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映画メモ 2008年1・2月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

ラスト、コーション / テラビシアにかける橋 / やわらかい手 / アメリカン・ギャングスター / Mr.ビーン カンヌで大迷惑?! / スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 / ヒトラーの贋札 / 迷子の警察音楽隊 / チャプター27 / ゼロ時間の謎

ラスト、コーション (2007/アメリカ-中国-台湾-香港/監督アン・リー)

必要なものしか存在していない映画って、本当に面白い。

日中戦争時の物語。香港留学中に演劇仲間に誘われ抗日運動に加わったワン(タン・ウェイ)は、傀儡政府の協力機関の高官イー(トニー・レオン)の殺害を目的とし、身分を装い彼に近づく。彼の転居のため一時離れた二人だが、上海において計画は再開され、情事を重ねる仲となる。

冒頭、麻雀をする4人の女たち。中国映画を久々に大画面で観たせいか?自分と同じ系統の顔に施されたアイメイクに目がいく。丁寧に入れたシャドウが効果を上げている一人の奥様の顔を見て、普段は目尻にアイラインを入れ上まつげにマスカラを塗るのみの私は、あ〜ちゃんと化粧したいなあ(でもめんどくさいなあ)と思う。
アン・リーの映画には、人物の斜め後ろからのアップが多いように感じる。私はこの角度から人を見るのが好きだ。でもってその角度だと、アイラインの目尻のハネが目立つ。主人公がこうした化粧になるのは、物語中、最後の1年ほどだ。

(この映画の感想を書こうとすると、彼女のことを、本名のワンとも為りすましていた「マイ夫人」とも呼べない。名前がなかったように感じる。だから以下「主人公」とする)

物語の前半、主人公が、いわゆる「飾り窓」を見上げる場面が印象的だった。薄赤い灯りの中に立つ女の姿に、演じることの好きな彼女は、これまでの自分と違う「女」になる面白さを見出したのではないだろうか。そしてそれこそが、彼女の「活動」の第一の原動力だったのではないだろうか。私の中にも、それに似た快感が少しある。人間関係は「プレイ」でもある。好きなことをあれだけ楽しみ、おそらく想定外のものまで得た彼女は幸せだ。
もうひとつ印象的だったのは、イーとの情事を重ねた彼女が、「彼は鋭い男よ、身体だけでなく心まで入り込んでくる…」と、その場の男二人を引かせてしまうほど熱く語る場面。一連のセリフを聴いて、私にとってこの映画のテーマとは、他人とセックスすることで生まれる何か、その輪郭だと思った。もちろんそれは、愛と言えるとは限らない。

(「男」を性の相手とする)私にとって、誰かとする初めてのセックスは、大抵の場合、相手がどのようなセックスをするのか知る機会という意味合いも大きい。主導権を委ねるとまでいかなくとも、現実的には、ある程度相手に合わせて行動せざるを得ない(逆に言えば、相手を変えた場合の面白さは大きい)。そして次第に、互いの性分が表に出て反応し、二人のものになっていく(ならなければ、どちらかが面倒がっているだけだ・笑)この映画でもそれが如実に表れており、きわめて「普通」のセックスに思えた。
(そういえば、主人公はへんなガーターの着け方をしているように見えた。あれじゃあ不便じゃない?習慣の違いだろうか)
そして、我ながら俗っぽいなあと思うけど、肉体関係のある相手と、そうと知らない人たちの前で視線を交わすこと、これには本当に、抗えない快感がある!

チャイナ服というと広告なんかに出てくるのをイメージしてしまう私には、帽子やコート、普通の靴などと合わせて着ている主人公の格好は新鮮に映った。
また、彼女が自室の椅子に座り、友人の前でストッキングを脱ぐシーンを見て、例えばミニスカートでも、タイトなものの場合、脚を出すにはスカート全体をずり上げなければいけないけど、チャイナ服ならスリットがあるからべろんとめくれるので、便利だなと思った(笑)

一番面白かったのは、主人公の仲間達がある人を殺してしまうくだり。リアルでダイナミックで、感動した。彼等は高揚を求めているんだと思った。ただ一人、すでに他の部分でそれを得ている主人公のみが走り去る。
走るといえば、トニー・レオンの逃げ足の速さには同行者ともども笑ってしまった。
印象的だった小道具は、主人公がイーからの電話をとる際に横に置かれた、飲みかけのカップ+食べかけのパン。お茶がまだ熱ければ、せっかくのパンがあれでは湿っちゃうけど(笑)なんとなく可愛らしく感じられた。
いまいち好みでなかったのは、カフェのコーヒーカップとブランデーのグラスに、彼女が残す口紅の跡。どうも汚いイメージがあるから。アン・リーの映画には無意味なところがないと思っているけど、どういう意味があるのか分からなかった。たんなる「色」の象徴なんだろうか。
不思議だったのは、日本料理店で、全ての席に残されていた柿。なぜ?彼女が店側の人間だと日本人に誤解される場面では、胸が痛んだ。
上海の街はディズニーランドのようだった。行ってみたいと思わされた。登場する飲食店も、どれも魅力的だ。

「自分がセックスしたことのある相手の死」について、人は考えるものだろうか。私はある。これまでセックスした相手のほとんどは、名前も知らず、その後の生死なんて不明だ(というか考えない)けど、一人だけ、不慮の死を遂げたと人づてに聞いたことがある。そのとき初めて考えた。妙な気持ちになった。
この映画の主人公の場合、相手がいずれ死ぬという認識でセックスしているわけなので、もし私ならば、それ以上に「妙なかんじ」になる。彼女のベッドの上での微笑み、涙、あらゆる表情や仕草に、それが潜んでいるかのように感じられた。ベッドの脇の銃を見るシーンでは、殺す夢想をしていたのかもしれない。

(ラストシーンでイー、夫人に向かって)

「何でもないんだ。お前は下に行って麻雀でもしてなさい」

(08/02/23・バルト9)


テラビシアにかける橋 (2007/アメリカ/監督ガボア・クスポ)

11歳のジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)は、学校ではいじめられ、うちに帰れば貧乏暮らしに追われる父親(ロバート・パトリック)から手伝いを強いられる毎日。しかし隣の家にレスリー(アナソフィア・ロブ)が引っ越してきたことから生活は一変。森の中に二人だけの王国「テラビシア」を作り、日々を過ごすようになる。

原作を知らず、ナルニアのような話かと思っていたら全く違っており、色々考えてしまった。
冒頭、朝っぱらから必死こいて走っているジェス(何をしてたんだろう?)は汗まみれのまま食卓へ。バスに乗れば学校の女ボスからパンを投げつけられ、中身が飛び出してシャツはぐちゃぐちゃ。はやく綺麗にしてくれないかと気になってしょうがない。レスリーの方は、「テラビシア」においてジェスを振り向きもせず走り、語る姿に、「ガラスの仮面」のマヤが体育倉庫で「女海賊ビアンカ」を演じるくだりを思い出した。対応に困るというか、私にとっては子どもの頃も今も友達になれないタイプだ。まだ女ボスのほうがいい。そんな二人が森の中に王国を作る。
物語はそちらの世界をメインに描かれるわけではない。そもそも彼等は他のファンタジーもののように、あらかじめ存在する世界によって選ばれたわけではなく、学校や家で過ごす時間の合間に、自ら世界を創造してゆく。

まず思ったのは、レスリーの服は誰が選んでいるのかということ。ジェスが「着のみ着のまま」というかんじなのに対し、金銭事情もあるんだろうけど、彼女の方は毎日少しずつ異なるポップで可愛らしい格好だ。偏見だけど、作中出てくる両親の選択とは思えないし、彼女のような想像癖を持つ子がああいうセンスをしているというのは違和感がある。逆にそうなら面白いとも思うけど。

それから、あちらとこちらの世界がある場合、興味を惹かれるのは行き来の方法だ。ジェスとレスリーは、テラビシアへ「ロープにぶらさがって」渡り、入国する。私は小学6年生の頃すでに身長が156センチあり、背はそれから少ししか伸びなかったけど、体重は当時と今とでは10キロくらい違う。ロープで渡ることができるのは、お尻の小さな子どもだけだ。彼女は女にならなかった。

レスリーを失った後、森の中でジェスは怪物に追われる。山岸凉子の「鬼来迎」が思い浮かんだら、同じような展開だった。意味は異なるけれど。

教室では口を開かないジェスが、憧れのエドマンズ先生(ズーイー・デシャネル)に初めて声を掛けるシーンがいい。

「…先生」
「…あ、喋った」
「手伝いましょうか」
「今日はいい日だわ」


教員というものは普通もっといやらしい会話をして(教職経験者なので偏見も許して・笑)、子どもに見抜かれるものだ。しかしこのように思ったままのことを言うと、気持ちが通じるし、ゴタゴタ言い返されない(笑)

観終わって考えてしまったのは、彼等が作ったのがなぜ「王国」だったのか、ということ。テラビシアは自己実現の場だ。聖書の教えを、積極的でなくとも疑わず受け入れていたジェスが、レスリーと共に「自分の目でものを見る」ようになり、以前は畏怖の対象であった森に分け入り思うままに世界を創造してゆく。二人は住処を作るだけでなく、民になるだけでなく、王様と女王様になる。私も子どものころ想像ごっこをしたけれど、統治するという発想、欲求はなかったので、どういう気持ちの表れなんだろうと思った。
物語のラスト、ジェスが「お姫様」となる妹メイベルを連れて渡るテラビシアへの橋の欄干は黄金に変わる。彼が作った木のつるのままのほうが、私にはずっと美しく感じられた。

ちなみに同行者いわく、レスリーのキャラクターは「イーストウッドが女の子なら、あんなふうかも」(笑)また彼女の現実味のなさも、この物語を本来の「児童文学」と捉えれば有り得ることで、「風の又三郎」を思い起こさせると言っていた。

(ジェス、誕生日に絵の具セットをプレゼントされて)
「これ、高かったんじゃない?」
「じゃあ安いのと取り換えてくる?(笑)」

↑これは子どもの会話じゃないだろ〜。でもいい言い草だと思った。
それにしてもジェスは、彼女に冷たくしてしまった次の日に犬をプレゼントしたり、メイベルにさりげなく王冠を用意しておいたりと、このまま育てば、デートしたらさぞかし楽しい男の子になるだろうなあと思った。

(08/02/11・池袋シネマ・ロサ)


やわらかい手 (2006/イギリス-フランス-ベルギー-ドイツ/監督サム・ガルバルスキ)

マギー(マリアンヌ・フェイスフル)はロンドン郊外に暮らす初老の女性。病気の孫の治療費を稼ぐため求人を見て飛び込んだ「接客業」は、穴の開いた壁のこちら側から男性器をしごくというものだった。戸惑いつつ仕事をこなす彼女だが、その柔らかい手は評判を呼び、店には行列ができるようになる。

お店のオーナーのミキ(ミキ・マノイロヴィッチ)とマギーは惹かれあい、ある日夕食をともにする。終電ちかく、駅までの道を歩く二人。「あなたの笑顔が好き」とマギーが言うと、ミキは「君の歩く姿が好きだ」と応える。
映画が終わった後、トイレに並んでいると、女性二人が「それにしてもマリアンヌ・フェイスフルの歩き方、色気なかったよね〜」と話していた。60を過ぎ顎にも下腹にも肉がついた彼女は、作中、毎日同じ暗褐色のスカートとブーツでよちよち歩く。ミキとの「何か」を得ても、服装も歩き方も変わらない…ただし髪留めは金のバレッタになる。
自慢だけど私も、これまで何度か「歩く姿が好き」と言われたことがある。ちなみに私の場合は、同じ身長の女性の内ならおそらく一番大股じゃないかと思われる、がしがししたもの。意味は違えど、同じこと言われてる〜と嬉しかった(笑)

「ゴッドハンド」の持ち主であるマギーは、隣のブースが空だとみっともないからという理由で解雇された同僚に「うぶなふりして、お客を盗んで!」と非難される。
英語では聞き逃したので実際のニュアンスは分からないけど、確かに彼女はうぶだ。「性的に奥手」という意味でなく、たんに素直。子どもっぽい歩き方にもそれが表れている。たとえばライバル店から引き抜きの話が来ると、ミキに打ち明ける。「あとは俺がなんとかするから」と彼。さほど感謝の色も見せないマギー(笑)困るときには困る、頑張るときには頑張る、言いたいことは言う。そういうやり方は、何もなければ流されるだけだが、何かあれば…新たな世界に踏み込めば…変化につながる。

そして、うぶな人間には友達がいない…本来いないものなのだ、ということを思った。ハードボイルドな感を受けた。
マギーの息子は夫亡き後の寂しさを気遣うが、彼女は一人ぼっちの生活にさほど何も感じていないようだ。近所の同年代の女性に誘われれば出かけてゆく。彼女たちは揃いも揃って、私の目からするとカタログモデルのような…四角四面の美しさを備えた老婦人で、メンテナンスしていないふうのマギーとは対照的だ。
お茶の席で「秘密」を問い詰められたマギーは、自分の仕事について話す。すると彼女たちは「その…なんていうか、ときには大きいものにも遭うの?」というようなことを言う(劇場では大きな笑いが。私も一応笑った)
女の性欲は、たいていの場合、その対象は「好きな男」のものか、あるいはあらゆる「性器」、のどちらかに描かれることが多い。「好きだから」とか「性器ならなんでもいい」とかそういうことでなく、好きなタイプの、あるいは許容範囲内の顔や体、加えてそれについてるものに見たりさわったりしたいのだという、私にとっては普通の感覚がないので、いつも違和感を感じる。ちょっと話がそれた。

ミキが「いつか行きたい」とマギーに見せるマヨルカ島の写真は、カウリスマキがかつて日本企業のために作ったCMに出てくる海の写真を思い出させた。

(08/02/03・Bunkamuraル・シネマ)


アメリカン・ギャングスター (2007/アメリカ/監督リドリー・スコット)

新宿プラザにて公開初日。とても面白かった。最後の30分、「実話に基づく」という冒頭の字幕を思い返して胸がどきどきした。
(エンディングロールの後に大切な場面あり)

1970年代初頭のニューヨーク。ハーレムを仕切るギャングに15年仕えたフランク(デンゼル・ワシントン)は、ボスの死後、バンコクから麻薬を直輸入し安価で売るビジネスにより成功を収める。一方汚職が横行する警察内部で頑なに賄賂を拒むリッチー(ラッセル・クロウ)は、麻薬捜査班のリーダーにスカウトされる。地道な捜査の結果、彼のチームは陰の大物・フランクの存在に迫る。

ベトナム戦争からアリの試合(リッチーいわく「今日の試合は政治だ!」)まで、物語の鍵となるのはアメリカの歴史そのもの。加えて、家庭での変化…電子レンジやターキー用の電動ナイフなど電化製品が登場するのも面白い。
道具といえば、リッチーと彼のチームが現場に踏み込む際、斧を携えてるのもよかった。男の人が重いものを持ったりああいう道具を抱えたりしてるところを見るのが大好き。それにしても70年代の雰囲気がよく出ていた。

冒頭、フランクを連れたボスは、街角にオープンしたリサイクルショップの店内で最近の世の中…直売店が増え中間業者が締め出されるようになった世の中…について嘆き、死んでゆく。フランクはボスが憂いた方法を取り成功を収める。しかしいつまでもボスを尊敬し、デスクに写真を飾り、感謝祭には彼に倣って皆に七面鳥を配る。
性分としても戦略としても目立つことを好まない彼は、いつも地味なスーツ姿。毎朝5時に起き、ニューヨークのお菓子・チーズケーキの絵が窓に描かれた古ぼけた店で食事を取る。コーヒーには砂糖をたくさん入れる。
成功への目途がつき、電話で家族を呼び寄せる際の笑顔が印象的だった。ジョークも言わず、友達もいない男の、作中唯一のはじけそうな笑顔。

リッチーは、息子の親権を掛けて争う前妻から、法廷で言われる。

「あなたが『真面目』なことをするのは、ある部分で不真面目でいるためよ。
 (中略)
 『真面目』だからって天国には行けやしないわ」


ここで彼女が言う「真面目」とは賄賂を受け取らないこと、不真面目というのは「女情報屋と寝ること」…つまり、妻である自分以外の女性とセックスしていたこと。当たり前だがセックスのやり方と「真面目」であるか否かは関係がない。何を「真面目」とするか、何を意識的に行うかは個人によって異なり、誰もが自身の指標で動く。フランクは極めて真面目にビジネスを展開するし、リッチーの司法取引による最終目的も、私からすれば(良い悪いではなく)ああそれが彼の「真面目」なのか〜と思わせられた。

一族を呼び寄せ周囲を固めたフランクは、何かというと「ちょっと座れ」と言って話をする。いかにもファミリーのトップに立つ者の行動だ。しかしママだけは彼に「座りなさい」と言うことができる。一刻を争う時でも、そう言われればフランクは取りあえず腰を下ろす。「ファミリー」を持たないリッチーは、同じことを言われたらどうするだろう?(笑)

フランクの妻が、リッチーの前妻(カイラ・グギーノ)と顔が似ており面白かった。意図的なキャスティングなんだろうか。

予告編にも使われた「Across 110th Street」は、やっぱりかっこよかったけど、金銭的にめぐまれた人には似合わないように感じてしまった。

(08/02/01・新宿プラザ)


Mr.ビーン カンヌで大迷惑?! (2007/イギリス/監督スティーブ・ベンデラック)

カンヌ旅行のくじを当てたMr.ビーンが、ソニーのビデオカメラを手に一路フランスへ。

ビーンが旅行を当てるのは、教会の屋根修繕費用の慈善くじ。相変わらずの雨天の中で開催される、くじ引き大会の貧乏くさい様子(雨がしたたっている)が楽しいのに、オープニングタイトル中にもう、ビーンは晴天のフランスへ…(でも、教会で男の子が遊ぶトンネルがフランスのそれとつながる場面が楽しい)。もう少し「ロンドン」を観たかったのに、ちょっと残念。
フランスの様子は、イギリス人が描いたにしてはずいぶんきれいだと思った。話も面白かった。主人公がビーンだからこそさっさと話を進められると分かっちゃいるけど、彼でなければもっとよかったのに〜と思った(笑)

私にとって映画の中で「海を見て喜ぶ男」といえば、「タイムトラベラー」(99年)で35年間地下生活していたブレンダン・フレイザーにつきるけど、ビーンも初体験じゃないとはいえ、カンヌの海に感動するラストシーンがとてもよかった。映画祭会場の小部屋から見える、ドア越しに切り取られた海。建物の中はきっと、暗くひんやりしているだろう。でも外は明るく熱っぽい。砂浜につくと、水着の女性たちがスーツ姿の彼を見て「見てよ、あの服!」とおしゃべりするのも楽しい。

どうでもいいことだけど、予告編にもある、ビーンが劇場内の客席を渡ってステージへ…というシーンで、ジャミロクワイのゴジラのテーマ曲のプロモを思い出した。

(08/01/30・新宿武蔵野館)


スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 (2007/アメリカ/監督ティム・バートン)

19世紀のロンドン。悪徳判事の策略により妻子を奪われた理髪師が、名前を変えて15年ぶりに戻ってきた。彼「スウィーニー・トッド」(ジョニー・デップ)は、パイ屋の2階に店を構え、宿敵ターピン判事(アラン・リックマン)への復讐に燃える。

黒い空から降る血が下水まで流れ、歯車で動く機械からミンチ肉が押し出されるオープニングの映像に、「ピーウィーの大冒険」(ティム・バートン85年作)の朝食作りマシーンを思い出した。流れ行程というのか、ああいうの好きだよな〜。
登場人物では、判事のおつき・ティモシー・スポールの前歯と、人肉パイで儲けるヘレナ・ボナム・カーターの海辺のしましまソックス(立派なふくらはぎ!)が印象に残った。
使い走りの少年トビーが可愛らしく、前半から応援してたので、ああいうラストで安心した。
彼は、孤児院→インチキ美容師、という境遇から自分を救ってくれた(と思いこんでいる)奥様のヘレナ・ボナム・カーターを崇め、彼女が想いを寄せるデップに嫉妬する。暖炉の燃える部屋で、ボーイソプラノで「あなたを誰にも傷つけさせない〜」と歌うシーンが楽しかった、というか羨ましかった(笑)作品中、この場面でのヘレナが一番美しく感じられた。恋にくるっていない女の、落ち着いた顔だった。

デップとアラン・リックマンは美しい女性を愛することの幸せを歌うが、当のジョアナの幸せは何なのか、考えてしまった。彼女は窓から見下ろした美しい船乗りに、自由以外の何かを感じたのだろうか?

それにしても、ティム・バートン×ジョニー・デップの映画が大盛況だなんて、やっぱりふしぎな気がする。デップに関して、1974年うまれの私は、自分含む「70年代前半うまれの女性」が彼の主なファン層と認識してるけど(私は彼に男性的魅力は感じないけど、なぜか「共感」のようなものは感じてしまう)、それこそ「自分だけの当然」で、映画館には広い世代が彼を観に来ている。

(復讐のためと称し金持ちを殺しまくるジョニー・デップに対し、ヘレナ・ボナム・カーター)

「…本当は、奥さんの顔なんてもう忘れちゃったんでしょう?」

(08/01/20・シネマサンシャイン)


ヒトラーの贋札 (2006/ドイツ-オーストリア/監督ステファン・ルツォヴィッキー)

第二次世界大戦中、ナチスが英・米国の経済を撹乱する目的で企てた「ベルンハルト作戦」。とある収容所に腕のあるユダヤ人が集められ、まずはポンド紙幣の贋札作りを強制された。暖かいベッドと十分な食事を与えられた彼等は、日々仕事に励む。

戦場・収容所・刑務所など「ひどい生活を強いられている」モノ映画としてまず面白かった。ナチス隊員のいたぶり、囚人内での仲間割れなどはこれまで何度も観てきたものだけど、食事の「がっつき」具合はそうした数々の映画の中でも強烈だし、その他、やわらかな布団に喜ぶ場面、ガス室に送り込まれる場面など印象的なシーンが多い。ああもうすこし観たいなあ、と思わせられるほどさっさと場面転換していくのも心地よい。
それにしても、以前から思ってたんだけど、映画においては、ヨーロッパの人は、どれだけお腹を空かせていても、必ずスープはスプーンですくって飲む。切れ端程度の具が浮いている液体であっても、喉に流し込んだりしない。実際のところはどうなんだろう。

当然ながら、収容されているユダヤ人の考え方も一様でない。主人公のサリー(私には藤田まことのように見えた)はとにかく絵を描くことの好きな「贋物作り職人」だが、入室早々「こわもて」として一目置かれるために計算してふるまったりと、骨太な男でもある。

「(アウシュビッツにいる妻のことを嘆く仲間に)辛く思うな、ナチスが喜ぶ」
「今日の銃殺より明日のガス室だ」
「(サボタージュしている仲間の密告を勧められ)仲間を裏切ったら殺す」


(↑ちなみに「サボタージュ」とは、具体的に日がな何をどうしてたんだろう?)

映画は、解放されたサリーが残された贋札を抱えてカジノに赴き、当時を回想する形で始まる。囚人となる前、隠れ家で女とセックスした彼は、その寝姿をスケッチにとどめる。女が起きてのぞきこむ。

「…絵は好きか?」
「好きよ、だからついてきたんじゃない」(とかなんとか)


容姿が、財産が、才能が…何らかの要因でもってあなたが好きだ、と言われるなんて、もし私なら耐えがたい(そういう私だから何の才能もないのだ、ということもできる・笑)。
収容所で彼の仲間は「俺たちは偽札作りのために生かされてるんだ」と口にする。わかりきっている、ひどい屈辱だが、生きるためには仕方ない。

原作は、作中ただ一人、ナチスに反抗して仕事を「サボタージュ」するブーガンが戦後に著したもの。彼を演じた役者さんは、若い頃のキース・キャラダインといったかんじの男前だった。前髪が毎日ちがうふうに上がってたけど、意図してそのようにセットしてたのか、そうならば石鹸以外の洗面用品も支給されていたのか、それとも寝起きのシーンですでに上がってたから寝ぐせのつもりなのか、ちょこっと気になってしまった。

(08/01/19・シャンテシネ)


迷子の警察音楽隊 (2007/イスラエル-フランス/監督エラン・コリリン)

エジプト・アレクサンドリアの警察音楽隊が、文化交流のために招かれたイスラエルで「迷子」になった。目的地と異なる町に着いてしまった8人は、食堂の女主人の好意で一夜の宿を借りる。

エジプトの警察の制服は水色だ。向こうではあの色が映えるのだろうか?カメラが近づくと、遠目には太いラインに見える赤い生地に、エジプトっぽい模様が入っている。

へんな言い方だけど、中途半端な作りが愛しく感じられた。
エジプト人がイスラエルを訪ねる話…というと、こちらとしては、出てくる人の顔に始まり食べ物などの文化的な側面が垣間見られるのを期待してしまう。内容にもつい「リアルっぽさ」を求めがちだけど、この映画の登場人物の立ち居振る舞いは演劇的で、そう「自然」ではない。では作り込まれているのかというと、例えば冒頭の字幕、それに続くオープニングの映像はカウリスマキ(の「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」)を思い出させるけど、あれほど計算されてはいない。
道に迷った音楽隊の団長は、ぽつんと立つ食堂の女主人に対し
「この近くに文化センターはありますか?」
と問う。すると彼女は
「ないわよ。だいたい文化なんてものが無いわ」
と答える。砂漠のど真ん中に住む人間が、自分の暮らしを評する。少々違和感を覚え、この映画は「登場人物皆が作り手の代弁者である」類のものかと考えた(もっとも後の彼女の述懐を聞くと、このセリフも自然なものに感じられるけど)。そんなこんなでつかみどころがないものの、それが却って楽しい。

食堂の女主人ディナは、夫に先立たれたきっぷのいい女性。暗がりでもハッキリ浮かび上がる彫りの深い顔立ちに、堂々とした腰回り。股上の深い、ロールアップしたジーンズ。家のカギにはくま、車のミラーにはコアラのマスコット。「お出かけ」の際には赤いサンドレスのような装いに、長い黒髪を手ぐしで散り散りにする。
子どもの頃からテレビのエジプト映画を観て「オマー・シャリフとの恋にあこがれ」ていた彼女は、諸事情もあり団長を一夜のデートに誘う。団長さんはいわゆるロマンスグレーというほどじゃないけど、お尻が締まっている。役柄とはいえ毎日びしっと立ってるからだろうか(笑)
デートの舞台は、とてつもなく寂れたドライブインとでもいうようなお店。彼女と一緒なら、どこだって結構楽しいだろう。でも自身は色々大変なのかもしれない…そんな想像をさせる人だ。私なら、たまにあんなふうに男性たちが訪ねて来てくれるとしても、あの生活では、寂しくて死んでしまいそう。

音楽隊と現地の人々は英語で会話する。「ぼくは英語が苦手で…」と言う若手のカーレドが、私からすると、流暢ではないものの支障なく意思の疎通をしている。陳腐な言い草だけど、他国の人たちはどういう方法で外国語を習得してるんだろう?と思った。

(08/01/12・シネカノン)


チャプター27 (2007/カナダ‐アメリカ/監督J・P・シェファー)

とても面白かった。抽象的な言い方だけど、こういう私的な物語って、作り手と主役がよほど「一体」でないと飽きてしまうものだけど、そういうスキが一瞬もない。ほぼ全編に渡る、主役を演じたジャレッド・レトのナレーションに魅せられた。

1980年12月、クリスマスの近いある日、マーク・デヴィッド・チャップマン(ジャレッド・レト)はニューヨークの空港に降り立った。目的はジョン・レノンに会うこと。同じようにジョンを待つジュード(リンジー・ローハン)のアドバイスでサイン用の新譜を買った彼は、「ライ麦畑でつかまえて」を抱え、ダコタ・ハウスの前に立ち続ける。

観ながら、物事に「理由」はなくとも「意味」はある…正しくは、私は物事の「理由」は求めないが「意味」は求めてしまう、ということを改めて認識した。
私は自分自身の髪型、服、靴などには全て「意味」があると考えている。ジャレッド・レトを画面で見た瞬間、彼…ジャレッドがなぞっているマーク…の格好、あの眼鏡や白い靴、上着にはどういう「意味」があるのか考えてしまった。積極的な選択でなくとも、決定に至る背景があるはずだ。ホテルで着替えるシーンが何度も挿入されるので、余計に気がいく。ちなみに服装は、私には聖職者ぽく感じられた。
また、ラストに挿入される「あなたに向かって話してるんだ」と言う場面には、彼にとって「誰かに何かを話す」ということにはどういう「意味」があるのか、考えさせられた。
マークがジョン・レノンを殺した「理由」については、はっきりと描かれない。「別人になる」と部屋を出るので、自分のためだというのは分かる。ただひっきりなしに、彼の独白が続くのみだ。それらが積み重なって、引き金に指がかけられる。そういうものだと思う。

「作品からメッセージが伝わってくると、親友になったような気になる、まるでいつでも電話できるような…」とマークは言うけれど、私にそういう気持ちはない。実際に自分と関わらない人間に対して、どうこう思うことはない。でも彼のように感じる人もいるのだろう。世の中には多くの有名人がいるけれど、皆よく殺されないで済んでるなあと思った。

私はよくお風呂で、鏡を使って自分の背中をチェックする。背中の脂肪は、中年以前の人の場合、「太った人」としてある程度の年月を過ごした証拠だ。一方下腹なら、怠惰になればすぐにたるむ。この役のために30キロ太ったジャレッド・レトの体は、やはりアンバランスな感じがした。お腹が異様にふくらみ、バックショットはごつごつしている。急激な食生活の変化のためか、顔の肌が荒れていたのも気になった。本物のマークは艶々していたんじゃないだろうか。

リンジー・ローハンと同じく、私もポランスキーは眠くなるタイプ(笑)なので嬉しかった。映画での彼女はとても好きだ。あの声もいい。

(マーク、ニューヨークの街での独白)
「人は『する』といったことをしない」

(ホテルから電話をかけて)
「あのときは電話しないと言ったけど、なんとなく…」

(08/01/05・シネクイント)


ゼロ時間の謎 (2007/フランス/監督パスカル・トマ)

アガサ・クリスティ原作、監督は昨年公開された「奥様は名探偵」のパスカル・トマ。フランス映画のため登場人物の名前が原作と異なり、ちょっと戸惑った。

ブルゴーニュの海辺に立つ別荘。大金持ちの女主人(ダニエル・ダリュー)のもとを、テニスプレイヤーの甥(メルヴィル・プポー)とその妻、さらに彼の前妻、友人などが訪れる。まず命を落としたのは高名な弁護士。そして嵐の夜、第二の殺人が起こる。

年末年始にテレビで観る海外ものといえば子どもの頃は「タワーリング・インフェルノ」、もう少し後ではグラナダのポアロものだった。そんなわけで、お正月にはこれがいいかなと思い劇場へ出かける。
市川崑の横溝モノDVDに特典で収録されていた予告編には、でかでかと「娯楽大作!」というあおりが入れられていた。ばんばん人が死ぬのにおかしな気もするけど、皆が知ってるミステリーを、皆が知ってる役者さんが演じるのは、かつてのかくし芸大会のようなノリの「娯楽」だ。お正月に合う。
今作の冒頭、新妻のキャロラインが自分の意に沿わない夫のギョームをテープで縛りあげるシーンがあまりに大仰で演劇的で、違和感を感じたものだけど、かくし芸大会のようなものと思えば腑に落ちる。

クリスティをあまり読んだことのない同行者の感想は、「全員が容疑者じゃないのが意外だった」というもの。「オリエント急行殺人事件」のようなのをイメージしていたんだろう。
彼女の作品には、夢の中を手探りで進み、最後に霧が晴れるようにあたたかい現実に戻るといった作風のものも多く(「杉の柩」など)、この作品も私からするとその類に入る(原語で読んだわけじゃないけど)。そうした雰囲気がなければ作品の魅力は半減してしまうが、映像で表す・感じるのは難しい。今回はその代わり?に、原作にはなかったギャグがフランスぽく振りかけられており、楽しめた。

主人公のお坊ちゃんテニスプレイヤーを演じたメルヴィル・プポーはよかった。端整な顔立ちと身体つきに、高価でコンサバな格好が似合う。どの階段も、当然のように二段飛ばしでかけあがっていたのに惚れぼれした。
彼の前妻は「白いバラ」、現妻は「赤いバラ」と第三者によって評される。前者を演じた女優さんは、母親であるカトリーヌ・ドヌーヴを押しつぶして寸詰まりにしたような容姿。海辺に立つ後姿は「おっかさん」というかんじだったけど、たんに痩せているとも太っているとも表現できない、愚鈍さと女らしさを両方備えた雰囲気は、原作からイメージしていた大竹しのぶと通じるところがあり面白かった。
また、彼女から夫を「奪った」現妻に対しては、原作では結構親近感を抱いていた(どっちと友達になりたいかといえば当然こちらだ)けど、この映画ではあまりにも下品に演出されていてびっくりした。演じたのはナタリー・バイユの娘だそうだけど、色んな意味で身体を動かすのが好きそうな雰囲気がよかった。

ル・シネマのロビーには、映画化を記念して作られたというウェッジウッドのティーセットが展示されていたけど、お茶を飲むシーンはあまり印象に残らず残念だった。

(08/01/02・Bunkamuraル・シネマ)



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