| 日の丸一番槍 |
| カツラギエース |
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宝塚記念 ジャパンカップ NHK杯 京都新聞杯 サンケイ大阪杯 毎日王冠 京阪杯 22戦10勝 競走成績 |
日本馬初のジャパンカップ勝利
昭和59年ジャパンカップ。過去3回のジャパンカップでは日本馬は外国馬にことごとく敗北。第1回の時は外国のG2しか勝ったことのない牝馬にホウヨウボーイをはじめとした日本のエースが完膚無きまで叩きのめされて、もう10年は日本馬がJCを勝つことはないだろう、そういわれる始末だった。しかし第3回JCでは日本馬キョウエイプロミスが自身の競争生命を犠牲にしながらの大激走でなんとか2着に食い込み、わずかながら日本馬勝利に光をもたらした。
そして迎えた第4回。日本馬は空前の豪華メンバーで外国馬を迎え撃つこととなった。ミスターシービーとシンボリルドルフ。2頭の三冠馬が参戦してきたのである。ミスターシービーは前走天皇賞を制し4冠を達成。片やシンボリルドルフは無敗で3冠を達成し、負け知らずでJCに挑んできた。この2頭の内どちらかが日本馬初勝利をもたらしてくれるだろうと多くの人が期待した。そして実際、日本馬が初めてジャパンカップを制することとなった。しかし、それはミスターシービーでも、シンボリルドルフでもない、14頭中10番人気に過ぎなかったカツラギエースだった。トライアルホース
カツラギエースは昭和55年4月24日片山牧場で生まれた。父ボイズィーボーイはイギリスとフランスで走り、28戦9勝という成績を収めた後オーストラリアで種牡馬入りし、日本に輸入されたが、産駒デビューを待つことなくたった2年で死亡してしまっていた。そして母タニノベンチャはきょうそうせいせき3戦1勝で、これまでの4世代の仔は大して走っていなかった。大した仔を出さなかったこの繁殖牝馬は後のカツラギエースを腹の中に宿したまま売りに出され、たまたま繁殖牝馬を探していた片山牧場が手に入れて生まれたのがカツラギエースであった。つまり付録としてくっついてきた馬だったのである。そして2歳になってセリに出されたカツラギエースに付けられた値はたった710万円。当時としてもかなり安い値である。つまりカツラギエースも他の多くの名馬にそういう例があるように、生まれたときには評価はきわめて低かった。
カツラギエースの素質の片鱗がようやく人の目に触れることになったのは3歳の新馬戦である。調教でもアラブにすら後れをとるなどさっぱり走らなかったカツラギエースに与えられた評価は14頭中6番人気。しかしカツラギの評価が低かったのもここまでであった。カツラギエースは周囲をあざ笑うかのように2着に8馬身差を付ける圧勝を飾る。一躍クラシックの注目候補となり、3歳を4戦2勝・2着1回・3着1回の上々の滑り出しで終えることができた。
4歳になり、クラシックを目指して皐月賞に参戦したカツラギエースだったが、時代が悪かった。同期にのちの三冠馬ミスターシービーがいたのである。皐月賞は11着と惨敗、シービー不在のNHK杯を勝つことはできたものの、日本ダービーでもミスターシービーの6着と全く歯が立たなかった。わずかながらシービーに一矢報いることができたのが京都新聞杯。夏に調子を崩して本調子にないミスターシービーを突き放す快勝を見せたものの菊花賞では距離不足のたたって勝負にすら参加することができなかった。トライアルでは強い勝ち方をするが、本番では不要のトライアルホース、というのがカツラギエースに対する周囲の評価だった。充実の5歳
しかし5歳になるとカツラギエースは本格化した。同期のミスターシービーは戦線を離脱していたが、大阪杯、京阪杯を連覇すると、勢いに乗って宝塚記念すらも1番人気で快勝する。まさに充実の春であった。
その充実の波に乗るように陣営はこの年より2000mに短縮された秋の天皇賞を目標に毎日王冠に出走した。このレースには三冠馬ミスターシービーが菊花賞以来で出走してきていたが、充実のカツラギエースは猛然と追い込むミスターシービーを壮絶な叩き合いの末下した。最大の敵を前哨戦で下すことができたカツラギエースは必勝を期して天皇賞・秋に出走した。
しかし運命はまたしてもミスターシービーに味方した。スタート直後の馬群の中で折り合いを欠いてしまったカツラギエースはミスターシービーの5着に敗れ去ってしまったのである。またしてもトライアルホースの座に甘んじてしまった。無欲の勝利
最大目標の天皇賞を落としてしまったカツラギエース陣営にJC出走の推薦が来た。距離は2400m。海外の強豪やシービー・ルドルフの2頭の三冠馬がいる。とてもではないが勝ち目はなかった。しかしせっかく推薦で選ばれたのだからと、陣営は出走を決意する。カツラギエースに跨る西浦勝一も全く勝算については考えていなかった。レース前に考えたことは「一番けつにならんようにしよう」ということ、そして「三冠馬2頭のどっちかは負かしたい」ということだけであった。
初めて白いメンコをつけたカツラギエースはゲートが開くと迷うことなくハナに立ち、自分のペースで淡々と逃げる。騎手の西浦もカツラギエースの逃げを一切じゃますることなくぴくりとも動かない。後続の各馬はカツラギエースの逃げならいつでも捕まえられ牽制しあっているのでカツラギエースとの差は次第に広がっていく。直線に入っても十分なリードを取っていたカツラギエースにようやく後続馬が襲いかかってくると満を持して西浦はカツラギエースにムチを入れ必死になって追った。後ろから皇帝ルドルフと外国馬が一気に迫って来たが、ついにゴールまでカツラギエースを捕らえることはできなかった。日本馬初のJC制覇。にも関わらず東京競馬場の大観衆は静まり返っていた。勝ったのはミスターシービーでもシンボリルドルフでもなく、カツラギエースだったのだ。それまで脇役としてひたすらミスターシービーの陰に隠され続けてきた馬が、一挙に歴史に名を残す名馬へと成長したのだった。
JC制覇の後もカツラギエースの勝利をフロック視する声も多かったが、暮れの有馬記念でシンボリルドルフの2着に粘り込んだことでカツラギエースの実力は本物であるとようやく認識されるようになった。しかしカツラギエースはこの有馬記念を最後に引退する。逃げ戦法を確立した今ならもうすこし走ってもいい成績を残せたかもと考えることもできるが、シンボリルドルフ全盛の時代の中ではあるいはあの時期の引退でよかったのかもしれない。
カツラギエースは種牡馬としてはむしろ地方競馬に活躍馬を多く排出している。さすがに中央でカツラギエース産駒を見ることは少なくなってきたが、地方競馬ではまだまだ元気である。日本馬初の快挙を成し遂げた名馬の血はまだまだ健在である。
(追記)カツラギエースは平成12年7月3日、病気療養先の北海道三石・中橋牧場で心臓発作のため死亡した。今年も14頭に種付けするなど種牡馬として健在であった。(12.7.6)
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