不世出の名ジャンパー
フジノオー


フジノオー 中山大障害4回

レーヌ賞
(仏・アンギャン競馬場)

クリスチャン・ド・レルミット賞
(仏・コンピージュ競馬場)


平地23戦1勝
障害40戦22勝
海外16戦2勝

競走成績

グランドナショナルに挑戦した豆挑戦者

 グランドナショナルというレースをご存じだろうか?イギリスで行われる障害レース最高峰のレースである。グランドナショナルのすごいところはなんといってもその過酷さである。距離は菊花賞の2倍以上7240m。延べ障害数30。飛越の高さは日本の大障害の比ではないほど高く、このレースを完走することはきわめて困難である。今年行われた同レースには37頭が63.5キロ〜76.2キロの斤量を背負って挑み、完走したのはわずか6頭だった。完走といっても日本の競馬ではお目にかかれないほどよれよれになった馬がさらにムチを入れられて虫の息でゴールへとたどり着くといった風情で、競馬にそこそこドライな感情を持っていた私もさすがに馬がかわいそうに思ったものである。競争中止した馬の中には3頭の死亡した馬も含まれており、毎年動物愛護団体などから「これはもはやスポーツなどではなく殺りくに近い」といった抗議が寄せられている。
 しかしかつてこんな過酷なレースに敢然と挑戦した日本馬がいた。その馬は中山大障害に4回勝利し、グランドナショナルを目標に海を渡り、その後フランスの障害競争で2勝を挙げるなどの国際的な活躍を果たした。日本馬の外国での勝利はこの前にハクチカラが記録したものだけで、この後もフジヤマケンザンまで記録されることがなかった。その名誉ある障害馬は名をフジノオーという。

中山大障害4連覇

 フジノオーが障害に転向することになったのは4歳暮れのこと。それまで15戦1勝とほとんど成績を残せなかったフジノオーは、父ブリツカバツクが京都大障害を勝ったシルバーオーとサチフジなど優秀な障害馬を多く出していたことや、オーストラリアから輸入された母親ベルノートから豪州産馬特有の四肢の丈夫さ・スタミナの豊富さなどが伝わっていることなどが障害に向くのではということで障害に挑戦することとなった。そして4歳の秋から障害で走り始めたが、初戦着外、2戦目3着というあまり期待できる成績ではなかった。馬主の藤井氏はこの馬に走ることを期待して「藤の王」と名付けたのだそうだが、この時点ではとてもその先の大活躍を期待できる状況ではなかった。
 しかし5歳になってからじょじょに障害慣れしてきたのか初勝利を1月にあげると3月には2勝目、4月には3勝目をあげ、障害馬の最大目標である中山大障害・春に出走することができた。しかしまだまだフジノオーは完成されていなかった。初挑戦の中山大障害では中沢騎手が3つめの竹柵障害であっさり落馬してしまい、競争中止となってしまった。ただし、フジノオー自体はから馬のまま4100mを全飛越をクリアして完走し、素質の片鱗をのぞかせてはいた。
 結局このレースの落馬の原因は中沢騎手があがってしまっていた為であり、誰か落ち着いて乗れる騎手をということで乗り代わりとなった。そして平地を2戦した後に名パートナーとなる横山富雄騎手と出会うことになる。初戦のオープンは3着に破れたが、初の雪辱を期して臨んだ秋の中山大障害で見事優勝を遂げたのである。これがフジノオーの中山大障害4連覇のはじめの一歩となった。
 この後フジノオーは障害界で無敵の快進撃をつづける。6歳春の中山大障害も61キロを背負い優勝。このあたりから斤量が多くなってしまって苦労するようにはなるのだが、前人未踏の中山大障害3連覇を期して臨んだ秋の中山大障害も64キロの酷量を背負って勝利した。これで当面の目標を達成し、収得賞金もベストテンにはいるようになったフジノオーは当然引退するものとして、その後どうなるのかが話題となった。
 しかし関係者はさらに未知の領域・中山大障害4連覇に挑んだのである。67キロもの酷量を背負わされたフジノオーに7頭の馬が挑戦して来たのだったが、幸いなことにその7頭の中にフジノオーの味方がいたのである。一つ下の全弟フジノチカラが兄貴のレコード樹立の援護となればと出走してきたのだった。結果後方でじっくりと脚を貯めたフジノオーが後続に大差を付け圧勝。そして2着にも弟フジノチカラが入るという喜ばしい結果となった。中山大障害4連覇は現在でも他にグランドマーチスが達成しているだけの大記録で、これからレベルアップして行くであろう障害レースではおそらく今後も当分この記録が破られることはないだろう。
 この後5連覇に挑んだフジノオーだったが、やはり68キロという斤量と、一緒に出走したフジノチカラが落馬するなど不運に見舞われるなどして2着に破れてしまった。その後2戦をともに2着とまとめたフジノオーは国内での障害競争成績を40戦22勝というすばらしい成績で終えた。

グランドナショナル挑戦・後フランスで2勝

 フジノオーが海外に遠征したのは8歳の時。もう国内でやることがなくなったフジノオーは世界最大のグランドナショナルに向けてイギリスへ旅立った。個人負担での遠征であったり、乗り慣れた横山騎手が一緒に行くことができなかったりといろいろ大変な事もあったが、ともあれ無事にイギリスに着き、F・ウォールウィン調教師のもとで大障害に向けての調教を始めた。しかし、グランドナショナルという競争は始めて出場する馬には厳しい斤量が課せられてしまう決まりがあった。最低3度は障害レースに出走しないことには最高負担斤量の76.2キロを背負わされてしまうのである。結果一度しか出走できなかったフジノオーはこの酷量を背負って世界一過酷な競争に挑むことになってしまった。
 3月26日英国エイントリー・グランドナショナル。全長7220m、30を越える難関コースにはフジノオーを含む47頭(!)が参加していた。見栄えのしない小さな馬体から、地元記者に「豆挑戦者」と呼ばれていたフジノオーは途中まで有名な難所を何とかクリアしてついていったものの、後半に進むに連れ次第に疲労の色が増してきて、ついに第15障害のところで飛越を拒否して競争を中止してしまった。もっとも冒頭に書いたようにこの競争は生きて帰るだけでも何よりという競争であり、現にこのときも完走12頭、競争中止は35頭に上り、2人の騎手が病院に運ばれたそうである。まあ挑戦したという事実だけでも十分大記録であろう。
 この後フジノオーはフランスに渡り、2年にわたって転戦しながらその中でレーヌ賞・クリスチャン・ド・レルミット賞の2勝をあげることができた。そして9月の競争を最後に引退し、2年ぶりに日本に帰国した。
 
 障害の名馬というとどうしても顕彰馬に選ばれているグランドマーチスが上がってしまうかもしれないが、あれは顕彰馬に障害馬は1頭ということで、やむなく知名度の高いグランドマーチスを入れたものであり、別にフジノオーはグランドマーチスよりも劣っていたとかいう意味ではないらしい。いや、成し遂げた記録からいえば初めて中山大障害を4連覇し、海外で勝利をあげたフジノオーの方が完全に上ではなかろうか。どんどん層が厚くなってきている現在の障害界。来年からは障害レースがジャンプレースとして充実し、より面白いレースが見られることだろう。そのなかでまた新たな名ジャンパーが生まれることを期待したい。

フジノオー 牡 栗毛 昭和34年〜昭和56年6月2日
生産地・生産者 北海道浦河 不二牧場 総収得賞金 40,993,100円
馬主 藤井一雄 繋養地 北海道浦河 不二牧場
調教師 橋本輝雄 主な産駒  
騎手 丸目敏栄、沖田秀勝、中沢一男、
横山富雄、大崎昭一、法理 弘、中神輝一郎
 



ブリツカバツク
Bric A Bac
(栗 1941)
War Admiral Man o'War Fair Play
Mahubah
Brushup Sweep
Annette K.
Bloodroot Blue Larkspur Black Servant
Blossom Time
Knockaney Bridge Bridge of Earn
Sunshot

ベルノート
Bell Note
(栗 1949)
Midstream Blandford Swynford
Blanche
Midsummer Abbots Trace
Dew of June
Golden Emblem Hall Mark Heroic
Herowinkie
Hasta Spearhead
Charmarcia