| 雄輝壮大 |
| ホウヨウボーイ |
![]() |
有馬記念 天皇賞・秋 日経賞 アメリカJCC 19戦11勝 競走成績 |
不死鳥
重度の故障をして長い期間を棒に振ってしまった馬に対して、競馬の世界は非常に厳しい。クラシックは4歳馬にしか存在しないし、5歳になれば未勝利戦すらなくなってしまう。さらに各調教師に与えられる馬房の数も決まっており、走ることができない高齢馬に分け与える馬房など存在しない。だから重度の故障をして復帰のめどが立たなくなった馬は抹消されてしまうのがほとんどである。しかしホウヨウボーイは、1年半にも及ぶ長い休養生活から見事カムバックして有馬記念・天皇賞に勝ち、2年連続の年度代表馬に輝いた。タイキブリザードが安田記念を勝ったとき、勝因を聞かれて岡部騎手は「今まで生き残ってきたからでしょう」と答えたが、このホウヨウボーイも生き残ってさえいれば必ずチャンスが巡ってくるという好例であろう。
再起不能から年度代表馬へ
ホウヨウボーイは昭和50年4月15日、門別の豊洋牧場で生まれた。父は豊洋牧場が輸入したファーストファミリー、母も牧場がかつて輸入したレアリーリーガル産駒のホウヨウクインである。豊洋牧場の血が凝縮されたホウヨウボーイは、生まれたときから牧場の期待を一身に担うようなすばらしい馬だった。一度は1000万円で買い手がついたが、3歳の4月になってその買い手が突然「半値なら買う」と値切ってきた。そこでこの売却話は破談となり、牧場の服色で走ることとなった。いままでいい馬は皆売りに出して売れ残りだけを自分の服色で走らせてきた牧場長の古川嘉平氏だったが、今度は牧場のナンバー1ホースを自分の馬として走らせられると素直に喜んだ。
名門二本柳厩舎に入厩したホウヨウボーイは、3歳の12月に中山の新馬戦でデビューした。評判通りの圧勝。当然のようにクラシック候補の一頭にあげられた。オーナーの古川嘉平氏は体調芳しくなく病院に入院していたが、この知らせを聞いて素直に喜んだ。
しかしまもなく不幸がやってきた。ホウヨウボーイが骨折してしまったのである。全治6ヶ月でクラシックは一気に絶望。焦らず千葉の牧場で再起をはかっていたが、脚が治りかけた頃に今度は反対側の脚を骨折。再起はほとんど絶望に近くなった。そしてオーナーの古川嘉平氏もホウヨウボーイの挫折に併せるかのように亡くなってしまったのである。
豊洋牧場でも再起はあきらめようとした。しかし二本柳調教師は亡き古川嘉平氏のためにもと必死に再起を目指して調整をつづけ、ついに5歳の8月に最下級条件からホウヨウボーイを復帰させることに成功した。
復帰したホウヨウボーイは強かった。復帰戦を勝利で飾ると5歳時は5戦4勝2着1回と確実に勝利を重ねていき、6歳の3月には初挑戦の日経賞であっさり重賞初勝利を手に入れた。日経賞の後休養に入り、秋の天皇賞を最大目標として夏の函館から始動した。そして秋の天皇賞。大レース挑戦は初めてのホウヨウボーイだったが、2番人気に支持された。
しかしレースは思いがけない形で終わってしまった。相手はカツラノハイセイコと決めてかかったホウヨウボーイと、同じくホウヨウボーイだけが敵と考えていたカツラノハイセイコが後方で激しく牽制しあい、牝馬のプリティキャストの大逃げを捕らえに行くタイミングを失してしまい、楽勝を許してしまったのである。しかもいいところなしの7着に惨敗してしまった。加藤騎手の騎乗にも批判が集まったが、加藤騎手をはじめとする陣営は有馬記念に雪辱を期した。
有馬記念では前走の惨敗が響いて4番人気。しかしレースはホウヨウボーイの強さを十分に示すものとなった。直線抜け出したホウヨウボーイにカツラノハイセイコが外から猛然と迫ってきたが、ハナ差まで追いつめたところがゴールであった。きわどい勝利ではあったが、この勝利によってホウヨウボーイはこの年の年度代表馬に輝いた。天皇賞史上に残るマッチレース
有馬記念を制したホウヨウボーイにとっての最大目標は天皇賞。その機会は秋に訪れた。この天皇賞・秋は無冠のプリンス・モンテプリンスとの激しいマッチレースになった。ゴール前200mで抜け出したホウヨウボーイとモンテプリンスが全く馬体を合わせて12秒間にも及ぶ叩き合い。モンテプリンスがわずかに出てホウヨウボーイに勝ったと思ったところでホウヨウボーイが差し返し、ハナ面をあわせてゴール。写真判定の結果、ハナ差だけホウヨウボーイが前に出ていた。いつも勝つときはハナ差。類い希な勝負根性を武器にホウヨウボーイは二つ目のタイトルを手に入れた。
第1回JCを使われた後、有馬記念はまさにホウヨウボーイの花道を飾る引退レースとして用意されたが、同僚で年下のアンバーシャダイに足下をすくわれた形で2着。最後を勝利で飾ることはできなかったが、ホウヨウボーイは2年連続で年度代表馬に選ばれ、それを手土産に種牡馬生活へと移っていった。急逝
ホウヨウボーイは現役時から極度のフェミニストであることが知られていた。同じレースに牝馬が出走しているとパドックから「馬っけ」を出し、極度の興奮に達してしまい、レースに集中できない。事実ホウヨウボーイの負けたレースの内7戦は牝馬に負けたものであった。若いときはパドックで水を浴びせて興奮を冷ますといった光景も見られていた。そんなホウヨウボーイだから種牡馬としても必ずその務めを果たしてくれるだろうと初年度から60頭もの花嫁に恵まれた。馬産地での評判は上々で、種牡馬としての前途は明るかった。
しかしホウヨウボーイはその初年度の仔を最後にこの世を去ってしまう。引退からわずか半年、48頭の種付けを済ませたその日、持病の腹痛に倒れたホウヨウボーイはそのまま二度と立ち上がることはできなかった。昭和57年5月30日。その日は自らが骨折で走ることができなかった日本ダービー当日のことであった。一度は死んだも同然の境遇から不死鳥のように復活したホウヨウボーイ。命を一度拾っているホウヨウボーイに、さらにもう一つの馬生を望むのは贅沢だったのだろうか。
ホウヨウボーイ 牡 栗毛 昭和50年4月15日〜昭和57年5月30日
|