「だって彼は、私を混乱させないもの」
カナダの湖畔に暮らすグラント(ゴードン・ヴィンセント)とフィオーナ(ジュリー・クリスティー)は結婚して44年。認知症に罹ったフィオーナは自身の症状を認め、介護施設への入居を決める。1ヶ月後、面会を許されたグラントが訪ねると、彼女は夫のことを忘れて他の男性に執心していた。
ラブストーリーには様々な形があり、その向かうところは、互いに最高の愛でもって愛し合う状態、ばかりではない。これは愛する者の喪失への序章を描いた物語であり、認知症の症状に伴う本人あるいは周囲の「変化」が、人々の表情や情景、抑えた音楽によって表現される。暗い印象はなく、生きていれば色々なことがある、と思う。
自分を認識しなくなった妻に対面する夫の姿を見て、パートナーとは決して「赤い糸で結ばれている相手」ではなく、共に歴史を作ってきた相手なのだと思った。それを私たちは一瞬にして失う場合もあれば、徐々に失う場合もある。そして片方だけが「失う」場合もある。
「『黄色』がどんな色だか思い出せないの…でも忘却が甘美に感じられるときもあるわ」
彼女のかつての姿が何度か挿入される(彼の姿はあるエピソードの折にしか表れない)ことから分かるように、この映画では彼女は内側からでなく外側から捉えられている。冒頭近くでフィオーナが語る言葉から、彼女の症状の「入口」部分は分かるが、その後の状態や心境は想像するのが難しい。
しかし彼女がろくに口も利かない入居者の男性につきっきりとなり、その理由を問われると冒頭のようにこぼす気持ちは分かる。不愉快なのは「混乱させられること」…それはボケていようといまいと、今現在の私だって同じだ(笑)でも、毎日訪ねてきては「わけの分からないことを言う」男性に向かって「出直してきて」と口にするとき、どういう心持ちなのかは分からない。
認知症はある意味、単純に「哲学的」な病である。フィオーナの担当看護師はグラントに対し「(忘れられたことで消えたように思われても)いったん起こったことは消えない」と言うが(同行者はこのセリフは、まるで自分に言い聞かせているようだったと言っていた)、誰も覚えていないことは存在し得るのか。私はそう思わない。
上映前、北野武の「アキレスと亀」の予告編が流れたんだけど、この映画(の断片)において画家の夫に寄りそう妻(樋口可南子)の美しさに対しては、女としてメンテした上にダンナにつき合うなんてめんどくさ…という感想しか持てなかった。しかしジュリー・クリスティの美しさには自由や自律、個性を感じた。後半の、症状が進んでからの表情も何か満ち足りたように見えた。
もう一人の女性を演じたオリンピア・デュカキスも良かった。まさに、ああいう顔つき、化粧の人がしそうなことをする(悪い意味でなく)。
ところで、施設によりけりだと思うけど、この映画のように入所直後の「30日間の面会禁止」というのはポピュラーなことなのだろうか。少し気になった。
(08/06/28・銀座テアトルシネマ)
「保健の授業で習ったもの、妊娠したら子どもが産まれるって」
主人公のジュノ(エレン・ペイジ)は現代の16歳にして、ストゥージズやダリオ・アルジェントを愛する黒髪の女の子。お気に入りのバンド仲間とセックスし妊娠するが中絶できず、養子を望む夫婦をタウン誌で見つけ子どもを譲ることにする。
産むつもりのない人間にとって「妊娠」は怖い。冒頭出てくるスティックを何度か使ったことのある身としては、あんなふうにドラッグストアのトイレで、しかもぶらぶらさせながら出てくるなんて(おしっこかかっちゃう)、気軽な仲間を見たようで安心させられた。その後「ヒモのお菓子」を買うところも可笑しい。
怖いとか痛いとかめんどくさいとかいうことは、オープンになったほうがラクだから、妊娠「的」なことはもっとカジュアルになればいいと思う。そのことと「生命の尊さ」とは別の話だ。
ジュノの趣味に反して、作中流れ続けるのはのんびりした音楽(これは子どもの「父親」の趣味にも通じる)。つまりこれはそういう話なのだ。妊娠とはパーソナルなものだけど、それによって周囲の皆も変化する。ジュノと会話を交わした後のパパや養子縁組を結んだ夫婦のカットが挿し込まれることからもそれが分かる。
周囲の皆のキャラクターが理想的だ。ジュノのパパは辛気臭いことを一つも言わず、養子を望む夫婦が暮らす高級住宅にいつもの格好で「面接」に出向く。「お前は「ノー」を言える子だと思ってたよ(男のほうに迫られたんだろ?)」と「普通の男」ぽいことも言うあたりがリアルだ(その後妻に「彼から仕掛けたんじゃないわよ」と言われる)。ジュノの話を聞いたあと、夫婦で「何の話だと思った?」と会話するのが面白い。車で誰か轢いたかと思った、ドラッグにはまってるかと思った…それよりまし、というわけだ。
まず顔が好みなのが、友人のリア。冒頭、電話をしているシーンでそれぞれの部屋を確認できるんだけど、ジュノの部屋と異なり彼女のほうは男の…それも微妙なかんじの男の写真ばかり。「december boy」って、プレイガールの中ページだろうか。
ジュノは彼女と、自分の好きな音楽の話なんかをしたことはあるんだろうか?きっとないだろう。私も高校生の頃は、女友達とは「男」の話、あるいは笑える話しかしなかった。それはそれだ。
ジュノと養子縁組を結ぶ、夫婦のヴァネッサ(ジェニファー・ガーナー)とマーク(ジェイソン・ベイトマン)。スーツを着こなし二人の写真を飾るヴァネッサは、マークのロックやホラー映画などの趣味を「許して」やっている。何様だと思う反面、私だって男の人にあんなTシャツ着てほしくないし、陳腐な言い方だけど「どっちもどっち」というかんじ。「話し合いは必要」「合わない者同士が一緒に暮らすなら「何か」が必要」ということだ。
(ちなみにこの夫婦のくだりで思い出したのが「マテリアル・ウーマン」('01)。ジャック・ブラックとスティーヴ・ザーンが、アマンダ・ピート演じるハイソ系の女性からバンド仲間(演奏曲目はニール・ダイアモンドのみ)のジェイソン・ビッグスを取り戻そうとあれこれする話)
もっとも深刻ぶった顔が笑えるヴァネッサは嫌なだけの女に見えず、彼女のその後を描いた映画なんかも面白そうだな〜と思わせられた。教育に反し遺伝子が強くてジュノみたいな子に育っちゃうとか、養子取りまくって大家族の母になっちゃうとか。
マークのほうは作中わりと冷遇されている。自分になついてくるジュノに離婚のことを告げ、彼女が驚くと「嬉しくないの?」と言うシーンなど間抜けなものだ。ラストに彼の「今」があったらよかったのに。
子どもの「父親」であるポーリーには、映画とは関係ないことを思わせられた。
私は10代の頃から、自分にアプローチしてくる男性としか「おつきあい」したことがない(その中から選択している)。すなわち、このままでは「魅力的だけど自分にアプローチしてこない男」と関わらないまま死んでいくわけで、それは可能性の制限だと思うようになった。といってもそのことに気付いてから数年、実行してないけど。
さてポーリーといえば、筋肉もなく生白い体に、口にはいつもオレンジミント。しかしジュノは彼の身体に(性器も含めて)なんてすてきなの、とうっとりし、自分から部屋を訪ねて上に乗り、最後には「好き」と告げる。私には彼が「魅力はあるが自分にアプローチしてこない男」の象徴、のように見えた。タガを外せれば、とりあえずひと時は、それが手に入る。ラストのキスがとてもよかった。
(08/06/22・シャンテシネ)
インディといえばヘビと虫。「区画」を過ぎると一匹残らず居なくなるというのが、わるい意味でなくテーマパークぽさを感じる。今回はどちらも集大成というかんじで可笑しかった。
インディシリーズは私にとって「壮大なドリフのコント」だ。でもその勿体ぶらなさ、すごいセットを使ったすごいシーンが惜しげもなく消費される様は、後続の他の映画とは格が違うと感じる。今回も馬鹿みたいな話だけど面白かった。ただし「秘宝を探す」のではなく、早々に出てくるスカルを「元の場所に戻す」のがテーマなので、いつもと感じは違う。
今回の舞台は50年代、敵はソ連の工作員。まず冒頭の倉庫での一幕、次いでオープニングの映像に引き続く「アメリカン・グラフィティ」の世界、それから本舞台のナスカへ、だれる間もない豪華さ。ラストのアレには笑ってしまったけど、50年代が舞台ということで、当時のパロディのように感じた。むしろこれまでの超常現象より「あるかも」と思う(笑)インディいわく「神によりけりさ」。
冒頭の教室風景。いつも内容の薄そうな授業だ。「ジョーンズ教授」が女子学生にうっとりされていない、という点にまず時の流れを感じる(皆老人を見る目つき)。もっともハリソン・フォードって私にとっては昔からおじいちゃんキャラで、とくにインディ時は服の着こなし(下半身)も相まって徘徊老人ぽく見えるから、前作に比べてものすごく年をとったという印象は受けなかった。
ソ連工作員のリーダー格「スターリンの秘蔵っ子」を演じるのはケイト・ブランシェット。全篇においてつなぎの上からも分かる、あの肩甲骨のラインが嬉しい。前半、軍服の中に白シャツをきっちり着込んでいることからも、彼女がインディにとっての「女」役じゃないなというのが分かる(今のインディじゃ年齢差もあるから、いちゃつかれても気持ちよくないけど…)。「女」は出てこないのかな、と思っていたらカレン・アレンが出てきて家族ものになったのでびっくりした。深くなったケツあご、車のハンドルを離さないシーンが可愛らしい。
冒険の相棒となる息子を演じたシャイア・ラブーフは、ポスターで見たとき「こんな辛気臭いの、いやだ…」と思ったものだけど(「ディスタービア」の彼だとは言われるまで気付かなかった)、登場時のマーロン・ブランド風の憂い顔にはっとさせられ、さらに話が進むにつれて段々好きになり、最後には心から応援してしまった。昔のクリスチャン・べールをアメリカンにしたかんじもあり。これからの出演作も楽しみ。
(08/06/14・TOHOシネマズ六本木ヒルズ)
もつれた髪、寄せない胸、机には食べ物、足元には動物。やかましいパリでぶつかりあう、男と女。ひとつひとつのシーンやセリフが丁寧につなぎ合わされており、とても面白かった。
フランス人のマリオン(ジュリー・デルピー、監督・脚本なども)とアメリカ人のジャック(アダム・ゴールドバーグ)はニューヨークに暮らす恋人同士。旅行の合間にマリオンの生家に立ち寄るが、彼女や周囲の皆のやることすべてが、ジャックにとってはストレスとなる。
パリに住み尽くした後ニューヨークに渡り、「4ヶ国語を話せる」主人公と、アメリカ人の恋人。文化の差異と個人の差異がからむ。といっても故郷を離れているマリオンのパリの捉え方には観光客的な部分もあり、見易かった。
フランス人とアメリカ人、違いはあるけど、議論をマイナスに捉えがちな日本人と異なり、親しい間柄だからこそ徹底的に話し合う点は同じ。マリオンいわく「続けましょ、議論って大好き」。しかしまずいと思えば引くのも早い。話し慣れ、コントロールができている。
あんなふうに自分の頭の中をのべつ幕なしに主張してくる(隠してることもあるんだけど・笑)相手に対して性欲って湧くものだろうか?と思ってしまうけど、二人はふつうにセックスをしている。身体があればできる、生活の一部としてのセックス。神秘性や立場に頼ったセックスは不健全なものだと思った。両方あるのが理想だけど…(笑)
音楽祭の日、言い争いの後にジャックと分かれたマリオンは、路上の演奏に合わせて二人で踊る想像をする。人生には誰かと一緒の「いい」瞬間というものがある。それをつなげて生きていきたい、と思わせられた。
その後二人は彼女の部屋で再会し、「4時間の話し合い」の末にまた一緒になる。「この先逃げ出さない、とは誓えない」ことと「別離が辛い」こととは両立する。感情は真実だ。
一般的な「お約束」でなく自身の感情に依って生きるのは難しく、大きな責任を伴う。最終的に「独り」に立ち返らなければならないからだ。でも覚悟を決めればわるくない。二人の会話が消え、マリオンのモノローグで終わるところから、そういうことを感じた。
その他いろいろ。
・冒頭二人が乗っている寝台列車?の室内が魅力的だった。
・ジャックがマリオンについて「性的に奔放」と言う意味がよく分からなかった。彼女の男性生活?は真面目なものに思えたので。元恋人とちょっとしたつきあいを続けていることに対してなら、作中マリオンが言うように、相手に対して「恋人」としての価値しか認めないのと、(性的な意味も含めての)「友達」として認めるのとでは、どちらが誠実であるとはいえない。
・マリオンの父親を囲む皆が集まる会場で、まともに話せる相手もいないジャックがドアを開けて外に出ると、一瞬音が消える。漫画「天然コケッコー」で大沢くんがそよちゃんちを訪ねた回を思い出してしまった。もっともあんな、心安らぐひとときじゃないけど(笑)
・ダニエル・ブリュールが「妖精」として現れる場面は、ああいうの、ありそうで面白い。いいアクセントだった。
・タクシーの運転手が、日本人のように数珠をつなげたような背もたれを使っている。どこにでもあるものなのかな。
(08/05/31・新宿ガーデンシネマ)
「電話が鳴ると『誰かしら』とわくわくするタイプ」…のジェシカ(セシル・ドゥ・フランス)は、かつてセレブに憧れたおばあちゃんの言葉を胸に上京、運よくモンテーニュ通りのカフェに雇われる。訪れる「セレブ」の中には、舞台の初日が迫った女優、演奏会を控えたピアニスト、コレクションを売り払おうとする資産家などがおり、それぞれ事情を抱えていた。
数か月前、フランス映画祭のCMを映画館でよく見かけた。オープニング作品を撮ったソフィ・マルソーがエッフェル塔をバックに歩いたりキスしたりするもので、彼女の作品に興味は湧かなかったけど、パリって魅力があるな〜と思ったものだ。
私はこの映画の舞台となっているエリアを体験したことがないので、どういうところなのか分からない。資産家の息子フレデリックいわく「あの女はミンク、あの女はクロコダイル…スノッブだ」。見たところ多くの人種・人が集っている。物語は町が主役といってもいい。
主人公を演じたセシル・ドゥ・フランスが可愛い。前歯の間にはちょっとした隙間、ハトのように首を振って歩く。出前した先々でセレブの裏側をしっかり覗き、関係者に咎められても平気だ。天真爛漫というより無神経にも見えるけど、セレブたちは健やかな彼女に心を開く。厳しいカフェの上司に向かって「あなたはセレブじゃないんだから、もっと優しくしてくれても…」と言うのが笑える。
着のみ着のままでやってきた彼女は、制服の他はいつも同じ格好だ。Tシャツにパーカー、ジーンズの上着、ダウンのベスト。ミニスカートに黒いタイツとブーツ。私は自分自身の格好については「身につけるものを少なく」が信条だけど、あんなふうに長い脚と雰囲気があれば、ああいう重ね着もいいなと思う。
男性のフレデリックの、極めて実用的な重ね着も美しい。ごく普通のシャツにセーター、その上にスーツとコート。これもまた、きれいな身体でないと決まらない。
とはいえ見ていて一番面白かったのは、ヴァレリー・ルメルシエ演じるカトリーヌ。人がグチを盛大にこぼす姿って、映画でなら観ていて楽しいものだ。頬の肉の揺れ具合がいい。昼メロの人気女優だが舞台との掛け持ちで寝る暇もない中、今後の方向について悩んでいる。映画出演のチャンスとなる食事の場で、「パリのアメリカ人」の映画監督(シドニー・ポラック)相手に喋りが止まらないシーンが可笑しい。
悩めるピアニストを演じたアルベール・デュポンテルは、「地上5センチの恋心」(今年観た映画の中では、これがいちばんのお気に入り…感想)と同じく「逃げる男」。またジャージみたいなのを着てる(笑)日本語を喋るシーンもあり。
ブランクーシの彫刻「接吻」にまつわる部分は、全然違う話なんだけど、くらもちふさこの「千花ちゃんちはふつう」を思い出してしまった。
「フェドーの芝居は心理描写がないからいい
ただのコメディだから、心底笑える
人生はそんなふうにはいかない」
(シドニー・ポラック演じるアメリカ人映画監督。合掌)
(08/05/28・ユーロスペース)
19世紀末のウィーン。当代人気の奇術師アイゼンハイム(エドワード・ノートン)は、ある日の舞台で少年時代の恋人ソフィ(ジェシカ・ビール)と再会を果たす。互いを忘れられない二人は逢瀬を重ねるが、やがて彼女の婚約者である皇太子(ルーファス・シーウェル)の知るところとなる。
(以下ネタばれあります)
奇術ものということで、近作でいうと「プレステージ」のような重厚なものをイメージしていたら、あのように男の生きざま云々という話ではなく軽いラブストーリーで、それはそれでとても楽しかった。予告編からは想像できない意外なシーンもある。
加えて「自分の幸せや都合を行動原理とする人間が、公のために生きる人間を出し抜く」(出し抜くというのはいい言い方じゃないかも、自分の目的を達せられればいいんだから)という内容が、全くもって私の好み(笑)ちなみに同行者の観賞後の第一感想は「大脱走でも、ジェームズ・コバーンのようなやつが結局うまくいくんだよな〜」
映画の語り手といっていいウール(ポール・ジアマッティ)のキャラクターや演技がよかった。皇太子のお抱え警察官僚だが、奇術師の捜査でネタを知りたがるなど無邪気で可愛げのある男。朝食の席にアイゼンハイムを呼び出した際の食べ方に、いわく「肉屋の息子」が世で頑張る、自然なかんじが出ていた。
亡霊を呼び出すショーで人気を博したアイゼンハイムは、ウールに「詐欺罪」で勾留されると、窓の外に集まった「信者」に向け語りかける。
「君たちが見たものはトリックだ、死者を生き返らせることなんてできない
希望を与えてしまったとしたら申し訳ない」
その後彼は「説明したんだから「詐欺」ではない」と言い残して立ち去る。うまいやり方だ。彼は「信者」を持ちながら戸惑うことも奢ることもせず、ふつうに仕事をこなし、ふつうにお金を貯め、大切なもののために行動する。いい生き方だと思う。
衣装や劇場の内装などのセットや、エドワード・ノートンが自ら奇術の道具を作るシーンも面白い。
時代背景もあり、登場する男性は皆立派なひげをたくわえている。体質はあれど、その生やし方にキャラクターが現れているようで注目してしまった。エドワード・ノートンのそれは、異様に黒々としており蹉跌か「フリカケ」みたい。
公爵令嬢のジェシカ・ビールの服装もかんじが良かった。ラストの現代的な乗馬服など、身体の線がきれいに出ており優雅だった。
(08/05/25・シネマート新宿)
タイの奥地でその日暮らしの生活を送るジョン・ランボー(シルベスター・スタローン)は、とある支援団体の依頼を受け、彼等を隣国ミャンマーの村に送り届ける。しかし後日、メンバーが軍に拉致されたとの知らせが入る。
怒濤の展開の後、故郷の山道をゆくランボーの後ろ姿に、「いつもならこれで終わりだよな〜でもまだ1時間もたってないし〜どうなるんだろ?」と思っていたら、終わってしまったのでびっくりした。実際には1時間半が経っていた。
とにかく今のスタローンに出来うる限りのサービスが詰め込まれており、楽しかった。最後にするならこうしかないだろう。あの体型からは想像できないほど走ってもいた。欲を言えば、水中から飛び出してくるシーンも欲しかった…。
今回のラストシーンから…というよりランボーシリーズ全てから、「戦士ががんばっても何の解決にもならない」というメッセージを感じる。それは世の事実だが、個人は自身の中で折り合いをつけねばならない。しかし1作目から20数年、現在のランボーに逡巡はない。アメリカがどうとも言わない。
「国のためでなく、自分のために殺す
おれは生まれながらの戦士、それが運命なのだ」
自分にやれることをやり、故郷に帰るランボーには、おつかれさま〜と言いたくなる。
ちなみにランボーシリーズで私が楽しみにしていることの一つは、他人に話しかけられているときのスタローンの表情。いつも呆けている。今作でも、突っかかってくる傭兵部隊のリーダーの話を無視して「つまらない男だな」と言われるところは笑えた。
(08/05/24・バルト9)
原作は小学生のころ図書室で借りて読んだけど、全く覚えておらず…。同居人が岩波書店の「カスピアン王子のつのぶえ」を買ってきたので、ぱらぱらと読んだ。挿絵が楽しかった。
「ナルニア国物語」については、なんでライオンが王なの?とか色々思うところはあるけど、映画は結構楽しんでいる。
イギリスに戻って1年後、4人は再びナルニアへ。角笛で彼等を呼んだのは、ナルニアを滅ぼそうとする隣国から逃亡した王位継承者、カスピアン王子(ベン・バーンズ)であった。
真夜中、石造りのお城、美しい王子が眠りを覚まされ、命の危険を知り、馬を駆って逃げる。橋を渡り森を抜け…原作ではナルニアに着いた4人が助けた小人からカスピアンにまつわる話を聞くという流れだけど、映画ならではの心踊るオープニングが楽しい。カスピアンのキャラクターは薄く、とくにこの冒頭など人となりが全く見えないけど、それも王子様らしくていい。世にどれほど「○○王子」がいようと、物語に閉じ込められた王子様ほど麗しいものはない。
彼と長男ピーターが初めて顔を合わせる場面も、原作とは異なり、「男の子同士の対面」が強調されておりぐっとくる。同行者は一作目から、ピーター役の子はヒース・レジャーに似てると言っていたけど、まぶしそうな目元やぶーたれた口元など、確かに通じるものがある。4人の中では二男のエドマンドが一番美しくなっていた。
ナルニアに戻った4人はひとまず浜辺ではしゃぐ。イギリスでは寄宿舎に戻る道中だったので、皆制服姿だ。この後の場面での着崩し具合はまさに、水遊びを経たからということもあるけど、私の世代にとっては80年代の「アナザー・カントリー」などから続く「ザ・イギリス」。すぐにナルニアの衣装に着替えてしまうのが勿体なかった。
浜辺でピーターは「こっちでいったん大人になったのに、向こうではまた子どもなんだからな…」というようなことを不満げに口にする。よく言う「今の中身のままで昔の自分に戻ったら…」(絶対イヤだけど、私は・笑)というアレなんだろうか?原作ではさらっと流されてるけど、映画ではこのことがずっと根底にあるような気がした。
そのため、冒頭(とラスト)スーザンが接近してくる男の子を嫌がるのも(このくだりは原作にはない)、彼が冴えないからというだけでなく、こちらでの人間関係をうとましく感じているのかなあ、と思ってしまった。
食べ物の描写が全くなかったのは残念。第1章ではかろうじて、キーとなるターキッシュ・ディライトやタムナスさんのイワシのトーストなどが出てきたけど(全然美味しそうに見せてくれなかったけど)、今回はさっぱり。せめて4人がうんざりさせられる「りんご」の描写が欲しかった。
食べ物の描写の他、お城や砦にもあまり魅力を感じない。たぶん作り手は、そういう生活感?に興味がないんだろう。
ちなみに、原作ではルーシーを襲ったクマを殺して旅の食糧にしてるのに、映画ではスーザンは弓を射るのさえ躊躇する。ここは(原作と比べなくても)いまいちだと思った。
(08/05/21・バルト9)
日曜の夜、恵比寿ガーデンシネマにて観賞。明かりが点いたとたん同行者が「明日仕事に行くのがイヤじゃなくなった〜」と言っていた。
北欧のとある町に暮らす人々のあれこれを切り取ったスケッチ集。冒頭「生きているうちに楽しめ」というようなゲーテの文章が引用される。人生って、くだらないけど、わるくない。
固定されたカメラの中で、人が動いたり出たり入ったり、数分間のエピソードが繰り返される。箱庭をいくつも見ているようだ。誠実さとセンスとを感じた。
建物も部屋も、人々の服装も、いずれも薄暗い。舞台の多くは室内だけど、住宅の中には「ドア」がなく、枠の向こうに廊下や奥の部屋があり、こちらで何やらしている誰かを、誰かが見ていたり見ていなかったりする。
背景がずっと同じなので、撮影時の様子を想像してしまった。例えばエレベータに乗れなかったおじさんがその横の階段を昇り始めると、反対側のドアが開いて青年がゴミを出す。どんなかんじでタイミングを計ってたのかな?などと思いを馳せた。
幾人かは、カメラに向かってネガティブなこと…悩みや嫌な体験について語る。中でも上記のエレベータに乗り損ねた精神科医の話す内容はストレートで面白い。
「こんな夢をみた」と始まる話が二つ、効果的に挿入される。おじさんが観た「テーブルクロス引きに失敗して死刑になる話」と、少女が観た「あこがれのロックスターと結婚する話」。前者には爆笑してしまった。見ているこちらは「失敗する」と分かっているから余計可笑しい。後者は、まず彼の所属するロックバンドの名前が「ブラック・デヴィルス」なのが、ギャグだとしても、いかにも北欧(笑)
正装してギターを抱えた少年と、少女。窓から見える小さな明かりがひとつふたつと流れ始め、やがて風景が飛び、部屋は、建物は列車になる(ドラえもんにこんな話があった)。駅に着くと群衆が祝う。窓から応える二人。この窓が大きすぎず小さすぎず、がんばって外に姿を見せる様子が愛らしく、とてもロマンチックなサイズに感じられた。
同じバーが何度か舞台となる。始めは戸口側から、中盤には店内からの映像で、雰囲気が異なるのが面白い。
店主は吊るした鐘を鳴らして「ラストオーダー」の旨を客に伝える。シンプルな道具と肉体とで、用を成すことができる。それはこの映画も同様だ。
北欧映画といえば、ラッセ・ハルストレムやカウリスマキのように犬を大事にしてるイメージがあるけど、この映画の冒頭では邪険に扱われていたのが可笑しかった。
「何してるの?」
「ベランダに立ってるだけさ」
「何を考えてたの?」
「とくに何も」
「私のこと考えてなかったの?」
「今はべつに」
「いつもそうなんだから」
「そんなことない、いつもそうってわけじゃないさ」
(08/05/18・恵比寿ガーデンシネマ)
双子のジャレット、サイモン(フレディ・ハイモア二役)と姉のマロリーは、両親の別居を期に、母が受け継いだスパイダーウィック家の屋敷にやってきた。しかしジャレットが隠し部屋で見つけた「妖精図鑑」が原因で、悪の精たちと戦うはめに。
内容を知らずに観たところ、一人のおじさんの研究のおかげで子孫がトラブルに巻き込まれるというこじんまりした話で、宗教色もなく、壮大なファンタジーが苦手な私の嗜好に合っていた。出てくるのは身内だけ、しかも彼等の分かりやすい「関係」が物語をカタチづくる。それにしても、「生きた証」にこだわるやつってほんとに迷惑だ(笑)
屋敷を中心とした「結界」に悪い精は入ってこられない=立てこもり、という前半部分がまずゾンビ映画のようで面白い。食糧足りるのかな、などと思ってしまう(実際には数日間の話なのでそんな問題は起こらない)。
後半は、普通の子どもたちがバタバタしながら悪い精をやっつける。最後の戦いでジャレットは冴えたところを見せるけど、そのアイデアは「リトル・ニッキー」のオチと同じ。大仰でなくて楽しい。
小学生の頃の一時期、占い雑誌?「マイ・バースディ」を買っていたことがある(そのため、朝のテレビ番組の「占い:エミール・シェラザード」というテロップに今でも反応してしまう)。少女漫画ぽい「妖精」の絵や、彼等を「呼び出す方法」なども載っていたものだ。作中、ジャレットがシンブルタックを呼び出すために、小さなカゴ?にベッドと枕にふとん、クラッカーと好物の蜂蜜を用意する場面では、そうした子どものころの夢想を思い出してぐっときた。
登場する(「悪役」でない)精たちが、小奇麗でなく、賢いわけでも主人公と信頼関係を結ぶわけでもなく、結構好き勝手にやっているところも好みだった。
監督は「フォーチュン・クッキー」「ミーン・ガールズ」のマーク・ウォーターズ。脚本の「ジョン・セイルズ」はあのジョン・セイルズ?そんな組み合わせなら面白いはずだ〜。
(08/05/17・バルト9)
「プラダを着た悪魔」のスタッフが集結…「プラダ〜」にはがっかりさせられたのと予告編に惹かれなかったのとで、観ようか迷ってたけど、近所で試写会があったので出かけてきました。「プラダ」より良い意味でラフなかんじが楽しかった(そもそも「プラダ」は主人公のグチりを楽しむ小説で、映像向きじゃないと思う)。
(以下ネタばれあります)
ジェーン(キャサリン・ハイグル)は仕事以外の時間を全て他人の結婚式とその準備に費やす、言うなればプロの「ブライズメイド」。自身の結婚も夢見ているが、思いを寄せる上司のジョージ(エドワード・バーンズ)は妹のテス(マリン・アッカーマン)と恋におちてしまう。そんなおり、結婚記事を手掛けるライターのケビン(ジェームズ・マーズデン)が接近してくる。
ラストのオチと、エンドクレジットが楽しかった。主人公が語る「夢の結婚式」と実際のそれとが、結局は場所も衣装も違っていたのがリアルで良い。相手にさえ満足していれば、カタチはどうあれいいんだなあと。
作中あれだけ重要なポイントだった「振り向いて花嫁を見る花婿の顔」が、相当ぼーっとしてたのが可笑しい。もっとも中盤からジェームズ・マーズデンのサル顔が魅力的に映るようになってしまっていたので、可愛らしく感じられたけど(笑)彼のチャームがなければつまらない作品だったろう。
それにしてもこのシーンに限らず、例えばジョージがテスに求婚する際に箱の中の指輪が曲がっているなど、撮影がずいぶん適当に「見えて」しまった。
日本での宣伝文句は「あなたの物語」。「ノー」と言えないばかりに貧乏くじを引いてしまう、好きな男性に思いも告げられない主人公。私はこういうキャラクターには共感できず、友達になるなら妹や同僚の方だよなあと思ってしまう。最後に妹のテスが「改心」してしまうのにはがっかりした。
主役のキャサリン・ハイグルは(「プラダ」の)アン・ハサウェイを庶民的にしたような顔立ち。長い首に合う、髪型がどれも可愛かった。たまにイッっちゃったような目つきになるのも良い。
この映画は主人公の成長物語だけど、彼女以外は変化しない(彼女自身も、変わったかと言われれば、そうでもない気もする)。とりわけ男性二人は全く変わらない。ジェームズ・マーズデンは主人公にとっての「王子様」の役だからいいとしても、エドワード・バーンズは全くつまらない男にしか感じられず、一度くらいいい味を出してくれるだろうと期待していたのに、何もなく終わってしまい残念だった。
「君のしたことはイカれてるけど、意義があったよ」
「ブライズメイドは花嫁より目立っちゃいけない」
(↑ありがちなセリフだけど、あらためて、全ての女性が同じベクトルの「美」を目指すのがいかにおかしなことであるか実感した・笑)
(08/05/14・新宿厚生年金会館試写会)
ポール・トーマス・アンダーソンは好きな監督。メロウなかんじがいい。この作品もすごく面白かったけど、やっぱりもっと人がいっぱいで色とりどりのほうがいいな〜「ブギーナイツ」だよな〜と思った。
20世紀初頭のカリフォルニアを舞台に、「石油屋」ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ・ルイス)の仕事人生が描かれる。
冒頭、カゴに入れられたまだ幼い彼の「息子」の姿に、故ナンシー関を思い出してしまった(実家がガラス屋で商売が忙しいため、段ボールに入れてテレビの前に放っておかれていたそう)。箱入り?で放っておいても、子どもは育つ。この男の子の演技がうまくて感心した。他にはダニエルの「弟」がよかった。
ダニエル・デイ・ルイスの、脚や手の指の長さ、きれいに剃られたもみあげが目についた。生活描写が全くないため(それがいいんだけど)、あの仕立ての良さそうなジャケットはどこで買ってるんだろう?どろどろに汚れた服はどうやって洗濯してるんだろう?などと色々気になってしまった。火事を消すくだりなど、石油掘りの描写も面白かった。
また、ダニエルが息子とスキンシップを取るシーンは、何故かエロティックに感じられてどきどきした。この映画にセックスを直接描いたシーンはないけど、ダニエルが彼にウイスキー入りの牛乳を飲ませたり、弟に銃を突きつけたりするシーンは、性器を露出しているかのようだった。
印象的だったのは、ダニエルが、久々に学校から戻った息子を地元のレストランに連れて行くシーン。「ステーキでも食べて精をつけろ」なんて、どんな人間でもパパはパパだ。さらに、これまで仕事にまつわる姿しか見せなかった彼が公の場にいるのに違和感を覚え、つきあい始めて日の浅い相手の新たな一面を見るような、へんな気分になった。
全体的にどうにもコメディぽい。そもそも冒頭から、深刻な音楽が画面に恐ろしいほどフィットしており、何のつもりなんだ〜?と笑ってしまう。
ダニエルとポール・ダノ演じる牧師のイーライがらみのシーンがとくに可笑しくて、イーライがヤられて泥まみれのまま食卓についてるところや、ラストのお屋敷での格闘など、コントのようだった。イーライが協会で行う「ショー」の場面も印象的で、信徒たちの姿は、噛まれると拡がってゆくゾンビの群れみたいだった。
(08/05/09・シャンテシネ)
エンディングロールの間、久々に、明かりがついてほしくないと思った。
30年代のイギリス、夏。上流階級の家庭に育つ13歳のブライオニーは、作家を目指し日々執筆に励んでいた。ある日彼女は、使用人のロビー(ジェームス・マカヴォイ)が姉のセシリア(キーラ・ナイトレイ)に宛てた手紙の内容と、二人の密会場面を目にして動揺。その夜に起きた暴行事件の犯人をロビーだと証言してしまう。
最近の他の映画と異なり、始めから構成を明かしてしまわない作りが良い。ラスト、あの日と同じような髪型にワンピース、ネックレスを身につけたヴァネッサ・レッドグレーヴが登場・告白したときの衝撃、映画的快感。最後のロマンチックすぎるカットに涙がこぼれた。
前半の、少女が見たことのあとに時間を遡り、見られた側からの事実が繰り返される流れもどきどきする。後半は意外にも戦争ものっぽくなるけど、とくにロビーのパートは幻想的で魅せられた。その他、例えば少女が発見した際の二人の様相など、面白い場面が多々ある。
「僕らには図書室でのあのときだけだ…」ジェイムズ・マカヴォイの、キーラに触れられたときの第一声が素晴らしかった(「僕の美しい人だから」(90年)でスーザン・サランドンに乗られるジェームズ・スペイダーを思い出した)。正装も軍服も似合っていた。主人の援助でケンブリッジ大学を出て医者を目指す、普段は肉体労働に勤しむ青年。妄想を知られたと気付きながら、迷うことなく彼女の邸宅のベルをならす姿。昔ならゲイリー・シニーズの役所かな。
キーラ・ナイトレイには思わず感情移入してしまい、愛する人との束の間の逢瀬のシーンなど泣かされた。役者というのはやはり「顔」なんだなと思わされた(あまり好みじゃないけど)。体なら私は成長後のブライオニーを演じたロモーラ・ガライの方が余程美しいと思うけど、顔の力はすごい。体もそれにくっついていれば輝く。
オープニングは姉妹が暮らすお屋敷を模ったジオラマ。自室でタイプライターに向かう少女は、うなじの下のほうが赤い。夏の日差しに遊んだ後で髪を切ったばかりなのか、あるいは自分の手による物語のラストに興奮しているのか。
数年後に看護婦として働く頃には、ずいぶん面の皮も厚くなっている。同僚の他愛ない冗談に吹き出す(作中唯一の楽しそうな笑い。結局人は、自分と関係ない事柄にこそ笑うことができるのかもしれない)。しかしタワシで執拗に手を洗う姿にはっとさせられる。
人は変わらない、あるいは昔の何かのために変わる、いずれにせよ「あの日」と切れることはないのだ。
小学2年生の朝の掃除の時間、同じクラスのNちゃんが「服を自分で選んでいる」と言うのでびっくりした。私の着るものは親が揃えていたから。紺やグレーのスカート、少しでも寒くなると用意されるタイツに、いつも不満だった。
今の私は、当時よく着せられていた色合いを好み、反面素足を出さずにはいられない。あの日から逃れられない。少女はあの日の自分の格好について、どう思っていたのだろうか。自分のやり方で「つぐない」を終えたときの、同じような格好は、いつからそうしていたのか、し終えたとき身に付けたのか。
少女は思いを寄せていたロビーに助けてもらうと、「あなたは命の恩人です」などと大仰にお礼を言う。彼女の男女関係の概念は、大好きな戯曲や小説から作られているのだろう。更には時代背景もあり、セックスは罪悪だと思っている。
少女が窓から見たものは「何」だったのだろう?私は保育園に通い始めた頃、初めて男の子を「好き」になった。「男」そのものを感じることが快感だった。彼女が見たのは複数の人間によって作られる「社会」だ。それを感知したときから、性的な人間の苦しみ、快楽と表裏一体の行が始まるのだと思った。
物語に登場する「少女」はブライオニーだけでない。初対面の男に稚拙な媚態を見せるローラも、さらに言うなら姉のセシリアも、少し前までは少女であった。姉は子どもたちに「泳ぎに行きたい」と頼まれれば、顔も見ずに「気をつけて」で済ませるタイプだ。きっと少女の頃もそんなふうだったのだろう。
当たり前だが「少女」といっても一様ではない。宣伝にも使われている、よく言われる「少女の残酷さ」を私は実生活で感じたことがないし、何を指すのか分からない。フィクションの中にのみ存在するなら、人はなぜそれを求めるのだろう?
(08/05/07・テアトルタイムズスクエア)
シカゴのホームセンターで働くスタンレー(ジョン・キューザック)の妻は、軍曹としてイラクに赴任中。ある日その訃報が届くが、娘たちに伝えることができない彼は、家族で車に乗り込み旅に出る。
予告編など観て分かっていたものの、冒頭、職場のバックヤードをこちらに歩いてくるウエスト1メートルくらいありそうな中年男性がジョン・キューザックだとは、やはりぴんとこなかった。そもそも彼が「ボス」だなんて(笑)その後、部下を集めて行う「朝の儀式」が可笑しい(後半、車の中で娘たちと同じことを繰り返すシーンも可笑しい)。
それでも終盤、ドレスにスニーカー姿の女の子2人を両脇に連れた姿は結構はまっていた。作中、ベッドやベンチなどにおいて、娘たちが彼を挟んで寄り添うシーンが何度かあったけど、私は一人っ子だったので両親の間にいたから…ということもあり、面白く感じた。
妻の死を知ったスタンレーは、まず自宅の寝室の床で、次に訪れた実家のベッドで、くずおれて横になる。ベッドでは初めて嗚咽をもらす。その姿はかつてのジョン・キューザックを思い起こさせるけど、この映画の彼はあのままの彼ではない。「かつて得意としていたキャラクターとは違うものを演じている」というより、時の経過により守り育てる相手ができ、変化したように感じてしまった。いずれにせよ、まるで素に見えるということだ。
旅の途中にスタンレーが実家を訪れると、母親はおらず弟がいる。32歳(私と同世代)で、今後は大学院に入り勉強するつもりだと言う。姪たちを夕食に連れて行った先ではサンデーのようなものをつついている。
弟は13歳の少女に「君とパパの意見は違うほうがいい」などと啓蒙するタイプ、一方スタンレーの方は、弟が娘たちに母親の仕事について尋ねると、横から「ママは勇敢だ」と代弁してしまうタイプだ。そんな兄弟だが、娘たちに真実を告げるよう勧められたスタンレーが「お前の意見なんて聞いてない!」と取り乱した後は、しっかりと抱き合う。ここでもかつてのジョンを思い出してしまった。
「お前の大統領はどうだ?」
「お前の、でもあるだろ」
「俺は投票してない」
「…誰にもな」
(スタンレーとその弟、自国の対外政策について話しながら)
音楽はクリント・イーストウッドが担当。エンディングに流れるのは、きわめて普通の、普通の曲だ。そういうところが好きなのだとあらためて思った。
(08/05/01・シネマスクエアとうきゅう)