| 戦禍の彼方に |
| カイソウ |
![]() |
東京優駿(日本ダービー) 13戦8勝 競走成績 |
太平洋戦争の暗い影
昭和7年に目黒競馬場で始まって以来、現在まで毎年開催されている日本ダービーだが、一度も途切れることなく続けられてきたわけではない。昭和20年と21年は太平洋戦争の影響により競馬そのものが開催されておらず、当然日本ダービーも行われていない。しかし昭和19年には戦争のまっただ中で状況が悪化する中、能力検定競走という名の下に競馬は続けられていた。その能力検定競走のダービーを勝ったのがカイソウである。その翌年、翌々年にダービーすら行われなかった事を思えばダービーが開催されていた事すらカイソウにとっては幸運なことだったかもしれないが、カイソウもまた、その時代の全ての人々がそうであったように、戦争の暗い影にその運命を塗りつぶされていった。能力検定競走のダービーを圧勝
太平洋戦争激化に伴い、昭和19年ついに競馬が取りやめとなり、東京と京都の2場で春秋2回だけ関係者及び軍のものだけで能力検定競走が行われた。そもそも競馬が軍馬改良の名の下に始められたことを思えば、軍馬自体の意味が薄れていたこの当時でもあっさりと競馬そのものを切り捨てるわけにはいかなかったのだろう。
カイソウは関西京都の春期能力検定競走で4月デビュー。連戦を重ねて8戦5勝の成績を収めて東上してきた。そしてダービー前の6月11日、ダービーと同じ東京2400を2分34秒44のレコードで関東の評判馬クリアヅマに快勝し、ダービー当日もその評価は高まっていた。カイソウの他有力視されていたのはクリアズマと同オーナー(栗林友二氏=クリフジのオーナー)の皐月賞馬クリヒカリ、そして2000mでレコード勝ちしているシゲハヤなどであった。もっとも、これらの馬でどの馬の評価が一番高かったかは馬券発売がなかったためはっきりわからないが。
6月18日ダービー当日。東京競馬場にファンの姿はなく、ゲートル巻き、鉄兜をかぶった関係者約200人が見守る中でのレースとなった。前日の豪雨で馬場は稍重。3-4コーナーの中間で2番手にあがったカイソウが残り半マイルの地点から早めに先頭に立ち、執拗に追うクリヤマト・クリアヅマ・シゲハヤらを寄せ付けず、直線の坂でさらに脚を伸ばしてシゲハヤに5馬身の差を付けて優勝した。同期の中では能力の高さは歴然だった。菊花賞全馬失格で不成立
秋になると東京競馬場も軍に提供され、能力検定競走が軍によって買い上げられたサラとアラブの4歳馬200頭あまりのみによって行われるのみとなった。カイソウはまず初日12月1日のレースに出走し、65キロのトップハンデを背負いながら2着に8馬身さの圧勝を飾った。そして翌週12月8日、農林省賞典(菊花賞)に出走、最終の3コーナーあたりでスパートしたカイソウはぐんぐん差を広げ、見事1着でゴールした。
しかしカイソウの勝ちタイムが3000mとしてはあまりにも遅い。実は全馬が100m長い3100mを走ってしまったのであった。菊花賞はそれまで1周目内回り、2周目外回りで行われていたが、この回はスタート地点を変えて2周とも内回りで行われるはずだった。ところが2周目にさしかかったときカイソウの前の2頭の馬が間違って従来のように外回りのコースに入っていってしまったため、おかしいと思いながらもカイソウの吉田騎手を含む全馬がそれについて行ってしまったのである。結果全馬失格・競走は不成立となってしまった。ダービー・菊花賞の2冠を制したはずだったカイソウは、まさに「幻の菊花賞馬」となってしまったのである。種牡馬失格、軍馬として戦地へ
菊花賞の失格はカイソウにとって運命の分かれ道となった。完全に調子を狂わされたカイソウは次走全馬65キロの重負担特殊競走で8頭立ての6着。そして生涯最終レースとなる種牡馬選定競走に挑み、15頭立て12着。ただち審査が行われ、惨敗し、血統もトロッターの血が混じっているサラ系のカイソウは種牡馬失格となってしまった。ダービーを圧勝し、菊花賞も圧勝したはずだった馬がただの一軍馬として徴用されていってしまった。
軍馬に徴用されたあとのカイソウの行方は不明だが、名古屋師団に連れて行かれて師団長の乗馬になった説が有力とされている。その半年後400機のB-29による名古屋を襲った大空襲に巻き込まれ、幻の菊花賞馬は戦火の中に消えた。
|