| 大いなる後継者 |
| ミホシンザン |
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皐月賞 菊花賞 天皇賞・春 スプリングS 京都新聞杯 アメリカJCC 日経賞 16戦9勝 競走成績 |
シンザンの最高傑作
クラシック3冠に加え、天皇賞・有馬記念を制覇し、「五冠馬」の称号を送られた戦後最高のサラブレッド・シンザン。「ミホ」の冠名で知られる堤氏は、シンザンの有馬記念を見て以来、いつかシンザンの仔を自分で走らせてみたいと願うようになり、昭和47年頃から毎年のようにシンザンの仔を購入して走らせていた。しかしそれまで6頭購入したシンザンの仔はどれも期待ほどは走らず、すべて未勝利で終わっていた。そしてオーナーにとって7頭目となるシンザンの仔。「これが走らなかったらシンザンの仔はこれで最後にしよう。」そんな思いを込めて、堤氏は長年暖めていた名前をその仔馬につけた。「ミホシンザン」という名である。
2歳の頃から大物感が漂っていたミホシンザンは4歳の1月にデビューし、新馬戦を逃げきりで圧勝した。続く水仙賞も後方から追い込んで勝利。一躍クラシックの有力候補として皐月賞トライアルのスプリングSに挑んだ。しかしここで一つ問題が持ち上がった。ミホシンザンの手綱を取ってきた柴田政人騎手は同じくスプリングSに駒を進めてきた3歳チャンピオン・スクラムダイナの主戦騎手だったのである。現時点での完成度ではスクラムダイナの方が上。柴田騎手がどちらを選ぶのか注目が集まったが、柴田騎手はミホシンザンを選んだ。堤オーナーとは師匠の故高松三太師についていた頃からのつきあいだったし、またスクラムダイナの矢野調教師から「うちのは岡部君に乗ってもらうから」と言ってもらえたからであった。
果たしてミホシンザンは豪快な追い込みでスプリングSを圧勝。一躍皐月賞に駒を進めた。
皐月賞はまさにミホシンザンの独壇場となった。3コーナーあたりから早めの進出をしたミホシンザンは直線に入るや否や後続をどんどん突き放していく。2着にようやくスクラムダイナが追い込んできたもののゴールに入ったときにはすでに5馬身もの差がついていた。じつはずっと足元にソエを抱えていたミホシンザンだったが、そんな状態でのこの強さなのだから、ダービーは間違いなく勝てると陣営の誰もが思った。柴田政人も自身のダービー制覇へ確信に近い手応えを掴んでいた。マスコミもミスターシービー・シンボリルドルフに続いて3年連続で三冠馬誕生かともかき立てた。三冠を達成すれば空前絶後の親子三冠達成となる。期待はいやが上にも高まった。
しかし皐月賞の3日後すべての期待は水の泡と消えた。
左前足骨折。全治三ヶ月。ダービーも三冠も夢と消えた。結局日本ダービーはシリウスシンボリが制し、シリウスシンボリはそのまま欧州へ旅立っていった。菊花賞は当然の勝利
主役不在になった秋に、ミホシンザンが帰ってきた。セントライト記念に皐月賞以来でミホシンザンが出走してきたのだ。当然単勝1.3倍の1番人気。しかし調整途上で18キロ増に加え雨で不良馬場。ミホシンザンは重馬場を極端に苦手にしていた。
結果見せ場なく5着と完敗してしまった。陣営は建て直しをはかるため予定を変えて京都新聞杯に出走を決めた。ここは当然のように快勝し、再びミホシンザンが菊花賞戦線でも主役に躍り出た。かつてシンザンの調教師だった武田文吾氏も病床から駆けつけ、「シンザンはナタの斬れ味だったが、おまえはカミソリの斬れ味だ。オヤジより強いんじゃないか」とミホシンザンの強さをたたえ、関係者とともにミホシンザンの口取り写真に加わっていた。
菊花賞当日。午前中は雨。重馬場下手のミホシンザンには不利な条件に思われた。しかし午後になると強い風が吹き、日も射してきて急速に馬場が良化し、本番を迎えることができた。ミホシンザンは単枠指定。体調もデビュー以来最高の出来で、負ける要素は見つからなかった。長距離向きのスダホークやサクラユタカオー・サクラサニーオーなどの成長力も注目されていたが、レースでは全く不安のない内容で2着のスダホークに1馬身1/4の差を付けて完勝。約束された2冠を達成した。口取りには武田文吾氏、それに京都新聞杯の時には加わらなかった田中朋次郎調教師も加わっていた。
4歳最後の有馬記念では皇帝シンボリルドルフとの一騎打ちとなった。世界に向けて国内最終戦になるであろうルドルフに若武者ミホシンザンがどこまで食い下がれるかに注目が集まったが、さすがにシンボリルドルフは強く、ミホシンザンは離された2着で終わった。まあ史上最強馬を相手に健闘といえるが、この完敗がもしかしたらミホシンザンに深い傷を残したのかもしれない。完全燃焼・天皇賞
5歳を迎え、当然主役として活躍するはずだったミホシンザンだったが、おもわぬ不振に見舞われる。重馬場の日経賞を6着と惨敗したミホシンザンは皐月賞時と同じ左前足を骨折、秋には復帰したものの、毎日王冠・天皇賞・ジャパンC・有馬記念を4連続3着と泣きたくなるような成績で終えてしまう。骨折休養明けやサクラユタカオーの目を見張るような充実・不得意の馬場など、いろいろ理由はあるものの、かつてのミホシンザンに比べるとゴール直前で勝ちをあきらめてしまうようなもどかしいレースっぷりであった。
しかし陣営の必死の努力の甲斐あって6歳初戦AJCCでミホシンザンは復活した。デビュー以来初めて逃げる競馬をしたミホシンザンと柴田政人は、ゴールまで気を抜かせないレースをさせて1年2ヶ月ぶりの勝利を手に入れた。そして続く日経賞も圧勝し、天皇賞へ駒を進めた。
しかし天皇賞を前にしてミホシンザンの調子が下降線をたどっていた。腰に疲れがたまってしまったミホシンザンはデビュー以来最悪といえる調子。しかし関係者は必死にミホシンザンの不調を隠し、鞍上の柴田政人にも「状態はいいから」といってミホシンザンを天皇賞へ送り出した。
コースに入ったときからどこかおかしいと感じていた柴田政人騎手だったが、2週目の第4コーナーを回ったとき、それは確信に代わった。ミホシンザンには明らかに手応えがなくなっていたのだ。「このまま外をいったら、間違いなく負ける」そう確信した柴田は、迷うことなくミホシンザンを内に切れ込ませ、内ラチ沿いを頼るように進ませることにした。内ラチ沿いを必死にムチを入れられながら粘るミホシンザン。それに大外からニシノライデンが迫る。内外離れてハナ面を並べたところがゴールだった。結果ハナだけミホシンザンがニシノライデン(結果はアサヒエンペラーの進路妨害で失格だが)を押さえて勝利を手に入れた。
レースが終わって引き返してくるミホシンザンにもう余力は残されていなかった。歩くのすらままならぬ状態。柴田も「ああ、これで引退だなあ」と感じていた。ヘトヘトのミホシンザンを囲んだ口取り式には、AJCC・日経賞と勝ちながら「天皇賞を勝つまで、ワシは一緒に写真は撮らん」と口取りに加わらなかった田中調教師が並び、「こんな馬には、もう決して巡りあえんだろう」と一言本音を漏らした。ただ一人、口取りに加われなかった人がいた。シンザンを育てた武田文吾氏は前年の12月3日に79歳で他界してしまっていた。シンザンを育てた名調教師はそのシンザンの最高傑作の出現を見届けてこの世を去った。
天皇賞を最後に引退したミホシンザンは暮れの12月、中山競馬場で引退式を迎えた。大雪の中、最後の走りを多くのファンに披露したミホシンザンは、シンザンの後継者として種牡馬入りした。
ちょうどシンザンの種牡馬引退と入れ替わるようにして種牡馬となったミホシンザンだったが、送り出した大物のはマイシンザンただ一頭のみ。そして今年でミホシンザンも種牡馬を引退したようで、シンザンの後継者は事実上マイシンザンただ一頭となってしまった。シンザンの直系が残るにはきわめて厳しい状況である。細々とでもかまわないからなんとかシンザンのメールラインをつなげていってほしい。
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