| 名牝 |
| トキツカゼ |
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農林省賞典(皐月賞) 優駿牝馬(オークス) カブトヤマ記念 |
名競走馬にして名繁殖牝馬
牝馬にもかかわらず男勝りの力を持ち、牡馬相手に大レースを制してきた馬はそれほど多くはないが何頭かいる。有名なところでは顕彰馬にも選ばれている11戦11勝の戦前最強馬クリフジ、天皇賞、有馬記念を制したトウメイ、そして昨年バブルガムフェローを交わして天皇賞を制したエアグルーヴなど。
このトキツカゼ、牡馬相手に皐月賞を制し、ダービーで2着、そしてオークスを制するなどなかなか強い牝馬だったことは確かだが、オークスは当時は秋に行われており、大多数の牝馬が春シーズンはダービーを目標にしていたため牡馬相手に皐月賞を制したり、ダービーを勝った馬はそれほど珍しくない。競争成績ならばトキツカゼに匹敵する牝馬は何頭か存在する。
しかし、トキツカゼはサラブレッドとしての第2の役割、繁殖においても素晴らしい成績を残した。オートキツ、オンワードゼア。このトキツカゼの子2頭はともに年度代表馬となった名馬である。オートキツは雨のダービーを8馬身差で圧勝し、オンワードゼアは天皇賞・春、有馬記念を制覇した。名牝必ずしも名繁殖牝馬ならずといわれるなかで、クラシックレースを勝った年度代表馬2頭を出し、そして自身もクラシック勝ち馬であったトキツカゼはまさに「女傑」ではなく「名牝」なのである。戦後初のダービーを惜敗
トキツカゼがデビューしたのは昭和21年。太平洋戦争が終了してから1年のまさに戦後の混乱期である。戦時中は馬券の売り上げが行われておらず、クラシックレースさえも能力検定競争として軍人やわずかな関係者の前で行われていただけであった。そして昭和20年、21年はダービーすらも行われていない。ようやく21年の秋に競馬再開となったのであるが、トキツカゼはその東京競馬に出走してきた。その新馬戦は2着だったが、2戦目で初勝利をあげると、あとは順調に勝ち星を増やし、皐月賞に出走の運びとなった。
ちなみにトキツカゼの競争成績を見ると、競争名の前にAとかBとかついているが、これは当時の馬数が少なかったために行われたレース区分で、A競争は賞金が高いがB競争は賞金が低いというきわめて単純なものだった。当然500万以下、オープンなどというような賞金による区分はなく、強い馬はより高い賞金を求めてA競争に、そしてやや力の劣る馬は賞金は低いが勝てる見込みの高いB競争に、という具合であったそうだ。そしてそれらのレースでバランスを保つために、「A競争では収得賞金2万円ごとに1キロ、B競争では1万円ごとに1キロ増加」と負担重量が定められていた。
さて、皐月賞は稍重の馬場で、このような道悪を極端に得意にしていたトキツカゼはライバルのマツミドリに6馬身差で圧勝した。そしてその後のオープンでマツミドリの3着としたトキツカゼは戦後競馬が再開されて初のダービーに向かった。ダービーではマツミドリ、トキツカゼ、そしてアヤニシキという馬の三つどもえの人気となったが、レースはトキツカゼとマツミドリの一騎打ちとなり、わずかにマツミドリが頭だけトキツカゼを抑えていた。マツミドリは第2回ダービー馬カブトヤマの子で、カブトヤマは当時トキツカゼを管理していた大久保房松師が騎手をしていた頃、彼にダービーをプレゼントした馬であった。「ダービー馬はダービー馬から」という言葉を最初に実現した馬で、大久保調教師はさぞかし複雑な思いだっただろう。
その後秋に入りオークスを圧勝したトキツカゼだったが、その後は勝ったり負けたりを繰り返して6歳で現役を引退した。繁殖牝馬として
繁殖生活を始めたトサミドリは、第三仔として月友との間にオートキツを出した。オートキツは母によく似て道悪をすこぶる得意とし、不良のどろんこ馬場となったダービーを逃げまくり、8馬身差で圧勝した。秋は立ち直ってきた同期のメイヂヒカリには及ばなかったものの年度代表馬に選ばれている。そして第4仔でマルゼアとの間に生まれたオンワードゼアは4歳秋から頭角を現し、暮れの有馬記念ではハクチカラの2着と好走、5歳になってからは天皇賞・春と有馬記念を制した。年度代表馬を2頭。おおよそ現代のパシフィカスのよう馬である。
しかしその後は11勝したミネノヒカリを出したものの、トサミドリの繁殖成績は目立って悪くなっていく。これはどうやらオーナーの意向で当時はCクラスの種牡馬だったマルゼアやトパーズという種牡馬ばかりつけたためらしい。晩年の成績が冴えないのは残念だが、初期の成績が素晴らしいので繁殖牝馬としては十分であろう。
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トキツカゼ 牝 鹿毛 昭和19年3月10〜41年6月19日
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