| 時代の先駆者 |
| スピードシンボリ |
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天皇賞(春) 有馬記念2回 宝塚記念 アメリカJCC2回 目黒記念2回 日経賞 アルゼンチンJCC ダイヤモンドS 京成杯 海外・4戦0勝 |
晩成型ステイヤーと菊花賞
菊花賞は昔も今も京都競馬場3000mを舞台にして行われている。それまで全く無名だった馬が突然圧勝を飾り、その後名馬として活躍していく。そのような場面が幾度となく繰り広げられてきた。グリーングラス、スーパークリーク、メジロマックイーン、マヤノトップガンなどがあげられるが、このスピードシンボリも菊花賞をステップに名馬の道を歩んでいった1頭である。
スピードシンボリは生まれたときから足が長くひょろっとした馬で、特別優れたものを見せていたわけではなく、3歳でデビューして5戦3勝、4歳になってからは京成杯を取ったものの皐月賞・ダービーでは惨敗と特別目立った馬ではなかった。レースを使うごとに体重が減ったりと万全な状態で使えなかったこともあった。しかし十分な間隔を取って望んだ菊花賞でスピードシンボリは14番人気の低評価を覆し、鋭く追い込んでナスノコトブキのきわどいハナ差の2着に突っ込んだ。この後、有馬記念に挑み3着、4歳時を結局10戦1勝で終えたスピードシンボリだったが、菊花賞を境目に明らかに変化し、そのステイヤーとしての素質を発揮しはじめたのである。体重も春に比べると50キロも増えていたそうである。不屈のチャレンジャー
完全に本格化したスピードシンボリは5歳になってからAJCC、目黒記念と連勝し、次の天皇賞・春で念願のビッグタイトルを手に入れた。そして続く日経賞で陣営は一つのテストをする。ふだん追い込んでいたシンボリに先行策を取らせたのである。先行したにもかかわらず36秒台の足を使ってあがって来たスピードシンボリに、陣営は海外でも勝負になるということで海外遠征を決定した。アメリカのローレル競馬場で行われるワシントンD.C.インターナショナルである。これがスピードシンボリにとってはじめての海外遠征となるのだが、体調不十分にもかかわらずシンボリは9頭中5着と健闘した。
日本に帰ってからのスピードシンボリはしばらく不調の期間が続いたが、6歳秋から立ち直り、陣営は再び海外遠征を考えるようになった。7歳になってスピードシンボリは再び日本を離れ、今度はヨーロッパに向けて旅立った。そして、キングジョージ、ドーヴィル大賞典、世界最高峰レースの凱旋門賞と戦った。キングジョージ、ドーヴィル大賞典と思うような結果を残せなかったシンボリは、凱旋門賞では後方待機策に出て、直線よく伸びて24頭中10着とまずまずの成績を残すことができた。しかしそれは日本馬の力がいまだ世界レベルにはほど遠いということを示す物でもあった。
日本に戻ったスピードシンボリは有馬記念を目標に調整され、7歳馬ながらみごと有馬記念を制覇する。4歳から数えて通算4度目の正直であった。海外への夢
天皇賞・有馬記念を制し、海外遠征も終えたスピードシンボリ、7歳という年齢を考えても当然このまま現役を退くものとおもわれていたが、さらにもう1年現役を続行することが決定した。ファンはびっくりしたが、これは和田オーナーの考えがあってのことだった。この年秋に国際招待レースが予定されており、海外で叶わなかったスピードシンボリだが、ホームグラウンドで外国馬に雪辱したいというものだった。スピードシンボリは走り続け、AJCCや宝塚記念を制覇した。しかし、肝心の国際招待レースは結局お流れになり、シンボリは有馬記念を目標に切り替えるしかなくなってしまった。さすがに年齢からか調子落ちがささやかれるスピードシンボリだったが、引退レースとなるこの有馬記念も見事勝利で飾った。
結局スピードシンボリによる海外制覇の夢は叶わなかったが、のちにシンボリ牧場はスピードシンボリを母の父に持ち、かつてスピードシンボリの主戦騎手であった野平祐二調教師によって鍛え上げられた皇帝シンボリルドルフを送り出す。シンボリルドルフは和田オーナーを初めとする関係者の悲願であった国際レースジャパンカップを制覇し、史上最強馬と呼ばれるようになる。スピードシンボリが不屈の精神で挑戦し続けた夢が孫の代になって見事実現したのである。
サラブレッドに付き物の故障をせずに3歳から8歳までの長い間をほとんど休みなしで走り続け、海外制覇の夢を追い続けたスピードシンボリが競馬界に与えた影響は大きい。無事是名馬とはまさにこの馬のことを表す言葉である。
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スピードシンボリ 牡 黒鹿毛 昭和38年5月3日〜平成元年5月31日
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