| 黄金の脚 |
| メイヂヒカリ |
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朝日杯3歳S 菊花賞 天皇賞(春) 中山グランプリ(有馬記念) オールカマー |
幻の三冠馬
「幻の三冠馬」と呼ばれる馬はミホシンザン、カブラヤオーなどそれこそ数多くいるが、このメイヂヒカリもその中の1頭である。
当時最高の内国産種牡馬クモハタと、後にシンザンなどを出したビューチフルドリーマーの流れをくむ名牝系のシラハタの間に生まれたメイヂヒカリは、小柄だがバランスの取れた馬体を持ったサラブレッドの手本ともいうべき馬であった。その競争能力も卓越したものであり、29年の10月にデビューするとその後4連勝で朝日盃3歳Sを制し、堂々「29年度の最良の3歳馬」に選ばれ、皐月賞、ダービーの有力候補にあげられた。
ところが、4歳になって2連勝でスプリングSに臨むと、メイヂヒカリはそこで6頭中5着という大惨敗を喫してしまう。原因は追い切りの後に飛節を痛めていたことによるものだった。結局これが元で皐月賞を回避、そしてダービーにも出走できなくなってしまった。皐月賞を勝ったのは朝日盃3歳Sで破った吉川英治所有のケゴン、ダービーを勝ったのはそれまでに3度対決して一度も負けていないオートキツだった。
秋に復帰したメイヂヒカリは菊花賞まで4戦し、油断した毎日王冠以外の3レースに圧勝した。そして菊花賞ではダービー馬のオートキツとの一騎打ちの様相となったが、メイヂヒカリはオートキツに10馬身もの大差を付け圧勝、見事に4歳最強を印象づけた。結局この年の年度代表馬はオートキツだったが、メイヂヒカリは年度代表馬オートキツをさしおいて「30年度の最良の4歳牡馬」に選ばれた。今ではあり得ないことであるが、当時はこのようなこともあったらしい。第1回中山グランプリ
5歳になったメイヂヒカリは、1戦した後天皇賞に出走し、これをタイレコードで圧勝した。そしてその年日本中央競馬会では2代目理事長として有馬頼寧氏が就任し、プロ野球のようなファン投票によるレースを、ということで第1回中山グランプリ(後に有馬氏の名前を取って有馬記念)が開催されることになった。天皇賞を制していたメイヂヒカリはこの中山グランプリを引退レースにすることを決めた。このグランプリにはその年の菊花賞を制していたキタノオー、ダービーのハクチカラ、皐月賞のヘキラクや、秋の天皇賞を勝ったミツドフアーム、そして皐月賞菊花賞、天皇賞のタイトルを持った6歳馬ダイナナホウシュウが出走し、有馬記念史上でも最高クラスに豪華な顔ぶれとなった。そしてメイヂヒカリはこれらの強豪を相手に2分43秒1の日本レコードで圧勝して見せ、引退の花道を飾った。結局この年メイヂヒカリは年度代表馬に選ばれ、3,4.5歳と3年連続で世代の代表馬に選ばれた。これは他には牝馬でヒシアマゾンの例があるだけである。古刀の斬れ味
メイヂヒカリの強さを主戦騎手の蝦名武五郎氏は後にこう例えている。
「武田文吾調教師はシンザンをナタと表現しておられたが、そういう感じからいえばメイヂヒカリは日本刀、それも古刀の味があったのではないか。斬れ味の冴え、手応えなど・・・。だから、反面にもろいところがあった。」
実際メイヂヒカリは生涯に5度負けている。故障などが原因であったり、気のゆるみなどが原因の事もあった。しかしその強い走りっぷりは人々から絶大な支持を集めていたため、その負けた5度のうち3度まで万馬券の大波乱になるという珍しい記録も残している。
種牡馬になったメイヂヒカリはやはり内国産の種牡馬が冷遇された時代背景からあまりいい子は出さなかった。しかしブルードメアサイアーとしては天皇賞、有馬記念を勝ち年度代表馬に選ばれた名牝トウメイを出すなどしている。
メイヂヒカリは純粋に強さだけで顕彰馬に選ばれた名馬だったと言えよう。
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メイヂヒカリ 牡 鹿毛 昭和27年3月24日〜55年
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