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映画メモ 2007年11・12月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

俺たちフィギュアスケーター / 再会の街で / ダーウィン・アワード / アイ・アム・レジェンド / エンジェル / ブラザーサンタ / 椿三十郎 / ブレードランナー ファイナル・カット / ウェイトレス〜おいしい人生のつくりかた / この道は母とつづく / ALWAYS 続・三丁目の夕日 / ラスト・ホリデイ

俺たちフィギュアスケーター (2007/アメリカ/監督ウィル・スペック、ジョシュ・ゴードン)

私はフィギュアスケートをあまり見ない。たんに「見る理由がない」からだけど、あの肉色の下着(?)がどうにも受け付けられないからというのもある(自分も、例えばいわゆるババシャツの類は着ることなく死んでいくつもり)。この映画においても、ライバルペアによる「good vibrations・笑」の際の衣装など、腹出しと思わせての腹巻きに目をそむけそうになった。
(このペアの女性の方、貼りついたような笑顔が素晴らしかった。キャラクターは「ハイスクール・ミュージカル」のライバル役シャーペイを思い出した。あの兄弟が近親相姦してるようなかんじ)
(さらにどーでもいいことだけど、二人の邸宅は、おおやちきのスケート漫画「雪割草」に出てくる天才スケーターの家にそっくりだった)

冒頭、二人のキャラクター紹介の際にウィルが「競技前には革を…」と語るシーンで、「ズーランダー」のオーウェンがスティングの話をする場面を思い出したんだけど、その通り、ストーリーもセンスも似ていた。ライバル同士が手に手を取って、一般的に「男がやるとへん」と思われていることをがんばる。彼等独特のノリが延々と続くとツラいものがあるけど、結構単純なギャグの連発で楽しかった。

「男同士ペアのフィギュアスケート」については、一度目の演技のときから全然アリだと思い、感動すらしてしまった。世の中、根っからの「好き」「嫌い」以外は、要するに見慣れるか否かだ。淀川長治が観たら、どういう感想をもらすだろう?
ウィルの全身についた贅肉は、男子ペアのフィギュアスケートのセクシャルな魅力を嗅ぎつけられるのを恐れて、わざと太ったのではと邪推した(笑)

(07/12/28・渋谷シネマGAGA!)


再会の街で (2007/アメリカ/監督マイク・バインダー)

マンハッタンに暮らす歯科医のアラン(ドン・チードル)は、街で大学時代のルームメイト、チャーリー(アダム・サンドラー)を見かけ声をかける。彼は911テロで家族を失っていた。その様子を普通でないと感じたアランは、彼のもとを訪ねては昔のような時間を過ごすようになる。

ドラムを叩くアダム・サンドラーの姿に「ハードロック・ハイジャック」(94年)から時の経過を感じつつ…(笑)自分だってチャーリーにも、アランにも、ドナにもなりうるんだと(アランの奥さんにはなれないかも・笑)思った。
アランはチャーリーに「少しでもよくなれば(be better)と思って」と言うけれど、よくなるってどういうことなのか、この映画ではある種の「解決」が呈示されるけれど、いろいろ考えさせられた。
先日テレビをつけたら、うつを扱った番組に山本文緒が出ていた。彼女については名前しか知らないけど、体験談を語りながら「この病気の人は皆以前に戻りたいと言うが、戻るということはありえない、違う自分になるんだ」と言っていた。私もよくそう思う。人は「戻る」ことはできず、変わってゆくのみだ。そういうことを思いながら観た。

チャーリーは、かつて家族と暮らした自宅で、日々カウチに座りゲームをして過ごす。
台所は(管理人いわく)「1万6000回のリフォーム」のおかげで使えるどころじゃないし、食事はどうしてたんだろう?アランと友達になったから、ああして外食をするようになったのか、それとも以前は食欲がなかったのか。眠るシーンもなかったけど、ちゃんと寝られていたんだろうか。服装や髪形についても、昔のものを引っ張り出して着ているのか、新たにああいうものを買い求めたのか、髪はどうやってあの長さを保っているのか、気になってしまった。

(これから観る人は知らずにおいたほうがいいけど→)マンハッタンの街を流して見せる、最初と最後のシーンがよかった。冒頭はチャーリーが、ラストではアランがスクーターで走ってゆく。
それから、冒頭から活躍する、歯科医院の受付の女性が良かった。ああいうふうにやっていけたら楽しいだろうなあと思うし、ああいう人って必要だ。

(07/12/25・新宿武蔵野館)


ダーウィン・アワード (2006/アメリカ/監督フィン・タイラー)

その1.ルーカス・ハースが出てたのにびっくりした。しかも大役(笑)彼含めキャストが(90年代なら)豪華だった。
その2.数日前ウチでビリー・ジョエルの話をしたばかりだったので、曲が流れたいずれのシーンも、イントロで笑ってしまった。

「最も愚かな方法で死んだ人に対し、馬鹿な遺伝子を絶ったことへの感謝の念をこめて贈られる」実在の賞、ダーウィン・アワード。
マイケル(ジョセフ・ファインズ)は、優秀なプロファイラーだが血を見ると失神してしまうおかげで警官をクビになり、趣味で研究を重ねてきたダーウィン賞に目をつけ保険会社に自分を売り込む。いわく、賞の候補になりそうな事件を保険適用外にすれば会社の損失を防げる。こうして彼は自らの腕を証明するため、調査員のシリ(ウィノナ・ライダー)と、全米各地をめぐる調査の旅に出た。

ロードムービー好きとしては、「旅に出たことがない」マイケルとともに、アメリカの片田舎をめぐるのがまず楽しい。日本にうまれてよかった〜としみじみ感じ入っちゃうけど(笑)彼の持ち歩く「スポーン」には、寿がきやのラーメンフォークを思い出してしまった。「卒論用のドキュメンタリーを撮っている学生」が同行しているという設定も良かった。
バカ者達のエピソードはどれも楽しかったけど、登場時に「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を一瞬彷彿とさせる、ジュリエット・ルイス&デヴィッド・アークエットの夫婦にはほろっときた(この組み合わせだけで泣ける)。夜中、ベッドの中で背中越しに「オレは自慢の夫かな…?」(答えずにいると)「オレが『ご近所のすごい人』に出たら…どうだ?」

「無理矢理コンビを組まされた二人」のうち、意に介さない方はたいていホットドッグを食べているものだけど(物事を気にしない人が食べるもの、なんだろう。例「ハード・ウェイ」←大好きな映画!のマイケルJフォックスに対するジェームズ・ウッズなど)、ウィノナ・ライダーのホットドックの食べ方もずいぶん様になっていた。仕事の間はかちっとした格好なのが、オフではピンクのコートとジーンズというのも可愛かった。

マイケルは受賞者・候補者に尊敬の念を抱き、終盤には「ぼくにもダーウィン遺伝子があった」と気付く。しかし彼は、行く先々のお店で女の子に目をつけられるなど生まれながらのセクシャルな魅力を備えているようで、本人は意識していなくとも、そのおかげで生き延びているように思われた。

(07/12/24・シネセゾン渋谷)


アイ・アム・レジェンド (2007/アメリカ/監督フランシス・ローレンス)

ウィル・スミスを劇場で初めて見たのは「インデペンデンス・デイ」かな?大タコを担いで帰還する姿に、なんてかっこいいんだろうと惚れぼれした(この映画、このシーンしか覚えてない)。最近の「幸せのちから」でも、大きなマシンを抱えて街中を走り回る姿がすてきだった。
よいガタイに愛くるしい顔立ちで、たいへんそうなことを軽々とやってのける。「アイ・アム・レジェンド」の前半は独り舞台で、多少大仰なかんじはあったし、容姿も年相応に落ち着いてたけど、じゅうぶん魅せられた。懸垂シーンも良かった。腕、太かった。

またアメリカが地球の中心(「グラウンド・ゼロ」)って話か〜と思いつつ、冒頭の寂れたニューヨークの描写に惹き込まれた。シカやライオンの登場に「ジュマンジ」を思い出しつつ、なぜ他の動物はいないんだろうと思った。
前半は、私の好きな、特殊な環境での食べたり寝たりの生活描写(犬つき)、後半はゾンビとの戦い。痛そうな場面にはつい顔をそむけ、陽の光が演出するベタなスリルにはどきどきさせられた。面白かった。

「とっておきのベーコンだったのに…」
のセリフでは思わず笑ってしまった。彼の混乱が表れている。私がアナなら、ああいう状況で「希少」そうなベーコンをみつけたら、いきなり料理に使ったりしない。食べ物の問題は、取り返しが付かないから(笑)
彼女もああ見えて混乱していた、あるいはベーコンがどうしても食べたかったのかもしれない。いずれにせよこのシーンに、「生存者の村」を信じて目指す単純な彼女と、慎重に自身を律するウィルとの差異を感じた。
それにしても、数年振りに他人と会話したというのに(アナからしたら、数年振りに妙齢の男性と関わったというのに)、その内容は、神様がどうの、ボブマーリーがどうのと、めんどくさいことばかり(曲はいいけど)。もっと楽しげな会話ができないものかと思った。

気になる点は多々あれど、一番の疑問は、「理性を失っている」ダーク・シーカーが、なぜ頑なに下半身を衣類で覆っているのかということ。女は上着まで付けてるし。
同じ造形なのに、ウィル・スミスの研究室にずらっと並んだ「死者の顔」は皆異なっていたのも疑問だった。

(07/12/15・ユナイテッドシネマとしまえん)


エンジェル (2007/ベルギー-イギリス-フランス/監督フランソワ・オゾン)

フランソワ・オゾンは好きだけど、この映画は予告編を見てもそそられなかった。実際、観ている最中も、出てくる動物からお墓まで全てがギャグに感じられてしまった。昔ながらの雰囲気は面白かったけど、全てがばらばらで上滑りしている印象を受けた。
それでも監督の真面目さや優しさは受け取ることができ、あとからこうして思い返すと、観てよかったと思う。

20世紀初頭のイギリス。田舎町の食料品店の娘・エンジェルは、上流世界にあこがれ、部屋にこもってロマンス小説を書き綴る。やがて10代にして流行作家となった彼女は、お屋敷「パラダイス」を手に入れ、美男で貧乏画家の夫と、自身の崇拝者であるその妹と暮らし始める。

「戦争は私と夫を引き離しました…だから何人も、戦争について話すことは許しません」
このセリフに象徴されるように、エンジェルは、オゾンの映画の主人公がたいていそうであるのと同じく、自分の都合のみで生きている。
愛する人のほうが国よりも大切。すなわち、自分と誰かの関係のほうが社会問題よりも大切。私はそういう考え方を「真っ当」としている。だからオゾンの映画が好きなのだ。でもこの映画におけるその「真っ当」さの発露は、私にとってあまり興味の持てるものではなかった。だから予告編で惹かれなかったのだと思う。でも、こういう昔ながらの映画のパロディのような作りでは、こんなふうにストレートにしか表せない…表すべきだったのだろう。

エンジェルが「忘れたい」と唾棄する生家では、食べ物がなまなましく登場する。狭苦しい自室でペンを走らせる、あるいはベッドの中で目を見開くエンジェルに母親が運んでくる、トレイに乗せられた茶色っぽい食事。伯母さんがお茶とともにぱくつく、ジャムをたっぷり塗った分厚いトースト(美味しそう!)。
しかしエンジェルは、食べ物を口にしない。生家ではもちろん、贅を尽くして理想を叶えられる「パラダイス」においても。原作ではどうだったんだろう?食に興味がなかったのだろうか。
いずれにせよあの胸は、夢想だけで膨れ上がっていたのだ。だから夢がなくなったら、しぼんでしまう、命は消えてしまう。

エンジェルを演じたロモーラ・ガライの脚がよかった。自分のセックスを管理していない、ぶらぶらと重たくくっついている、でも美しい脚だった。
ちなみに脚といえば、男版「哀しみのトリスターナ」か〜と思わせられる場面があった。でもオゾンの映画は、ああいうふうにならない(笑)

ところで、好意を抱いている、あるいは仲の良い男性の成す「芸術」に、興味や好感が持てない…というのはよくあることだ。写真から絵まで何度も経験がある。私は自分が芸術に対する才能も関心もないことが分かっているし、それはそれと考えてるけど、エンジェルは、愛するエルメ(「あいつは男前だ」とセリフで言わせてしまう、オゾンのストレートさが愛おしい)の絵を「よい」ものとし、その上でもっとよくしようと、散々注文を付ける。そのあたりの感覚が、想像してもよく分からなかった。

一つ引っ掛かったのは、夫にお金の無心をされて新作に取り掛る決意を固め、「書き上げるまで部屋から出ないわ」とエンジェルが机に向かう場面。座るなりペンを取るので、イスがずれたままだ。ここは姿勢を正すとこだろう、と気になってしまった。
執筆の際の姿といえば、エンジェルは、小説を話しながら、あえぐように書いてゆく。彼女の崇拝者であるノラも、タイプするときにはいちいち読み上げる。ぜんぜん関係ないけど、声を出してたか忘れたけど、「アデルの恋の物語」で手紙を書くイザベル・アジャーニを思い出した。

(07/12/12・新宿武蔵野館)


ブラザーサンタ (2007/アメリカ/監督デヴィッド・ドブキン)

クロース一家に生まれた男の子、フレッドとニコラス。聡明で運のよい弟・ニコラスは、長じて聖人サンタクロース(ポール・ジアマッティ)となった。一方兄のフレッド(ヴィンス・ボーン)はシカゴでその日暮らし。
ある日、留置場に入れられたフレッドは苦肉の策で弟に保釈金を依頼する。出された条件は、クリスマスまでの数日間「サンタ」の仕事を手伝うこと。北極で久々の再会を果たした二人だが、おもちゃ工場は閉鎖の危機にさらされていた。

ららぽーと豊洲に向かう有楽町線で、これまで見かけたことがないレベルで爆睡している女性がいた。自身の携帯電話が鳴ってもぴくりともしない。すると、向かいに座っていた初老の夫婦の女性の方が、降りる際に彼女の肩をゆすった。結局起きなかったけど。
「ブラザーサンタ」のニコラスとフレッドの母親(キャシー・ベイツ)も、その場に居合わせたら、やはり彼女をゆすぶって起こすだろう。こういう「おばさん」の良識は、世の中に必要だと私は思うけど、この種の人の持つ、全人類が「自分と同じ世界」に未来永劫生きているとでもいうような信念は、身内にとっては結構迷惑である。
この映画では、サンタのニコラスを始め、弟のフレッド、エルフのウィリー(ジョン・マイケル・ヒギンズ)、検査官のクライド(ケビン・スペイシー)などほぼ皆が他人との関わりによって変化するが、母親だけは全く変わらない。聖人となった息子に対し、妻は巨大な腹を見かねて夕食を加減しているのに、「ぜんぜん太ってないわ」などと食べさせる(しかしこういうタイプに限って、テレビ番組やベストセラー本などをきっかけに突然「あなたは太りすぎよ」などと言い出すものだ)。ラストの一件落着のシーンで、以前として続く小言に、フレッドの手がぶるぶるしていたのが可笑しかった。

この映画には、ベタだけどスジの通った気持ちよさがある。
たとえば検査官(彼はどういう組織から派遣されてきたんだろう?)は、幼い頃の自分を助けてくれなかった「サンタクロース」に解雇状を突き付けることが自身を救う道と信じてきたが、実際にはサンタの言動により救われる。でも、彼をいじめた子どもたちはどうなるのか?また、その子たちは、なぜ彼をいじめたのか?「わるいこと」の原因をたどればキリがない。しかしフレッドいわく、他人のせいにするな。自分で自分の道を切り開くんだ。勿論物事はそんなにシンプルではないけれど、物語の中ではそうして解決する。
また、サンタ映画につきものの「いい子」「わるい子」判別についても、少々泣けるシーンでもって、きちんとスジを通してくれる。

「兄弟の葛藤を乗り越える会」には笑った。アメリカ映画にはああいうセラピーの場面がよく出てくるけど、兄弟姉妹の問題を扱うものは初めて見た。男女別なのか、女性の参加者が皆無なのが不思議だった。

サンタの奥さん(ミランダ・リチャードソン)と秘書(エリザベス・バンクス)の格好はいまいちだと思ったけど、とくに奥さんの服装はキャラクターに合っていた。雪の中を歩くのに、あの上着とスカートならブーツがいいと思うんだけど、あくまでもヒールの細いパンプスを履いている。秘書のほうは、同行者に私ぽいスカートだと言われた。
女性用の「サンタ」のコスプレって、なんで女なのにサンタなの?(最近は本場にも女性のサンタがいるらしいけど)と思ってたけど、「秘書」というのは使えるなと思った。
一方、ヴィンス・ボーンがサンタの衣装に着替えるシーンでは、男の「サンタ」のコスプレはいいものだと思った(肉体労働者だし←そういう好みなので)。彼がその格好で、ワンダ(レイチェル・ワイズ)の寝室を朝方訪ねるシーンはちょっとどきどきした。

誰かを「嫌い」と思うことと、「いなければいのに」と思うこととは違う。後者はまるで恋のようだ。兄弟のけんかの場面で、「ブロークバック・マウンテン」の二人を思い出した。

(07/12/08・ユナイテッドシネマ豊洲)


椿三十郎 (2007/日本/監督森田芳光)

同行者は「山本周五郎の人情ものなんだから『ついほだされて…』というところがポイントなのに、織田裕二があんなに力んでたら意味がない」と言っていたけど、結構面白かった。最後の対決シーンにはがっかりしたけど…オリジナル版では、なんてきれいな死に方だと感動したので、今回の、散々あれこれのあとに立ちくらみ?とでもいうような撮り方にはがっかりした。

ただ今回、「リメイク映画を作る」ということの意義について、初めて意識した。
黒澤明の「椿三十郎」はとても面白い。でもリメイク版は、その脚本に忠実に沿ったうえで、カラーで、セリフも若干現代的で、現代の観客の見知った顔が出てきて、当たり前だけど私達にとってはより「分かりやすい」。面白い話を埋もれさせず、分かりやすく再提供するということには意義があると思った。実際劇場では笑いが何度も起こっており、楽しく観られた。

オリジナル版にはドリフのコントに通じる笑いの雰囲気があるけど(三船敏郎に9人がぞろぞろついていくところとか)、今回もより現代的にコメディ風の味付けがされており、楽しかった。脇役のおかげだ。西岡徳馬・小林稔侍・風間杜男の間抜け三人組、とくに風間杜夫の演技が楽しかった。
最後まで顔を見せない城代家老は誰だろう?と思っていたら、あの人だったなんて…私は以前、ロケ中(「刑事」中)の彼を歌舞伎町で見たことがある。
それから、先日DVDで「ドルフィンブルー」を観たばかりなのに、エンディングロールを見るまで松山ケンイチが伊織役だと分からなかった。この人の顔、いまだに認識できない…
豊川悦司は、とにかく声が役に合ってない。同行者が「(諮られたと気付き飛んで戻ってくる場面で)ロデオマシンに乗ってるのかと思った」と言うので笑ってしまった。
織田裕二については、ああいうふうに自分を信じて堂々と演じることが、スターに必要な資質なんだと思った。

大目付側が出したおふれを皆が読んでいるシーンがどうにも気持ちわるかったんだけど、後で話していて、集まっていたのが皆「侍」だったからと分かった。町中なのに女や子どもがいない。他の場面でも、敵方の集団は格好の差異もなく、まるで軍隊のようにきっちりまとめられており、その統一感に違和感を覚えた。

印象的だったのは、椿の目印に、喜び勇んで飛び石を駆けてゆく9人の足元を映したシーン。椿三十郎のような「才能のある」人間でなくとも、見る立場によるけれど、輝くときがある。だからこそ人間って愛しいものだと思った。
そもそもこの映画って、女子(的感覚を持つ者?)にとっては、ふつうの男の子の集団が健気にがんばるのを応援するのが楽しい。私の感覚では、とある目的を持った集団に、いきなり三船敏郎のような者が入ってきた場合、自分を集団側の一人と置き換えても、三船側と置き換えても、複雑な立場・気持ちになってしまう(顔には出さずとも)。それをあんなふうに、目的に向かってストレートに頑張れるなんて、それが男子というものだと思った。

(07/12/01・バルト9)


ブレードランナー ファイナル・カット (1982/アメリカ/監督リドリー・スコット)

私は「SF」が苦手だ。どんなジャンルにおいても、人が食べたり喋ったりしている、自分と地続きの話のほうが楽しくて、清原なつのの漫画も大人になるまで敬遠していたし、好きなSF映画といったらジョー・ダンテの「エクスプロラーズ」くらいしか思いつかない(イーサン・ホークが可愛すぎる)。
だから「ロボット」とは何なのか分からないし、あえて考えないようにしている。

でもこの映画…今回の観賞は最高に面白かった。とにかく映像が楽しい。冒頭のシンプルなクレジットに続くロスの夜景、火を噴く鉄塔(何を作ってるんだろう?)、タイレル社のピラミッド。それでもつい、それぞれの住居の汚さ、乱雑さに目がいき、暮らしにくそうだな〜などと思ってしまうけど。
それから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないけど、強烈に「80年代」を感じた。なぜか頭に思い浮かんだのは「時をかける少女」と「サブウェイ」。加えて当時のデヴィッド・ボウイ。

SFものに限らないけど、例えば、女レプリカント(ジョアンナ・キャシディ)がデッカード(ハリソン・フォード)に撃たれるあのシーン。「誰かが誰かに撃たれてる」だけなのに、スローモーションの映像にメロウな音楽がかぶるなんて、へんな気がする。それが映画なんだけど。そこでへんな気にならない、つまり考えてしまう隙を与えない映画が、自分にとっての「いい映画」だ。「ブレードランナー」には、考える隙を奪われた。

ダリル・ハンナは好きな女優だ。いつも「へんなことをする」役、というイメージがある(「スプラッシュ」「夜霧のマンハッタン」などの影響)。レプリカント役では、長い太股の隙間が、若さにまかせた乱暴さを感じさせて良かった。
レプリカントが正確にはどのようなものなのか知らないので分からないけど、それぞれ使用目的に沿って、ショーン・ヤングはああいう服装・髪型をするように、ダリルはああいう格好を好み、身につけるように、インプットされているんだろうか?だとしたら、セバスチャン宅でダリルが自分に施す化粧は、どういう気持ち、どういう欲望の表れなんだろう?そこのところが一番心に引っ掛かった。

違う意味でもう一つ引っ掛かったのは、ハリソンとショーンのラブシーンにおいて、彼が言う「Say”I want you”」というセリフが「『抱いて』と言うんだ」と訳されていたこと。これは違和感があった。

それにしても、ハリソン・フォードは何だかんだ言って頼りになる。もっともバーに入るシーンでは、いつジャバザハットが出てくるかと思ってしまったけど(笑)あとルトガー・ハウアーは、肉が付きすぎだと思った。

(07/11/25・バルト9)


ウェイトレス〜おいしい人生のつくりかた (2007/アメリカ/監督エイドリアン・シェリー)

アメリカの田舎町に住むジェンナ(ケリー・ラッセル)は、「ジョーのダイナー」で働くウェイトレス。パイ作りの腕は天才的だが、横暴な夫のアールは、隣町で開かれるパイ・コンテストへの出場も許さない。
細々と出場資金を貯め、賞金で家出する計画をたてていたある日、妊娠が発覚。さらには産婦人科医のポマター先生と男女の仲になり、暮らしに波風が立ち始める。

リーフレットの写真が往年の「ゴースト」みたいな構図なので、「パイ作りの名人が恋におちるロマンチック・コメディ」かと思っていたら、そうではなかった。普通の女性が、自分で人生の舵を取るまでを描いた物語。今年何本目?という、ああいうラストを迎える映画、そして、作ったものを自分では食べない料理人の映画だ。

冒頭、古く懐かしいかんじの陽射しの中でパイが作られている。
ジェンナは腹が立ったとき、不安になったとき、ときめいたとき、「この気持ちをパイにしたら…」と想像する。「あんな男の子どもは妊娠したくないパイ」「不倫が原因で殺されたくないパイ」といった具合。伸ばした生地に、濃厚なソースがどろりと流し込まれる。
お店で出しているパイははっきり見えないけど、オーナーの偏屈おじいさん・ジョーが、口頭で彼女の最高傑作の描写をしてくれる。まず異国風のスパイス、続いてチョコレート、最後にかすかな苺の味…
そう聞くと繊細なようだけど、少なくとも想像上で作られるパイは、私からすれば、どれもアメリカらしく大胆だ。無造作に放り込まれる、巨大なカマンベールチーズやバナナ。ワイルドな魅力を引き出すかのようにざくざくつぶされていく、オートミールやベリー。昔、東海林さだおが麻婆豆腐について書いたくだりを思い出した。いわく、豆腐の角を保つようなことにこだわるのは日本人だけ(現地ではごはんに乗せて食べるものなので、もとからぐちゃぐちゃだ)。

彼女は、極めて普通の人間だ。新しいお医者さんは、マイケルJフォックスを大柄にしたような男前。だから「はじめはセックスが目的」で飛び付く(産婦人科医となら妊娠中でも安心だ)。そして、これまで「誰かと通じることに飢えていた」から、口にしたことのなかったあれこれを、日々話すようになる。
(先生役のネイサン・フィリオンは、ワンコ顔で結構タイプ。来月公開される「スリザー」での制服姿が良い。かなり遡って「タイムトラベラー」では、アリシア・シルバーストーンの厭味な前恋人役)
ちなみに彼女と先生とのシーンには始終、何かを予感させるような空気が漂っている。不穏や爆発といったものではなく、うまく言えないけど、何かが動く前兆のような空気。

以前にも書いたけれど、誰かを愛することは、相手にとっては、それだけでは何の価値もないというのが私の信条。だから、自分が妻を愛しているというだけで全てを治めようとするアールのような人間は、がんばってみても理解できない。でも彼にも事情があるのかもしれない。彼に限らず、ジェンナについても、パイ作りを伝授した母親のことには触れられるものの、育った背景などは一切描かれない。

監督のエイドリアン・シェリー演じる、主人公の冴えない同僚・ドーラは、同じように冴えない、シャツのボタンをきっちりとめた会計士と結婚する。彼の趣味の即興詩はどれもいまいちだが、結婚の誓いの際のものはよかった。君は僕にとっていつも「yes」だ。

それから、ジェンナの最後の格好がとても可愛かった!チープな作りなんだけど、一度着てみたい。

(07/11/17・シャンテシネ)


この道は母へとつづく (2005/ロシア/監督アンドレイ・クラフチューク)

ロシアの片田舎の孤児院。6歳のワーニャは、業者の手引きでイタリア人夫婦の養子に選ばれる。しかし「ほんとうのママ」が迎えに来るかも、と考えた彼は脱走し、母親のもとを目指す。

今年観た中で一番面白かった。ポスターからしんみりした話なのかと思ってたけど、ドキドキさせられる冒険活劇だった。
前半は孤児院という「閉じられた世界」、後半は「悪者からの逃亡劇」が楽しめる。はじめは冬だったのが、やがて寒さの中にも日差しが降り注ぐ春になる。また前半は、車内や室内からのくもりガラス越しの情景が多いのも印象的だ。よく見えずもどかしい。しかし意を決したワーニャが外に出ると、世界は明瞭になる。

そして、はじめと終わりが面白い。
ロシアとフィンランドの国境。ちょっとポランスキーの「袋小路」を思い出すシーンに始まり、「これぞロシアね」という登場人物のセリフに同意して厳寒に肩をすくめ、最近では「リトル・ミス・サンシャイン」以外に○○○○シーンが面白い映画があったんだ〜と思う。そして孤児院に到着。
ラストはどうなるのかな?と思っていたら、直球の幕切れ。涙が出る間もなく嬉しかった(映画観て涙が出るのって、さして気持ちいいものでもないから)。

施設では、二段ベッドが所狭しと置かれた部屋に子どもが詰め込まれている。自分が養子を取るとして…子どもを選ぶとして、「どれ」にするだろう、とムリヤリ想像してみても、私が子ども苦手ということもあるけど、区別すらつかない。しかしどの子も、見てる分にはいい顔だ。
同行者は「あんなとこじゃエコとかロハスとか言ってる場合じゃないよな〜」と言ってたけど、外は凍りついてるのに、中の子どもたちはランニングシャツ姿。ボイラーががんがん焚かれ、煙突からは常に煙が流れている。

それにしても、こういう映画を観ると、日本がいかに「きちんと」しているかあらためて認識させられる。バスは路肩に乗り上げながら走っていくし、少女は雪の中、ジーンズの裾をふくらはぎの真ん中くらいまで濡らしても平気だ。
食事も、ボイラー室で自給自足している年長孤児達のディナーは、皮ごと茹でただけのじゃがいもとパン。あんなの食べられないよ…
(でも、駅で売られてた「キャベツのピロシキ」はちょっと、食べてみたい・笑)

道中にはいろいろなことが起こる。ワーニャは知恵が回るが、困難にも遭う。手助けしてくれる大人もいるが、子どものアタマにあるのは自分の目的のみで、礼も言わず恩人を後にする。そのあっさりかげんが爽快だ。

一番印象に残ったのは、養子縁組業者のマダムが、孤児院の子ども達のプロフィール写真(というか「宣材」)を撮る場面。シートの前に立たせ、ぬいぐるみを持たせる。
ぬいぐるみを持つとき、頭を自分の方に向けて抱えるか、外に向けて抱えるか。一人っ子の私はぬいぐるみをたくさん持ってたけど、抱えるときには自分と向き合うようにしていた。今でもそうするだろう。映画では、ぬいぐるみもコチラを向いている。何も通っていないぬいぐるみを見て、悲しいような、可笑しいような気持ちになった。

(07/11/14・Bunkamuraル・シネマ)


ALWAYS 続・三丁目の夕日  (2007/日本/監督山崎貴)

昭和34年。東京タワーふもと近くの「鈴木オート」一家に、事業に失敗した親戚の娘が居候することになる。しかしお嬢様育ちの彼女は下町の暮らしに馴染まない。一方、向かいに住む貧乏作家の茶川は、同居する少年・淳之介を実の父親に渡すまいと、一念発起して芥川賞に挑む。その他周囲の人々の物語。

自分にとって良い映画は、たいてい、最初の数分で分かる。言葉では説明できないけど、何か「良い」ものを感じる。この映画でも、冒頭のあのくだりに、ああ観に来てよかった、としみじみ思った。周囲にもそういう雰囲気が漂ってるのを感じた。
その後、電話で話を終え、みつけた写真を手に取る薬師丸ひろ子の目尻のしわに、予定調和で綺麗すぎるけどイヤじゃない物語、が始まる予感を受ける。

観客の泣き所も笑い所も一緒で、皆でアトラクションに乗ってるような楽しさを味わえた。作中ロクちゃんたちが「嵐を呼ぶ男」を観に行くシーンはとても良かったけど、あれほどじゃないにせよ、今だって、こういう映画なら、それに近い映画体験ってできるんだと嬉しかった。
(日劇を選んで観たおかげもあるのかも。大体こういう映画の場合とくに、同行者にあれは何、これは何、と教えられながら観るはめになるから、あまり静かな劇場じゃ困る)
それにしても、淀川長治がよく「昔の女性はルドルフ・ヴァレンチノの映画を観に行く際には念を入れてお化粧したものだ」という話をしてたけど、その後数十年経った「三丁目の夕日」当時も、映画って、好きな人に会いに行く「デート」だったんだな。今の私だってまあ、そういう気持ちあるけど(笑)

出てくる食べ物を見るのももちろん楽しい。鈴木家の夕食に出た、カツでもコロッケでもなさそうな、あの揚げ物は何だろう?シュークリームの中身がやたら黄色く見えたのはなぜだろう?給食は「いただきます」まで見たかった…などなど。
ちなみに教室のシーンでは、一平と級友がケンカになったとき、先生が3人まとめてアタマをごつん・ごつん・ごつんとやるのを見て、あ〜あれで終わりなんだからいいよなあ、と思った。

大阪へ発つ日の小雪の格好がとても可愛かった。今後は貧乏作家との貧乏暮らしになるけど、服とか、どうするんだろ?と思っていたら、ラストの橋のシーンでは、そのときと同じ靴を履いており、当時の人は皆そうだったのかもしれないけど、ああ大事にし続けるんだなと納得した。

エンドロールに延々と並ぶ、ロケ地や協力者の名前を眺めるのも楽しい。知ってる場所あるかな?とみてたら、九段会館が使われていた。堤真一が出かけた、戦中者集会の場面だ。ここのコーヒーラウンジは好きだ。

(07/11/10・日劇)


ラスト・ホリデイ (2007/アメリカ/監督ウェイン・ワン)

残り数週間の命と宣告された女性が、冥土のみやげとばかりに豪遊する話。いい人ばかりの登場人物に支えられて展開するお約束のストーリーに、最後にはほろっと涙ぐんでしまった。

スーパーの調理器具売り場で働くジョージア(クイーン・ラティファ)は、服装も地味な倹約家。料理が得意だが、一人暮らしの家に食べに来るのは隣に住む男の子だけ。しかし彼女にも夢はたくさんあった。台所に隠された「あこがれノート」には、カロリーを気にして食べずにおいた料理や、片思い相手の同僚ショーン(LL・クール・J)、すてきなリゾート地などの写真が並んでいる。
ひょんなことから死期が近いことを知った彼女は、涙の後に開き直り、貯金をはたいてリゾート地へ向かう。スイートルームに泊まり、メニューの端から端まで料理を注文する彼女の姿に、周囲は相当の「大物」だろうと噂する。

人生最初で最後のリゾートとして彼女が選んだのは、チェコのカルロヴィ・ヴァリ。ホテルの内外、ちらっと映る街中などがとても美しい。

優しいジョージアに惚れていたショーンは、彼女が突然姿を消した理由を探り当て、家を訪ねる。そして「あこがれノート」の自分の写真(切り抜いて、ウエディングドレス姿のジョージアと並べて貼ってある)を見て彼女の気持ちに気付くんだけど…気持ちわるがられたらどうしようとドキドキしてしまった(笑)
この映画でのLL・クール・Jは、少女漫画の王子様的キャラクター。職場の女性にはお尻が高評価だ。肉体派の私としては、ジョージアに会うため、雪崩で閉ざされた道をがしがし歩く場面が印象に残った。ホテルに到着した際の、場にそぐわない雪まみれの格好も良かった。

(ジョージア、鏡に向かって)
「あなた、けっこう幸せよ
 もし今度生まれ変わったら…(略)いろんな経験をするわ、勇気を持って」


主人公が鏡に向かって語りかける映画といえば、近年印象が強かったのは「トランスアメリカ」。性同一障害の自分が何を求めているか、何をすべきか、認めて生きるブリーは、毎朝鏡の中の自分に呼びかける。
ジョージアは、最後に自分が「ただの販売員」であることをばらされたとき、「今までの自分は下を向いて生きてたわ…そしてある日、ふと気付くの」と言う。彼女が顔を上げ、鏡の中の自分に語りかけたのは、きっとその日が初めてだったに違いない。

予想がついてたとはいえ、ラストシーンには、今年こういう場面で終わる映画を何本観ただろう?と感心してしまった。


表紙映画メモ>2007.11・12