少時のJBだった男の子。調べてみたら、春に本国公開されたオーウェンの「Drillbit Taylor」にも出てる(オーウェンをボディガードに雇う小学生の役)。

同行した人は「こういう映画観ると、久々にギターが弾きたくなる!」と言っていたけど、私はどんなロック映画を観てもそんな気持ちにならない。私にとってロックとは、観て聴いて快感を得るものだ。
本作では、テネイシャスDの二人がタロットカードの絵柄をもじって話を進める。なんだか違和感を感じて、よく分からないけど、ロックにも色々あって、とりあえず「運命」だの魔術だのいうロックは女向けじゃないなと思った。
さらにはJBのように、あんなにはげしくアコギをかきならしながらおならのことを歌いたいという感覚はよく分からない。どういう気持ちなんだろう?

(08/07/10・東商ホール試写会)


バグズワールド (2006/フランス/監督フィリップ・カルデロン)

最高に面白かった!エンドクレジットを眺めながら、アリについて知りたいこと(できればまた、ああいった映像で)が次から次へと浮かんできて困った。シロアリの女王はどういう過程を経てああいう体になるのか、それが寿命をまっとうした際、アリ塚の中はどうなるのか…。

医療用のマクロ撮影レンズを使用し、サバンナの奥地に生きるアリの生態を描いた作品。種類の異なるいくつかのアリの群れが紹介されたあと、「物語」は、巨大な蟻塚を守るオオキノコシロアリと、そこへ攻め込むサスライアリの戦いへともつれ込む。

映画が始まってすぐ、生き物ってなんてフォトジェニックなんだろうとしみじみ思わせられる。それに合わせて「予兆」や「戦い」、「悲劇」などを表す効果音や音楽が流れるんだけど、全然うるさくない。
一族の未来を背負う幼いシロアリは、(「北極のナヌー」で流氷に翻弄されるシロクマのように)泥土の中を漂う。「一匹では弱いが、多少死んでも全体の強さには何の影響もない」肉食のサスライアリは、夜には「生きた蟻塚」となり、川では「生きた橋」となり、侵入先では「生きた梯子」となって獲物に向かう。「擬人化」とはなんて甘美な誘惑だろうと思う。

子ども(家族連れ)対象の広告なども見られるため、劇場には子どもの姿も見られた。しかし字幕には読み仮名がないし、言葉遣いは大人向け。通路を挟んだ座席に着いた父親は、小学校低学年らしき息子に対してずっと字幕を読み上げ続けていたけど、瞬時に平易な内容に変換できるわけもなく、子どものほうは内容が分からないため後半はお菓子を食べたり立ち上がってきょろきょろしたりしており、かわいそうに思った。

(08/07/06・池袋シネマサンシャイン)


ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! (2007/イギリス/監督エドガー・ライト)

「田舎のほうが皆、銃を持ってるものさ」
「…誰が持ってるっていうんだ?」


・公開初日の夕方、一時間前に行ったら最後の6席だった。最前列の端に座った隣のカップルは、見づらいね〜と話した末に途中退席していた。冒頭のスピード感が、あの場所ではきつすぎたのかもしれない。
・この映画には「持続力」があるなあと思った。よく分からないけど、きっと、脚本や編集などのこまかい技術によって生まれるのだろう。
・こういう映画って、観ながらも、撮影中のことについて、楽しかっただろうな〜などと想像してしまう。
・ツボだったのは、サイモン・ペッグがスーパーマーケットに突入するとき仲間に向かって「首くいっ」をやるところと、ニック・フロストがカーチェイスの最中に銃を撃ちながら口で「バンバン!」と言うところ。
・老人が銃を撃ったり(そのお返し?に)ひどい目に遭わされたりするシーンは、どんな映画でも楽しい。
・ビル・ナイやスティーヴ・クーガンが出てると知らなかったので嬉しい。
・昔パトリック・スウェイジのファンだったので、当時の顔が映って嬉しい。
・「エロい女性」とは大抵「男がエロを感じる女性」だけど、この映画に出てくる「エロい女性」は「エロの好きな女性」なので、共感した。女性警官のあの、田舎の環境に埋没しきったかんじが最高。数ヶ月間なら私もやってみたい。
・日本で言うなら舞台装置的にはドラマ「TRICK」のようなものだな、と思ったけど、偏見だけど、舞台が日本やイギリスならああいう話、笑っておしまいだけど、アメリカだと考えたらなぜか怖い。
・口にするのはお菓子ばかりで、ごはんがほとんど出てこない。ホテルのおばさんが出してくれるプレートだけ。偏見だけど、イギリスの食事はやはり不味いのだろう。あのジャイアントコーンみたいなアイスは、向こうでは定番なのかな。

(08/07/05・シネマGAGA!)



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