| 明治競馬のヒロイン |
| 第二メルボルン |
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帝室御賞典(根岸) 横浜ダービー2回 35戦29勝 競走成績 |
明治競馬ブームのスーパーヒロイン
以前コイワヰを特集したときに、「日本最初の名馬」と紹介しておきながら、今回はそのコイワヰよりも古い馬を紹介させていただくことになった。というのも、明治時代の競馬というのは現在で言う中央競馬のように統合された状態ではなく、各地でバラバラの行われていたこともあって、その時代の中心にいた馬が今ひとつはっきりしないのだ。後の人間から見ればどうやらコイワヰが日本最初の名馬ということになるようだが、コイワヰほどではなくても、少なくともその時代のスターホースたる存在はいた。
で、今回の第二メルボルンだが、先日出版された「浮世絵・明治の競馬」(小学館)によると、明治40年に出された「馬鑑」という競走馬の番付表に東の横綱として格付けされている(西はヒタチ(常陸)という馬)そうだ。当時の時代背景は、政府によって馬券の発売が黙許され、全国に競馬場が乱立して人々が馬券の面白さに夢中になった我が国初の競馬ブームというべき時代であった。結局たった2年後に馬券禁止令が出て競馬暗黒時代に突入するのだが、昭和の競馬ブームの中心にハイセイコー、平成の競馬ブームの中心にオグリキャップがいたように、明治時代の競馬ブームの中心的存在として第二メルボルンがいたようだ。33頭全馬回避で単走
第ニメルボルンの血統はわかっていない。明治39年に輸入されたときに血統書を紛失してしまったのだ。サラ系と呼ばれるサラブレッドのほとんどの祖となっている馬にミラという名牝がいるが、彼女もまたオーストラリアから輸入された時に血統書を失ってしまった一頭である。というより、特に細かい決まりなどない当時、ただ走ってくれれば血統などどうでも良かったのだろう。ともかく、当時はオーストラリアから数多くのサラブレッドが輸入され、レースでも濠州産馬のレースが組まれるなど、無くてはならない存在となっていた。その中で、ひときわ輝く成績を残したのが第二メルボルンだった。
第二メルボルンは明治39年に輸入され、その秋の横浜競馬から使われ始めた。最初はコットン氏の仮名を用いていた佐久間福太郎氏の馬としてイスズという名で登場した。最初の横浜競馬で全勝を納めたイスズは、その勢いでこの年から始まった東京競馬クラブの池上競馬場に転戦した。ところが、イスズのとてつもない強さを聞いて当初登録していた馬が次々に回避、結局33頭いた登録馬がイスズを除いて全て回避してしまったのである。結果池上競馬場での第1戦はなんと単走(ウォークオバー)になってしまった。この後一勝して6戦全勝とした後、イスズはコットン氏からアレキサンダー氏(平沼氏か?)へトレードされ、名前も第二メルボルンと改名された。
第二メルボルンと改名されたイスズは根岸競馬場で帝室御賞典を制するとその後もレコードで連勝を続け、明治40年秋の横浜ダービーはまたしても単走のレースとなってしまった。当時の雑誌や新聞によると、単走の模様について、「騎手神馬悠然として馬上に打ちまたがり、まずはこの馬の走りっぷりをご覧なせえ、とばかり馬場を一周する。観客はただもうやんやの喝采をおくるのみ」と報じている。まるで現在の引退式のようである。
その後、第二メルボルンはレデーヴォーユーに2敗を喫し、ペガサスという馬にも敗れてしまう。この馬は、横浜のサミエル商会支配人デビスが、この第二メルボルンを破るためにわざわざ個人で濠州から輸入した馬であった。このあたりからやや負け数が増えてくる第二メルボルンだが、年齢にするとすでに7歳、また記録にはないがおそらく斤量もかなり背負わされていたのだろう。結局明治44年頃までは競走馬を続けたらしいが、昭和42年11月暮れの出走を最後に第二メルボルンの出走記録は残っていない。忘れ去られた記憶
第二メルボルンは現役時に10のレコードタイムをうち立て、デビュー時からの連勝は残っている記録が全てだとしたら22連勝となる。これは、現在の中央競馬の記録シユンエイの20連勝を上回る。もっとも、馬資源の少なかった当時のことであり、レコードタイムも斤量が異なればレコードと記録されたらしいのでどこまで価値のあるものか推しがたい部分はあるが、それでもとてつもない記録であろう。
しかし現在第二メルボルンの名を知るものはほとんどいない。馬券禁止時代に競馬は民衆とほとんど断絶したような状態となったため、人々の中の名馬の記憶自体も断絶してしまったのだろう。
第二メルボルンは引退後北海道荻伏の大塚助吉牧場で繁殖馬となり、オーニギシ(父イボア)という牝馬を生んだが、他特にめぼしい馬を生むことはなく、大正7年にこの世を去った。現在その血統を継ぐ馬はいない。
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