戎 克 庭 園
junk garden
つきかげ様

雪原のワルキューレ外伝
「聖なるカレー」


 その迷宮のような街の片すみにある小さな酒場に魔が訪れたのは、ちょうど太陽が空の真上へ達するころだった。その石造りの建物に挟まれた路地の奥にある小さな酒場にはもちろん眩い日差しが差し込むことはなかったが、黄昏を纏ったその魔は翳りのある昼間の光りの中でもなお奇妙に浮いて見える。
 灰色のフードつきマントで体を包んでいるその魔はゆっくりと昼間でも薄暗い酒場の中へと足を踏み入れた。その細長い店の奥の暗がりの中で、のっそりとひとつの影が身を起こす。
「なんの用だい?」
 そういって魔の前に、一人の男が立った。でっぷりと太った男である。薄暗い店の中でも男の金色の髪はきらきらと輝き、日差しの臭いを放つ。男は夏の空のように青く輝く瞳で、切り抜いた冬の夕暮れであるその魔を見つめた。
「酒が欲しい」
 その魔は荒野を渡る風の声で言った。
「ええとねぇ、ここの主人は仕込みに出てるんだよ。おれはここの用心棒でさ」
 魔は男の言葉を聞いていなかったように繰り返す。
「酒が欲しい」
 男は溜め息をついた。
「ええと、だいたい酒場というのは夜に店を明けるものなんだよ。昼間からこられてもねぇ」
(だいたい魔だって夜にでるもんだろ)
 という言葉を男は心の中でつぶやいたが、魔はそれを聞いたように言葉を返す。
「私は夜は嫌いだ」
 男は苦笑すると、カウンターの中へはいる。
「いっとくけど金のないやつには飲ませられないよ」
 男の言葉に魔は無造作に金貨の入った袋をカウンターに置いた。男は酒の入った壺と盃を魔の前へ置く。
 魔のフードの下は、闇夜のような黒い影である。その影の中に不吉な月が浮かぶように紅い唇が見えた。
 その紅い口は妙になまなましく、妖艶ですらある。男はその紅い口がすっと笑う形に歪んだような気がした。
 魔は盃には目もくれず、酒に満たされた壺を持ち上げると、闇夜につけられた傷口のような口でその酒を飲んでゆく。喉を鳴らす音を、男は感心しながら聞いた。
 ことりと空になった壺をカウンターに置いた魔は、再び口を開く。
「食べ物が欲しい」
「うちはねぇ、酒場なんだけど。もう一度いうけど主人は仕込みに出掛けているから何もないんだけど」
 魔は男の言葉を意に介してはいないようだ。同じ言葉がもう一度繰り返される。
「食べ物が欲しい」
 男は肩を竦めた。
「おれが昼飯に食べようと思っていたカレーなら、これから作れるけど」
 魔は再び少しほほ笑んだように、紅い口を歪める。
「それでいい」
 男は溜め息をつくと厨房に入った。厨房に入ると同時に、男の肩に小さなフェアリーのような生き物が出現する。
 透明な羽根を持つ少女の姿はフェアリーそのままだが、その黒曜石のように輝く闇色の肌は魔族のものであった。
 その魔族の肌を持つフェアリーは、男にささやきかける。
「ジークやばいよ、あいつ。凄い瘴気を放ってたよ」
 ジークと呼ばれたその男は手早く火を起こし、野菜の皮を剥きながらこたえる。
「うーん、そんなこといってもねぇ、ムーンシャイン」
 ジークは鳥肉を火にかけた鍋にほうりこんでゆくと同時に、ぶった切った野菜も鍋にほうり込む。
「しょうがないじゃん、来ちゃったものは」
 ムーンシャインと呼ばれた黒いフェアリーは、ジークの肩の上で足をばたばたさせながら毒づく。
「もう、暢気なこと言って、とり憑かれても知らないよ」
 ジークはムーンシャインの言葉を気にしていないかのように、肉と野菜を炒めている鍋へ壺からスープをどぼどぼと注いでゆく。無造作のように見えるが、結構手慣れたふうに料理を進めていた。
 ムーンシャインはジークの肩に跨ると、おもっいきり目の前の耳を引っ張る。
「何すんだよ、いてて」
「落ち着いて料理してる場合じゃないって。だいたい何作ってるのよ」
「いったろ、カレーだって」
 ジークは、陶器の小瓶をいくつかとりだす。その中の香辛料を、鍋をかき混ぜながら適当にぶちこんでゆく。ムーンシャインは珍しげにそれを見つめていた。
「カレーって何よ」
「ああ、人の魂を喰らう魔族にしてみりゃ、人間の食べ物なんざ興味ないんだろうけどねぇ。カレーというのは東方の食い物で神聖なものなんだよ」
「嘘でしょ、そんなの」
 ジークは鍋をかき混ぜながらぐつぐつと煮込んで行く。
「いやいや、おれの格闘術の師匠であるラハンがおれに教えてくれた料理なんだけど、聖なる料理であることは間違いない」
 ムーンシャインは馬鹿にしたように口を尖らせる。
「おれの師匠のラハンが言うにはだ。世界の全ては波動によって構成されている。ラハン流格闘技の奥義である意と想の概念。これは意識のレベルをコントロールして、身体を思念で支配したり、時間の感覚を変容させたりする技なんだけどさ、結局これって波動の波形を変えるってことなんだよね」
 喋っている間にも鍋をかき回す手が休むことは無い。鍋からは香辛料と煮込んだ肉や野菜の臭いが混ざった、独特の臭いが立ちのぼる。ムーンシャインは不思議そうに鍋を見つめた。
「それでね、波動っていうのはおれたち人間の体内にあるチャクラが発しているといってもいいんだけどね、チャクラを起動し波動を変形させるものは世界に色々ある。例えば音楽。音という空気の波動がチャクラの波形とシンクロしてそれを変容させることができる。もしくは、色彩というのもそう。あれは光の波動なんだけど、そいつもチャクラの波形とシンクロする。あと呪文とかもそうだよね。そして、香辛料。こいつもちゃんと調合すれば、波動を構成する」
 ジークは、黄色く染まったスープを少しすくう。
「香辛料というのは、自然界に存在する植物の生命力を特定の波動に収斂させて抽出したものなんだよ。その証拠に、ちゃんと明確な色と臭いを持っているだろ。これは波形が特定の形に収斂している証拠。こいつはチャクラを強力にキックするんだ」
 ムーンシャインは肩を竦めた。
「そんなこといっても私魔族だから、チャクラなんてないもの。わかんない」
 ジークはまるまると太った指でムーンシャインの胸をつつく。
「あるよ、魔族にも。ただ、それを意識してなくてさ。魔族は人間の魂を喰らうときにチャクラを回す。ただ、それは負の方向に回るので瘴気がでる」
 ジークは少しカレーを味見すると頷く。
「魔にだってチャクラはあるのさ。そいつは負の方向に回ってしまっているだけでね。そいつを正の方向に回してやれば、世界の理に適った存在へ変容するのさ」
 ふう、とジークは息をついた。
「本当はもう少し煮込んだほうがいいんだろうけど、魔をそう待たしちゃ悪いよね」
 そういうと、ジークは食器を出し支度を始める。

「お待たせ」
 魔は凝固した薄明となり部屋の中に佇んでいた。ジークのもってきた大きな盆に乗っているものを見て、深紅の唇を歪める。
「それはなんだ」
 魔の言葉に、平べったく丸い食べ物の乗った皿を差し出しながらジークが答える。
「ええと、こいつはチャパティだよ。それと」
 ジークは黄色いスープを皿に注いで、魔の前に置く。
「こいつがカレーだ。チャパティにつけて食べてもいいし、そのまま食べてもいい」
 ジークは自分の分を皿に注ぐと、スプーンですくって一口食べた。
「んめぇ」
 その辛さは脳天を貫いた。その瞬間、目の前に見えている世界の粒子のようなものが一段とクリアになり、精密化したような気になる。色彩は鋭敏化して目を突き刺し、全ての音が音楽となって克明に聞こえた。
(泣くなよ)
 心の中に聞こえたムーンシャインのつっこみに、ジークは瞳に浮かんだ涙をふきながら答える。
「うるせえよ」
 その様を見ていた魔は、チャパティには目もくれずカレーを満たした皿を持ち上げると一息に飲み干した。その唇は一層妖艶さを増して紅く輝く。
 魔は無言で空になった皿を差し出した。ジークはそれに、もういっぱい注いでやる。魔はそれも一息で飲み干した。そうしたやりとりが、幾度か続く。
(なんか、色が変わってきたよ。日没の色が、日出の色になっていく)
 ムーンシャインの言葉にジークは頷く。
「うん、いった通りだろ」
 魔の持っていた存在感は、明確に濃くなっていた。フードの下の闇は小刻みに、激しく震えているように見える。
 ほとんどジークの作ったカレーが無くなった時、魔の振動ははっきりしていた。もう、皿を手にすることもなくただ震えている。
 ふっと、唐突に振動が止まった。その時、フードつきマントは、ぱさりと床に落ちる。ジークは、それを拾いあげた。中身は消えている。
(凄いね)
 ムーンシャインは心の中で感心している。ジークは頷く。
「カレーは侮れないのさ」