| 世界に向けての大きな一歩 |
| フジヤマケンザン |
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香港国際カップ(国際GU) 中山記念 金鯱賞 七夕賞 中日新聞杯 38戦12勝 (うち地方交流1戦0勝 海外3戦1勝) 競走成績 |
日本馬初の海外Gレース優勝
平成10年8月9日、仏モーリス・ド・ギース賞でシーキングザパールがついに日本競馬関係者の悲願であった海外G1制覇を成し遂げた。そして翌週8月16日にはタイキシャトルもジャック・ル・マロワ賞を勝ち、これまでの日本馬の成績からはまるで夢のような2週連続海外G1制覇を達成した。
これまで日本馬にとって海外の壁とは計り知れないほど大きく、そして厚い壁であった。ハクチカラに始まった海外遠征の歴史はハクチカラが軽ハンデを生かして歴史的1勝を上げたものの続くスピードシンボリ、タケシバオー、メジロムサシ、シリウスシンボリなど日本のトップホースが全く歯が立たずに敗れ、ついには日本史上最強馬のシンボリルドルフさえも惨敗を喫してしまい、その先すら見えない厚い壁に絶望を感じたか、一時海外遠征は全く行われなくなってしまった。
しかし平成7年くらいより少し流れが変化する。、関東の藤澤調教師と関西の森秀行というの二人の前衛調教師を中心として再び海外遠征が行われるようになった。彼らが他の調教師と異なっていたのは、勝負になるならないは二の次にしてどんどん海外に出ていったことである。特に関西の森調教師は無謀とも思えるほどの挑戦を何度も何度も繰り返した。スキーキャプテンはアメリカ最高峰レースケンタッキーダービーに出走して惨敗、また香港競馬にはことさら関心を示しフジヤマケンザンなど自厩舎のオープン馬を次々と送り込んだ。そこでも思うような結果は得られなかったが、厩舎スタッフの経験は確実に積まれていった。そしてフジヤマケンザンにとっても3度目の挑戦となる平成7年12月10日の香港国際カップでついにその時は訪れた。
この日単勝38.65倍の9番人気と全く人気のなかったフジヤマケンザンだったが、4番手で流れに乗ったまま第4コーナーを回ると、先に抜け出したヴェンティクアトロフォグリをその巨体を揺るがしながら徐々に追いつめ、ゴール前ではついに先頭に立ち、そのままゴールに飛び込んだ。蛯名騎手は派手なガッツポーズとともに喜びのあまりステッキを落としてしまい、久保調教助手はスタンドの石垣を飛び越え「やったぁーっ!!」と絶叫しながらコースを疾走してしまった。日本馬・日本の騎手・日本の調教スタッフによる史上初の海外重賞制覇。フジヤマケンザンは香港のレースでは「冨士山」という名前で走っていたが、日本を代表する山「冨士山」の名を持つ馬が気が遠くなるほど厚かった海外への壁に小さな、しかしとても大きな穴をあけたのだった。テンポイントゆかりの血
フジヤマケンザンが生まれたのは北海道早来の吉田牧場。かのテンポイントの故郷である。父ラッキーキャストは不出走ながら母に名ステイヤーのタイプキャスト・姉に天皇賞を逃げ切ったプリティキャストを持つ良血のためなんとか種牡馬入りできた馬。そして母ワカスズランは祖母にテンポイントの母で桜花賞馬ワカクモを持ち、テンポイントの父コントライトを父とする吉田牧場自慢の血統。こんな2頭のコテコテの吉田牧場血統の馬の間に生まれたフジヤマケンザンは、4歳初めにデビューすると2戦目で勝ち上がり、嵐山Sで2着して菊花賞の有力候補に数えられた。この年はトウカイテイオーが二冠を制した後骨折で休養にはいって中心不在・混戦の菊花賞と見られていたが、この菊花賞でフジヤマケンザンは僅差の3着と好走する。この勝利でステイヤーとしての高い評価を得たフジヤマケンザンはジャパンカップ・有馬記念と挑戦するが惨敗。5歳になって長距離のダイヤモンドSで1番人気に支持されたがここも惨敗してしまった。血統的にはどうみてもステイヤーなのだが本質はどうもそうではなさそうなフジヤマケンザンがその中距離特性を見せつけたのが次の中日新聞杯、そして休養を挟んだ ディセンバーSだった。この2レースで勝利をつかんだフジヤマケンザンはこの後名中距離馬として戦い続けていく。充実の8歳時
6歳時1勝もできなかったフジヤマケンザンだったが、7歳時には地方の1800mオープンを連勝、そしてAJCC、中山記念、毎日王冠で2着に食い込むなどの活躍を見せた。また、この年の暮れには1回目の香港遠征をして4着と好走している。そして普通の馬ならばとっくにピークを超えていてもおかしくない8歳時にフジヤマケンザンはまさにその充実期を迎えた。中山記念ではこの年後に天皇賞・秋を制するサクラチトセオーを抑えて優勝、2回目の香港遠征と宝塚記念は惨敗したものの七夕賞では58.5キロを背負って圧勝。休養開け2戦目の富士Sでタイキブリザードに楽勝し、香港への試走を終えると堂々と3度目の遠征。そして歴史的勝利を収めたのである。
9歳になってもフジヤマケンザンは終わらなかった。香港再遠征は中止となったものの、中山記念でフジヤマケンザンは復帰した。このレースでフジヤマケンザンは見せ場すらなかたこともあり、続く中京の金鯱賞では年齢、59キロの斤量、3ヶ月の休み明けなど様々なマイナス要因から8番人気の低評価だった。しかし国際レースすら制した底力だろうか、荒れた馬場をすいすいと逃げ切って勝利を収めてしまった。これで通算12勝。オープン特別や地方重賞も多いとはいえこんな数字は名馬でなければ叩き出せない数字である。
フジヤマケンザンは次の宝塚記念マヤノトップガンの5着を最後に引退、吉田牧場で種牡馬入りした。
これまで日本馬がどうしてもうち破ることの出来なかった海外遠征の壁を経験と持ち前のしぶとさでうち破った日本古来の血統を持つ名馬。この馬が海外への厚い壁に空けた小さな穴がタイキブリザード・ホクトベガ・サクラローレルらの挑戦によって少しずつ大きくなり、シーキングザパール・タイキシャトルらによって一気にうち崩された。そういう意味でも日本海外遠征史において忘れてはならない国際的名馬である。
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