バルト9にて上映初日。満員のうえ皆盛り上がっていた。
大好きな「シャンハイ」シリーズには遠く及ばないけど、面白かった。
ただ、登場したジャッキー・チェンの顔があまりに老けて見えてびっくりした。下から見上げたカットは、たるみでサモハンキンポーみたいだった。
世界陸上では、日本人ばかりじゃなく優勝した人の顔を映してほしいと思いつつ、「洋画」に日本人俳優が出てると、とくにファンじゃなくても嬉しいものだ。真田広之も工藤夕貴も、もうちょっと顔が見たかった。上映時間が短すぎると感じた映画は久々。
クリス・タッカーは「ジャッキー・ブラウン」の頃とは別人のように膨れていた。どうせ「相棒」役なら、もっと太ってデブキャラになれば面白かったのに。
ジャッキーとクリスが仲違いするお約束のシーンで、ホテルの部屋から飛び出したクリスは中華料理屋でお惣菜を、残ったジャッキーはルームサービスでフライドチキンを注文する。でもどちらも食べるシーンがなく、残念に思った。
冒頭、クリス・タッカーが女のコたちを交通違反で捕まえるシーンで、(ジャッキーつながりで)子どもの頃観た「キャノンボール2」を思い出した。スピード違反で停められたお姉さんコンビが、いつものように「お色気」で乗り切ろうとすると、白バイから降りてきたのはそれ以上に胸の大きな婦警さんで、つかまってしまう。シンプルだけど示唆ぶかい場面だ(笑)そうだよなあ、もし自分が警察なら、お色気って無意味だよなあと思った記憶がある。
(07/08/25・バルト9)
(はじめに…私はくらもちふさこの単行本、デビュー作から全部持ってるファンです)
くらもちふさこの漫画に出てくる男の子というのは…「くらもちふさこの漫画に出てくる男の子」と言っただけで、わかる人にはわかる、わかる女のコにはわかる、独特な生き物だ。その魅力には抗えない。
「天然コケッコー」はそーゆー話じゃないとはいえ、私にとっては、大沢くんが「くらもち漫画の男の子」であることが最重要なので、映画は原作と別物とはいえ、まずはその点が気になった。でもってその点は、やっぱりダメだった。当たり前だ、映画は少女漫画とは違う。
少女漫画は少女の心が捉えた世界。この映画は、少女の内部から見たものじゃなかった。大沢くんもお父ちゃんも、そよちゃんの内から離れたところに地に足つけて、それぞれ生きていた。
とはいえ、忠実すぎるほど原作を丁寧にまとめたのは伝わってきたし、ちょこちょこ入るオリジナルのシーンも面白かった。帰宅したそよちゃんが、駅伝中継を観てる浩太郎と「チャンネル替えん?」「ほかはゴルフと競馬」という会話を交わすシーンなど、山下敦弘が自分のやり方で、少女漫画への愛を優しく表現してくれたような感じを受けた。
(もっと率直に言うならば、趣味の合わない恋人が、○○ちゃんこーゆーの好きかなと思って…と可愛くなくはない雑貨を買ってきてくれたときのような気分になった。それに対し、神楽の夜にそよちゃんがこぼす涙には、譲れない男のこだわりを感じた)
ただ、ラストに使用されたあの回。原作だと、そよちゃんの指がつーっと行って、行って、最後に映る大沢くんの姿に最高にドキドキさせられるんだけど、その登場シーン、どうするんだろう?と思っていたら、単純に、ちょこっとずつ映り込んでくるというもので、じゃあどうすればいいのか私には分からないけど、残念だった。
ついでに、驚くほど原作に忠実なのに、あの「ボタン」のシーンでは、なぜ二人を並んで座らせたのか、疑問に思った。原作では向かい合っており、だからこそ「ボタン」が活きてくるのに。
どうせ原作と映画とは違うんだし、何もかも、もっと山下監督流にしてくれたら面白かったのに〜と思わなくもなかったけど、それは贅沢というものかな。
原作付映画を観て、イメージと違う〜とケチをつけるのも、馬鹿馬鹿しいけど楽しみのうちか…(笑)
伊吹ちゃんは「にぶきちゃん」に見えなかったし、あっちゃんは、神楽の夜に座ってる後姿の骨張り様に、こんな体型じゃない〜とガッカリしたし、何より肝心のそよちゃんが、海へ行った帰りにいきなり髪ほどいてるのにびっくりした(笑・原作では温泉から出たあとでさえ、おさげなのに)。目の下のクマも気になった。なかなか顔を見せない、後姿でのシゲちゃんの登場シーンにはじらされた〜。
松田先生や田浦のじっちゃんについては、逆に、あそこまで似せる必要あるのか?と思っちゃった(笑)キャラクターを活かす余裕がないので、顔だけでもそっくりにしておこうという読者へのサービス精神か。
一番しっくりきてたのはかっちゃんで、表情といい着せられてる服といい、いかにもだった。
一つ自慢をすると!修学旅行の際、そよちゃんの足元が映る最初のシーンを見ただけで、タイルの模様から「新宿西口だ〜」と分かった。
私は田舎の出身で(ああいう絵になる田舎じゃなく単なる田舎)、中学校の修学旅行の行き先はやっぱり東京だった。でも上京して15年経った今、修学旅行で東京をめぐるシーンを見て、果たして面白いのかな?なんて思ってしまった。
私にとって田舎はとにかく恐いところで、たとえばこの映画なら、きれいな風景だな〜と思いつつ、冬場に茶の間でおばあちゃんが手仕事してるシーンを見ただけで、逃げ出したくなる。車で送ってもらおうと思ってたのに〜と、不在の父親を無邪気になじるそよちゃんが羨ましい。
自分の根っこから逃げること、それが私の人生のテーマだと、色んな映画を観るにつけ思い知らされる。
伊吹ちゃんが自分ちの店であっちゃんと飲む、フォションの紙パック紅茶。なぜフォション?ピンとこない。
(でもあのパッケージ見ると、私の場合、大江戸線を思い出してしまう。ホームで売ってるの。大江戸線って、セブンティーンアイスとか、そういう自販機があるのが謎)
最後に、あの「学校」のリアルさには感動した。職員室にちゃんと耐火金庫(要録が入ってる)がある!
もうひとつ最後に…新宿武蔵野館で観たんだけど、歩くのもやっと、というような老齢の男性が一人で来ていた。彼の生まれた村なんだろうか?映画、楽しんだだろうか?
(07/08/23・新宿武蔵野館)
一緒に観た「先生」の、明かりが点いた際の一言は、先生ってすごい仕事だねえ、というものだった。たしかにそうで、だから私はやめてしまった。インプットとアウトプットの場所を分けないと息ができない自分、寂しがりやの自分にはムリだ。でも、色んな人間で構成される「学校」には、今でも愛着がある。
90年代半ばのロサンゼルス。多くの人種が集う「底辺高校」に、新任国語教師のエリン(ヒラリー・スワンク)が赴任してきた。銃撃戦が日常の生徒達にとって、学校は時間をやり過ごすだけの場所。しかし彼女は自腹を切って本を配り、日記を書かせ、彼等にアプローチし続ける。
生徒たちが、なんだかんだ言いつつヒラリーに反応する前半部分は、ありえないだろ…と思ってしまったけれど(でも、マズイ落書きが回覧されてるのを見つけて授業内容を変更し話をする場面や、「ラインゲーム」をやる場面などは、来た来た〜ってカンジ・笑)、後半は面白かった。映画としての面白さを感じたというより、何かこう、シンプルな事実が伝わってきた。
何よりもヒラリー・スワンクの野暮ったさ、子どもっぽさが、役柄にはまっており良かった。足を均等に開いた立ち姿、一方的な夫への態度。自分が忙しくなると「あなたはテニスでもしてて」などとにこやかに言い放つ。鈍くて強いオトナだ。
生徒の日記を初めて読むときの、猫背になってそわそわし、耳に髪をかける仕草など、いかにもで印象的だった。
頑固な保守派教員、イメルダ・スタウントンの気持ちもよく分かる。こういう先生がいてもいいと思う。
ヒラリーの父親は、皆と別れなければならないと嘆く彼女に対し「でも彼等は新しい先生に出会えるじゃないか」と言う。それはスタウントンのような先生を指してはいないんだろうけど、色んな人がいてこその学校、社会だ。
(ちなみに、生徒達が卒業するまで授業を担当したいというヒラリーの態度は、私には共感できなかった)
生徒の一人いわく「先生は、したいと思ったことは何でもする」。
ヒラリーが生徒に本を書かせるため、企業にかけあって「パソコンを35台」入手してしまうあたり、アメリカらしいな〜と思った。
(07/08/08・シャンテ・シネ)
バルト9にて先行上映。満席でした。
登場人物が多いもんだから、一人ひとりのシーンが短くて、あの予告編のカットは「選ばれた場面」ではなく「唯一の見せ場」といってもいいくらい。でも皆知ってる顔だし、楽しい。
私はジョージ・クルーニーやブラッド・ピットにさほど魅力は感じないけど、それでも、ああいう男の人たちが画面に出ずっぱりというのは、わるくない!うまく言えないけど、終わったあと一瞬、彼等と自分の恋人とを比べちゃって、でもその後すぐ、隣の男性のよさにあらためて気付くような、でも新作が出来たらまた観に行っちゃうような、そんな映画…だと思う(笑)
ジョージ・クルーニーとブラッド・ピットが、キッチンで立ったまま夕食を取りながら、仕事の依頼話をするシーンが良かった。
相手には「君たちは陽気で義理堅くて最高だ、でもアナログ人間だ、時代はデジタルになったからな」と言われちゃうんだけど、まさにそういう男の食べ方。見てて気持ちいい。
(それに比べてシャオボー・クィンの食べ方は、演出なのか不愉快すぎて、顔を伏せてしまった。彼の見せ場ももうちょっと、あればよかったのに)
エレン・バーキンの、不自然にまるい胸、高いピンヒールの上に乗るふくらはぎの、浮き出た血管も良かった。
あの媚薬は、私も試して…というか試されてみたい(笑)
舞台となるラスベガスにアル・パチーノが建設するホテルを見て、新宿西口に建設中のコクーンタワーを思い出してしまった。もう結構出来てるよね。私にはあれがあの界隈を楽しくするとは思えないから、楳図かずお邸の建築計画に文句をつけるおばさんの気持ち、わからなくもない。文句はつけないけど。
それから、アンディ・ガルシアが「あいつのホテルのおかげで…」というシーンでは、これまた規模が百億倍違うけど、ウチの窓から以前は見えた東京タワーが、新しく建ったマンションで見えなくなってしまったことを思い出した。
アル・パチーノのホテルのふもとにはマクドナルドがあった。アメリカ人はマック好きだなと思った。
(07/08/05・バルト9にて先行上映)
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて先行上映。満席でした。
スクリーンに「Fin」が出た瞬間、思わず小さく拍手してしまった。同行者も同じく。楽しかった〜。
観終わってまず頭に浮かんだのは「今日の夕ゴハン、何にしよう?」ってこと。
ピクサーの映画って、出てくる食べ物があまり美味しそうではなく(「Mr.インクレディブル」の家族の食事など)、かなり艶っぽかった今回にせよ、やはりそれほどじゃなかった。でも、食べることって楽しい、という気持ちにさせられた。見た目じゃなく、違う部分で食欲をそそられた。
物語は、ネズミのレミーの自己紹介で始まる。
気のいい仲間と楽しく暮らしつつも、食における才能と夢を持つ彼は「残飯をあさって死んでいくだけ」のネズミの生き様に引っかかりを感じている。それがひょんなことから、住み着いていた家を追われ、地下水路を通ってパリの街へ…この冒険が最高にスペクタクルで、観賞後にヒルズ近くでポスター見たこともあり、週末はディズニーランドに行くことに(笑)
冒頭、レミーの手(前足)の指が4本なのを見て、昔の日本なら難しかったのかな〜と関係ないことを思ってしまった(ちなみに「パタリロ!」では、回避策じゃないけど「普段は指を一本隠してる」ことになっている・笑)。
足(後足)の指は3本で、エンディングのアニメの足跡が可愛かった。
料理初心者のおどおど少年・リングイニと天才シェフのネズミ・レミーが合体して料理…ってどうするんだろ?と思ってたら、なかなか合理的(?)な手段で、感心してしまった。
とはいえ「ネズミが人間用の料理を作る」なんて話、どうやって収拾つけるんだろ?と今度は思ってたところ、ストレートな決着を見て、感動した。
自分なら、レミーの、というかネズミの作った料理を食べるかっていうと、食べるだろう。
レミーは「誰でも名シェフ」をポリシーとするシェフの故グストーを尊敬しており、何かというと彼が現れ助言をしてくれる。これは亡霊ではなくレミー自身が生み出したものだ(しかし「天啓」に近い描かれ方をしている部分もある)。どういうことなんだろう?と考えてしまい、わるい意味でなく気がそがれる。
こうした設定の映画は結構あって、「ボーイ・ミーツ・ガール」(主人公に常にケイリー・グラント(演・カイル・マクラクラン)が寄り添っている)とか、あと度忘れしちゃった、ウサギの…映画で着ぐるみといえばウサギなのはフシギだ。
クライマックス、閉じ込められて、のっぴきならない状況に陥ってしまうレミー。
「グストー、どうすればいい?」
「君が自由だと思えば、わしは自由になるさ」
「ぼくのことだよ!」
「君だってそうさ、君が自由だと思えば、自由になる」
「箱庭」好きとしては、リングイニがレミーのために用意する小さな生活用品の数々(エッフェル塔を望む出窓に置かれてるのが可愛い!)や、ネズミたちの使う道具(フタを利用したコップや針金の楽器など)も楽しかったです。
ネズミ達の、握ったらつぶれそうなふにゃっと感も良かった。レストランのワゴンで誤って掴まれるシーンには、ぞくぞくした!
(07/07/25・TOHOシネマズ六本木ヒルズにて先行上映)
「ハリー・ポッター」シリーズを観るといつも、「たいしたことが起こるわけでもない学園生活のひとコマ」といった印象を受ける。今回も、映画は2時間以上あったけど、結局何もなかった。ハリーが始終イライラしてるだけで終わってしまった。
ヴォルデモードの目的や、ホグワーツの学生が学ぶ理由が分からない(皆なぜ魔法使いになりたいのか?)のも、釈然としない理由だ。これまでの作品に描かれてるんだろうけど、忘れてしまった。
誰と戦うかは目に見えている、何のために戦うかが大切だ
―「麦の穂を揺らす風」
でも、そういう毎日から色々感じるのが面白いわけだし、学園ものとしては、食事シーンはもちろん、私なら1日で逃亡したくなるような娯楽室での歓談シーンなんかも興味ぶかい。
元教員で、周囲に教員が多い身としては、今回の「教育改革」は可笑しかった。
魔法省から派遣されたアンブリッジ(イメルダ・スタウントン)は、着任早々、校内の自室を超・自分色に染め上げる。魔法使いは引越し、どうやってするのかな?と思ったり。
一方、彼女にクビにされそうになったトレローニー先生(エマ・トンプソン)は、「14年やってきた、ここは私の家」というようなことを言う。そりゃあ彼女なら、いったん馴染んだところから引き離されるのは辛いだろう。
学校における先生の「部屋」や職員室の「机」は、公立私立問わず、民間の職場のそれとはちょっと違う。同僚とは違う対象(=子ども)の隣に築くものだからかもしれない。幼少時の休日には職員室で遊ばされてた私としては、たとえアンブリッジのあんな部屋であっても、心が安らぐ。
スネイプ先生(アラン・リックマン)は、若い頃からあんな髪型じゃあ、そりゃあちょっとどうかと思う。でも現在の彼は、登場人物の中で唯一「敵」か「味方」か分からず、スリルを与えてくれる。ハリーの父親がああいう人だというのも面白い。
ロンの兄2人がでかくなって、かっこよくなって、活躍してたのが楽しかった。双子ってロマンだ。
彼等をはじめ男の子の服の着こなしに漂う、英国映画ならではの趣も楽しい。私は男の子がマフラーしてるとこが好きなので、今回もちらちら見られて嬉しかった。
今回はハリーが「熟睡できない」シーンが多く、寝汗をかきながらのたうち廻るシーンでの首やら何やらのアップは、気持ちわるいエロスを感じてしまった。彼の汗って濃度が濃そうだ。
私は不眠症なので、ろくな睡眠も取らず、あんなに活動するハリーは大変だな〜と思った。まあ入眠できない身にしてみたら、夢見が悪くても、寝られるだけ羨ましいけど(笑)
(07/07/16・バルト9)
(「アキ・カウリスマキ」サイト内の感想はコチラ)
公開初日の7月7日、ユーロスペースにて。
劇場のカウンターには、作中出てくるカーネーションが一輪、飾ってありました。
パンフの横に、アキ映画のサントラ「Jukebox - Music in The Film Of Aki Kaurismaki」が置いてあった。日本で発売されてたの、知らなかった!早速買ってもらう。アキの顔がジャケというのが嬉しい(笑)46曲入りで、ジョー・ストラマーの「Burning Lights」や、「ラヴィ・ド・ボエーム」で前衛?音楽家のショナールが披露する新作などの貴重なナンバーがたくさん。
整理券を受け取り、近くのタリーズでひと休みしていたら、同行者に「すごく楽しそうなのが伝わってきて嬉しい」と言われた。そりゃあ「生涯数度の特別デート」の日、幸せは隠せない。
ヘルシンキにひとり暮らす夜警員・コイスティネンが、マフィアの策略により、その情婦に誘惑されて罪をなすりつけられ、刑務所に入れられ、散々な目に遭うが、最後に幸せへの切符に触れる物語。もちろん犬が出てくる。
最初から最後まで、「あ〜またこんな映画、作っちゃって!」と、身も心も気持ちよく揺り動かされっぱなしでした。
冒頭から「警備員だって人間だ」というおなじみのセリフ。後半「コイスティネンが刑務所で過ごす時の経過」を示すのは、「ラヴィ・ド・ボエーム」のダブルデート場面を彷彿とさせる、枯葉の舞う地面、小川のせせらぎ、そして咲き乱れる白い花…のカット。見慣れた、でも、余分なものが更に削ぎ落とされたようなその手際に、胸がつまるばかり。
登場人物、とりわけコイスティネンのヘビースモーカーぶりは、いつもに増して相当なもので(ということは本当に相当なものってこと)、アキの反ハリウッド精神を感じて、笑みがこぼれてしまった。
アキ映画で恋におちる男と女は、いつも「青と赤」だ。
コイスティネンの青い制服。
誘惑者ミルヤは、彼と逢う際、デニムの上着の下に赤い服を着込み、唇を同じ色に塗る。
コイスティネンを秘かに愛するソーセージ屋のアイラも、「うわっぱり」の中には赤い服。しかしその色は、ずいぶんくすんで慎ましやかだ。彼女は彼への思いを表さず、彼はまだ、彼女のことを恋する眼で見ていない。
ちらっと登場したカティ・オウティネン(スーパーのレジ係!)も、鮮やかな赤色の制服姿だったのが嬉しかった。
アキ映画に出てくる男は、いつもぶっきらぼうだ。
コイスティネンは、ミルヤを送った際、助手席のドアが閉められると、彼女の方を一瞥もせず車を発進させる。
しかし自宅にやってくるとなれば、ドアチャイムが鳴ると、一張羅のスーツの「上着」を着こんで出迎える。用意したパンだって、一人で食べるときのような固いやつじゃない、まるい、あったかいやつだ。
ちなみに食べ物に関しては、いつものアキ作品より、ちょっとだけ美味しそうだった。でも「焼きたてのパン」というのは…イチから焼いたわけじゃなくて、きっと、あっためただけだよね。
他のアキ映画の例にもれず、悲惨な目に遭う主人公以外も、皆、全然楽しそうじゃない。
(もっとも私は、ああいう世界に暮らしてみたいと思ってしまうんだけど・笑)
冒頭、コイスティネンを仲間はずれにして飲みに出かけた同僚達は、酒場でカウンターに向かってずらり、三人そろって黙々とジョッキをかたむける。マフィアのボスが暮らす部屋は、壁一面の窓からヘルシンキの町を望めるが、その眺めは、いかんせん寒々しい。お金があるなら別の国にでも引っ越せばいいのに、とも思わされるが、ミルヤの言うように「どこだって同じ」なのかもしれない、彼等にとっては。
コイスティネンを演じたヤンネ・フーティアイネンは、性的に好きなタイプの顔だ(ワンコ系。同行者は貼ってあったポスターのマストロヤンニに似ていると言っていた)。自分にとってアキ映画は、そういう性的な面倒から解放された快楽を提供してくれる意義もあるから、観ていてどうも、落ち着かない気がしないでもなかった。
眉間にシワが掘り込まれているかのようなコイスティネンだが、作中ただ一度だけ笑顔を見せる。刑務所内で仲間と語らっているとき。このときの彼の顔は、役者の、というより素の表情に見えて、ふしぎなカンジがした。
最後のシーンには、いつ爪、切ったんだろう?と思ったり。
(ミルヤとボス、車中での会話)
「なんでこんなこと、私にやらせるの?」
「イヤなら自分で働け」
↑コレ、可笑しかった…
(07/07/07・ユーロスペース)
三つ葉(国分太一)は二つ目の落語家。師匠の今昔亭小三文(伊東四郎)について日々練習しているが、いまいちぱっとしない。そんな彼が、ひょんなことから自宅で「話し方教室」を開くことになる。
都電荒川線。ほおずき市。新宿末広亭。隅田川の水上バス。単純に、ここ知ってる〜というのが面白かった。
とはいえ下町ですよ〜という気張りはなく、話の内容同様、いずれの扱いもさらっとしており観やすい。江戸気質の雰囲気を出してた八千草薫が良かった。
浅草のほおずき市は、たぶん去年の撮影だろうから、私が居たとこだ。映ってないか思わず画面きょろきょろしてしまった。ほおずき、思い切り枯らしてしまったけど、十河さんは見事な花を咲かせてたから羨ましかった。(でも私はあのおみくじ、大吉一番を引いたんだ)
映画の中では、登場人物それぞれの「顔」を見るのが面白かった。
最後の「火焔太鼓」を終えた国分太一の顔は、やった〜出来た〜という素の表情に感じられた。可笑しかったのは、小学生の「まんじゅう」を袖で聞いてる(太一くんより下っ端の)弟子が、ほんとに感心したような顔付きだったこと。
太一くんは、祖母の八千草薫ともども、家でもいつも着物に足袋姿である。あれはクリーニングに出してるんだろうか?
彼の寝床が、畳にパイプベッドというのはいかにもで良かった。
(07/07/01・新宿武蔵野館)