その日、ユウジは早めに仕事を切り上げて、デパートの紳士雑貨の売り場をフラフラとうろついていた。
最近のデパートは仕事帰りの客が立ち寄れるように遅くまで営業しているので、平日の夕方でも結構店内には人がいた。何かを目宛てに来たり、ただ気持ちだけを満足させに来たりと、目的は人さまざまであろう。
その中、ユウジは購買意欲だけはしっかりとあるものの、何を買えばよいのかもわからず、ただウロウロといたずらにフロアを歩き回っていた。ネクタイ売り場をまわり、紳士物の財布やバッグなどが並ぶ棚を見て、それからカジュアルな衣服を眺めては、また元いた売り場に戻って最初から辿りなおす。そんなことを、もう何回も続けていた。
自分のものを買いにきたのなら、こうも苦労はしないだろう。どうも誰かのために物を買うというのは、慣れていないだけに難しい。
(あいつって、どんなものが好きなんだろう?)
ユウジは愛しい者の姿を懸命に思い出しては、彼のいつものスタイルや持ち物から必死にその趣味を探り、だがなかなか見当をつけられなくて困っていた。
すっかり遅くなったヒロアキへのヴァレンタインのお返し。
まさか男相手にキャンディやらクッキーを贈っても仕方ないので、何か普段使いのできる洒落た小物を……と思い立ったはいいものの、いざとなると最適な物がちっとも思い浮んでこなかった。
いくら高校時代は毎日のように顔をあわせていた仲とは言え、ここ何年かブランクがあったし、その間に趣味も好みも随分と変わったに違いない。ほんの何ヶ月か前に再会して思いもがけず深い関係にはなれたけれど、それでも相手の全てを熟知できるほど一緒に居られる訳ではなかった。
現に、ホワイトディを一週間以上過ぎた今でも、まだ彼とは会えていなかった。ヒロアキは営業という仕事柄出張が多かったし、ユウジはユウジで残業や休日出勤が当たり前の生活だったので、なかなか二人の自由な時間が一致することはなかった。
たまに会えても、どちらかの部屋で貪るように体をつなげては、翌朝にはさっさと別れを告げて帰っていくのが常だった。もっと時間のない時などは、事が終わると早々に身繕いをして部屋を出て行く。そして残った者は、ドアの向こうに消える相手をただ黙って見送った。
短すぎる時間。限りある逢瀬。
だから、恋人が何を好きで何を喜ぶかなんて、心を配るゆとりだってありはしない。
それでも、なんとか明日の夜はどちらも時間が取れそうだったので、二人は久しぶりに逢うことになっていた。だから慌てて今日買い物に来たユウジだったのだが、まさかこんなに悩むとは思ってもいなかったのだ。
何度か探し歩いた末、黒い革の煙草ケースに目をつけつつも、結構な値段に気後れして躊躇していたところを、まだ若い店員にさりげなく声をかけられた。
「プレゼントですか?」
決して押し付けがましくなくにっこりと微笑む顔が、なかなか清楚で可愛らしい。ユウジはちょっと照れ笑いを浮かべ、口篭もりながら答えた。
「あー、ええ。まあ。えっと、友達の誕生日なもんで……」
別に詳しく言い訳することもないのだろうが、ついついそんな嘘が口をつく。まさかホワイトディで男に贈るとは間違っても言えない。
店員はそうですか、と応えて、棚から見ていたケースや他のいくつかを取り出しては、ずらりと並べてみせた。ご予算は、相手の方のお好みはとさり気無く聞き出しては、ニーズにあいそうな商品を勧める。ユウジが決めかねて唸っていると、特に苛立つ風もなく、愛想良く笑った。
「どうぞ、ごゆっくりお選びになってくださいね」
「す、すみません。なんだか、相手がどんな趣味なのか、よくわかんなくて……」
はははと困ったように苦笑するユウジに、店員は相槌を打って頷いた。
「そうですね、こだわりをお持ちの方でしたら、なかなか難しいですよね、贈り物を選ぶのって」
「はあ……いやまあ、それほどうるさい男でもないんだけど、多分」
「こちらのような感じでしたら、さほど好みに関わらずどんな方にでも喜ばれるかと思いますが」
見るからに無難な色形の商品を指し示されて、ユウジはいっそう困り果てた。なんだか、ごくごく一般的なデザインのそれは、ごくごく一般的な関係の相手に贈るには相応しくても、今誰よりも愛しいと思う男にあげるには何かが足りない感じがしたのだ。
今ひとつ乗り気ではないユウジの様子を伺うように、店員は言葉をつなげた。
「いっそお客様が今一番欲しいと思われるものをお贈りになる……という手もございますよ?」
「え? 俺が欲しいもの?」
「ええ。多少好みが違われても、プレゼントって案外意外なものを貰うのも嬉しいものですから」
(俺が……欲しいもの)
ユウジはその一言にふと考えた。
自分が一番欲しいもの、それはいったいなんだろう?
それは考えるまでもない。ヒロアキだ。彼自身だ。
彼が欲しい。彼に逢いたい。彼の傍にいたい。
彼の胸に抱かれて、その熱を全身で感じとっていたい。何もかもを投げ出し、そして何もかもを奪いたい。
彼を愛しているから、彼に愛されたい。
それが今一番欲しいもの。だけどそれは金では買えないから……。
結局、ユウジはその売り場で最初に目をつけた黒い煙草ケースを購入し、綺麗にラッピングをしてもらって家路についた。
途中、電車の中でも道を歩きながらも、ずっと考えていた。
今一番欲しいものの、その先を。
明日の夜、きっとそれは手に入る。ヒロアキは、きっと大急ぎで仕事にけりをつけては、ユウジのアパートに飛んでやってくるだろう。
互いを欲しているのは多分どちらも同じ。もう随分逢っていないから、きっと彼だって自分のことを望んでいる筈。
逢ったら、ヒロアキは真っ先にユウジを抱きしめて、熱くキスをするだろう。食事は、と聞いたってろくに応えずに何度も唇を奪うだろう。そしてすぐさまベッドに押し倒して、体を求めてくるに違いない。
彼は愛しているから抱きたいと、そう言った。誰よりも好きだから、誰よりも愛しいから、ひとつになりたいのだと彼は言った。
もう子供じゃないから、心も体も愛しあいたい。それはユウジも同じだ。
だけど、体のつながりにはどうしたって限りがある。だからユウジは、少しせつない。どんなに強く激しく愛しあっても、いつかはそこに終わりがきて、ヒロアキは自分の元からいなくなる。
ベッドの中から彼の背中を見つめるひとときがユウジは嫌いだった。
たった今まで傍にいた彼が、ゆっくりと体を起こし、シャワーで何もかもを洗い落とし、そこにまた脱ぎ捨てた衣服を着けていく様をじっと見つめているのは哀しかった。
帰らないでくれと喉まで出かかる言葉を、幾度となく飲み込んでは代わりに小さな笑みを返す。「じゃあな」と平気な顔でさよならを告げる。その一瞬に胸が引き裂かれそうだった。
ワガママは言えない。互いには互いの生活がある。それぞれの生きる世界がある。そんなことはわかっている。だけど、数少ない逢瀬の、ほんの短い時間の締めくくりがいつも何より苦しくて、ユウジは時々耐え切れなくなるのだ。背中にすがって引き止めてしまいたくなるのだ。
(俺が一番欲しいもの……か)
小さな紙袋の中の贈り物を、ユウジはその夜いつまでも見つめていた。
翌日、仕事を終えて家に戻ったら、そこには既にヒロアキがやってきていて、まるで自分の家のように帰ってきたユウジを出迎えた。
「おお、遅かったじゃないか。待ちくたびれたぜ?」
「早いほうだよ、全然。これでも残業を明日にまわして急いで帰ってき……」
言葉は最後まで形にならなかった。ヒロアキが唇を塞いでしまったから。
熱い舌がすぐさま歯列を割って入りこみ、濃厚に絡みついてくる。それに応えるように舌を返しては、甘い唾液にうっとりと心を酔わせた。
手に持っていたバッグが指を離れて足元に落ちた。それはちょうどヒロアキの甲の上に落ちて、彼がいてっと小さな声をあげた。離れかけた唇を、ユウジは彼の頬に手を伸ばして、もう一度引き寄せてはキスをした。
逢えない時間を取り戻そうとするかのように交わす、長い長い口づけ。
ようやく口を離して、ユウジはそっと呟いた。
「な、ヒロ。おまえ、もう飯食った?」
「え? ああ、うん。いや」
「なんだよ、どっちだよ、それ」
呆れたように苦笑するユウジを、ヒロアキはぐいと抱きしめては、耳元へと唇を寄せて首筋に舌を這わせる。ユウジはくすぐったくて身を蠢かしながら、さらに尋ねた。
「おいってば」
「いいんだ。飯は後。俺はまずおまえを食う」
「ばか、何言って……あ」
耳たぶを軽く甘噛みされて、震えるような旋律が背筋を走る。思わず力が抜けて彼にしなだれかかると、それを待っていたかのように大きな手が支えて、更に強く抱きしめられた。
「おい、まさかここでやる気じゃないよな?」
ヒロアキは愛撫を続けながら、可笑しそうに応えた。
「いいぜ、ここでも。おまえがリクエストするってんなら。でもちょっと狭いよな」
「ばか、やだよ、こんな玄関先」
「じゃ、ベッドだ。ベッド」
そう言っては、ヒロアキはユウジの腕をがっしりと組み捕まえて、有無を言わさず寝室まで引きずっていった。そして荒っぽくベッドに押し倒しては、すぐに上へと圧し掛かってくる。ユウジは、全く予想どおりだなと、密かに笑った。
「なあ、せめてシャワーでも浴びさせて」
「いいよ、んなもん」
「よくねえよ。俺、やなんだって。汗くせえの」
「俺はもうさっき風呂に入ったよ」
「俺はまだなんだよ。おい、ヒロ。ヒロってばよ、なあ」
もう応えはなかった。ネクタイを外され、スーツもワイシャツも、どんどん彼の指で奪われていく。曝け出された薄紅色の乳首にキスをされて、ユウジは全身が熱く燃え立つのを感じながら、それでも口だけは未練がましく呟いた。
「なあ、ヒロ、ヒロぉ……。俺、腹減ったよぉ……んっあ……ああ」
煌々と白く電気の灯った部屋で、ユウジの甘ったるい喘ぎ声がゆっくりと広がった。
ほんの少しの息をつく暇もなく、ヒロアキはユウジを愛した。
ユウジはその想いに精一杯応えた。
たとえ空腹でも、この後にまたせつない痛みが待っていようとも、今はただ相手を受け入れることしか考えなかった。
愛しあっている間にすら迷ってしまったら、きっと何も手に入れることはできないから。
愛しているから、たとえこの先どんな未来が待っていても、尻込みなんかしたくない。そして……今よりもう一歩だけでも先に行けたら、それだけで後悔しない。彼と居て良かったと、いつか遠い時間の向こうで思う時が必ずある。
だからユウジは、全身全霊でヒロアキと抱きあった。
先ほどからずっと彼が、後ろの蕾を舌先でくすぐっていた。焦れったさと心地良さがごっちゃになって、思わず体がピクピクと反応する。まるで続きをねだるように、腰が知らずに突き出された。
そんな自らの肉体を恥じ入るように、ユウジは途切れ途切れに訴えた。
「ヒロ……なあ……おい、だめだって。汚ねえってば……。俺、シャワー浴びてねえ、んだから……さぁ」
「気にしねえよ、んなこたぁ」
「だって……あっ! んんっ……は、ぁ」
「おまえ、ここはもっとくれって言ってるぜ? 見栄っ張り」
「ばか……んなんじゃねえって……、あ……やだ」
「ユウジ、すげぇ可愛い」
「よせよ、ば……あっ! や、……ヒロ」
大きく仰け反ったその途端、くるりと仰向けにされて、大きく足を開かされた姿を明るい光の下に隠すことなく暴かれた。もう誤魔化しようもなくいきり立った自分を晒されて、ユウジはカアッと体が熱く火照った。
ヒロアキの視線を感じる。後ろを舐められただけで感じ入っている己の淫らさに、消え入りたいほど羞恥を感じる。と同時に、早くその先が欲しくて欲しくて、どうしようもなく身悶えしている自分をも知っていた。
今すぐにでもひとつになりたい。ヒロアキに深く刺し貫かれたい。
彼に奥までどんどん突き進まれて、何もかもを明け渡してしまいたい。全てを彼で満たして欲しい。
「ヒロ、ヒロ……な、来いよ。焦らすなって、なあ」
それに応えるように、彼の指がぐっと深く差し入れられた。ユウジは小さく悲鳴をあげ、だがすぐに不満をぶつけた。
「や、やだ。指なんて、やだ……。あっ、ああ……いや……ヒロ。ちゃんと、して……んんっ、あう」
ヒロアキはうっすらと笑って言った。
「もっとゆっくり楽しませろよ」
「だって……はあっ」
「おまえのこと、じっくり見ておきたいんだよ。感じてる顔とか、声とか、何もかもさ。後でおまえをおかずに食えるように」
「ば……か、何言って……あっ! うんっ」
「色っペー、その顔。見てるだけでイきそ、俺。ははっ」
一人余裕で笑っている彼が悔しくって、愛しくって、ユウジはきゅっと強く目を瞑った。それにつられて涙がすうっと一滴こぼれて、頬を伝い落ちた。ヒロアキが驚いたように顔を寄せて囁いた。
「何泣いてんだよ? あ、痛かったか? ごめんな」
優しく甘い声をかけて、心配そうに覗き込む。ユウジは腕を伸ばし、その首に手を回して抱き寄せた。もう心も体も、限界にまで追い詰められていた。
「ヒロ、ヒロ」
「ん?」
「早く……。早く来いってば。俺、ずっとおまえが欲しかったんだから。ずうっと逢いたかったんだからさ。なあ」
まるで泣いてすがっているような切羽詰ったその声に、ヒロアキはしばし感極まったようにじっと聞き入り、そしてぎゅっと強く抱きしめて囁いた。
「ああ……俺も。俺もおまえが欲しかったよ、ユウジ。ユウジ……」
痛いほどきつく抱かれて、そしてユウジはヒロアキを手に入れた。彼が押し入ってきた瞬間、世界の何もかもが真っ白に輝いた感じがした。
「ああ、腹減ったー。死にそうー」
煙草を灰皿に押し付けたヒロアキが、開口一番そう言った。寝転がったまま彼を見つめていたユウジは、呆れて溜息を返した。
「何勝手なこと言ってんだよ。てめえが色気づいて、人が帰る早々押し倒したくせに」
「だから性欲の次は食欲だろ? あ、俺、土産になんとか言う寿司買ってきた。食う?」
「食う。俺、もうこれっぽっちも動けねえ」
ヒロアキはよしよしと呟きながら、リビングに向かうと、すぐに小さな包みをぶら下げて戻ってきた。ベッドの端に腰掛け、膝の上で折り詰めを開く。ふわりと酢飯の芳しい香りが鼻をくすぐり、食欲中枢を刺激した。
「おお、美味そう。ほら、おまえも食えよ」
ユウジは寝たまま、大きく口を開けてみせた。ヒロアキが呆れたように目を剥いた。
「何甘えてんだよ? 起きて自分で食え」
だがユウジは冷ややかに返答した。
「だから動けねえんだって。腰。まだ痺れてんの。おまえ、やり過ぎなんだよ」
「ああ、そう……ごめん」
ヒロアキはちょっと恥かしそうに頬を染め、申し訳なげに謝罪した。その様子が可笑しくって、ユウジはくすりと小さく笑った。
彼が口まで運んでくれた寿司を幾つか食べ、いそいそと甲斐甲斐しく持ってきてくれたビールを飲み、ようやく人心地がついてユウジは大きく深呼吸をした。横ではヒロアキが食後の一服とばかりに、また煙草をふかしている。ユウジはそっと声をかけた。
「ヒロ、向こうのテレビの横にさ、紙袋があるんだ。持ってきてくれよ」
「おい。いい気になって人をこき使いやがってよ」
文句を言いながらも言われた通りに運んできたそれを受け取って、ユウジは半身を起こし、改めてヒロアキに差し出した。
「ほら」
「……なに?」
「だから、ホワイトディ。すげー遅くなったけど」
ヒロアキは一瞬目を丸くし、すぐに嬉しそうに顔を輝かせて受け取った。まるで子供みたいに瞳をきらめかせ、開けていいかと問いた答えを聞く間もなく、さっさとラッピングされた包みを開き始めた。
「おー、なんか高級そう。いいのか、こんなもん貰っちまって。やったー、サンキュー」
感情をなんら隠すことなく、満面に笑みを浮かべて喜んでいるその姿を見ただけで、ユウジは苦労した買い物の甲斐があった気がして満足だった。
だけど、本当に贈りたいものはそれではない。
もうひとつ。喜んでもらえるかどうかわからないけれど、なによりも受けとってもらいたいものがある。
ユウジはニコニコ顔のヒロアキを見つめながら、そっと声をかけた。
「ヒロ、紙袋、中見ろよ。他にも入ってるだろ、まだ?」
ヒロアキは素直に中を覗いて、不思議そうに応えた。
「ああ? おう、なんか入ってるぜ。雑誌だ。なんだこりゃ?」
そこには何冊かの住宅情報誌が入っていた。ヒロアキは少し怪訝な顔をしてそれを取り出した。あちこちに幾つか付箋がついている。
ユウジは訝しげなヒロアキをじっと見つめながら、静かに言った。
「あのな、こっちがメインのプレゼントだから。さっきの煙草ケースはオマケだからな、オマケ」
「はあ?」
ヒロアキはいっそう不可解そうに眉をしかめ、雑誌を手にしてパラパラとめくった。
「なんだよ、いったい。おまえ、引越しでもする気? ここ、場所いいじゃねえか。勿体無いぜ?」
「うん。でも……おまえの会社からは遠いし」
きょとんとして顔を向ける彼に、ユウジはちょうど開いたところの付箋でチェックしたページを覗き込みながら、ゆっくりと話した。
「俺の会社からとおまえの会社の中間ったら、その辺りがいいかなぁって思ってよ。でもその辺って、案外家賃高いんだよな。その分店とか一杯あって便利そうだけど」
ヒロアキが不思議そうに呟いた。
「ユウジ?」
「なあ……一緒に、住まねえ?」
一瞬、ヒロアキの瞳孔がくっきりと大きく開いた。
ぽかんと口を開けたまま、言葉もなく目の前の相手を凝視している。ユウジはそんな恋人の反応に胸をドキドキさせながら、不安と期待をごちゃ混ぜにして話した。
「この先、どうなるかなんてわかんねえけど、俺……今はおまえといたいんだ。もっとたくさん、もっとずっとおまえと一緒にいたい」
緊張で生唾が湧き出す。それをこくんと飲み込んで、見つめてくる瞳を片時も離さずに見つめ返しながら、ユウジは必死に想いを口にした。
「一緒に暮らすって、もしかしたらうざってぇかもしれないけど、誰が茶碗洗うとか、どっちが風呂の掃除するだのでもめるかもしれねえけど、それでもおまえといたい。ヒロ、俺、おまえと暮らしたい」
何も言わずに聞き入るだけの相手に困惑しながら、不安を込めて問いかけた。
「なんとか言えよ、おい。黙ってねえで。嫌なら嫌でいいからさ」
それでもしばらく間を置いて、やがてヒロアキはポツリと呟いた。
「ごめん」
いきなりの謝罪の言葉に、胸がドキンと苦しく震えた。
「……俺、んなこと、考えたこともなかった。今まで」
「俺だって……ずっと思ってたわけじゃないけど」
言い訳めいた言葉を返しながら、ユウジは唇に苦い笑みをうっすらと浮かべた。
「なんか、昨日急にそう思って……。俺たち、なかなか時間合わなくて、逢う機会とれないし、でも一緒に住んでたら少なくとも毎日顔は見れるし、おはようとかおやすみとか、挨拶ぐらいは交わせるし……だから、少しはましかなって……急に考えて。そしたらなんだかその気になっちまって、本買ってチェックしたりさ……」
口にしながら、ふいに自分ひとりが空回りして先走ってる感じがし、ユウジはきゅっと唇を噛み締めた。ばかな夢を見てしまった自分が突然くだらなく思えてくる。焦って無理やり明るく笑顔を作り、サッパリと言い放った。
「でもやっぱ、面倒だよな。無駄な金も掛かるしさ。それに喧嘩ばっかしてっかもしれないし。やっぱり今まで通り……」
話しているところを突然ヒロアキが抱きついてきて、そのままベッドに押し倒された。
ひとまわり大きな体をずっしりと預けられて、身動きひとつできなくなる。ユウジは面食らって囁いた。
「お、おい、ヒロ?」
上から圧し掛かったまま、ヒロアキの両手がユウジの頭を挟み、そのままグシャグシャと髪を掻き乱した。
「わっ、ヒロ! 何やってんだよ、おまえ! こら、よせって!」
「……やべえよ」
「ええ?」
「やべえって。俺、泣きそ……」
「え?」
ヒロアキは顔をベッドに突っ伏したまま、ユウジの耳元でぼそぼそと呟いた。
「泣かすなよ、ばか。カッコ悪いだろ?」
「……ヒロ」
長い間沈黙がある。
互いの息づかいだけが響く静寂がある。
重なり合った胸と胸が、それぞれの鼓動を相手に伝え、愛しい者がそこにいるのだと教えてくれる。
随分経ってから、耳の傍でゆっくりとしたヒロアキの声が聞こえた。
「週末……。時間とって、部屋見にいこう。一緒にさ」
なんの飾りもない言葉が、ユウジの目頭をしっとりと熱く濡らした。
ユウジは唇を噛み、腕をヒロアキの背中に回して抱きついた。返事は、たった一言しか返せなかった。
「……うん」
ベッドの端から雑誌がバサリと床に落ちた。
その拍子に、付箋のついたページがぱらりと開く。
左の片隅、ペンでくるりと丸をつけてチェックしたアパートは、真っ白な外壁の建物だった。
新しい時間の始まりが、その向こうに覗いているように思えた。ほんの少しの微笑みとともに。
≪ 終 ≫ |