| 栗毛の国際派 |
| ハクチカラ |
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東京優駿(日本ダービー) 天皇賞(秋) 有馬記念 ワシントンバースデーハンデ (サンタニア競馬場、レー・ヨーク騎乗) 目黒記念2回 日本経済賞 カブトヤマ記念 毎日王冠 東京杯 アメリカ・17戦1勝 |
日本馬初の海外重賞制覇
昭和34年2月23日、アメリカのサンタアニタ競馬場で第24回ワシントン・バースデー・ハンデ競争が行われた。日本からアメリカに渡って11戦目になるハクチカラは徐々に環境になれてきており、12月にローズ賞で2着をはじめ惜しいレースが出来るまでになっていた。鞍上には職業ビザ切れで日本に帰国した保田隆芳に代わり、レー・ヨークが騎乗していた。このレースには当時の世界最高賞金馬ラウンドテーブル(16着)も出走していたのだが、ハクチカラは46,000人もの観衆を前にクビ差でアルゼンチンのアニサドを押さえ見事優勝を勝ち取った。アメリカの重賞で「日本馬勝つ」のニュースはたちまち世界に流れ、日本競馬史上の一大モニュメントとなっている。
その後ハクチカラの果たした海外重賞制覇は、障害競争のフジノオーを除くと1995年12月に香港国際カップ(国際G2)でフジヤマケンザンが優勝するまで実に36年記録されることはなかった。ライバル・キタノオー
ハクチカラは生まれた頃から骨量もありがっちりした体格で大きく期待されており、馬主の西氏はこの馬を当時最高価格の300万円で購入した。ダービーの一着賞金の1.5倍の額である。ハクチカラは期待に答えるようにデビューから5連勝し、朝日杯に向かったが、ハクチカラはここで初めて3/4馬身の2着に敗れた。このとき勝ったのが終生のライバル・キタノオーである。ハクチカラは曾祖母にクモハタを産んだ星旗を持つ名門の出であるのに対し、キタノオーは祖母が豪州から輸入されてきた血統不明馬ということでサラブレッド系種、いわゆるサラ系の馬であった。ハクチカラはキタノオー相手に日本ダービーでは勝利を収めるものの、セントライト記念では4着、菊花賞では5着と完敗、そして第1回中山グランプリ(後の有馬記念)ではキタノオーがメイヂヒカリの2着に善戦したのに対し、ハクチカラは5着と完全にキタノオーの方が上というのがおおかたの見解であった。
その後、キタノオーは天皇賞・春を制したが、その間ハクチカラは関東に留まって重賞を勝ちまくっていた。そして再度オールカマーで激突するが、やはりキタノオーが1/2馬身ハクチカラを押さえて優勝する。その後キタノオーは脚部不安でレースを遠ざかってしまい、ハクチカラはライバルの消えた天皇賞・秋、有馬記念を楽勝した。結局キタノオーとハクチカラの対戦成績は6対4でキタノオーがリードして終わった。種牡馬としてインドで活躍、そしてインドで死亡
ハクチカラは海外で17戦したあと帰国し種牡馬となったが、繁殖牝馬の質の低い青森で種牡馬をしていたことや、内国産の馬が歓迎されない風潮により日本ではあまりぱっとせず、昭和43年にインドに寄贈された。インドに渡ったハクチカラはインドのクラシックレースの勝ち馬を出し、昭和54年インドで死亡した。国際派の馬にふさわしい最後といえよう。
それに対しキタノオーは、サラ系の宿命か6歳まで競争をつづけた。しかし夏に休養先の北海道から中山に戻る途中に急性肺炎にかかり、短い一生を終えた。
ライバルといわれた馬で一方が種牡馬として成功し、一方が悲劇的な最期を遂げた例は多い。ハクチカラ・キタノオーもそんな馬たちの代表的な例であろう。
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ハクチカラ 牡 栗毛 昭和28年4月20日〜54年8月6日
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