| 褐色の弾丸列車 |
| ダイナナホウシュウ |
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皐月賞 菊花賞 天皇賞・秋 神戸杯 京都記念 阪神大賞典 |
体重約380キロの小兵
現在の競走馬は大型化が進んでおり、500キロを超える馬などそれこそざらにいる。その反面400キロを切る馬は少なく、たまに見かけるものの強い馬はほとんどいないのが現状である。しかし、昭和29年のクラシックはダイナナホウシュウとタカオーという2頭の小兵を中心に展開していった。
ダイナナホウシュウは、昭和26年に北海道伊達の飯原農場で生まれた。この飯原農場は牧場時代から徹底的に若馬を鍛えるという信念を持つ牧場で、小さいころからハードトレーニングで鍛えられたダイナナホウシュウはその影響からか大きくは育たず、身長約150センチ、体重約380キロと、大型馬が少なかった当時でもとりわけ小さな馬だった。当然馬格のないこの馬はそれほど期待されることもなく、関西に入厩して夏の小倉でデビューした時には産駒名の「タマサン」という名前のままで走らされていた。ところがわからないもので、このデビュー戦を何とか首差で勝つとそのまま3歳時を8連勝で終え、一躍関西の期待の星に数えられるようになった。苦戦したのは結局初戦の首差だけで、あとはぽんと先頭に立っての逃げ切り勝ちである。4歳になって名前もダイナナホウシュウと改められ、4歳の初戦を大差でぶっちぎって勝ったころにはその圧倒的なスピードから、誰ともなく「褐色の弾丸列車」の異名で呼ばれるようになっていた。目標は当然クラシックである。タカオー
一方関東でも同じ飯原農場で生まれたタカオーと言う馬が大将格とされていた。タカオーもやはりダイナナホウシュウと同じくらい小さな馬で、朝日盃などを含め11連勝中で皐月賞に臨んできた。皐月賞はダイナナホウシュウとタカオーという2頭の東西両横綱の初顔合わせになったのである。
皐月賞はどろんこの不良馬場となり、両馬とも道悪はこなすと思われていたがタカオーは実は重馬場はあまり得意とはせず、何度ものめって4着に敗れた。一方のダイナナホウシュウは道悪をものともせず、ぐんぐん後続を引き離すと2着に8馬身差をつける圧勝を演じた。これでデビュー以来無敗の11連勝となった。その連勝は次のNHK盃で出遅れてしまって3着に敗れたことで止まってしまったが、ダービーでは当然の1番人気で迎えられた。タカオーはNHK盃を制し、その後もう一つ勝ち星を重ねて2番人気で迎えられた。
しかし日本ダービーというレースは往々にして運不運が大きく勝敗を分け、絶対勝つであろうといわれた有力馬が敗れるレースでもある。このときのダイナナホウシュウにも運という最も重要な要素が欠けていた。得意の不良馬場となり、逃げに有利の8枠を引けたことはダイナナホウシュウに天も味方したかと思われたが、隣の7枠に癖馬ブリンクビルが入っていたのが唯一最大の不運であった。発走直後この癖馬が外側に向かって回転し、かぶせられたダイナナは出るに出られなくなってしまった。結局この出遅れが響いた形で4着に敗れ、タカオーも道悪の中懸命に頑張ったが2着。勝ったのは公営出身の12番人気ゴールデンウェーブだった。雪辱菊花賞、その後
ダービー後ダイナナホウシュウは休養に入り、9月から使われて1勝をあげたが、調整が遅れ京都盃、オープンとミネマサの2着に敗れた。しかし次の神戸盃できっちり逃げ切り勝ちを納めて調子をあげながら菊花賞に臨むことになった。一方タカオーは元からそうであったがダービー後も連闘に継ぐ連闘を重ね、ダービーから菊花賞までの間なんと13戦、菊花賞がなんと35戦目というとんでもないローテを重ねていた。その結果やはり本調子を失った形で菊花賞を迎えた。
菊花賞では2度ダイナナを抑えたミネマサが一番人気となったが、ダイナナホウシュウは淀の長距離を果敢に逃げた。正確なペースでスムーズに逃げ、追いすがるミネマサ・タカオーらを引き離して6馬身差をつけてゴールに飛び込み、見事最後の栄冠を勝ち取った。タカオーは4着だった。
その後のタカオーはやはり走り続け、5歳春に天皇賞をレコードで制することができた。そして中央での成績を46戦27勝で終えると、種牡馬入りするのではなくなんと地方に転出し、何走かしたがたいした成績を残すことはなかった。そして引退後昭和32年に種牡馬としてビルマに輸出された。サラブレッド輸出第1号であったが、そのごビルマでは政変がおこり、タカオーの消息はわからなくなってしまった。
一方ダイナナホウシュウは5歳になって春の天皇賞を目指して3戦したが屈腱炎を発症、天皇賞を断念することになった。しかし秋には見事にカムバック、秋の天皇賞では屈腱炎をおして軽快に逃げまくり、フアイナルスコアにハナ差まで詰め寄られたもののなんとか勝つことができた。この当時は天皇賞を制した馬はもはや走るべきレースがなく、引退するしかなかったのだが、ダイナナホウシュウが6歳になったときに中山グランプリ(後の有馬記念)ができるということで、そのレースを目標にじっくりと1年間休養、脚の治療に専念した。そして11月にカムバックして2連勝して中山グランプリに挑んだ。
第1回中山グランプリではメイヂヒカリに継ぐ2番人気だったが、レース中に故障発生して惨敗し、結局これを最後のレースとして引退した。その後は種牡馬となったがやはりたいした馬を送り出すことはなく、中央競馬会の日高育成所の乗馬として余生を過ごした。
今となってはダイナナホウシュウの名を知る人はおそらく競馬ファンの中にもあまりいないと思うが、皐月賞・菊花賞・天皇賞の3大タイトルを制し、29戦23勝の素晴らしい競争成績。これらの成績やタイムなどを比較しても同時代の顕彰馬メイヂヒカリと同程度の実力があったことは明白である。顕彰馬には惜しくも外されてしまったというダイナナホウシュウだが、もっとこういう馬が一般に知られてもよいのではないだろうか。
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ダイナナホウシュウ 牡 鹿毛 昭和26年〜?
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