Dangerous night!   ー同棲編ー

目次に戻る

ー overture                        
 

 森太郎はここ数日間、大層ご機嫌だった。
 それはもう、会社のエレベーターの中で一人密かに鼻歌を唄ってしまうくらいにだ。
 理由はきわめて単純明解。なんせ先週の週末から、憧れの先輩・風倉啓太と寝食を共にすることになったからである。
 いや、憧れと言うのは多少の語弊があるかもしれない。森太郎の「今一番のお気に入りなオモチャ」というのが最も適切な表現と言えるだろうか。
 風倉啓太は森太郎より三つ年上の、会社の先輩である。
彼とはチームは別だったが課が同じなので顔は毎日合わせているし、時には共にひとつのプロジェクトに関わることだってある。
 だから遠い存在ではなかったけれど、しかし親しいといえるほどの仲でもなかった。ごくごく普通の、ごくごく社会的な関係。少なくとも一緒に出張したあの日までは……。
 それから一ヶ月。思わぬ不幸で住む処を失ってしまった啓太を、森太郎は半ば強引に自分の部屋へと引きずり込み、これまたかなり無理やりに同居生活を承諾させた。
 それはもちろん下心をもって画策したことではないし、不測の事態の末の結果ではあったのだが、森太郎にとってみれば、まさしく降ってわいたような幸運と言えるものだった。
 なんせ会社のみならず、私生活においても啓太をずっと近くで見ていられることになったのだから。
 森太郎は彼を大変気にいっていた。
 今の会社に入ったのも、就職活動の会社回りで彼を見かけて一目惚れしたからに他ならない。
 あんな男と一緒に働けたら退屈しないでいいかもしれない、と漫然と期待して入社し、そしてそれは見当外れではなかった。
 くるくるとよくまわる表情に熱血単細胞型のわかりやすい思考は、まるで万華鏡でも見ているみたいで楽しくてたまらない。
 時々ドジを踏んでハラハラさせられるが、それがまた目を離せなくて惹きつけられる。森太郎にとって、啓太は何よりも興味を惹かれるオモチャのようなものだった。 
 が、決して深く邪な想いを抱いているわけではないのだ。単純に、見ていて飽きなくて面白いと思っているだけである。
 啓太がごくごく普通の性癖の男であることは一目見てわかっていたし、そんな彼だからこそ新鮮に感じたのかもしれない。ゲイの自分が本気で迫って落ちる相手とは思えなかったし、あまりその気にもならなかった。
 近くで見て、楽しんでいられればそれでいい。どうこうしようなんて気持ちは端っから抱いてない。
 そんなストイックな楽しみに興じていた森太郎だった。
 が、それでも傍にいる時間が増えれば嬉しいし、ただの同僚よりは少しだけ深い関係になるのはやっぱり喜ばしいのである。その結果が、一人密かな鼻歌、なのであった。
(明日は休みだし、何か凝った料理でも作ろうかな? 風倉さん、どんなのが好きなんだったか……)
 営業回りからの帰社途中、森太郎はきりりとして冷たくすら見える端麗な顔だちに表情一つ表すことなく、そんなのほほんとしたことを考えていた。
 エレベーターを降りて営業一課の部屋に戻る途中、ちょうどトイレから出てきた啓太とバッタリと出くわした。
「おお、皆川。今戻りか? お疲れー」
 人好きのする顔に子供みたいな屈託ない笑みを浮かべて、啓太は明るく声をかけてきた。森太郎もそれまでのクールな無表情を少しだけ緩めて応えた。
「どうも。ただいま戻りました」
「何処行ってたんだ? ASAKA商事?」
「ええ、ASAKAと総合保障に。総合の方、来週辺り競売になりそうですよ、風倉さん」
「えっ、そうなの? やばいじゃん。あの製品、上から値下げの指示出てないんだよなぁ。今の値段だと取れないぞ、仕事」
「そうですね。一応担当の方に内密にってことで希望価格を伺ってはきましたが、はたしてどこまで近づけられるか」
「うーん、逃がすと痛いよなぁ、あそこは。関連で結構小さい仕事回してもらってるからなぁ」
「課長にもその辺のところ話しておきますけど、なんとか取りたいですね」
「うん、K―サービスにだけはやりたくねえなぁ」
 廊下を並んで歩きながら、二人は熱心に仕事の会話を交わした。
 と、部屋の少し手前で啓太は急に足を止め、森太郎の袖を引っ張ると、顔を寄せ声を潜めて話し出した。
「なあ、皆川? おまえ、今夜ってなんか出かける用事あんの?」
 こそこそとトーンを落とした内緒話。
「え、今夜ですか? 別に今のところ何も予定はないですけど」
「じゃあさ、ちょっと俺に付き合ってくれない? な?」
 いきなりの誘いに森太郎はちょっと驚いた。嫌われてはいないだろうが、好意をもたれているかどうかは甚だ疑問なところだったので、こんな風に彼から何かに誘われるとは思ってもいなかったのである。
 内心少し心を躍らせながら、森太郎はあくまでポーカーフェイスを崩さずに応えた。
「いいですけど、なんですか?」
「んーと……さ、ビデオ。見たいビデオがあるんだよな、俺」
「ビデオー?」
 森太郎は思わず呆れた声で問い直した。
「ビデオ鑑賞に付き合えってんですか? ……まさか風倉さん、俺にAV見せるつもりじゃないでしょうね? やですよ、女の裸見るのなんて」
「バッカ。何言ってんだ、このやろ」
 啓太は頬を真っ赤にさせて言い返した。
「誰がポルノビデオだって言ったよ。そんなんじゃねえの」
「じゃなんですか?」
 森太郎が尋ねると、途端に彼は嬉しそうな表情を浮かべて、悪戯っぽくニンマリと笑った。
「それは内緒。夜までのお楽しみってな。じゃさ、俺帰りにレンタ屋よってくから。おまえ、残業ある?」
「七時前には会社出られると思いますけど。じゃ、飯でも作って待ってますから」
「うん」
「何食べたいですか?」
「あー、なんでもいいぜ。えーと、スパゲッティ。あの唐辛子の入った辛い奴」
「ペペロンチーノの名前くらい覚えてくださいよね。わかりました」
 森太郎が頷くと、啓太はさも満足そうに目を細めた。その幸せそうな顔に、思わずつられて笑ってしまう。
 同居当初は何かと警戒していた啓太だったが、生来の呑気さからか数日もするとかなり慣れたらしく、打ち解けた表情を見せるようになっていた。始めは随分とぎこちなかった二人の生活も日を追うごとに少しづつ上手く噛み合って、今ではこんな風に周りの目を盗んではこっそり秘密の会話を交わしたりもする。
 今夜は遅いだの、何を食べたいこれを食べたい、飲み会だから食事はいらないなどと非常にプライベートで内密な話である。他人に聞かれたらどう誤解されるかわかったもんじゃない内容だ。
(なんだか周囲に内緒で結婚した新婚みたいだよな……)
 二人はそれぞれの心の中で、そんな風に思っていた。もっとも、それを喜んでいるのか、ひたすら困惑しているかは、各々の気持ちの中で大分違っていたことだろうが。
 金曜日。一週間の仕事が終わって、よほど運のない者以外は喜び勇んで帰る夜。
 森太郎もまたさっさと残業を片付けては、家の近くのスーパーで二人分の食材を買い込み、急いで帰宅し、いそいそと晩飯作りに精を出した。
 気分はほとんど新婚の嫁さんのノリである。
 森太郎は啓太と一緒に住むようになって、人の世話をするのが嫌いじゃない自分を発見し、驚いていた。もともと人にあれこれ世話を焼かれるのが大嫌いな性格なので、その分自分のことはなんでもこなしはしたが、それを誰かにしてやって喜びを感じようなどとは思ってもいなかった。
 もちろん好きでもない男の面倒なんてこれっぽっちも見たくはない。が、気にいった相手――啓太になら、大抵のことは苦にならない。掃除も洗濯も料理も、口ではなんやかやと皮肉を吐いたりからかったりしたけれど、その実彼の世話を焼けるのがなんとも嬉しかった。
 湯だった鍋にパスタを入れながら、彼はわりと柔らかめの麺が好きだったはず、などと考えている自分にふと気づき、ふうん、俺って案外家庭的なマメオくんだったんだな、なるほど……と、妙な感慨を抱く森太郎であった。
 今夜のリクエストは簡単なものだから手間はかからない。だけど何を出しても美味いを連発してくれる相手がいると、どんなものでも頑張って作ろうかという気になってくる。
 そして今日もまた、程なくして帰ってきた啓太と小さいテーブルで向かい合って食事をとり、自分の料理に本気で感動して食らいつく彼を見て、森太郎は腹も気持ちも充分に満足するのであった。
 



 夕食を終え後片付けも済ませ、二人ともシャワーを浴びてサッパリとしたところで、啓太はおもむろにレンタルビデオ店の袋を差しだし、大袈裟にポーズをつけて言った。
「じゃじゃーん。長らくお待たせ致しましたぁ。本日のビデオターイム!」
 ニコニコとやたら嬉しげな顔で、中から三本ほどのテープを取り出してずらりと並べる。そんな啓太を黙って見ていた森太郎だったが、目の前のテープを目にし、思わず呆れた声をあげた。
「なんですか、これ?」
「え、何? 何って、見ての通りだよ。KADOYAレンタル店特選のホラー映画、恐怖の『死霊』シリーズ3本立て」 
「死霊シリーズぅ?」
 森太郎は呆気に取られてそのうちの一つを手に取った。『死霊の臓物』とおどろおどろしい文字でタイトルが書いてあった。ケースに載っている写真はいかにもと言う感じの、半分溶けたゾンビみたいな怪人と、恐怖におののいている美女美男。飛び散る血潮に貴方はどこまで耐えられるか、なんて安っぽいコピーが添えてある。他の二本も似たり寄ったりの代物だった。
 森太郎はげっそりとした気分を隠すことなく尋ねた。
「貴方が見たいビデオってこれのことだったんですか?」
「うん。俺、ホラー映画って大好きなんだ」
 啓太は少しも悪びれた風もなく、ケロリと答えた。
「でもこーゆーのって一人で見るの怖いじゃん? だから独り暮らしの時は見れなくってさ。神林誘っても、あいつ、この手の嫌いですぐ逃げやがるし。もうずーっとずーっと見たかったんだよなぁ、この3本! 今夜こそ念願叶えてやるぜ、ちくしょーっ」
 固く握り拳をつきあげ、それは嬉しそうに目をキラキラさせている。ふいに森太郎に顔を向けて、心配そうに問いただした。
「あ、おまえどお? こーゆーのってダメ? 怖くて見れない方か?」
「いえ、別に……怖いとは思いませんが」
 そんな悪趣味な物見る趣味はない……と唇まで出掛かったものの、キラキラ顔の啓太を前にしてはとても言い出せはしなかった。
「んじゃ見ようぜ。あ、電気消そうな。やっぱホラーは暗い部屋で見るのが醍醐味ってもんだ。電気電気―っと。おっと、飲み物も用意しておかなきゃ。皆川、おまえビールでいい?」
 いそいそと鼻歌交じりに動きまわる彼を見ながら、まあ、ろくでもない恋愛物を見させられるくらいなら、ろくでもないホラー映画の方がまだましか……などと諦め気分で考えていた森太郎だった。
 が、その後にどれほどとんでもない事態が待ち受けているかなど、これっぽっちも予想はしていなかったのである。




 映画は、まったく予想していた通りの内容だった。
 若い男女が森の中で道に迷って何やら怪しい家へと辿り着く。そこで、よせばいいのに勝手に中を探っては、いっそう怪しい地下室なんぞを発見する。これまたやめときゃいいのに降りていっては謎のお宝を見つけ出し、ご丁寧に中を暴いて怪物を復活させる。その後はもう、嘘くさい血と内臓と肉片の雨嵐だ。全員が大袈裟に騒ぎまくるばかりの展開だった。
 森太郎は、あの台詞の翻訳がおかしいだの、この演出ではこの設定が生かされてこないなどと、心の中でいろいろと難癖をつけながら冷めた気分で眺めていた。
 だが、まるっきり退屈という訳でもなかった。なんせ映画の最中に啓太がなんやかんやと話し掛けてくるのだから。
「な、なあ、あれ。あれ何? 皆川?」
「さあ。ゾンビですかね」
「うひゃあ、今なんかふっ飛んだぞ! あれ、なんだよ?」
「心臓でしょ」
「こ、こここ、こぇーーーっ、怖いっ! 怖すぎるぞ、これーっ!」
「本当に怖いんですか、こんなもんが?」
「え? おまえ、怖くねえの? これ怖くねえの、皆川ぁ?」
 大きな瞳を一杯に見開き、ウルウルさせながら真剣に聞き返してくる。はっきり言って、映画を見ているよりは啓太を見ている方が数倍面白いというものである。
 森太郎は漫才のような会話に適当に相槌を打ちながら、彼なりにこの映画鑑賞会を楽しんでいた。
 どうやら啓太はホラー好きと騒いでいるわりには、滅法この手のものに弱いようだった。その辺の女の子ですら笑い飛ばしそうなシーンにも、ギャアだのヒーだの叫んで額に汗して見入っている。森太郎は内心で、なんて可愛いんだろうなどと鼻の下を伸ばしつつ、ちらちらとテレビと啓太を交互に見つめていた。
 そんな風に小一時間が過ぎただろうか。
 ふと気がつくと、先ほどまでソファーの端と端で見ていた筈の二人の位置が、何故かぐっと近くなっていた。
 いや、森太郎はそのままであった。啓太が擦り寄ってきているのである。
 少しづつ少しづつ身を寄せて、そのうちピッタリと体の片側が触れ合うほどにまで接近してきた。森太郎は無言のまま、眉をひそめてそろりと横を見やった。
 啓太は真剣な顔で映画を見ていた。他のことなどこれっぽっちも頭の中に無いようだ。多分自分がこんな風に擦り寄ってきていることすらわかってないに違いない。恐怖にかられて、少しでも生身の人の気配を感じて安心したいといったところなのだろう。
 森太郎は……ちょっとドキドキした。
 暗い部屋の中、今一番気にいってる男と二人っきりである。
 しかもたとえ相手にその気がないとは言え、ぴったりと密着した体と体。肌に感じる相手の熱。荒く乱れた息づかい(これは映画のせいだったが……)。
 これでときめかなくてはゲイじゃない。
 こんな時、相手も同類ならばすかさず手を伸ばして抱きしめるところだったが、さすがにノンケの啓太にそんな真似はできず、森太郎はやむなく身動きひとつしないよう心がけた。
 今の状況を彼に意識させてしまったら、きっとすぐに飛び離れてしまうだろう。せっかくの触れ合いのひとときを自分から壊すなんてとんでもない。
(これって……なかなか美味しい状況だよな。役得……)
 手のひとつも握りたいところをぐっと堪えて身を任せていると、ふいに太股の上に置いてあった手をいきなりぎゅっと掴まれた。
「…………」
 森太郎はドキリとした。
 ちらりと見ると、最初左手だけだった彼の手がすぐに両方伸びてきて、しっかりとその双掌に包み込まれた。更にそこに力がこもり、その上啓太はあろうことか自分の胸にまで持っていって、ぎゅうとばかりに抱きしめる。どくどくと高鳴る胸の動きが手から伝わって感じられた。
 森太郎はちょっとだけ困惑した。
 嬉しい状況……と言えなくはない。だが同時にこの状況は少々辛い。
 その気のない相手に煽るだけ煽られて、お預け食らわされているようなものだ。しかも何も意識してないだけにたちが悪い。
(……わかってない……んだよな、やっぱり。無意識なんだよな……)
 彼をそっと伺い見ても、やはり眼差しは画面に釘付け、目は真剣である。固く歯を食いしばっているあたりが、なんとも面白おかしく、いとおしい。
 そのうちビデオはクライマックスに近づいて、そのおどろおどろしさと大袈裟さがいっそう度合いを増してきた。血が画面いっぱいに飛び散り、怪物が主人公を追い詰めそうになる度に、啓太はビクビクッと身を震わせた。
『きゃあああ!』
「うひょああっ!」
 ビデオの中の主人公と一緒になって悲鳴をあげたかと思うと、啓太は一瞬手を離し、そのままガバッと森太郎に抱きついてきた。最初は腕にだけ……だが段々と手が伸びて、胸の上にまわされ、ずりずりと更に進んで最終的にはほとんど羽交い絞めの如く力一杯すがりつく。
 森太郎は全身に彼の震える体を感じて、呆けたように硬直した。
(こ、これは……)
 思ってもいない事態であった。
 彼と抱き合えて――これを抱き合ったと言えるのならばだが――とても嬉しい。でも困った。だけど嬉しい。しかしどうしよう……。
 気持ちはその両端をシーソーの如く行き来し、森太郎の鉄のような理性をかき乱した。相手が啓太でなかったら、ノンケだろうがなんだろうがかまわず押し倒していたところである。しかし彼は会社の同僚で、これからも長い付き合いを必要とする相手だ。一時の激情でモノにするには余りにもリスクが高い。
 なにより、その気のない啓太を奪うなんて乱暴な真似はとてもじゃないができはしない。大好きな彼だから尚のことに……。
 結局、森太郎にできるのは、ただ黙って成すがままにされているだけであった。
(こいつは……美味しいなんてもんじゃないぞ。拷問だ……)
 うずうずと疼く気持ちとじわじわと焦れる下半身を必死に抑制しながら、森太郎はひたすら耐え忍んだ。
 伸びかける手を抑え、危うく爆発しそうになる衝動をかき消し、更に何事もないように平然とした態度をとり続ける。それはまさしく拷問であり、理性と欲望のせめぎあいだった。
 そんな密やかな葛藤の中で、やがてビデオはようやく終わりを告げ、森太郎は内心ホッとした。これ以上あの状況が続くのはとてもじゃないがやってられない。
 しかしやっと離れた啓太の口から飛び出したのは、明るく能天気な一言だった。
「よっしゃあ、次行くぞ、次。『続・死霊の臓物』だぁ! ホラー三昧の夜だぜ!」
(げっ。か、勘弁してくれよ……おい)
 かくして、森太郎はその夜三本のビデオをまるっきり上の空で見る羽目になったのであった。
 恐怖の『死霊』シリーズをなんとか全て見終えたのは、もう深夜の二時も近い時刻だった。
 ぐったりと疲労困憊な森太郎に比べ、啓太の方はあれだけ怯えて震えていたにも関わらず、さも満足そうにニコニコと上機嫌だった。
「いやぁ、面白かったぜ! やっぱこの監督のはすげぇくるよなぁ。特殊メイクもいい出来だし、音楽も超怖いし。さすがだよな。なあ、皆川?」
 森太郎は口の端をピクピクとひきつらせながら、強張った笑みを返した。
「ええまあ。貴方が満足したのなら良かったです」
「おしっ、じゃまた近いうちにホラービデオナイしような。まだ見たいの沢山あるからさ」
 森太郎は思いっきりゲッソリした気分を、なんとかいつもの冷静なる表情の下に押し隠し、曖昧に返事をした。次回は何かにかこつけて絶対にパスしよう……などと心中で思いながら。
 その夜、森太郎は心底疲れきってベッドに入った。
 まったく今夜のビデオ鑑賞会は予想外の展開だった。啓太と共に暮らすのは楽しいことばかりだと思っていたが、どうやらそれだけでは済まないようである。そこには多大な「忍耐」という根性と精神力が必要だと言うことを、森太郎はしっかり思い知らされた。
 いや、そんなこと始めからわかってはいたのだ。問題は、それがどれほど辛くて苦しいことか、高を括っていたと言うことだ。
 加えて、あの啓太の無防備な天然さも……。
 森太郎は枕を抱えてハアと大きな溜息をついた。
(参ったな……。まったく、俺としたことが……)
 自分が本当はどれだけ啓太に惹かれているかを己自身に見せ付けられた気分だ。ただ興味があるだけ。かまうと面白いから傍に居たいだけで決して深い想いを抱いているわけじゃないのだと思っていたのに、どうやら心は勝手に前へ前へと進んでいたらしい。
 いつのまにかただのオモチャを超えている。
 でなけりゃ、こんなに普通でいることが苦しい筈はない。自分を抑えることにこれほど苦労なんてしやしない。
(ばかやろう……。風倉さんは世界が違うんだ。愚かな期待は抱くだけ無駄なんだぞ……)
 そう頭に言い聞かせても、気づいてしまった想いを封印するのは難しい。森太郎は再度大きく嘆息した。
(とりあえず……寝よう)
 頭まで布団を引き寄せ固く目を閉じたら、眠気はすぐに襲ってきた。それほど疲れていたということか。
 うとうとの後にほどなく深い闇が訪れる。意識が心地良く薄れていった。
 と……。いきなり肩をゆさゆさと揺すられて目が覚めた。目を開けると、すぐそこに啓太がいた。
 森太郎はわっと小さく叫んで飛び起きた。アドレナリンが一瞬にして全身を駆け巡る。
「風倉さん! なにやってんですか、そんなことろで。驚いた……」
 啓太は頭をカリカリと掻きながら笑った。
「あ、わりぃわりぃ。もう寝てた? おまえ、相変わらず寝付きいいのな」
「……いったい、なんですか? どうしたんです?」
 森太郎は訝しげに眉をひそめて尋ねた。二部屋の森太郎のマンションは、一部屋は彼がそのまま寝室として使用し、居候の啓太はリビングの一角にベッドを置いて寝ている。不可侵条約があるわけではないが、いつもなら啓太は決してこの部屋まで入ってくることはなかった。ましてや夜は尚のことに。
「あのさ……。なあ? 悪いけどな、一緒に寝てもいい? 今夜?」
「…………」
 たっぷり数秒沈黙した後、森太郎は気の抜けたような返事を返した。
「はあ?」
「いや、ホラー見たじゃん? 一人で寝るのすっげー怖くってさ。だから今夜だけここで一緒に寝かせてもらおうと思ってよ。頼むな、皆川」
 そう言うと、自分の枕を抱いたまま返事も待たずにゴソゴソと横に潜り込んできた。当然ながら森太郎は思いきり慌てふためいた。
「ちょっ……! 風倉さん! そんな、一緒にって……」
「あー、寝てるとこ邪魔してゴメンな。おまえも寝ろって。ふうう、あったけぇ」
「ちょっと、風倉さん」
「んー、おやすみぃ、皆川」
 既に半分まどろみかけた瞳を向けて、柔らかな笑みでささやく。森太郎は呆気に採られたまま返答した。
「おやすみなさい……」
 呆然として見つめていると、啓太はすぐに軽い寝息を立てて眠り始めた。何も考えちゃあいないような、小さな子供みたいに安らかな寝顔である。森太郎はしばらく物も言えずに固まっていたが、やがてがっくりと肩を落とし、思いっきり深く吐息を付いた。
 額を押さえ、小さく呟いた。
「おい、嘘だろ……。勘弁してくれ……」
 そりゃ一度は一緒のベッドで寝た仲だ。しかしあの時とは何もかもが違っている。二人の距離も、状況も、何より心がまるで違う。
 それにだ。先ほどまでさんざ燻られ続けたイケナイ欲望。せっかく必死になって堪えたってのに、これでは消えかけた火に油を注がれているようなものだ。しかも燃焼率100%の純度の高い油をである。しかもしかも、ドクドクドクと遠慮なく……。
 森太郎は気持ち良く寝ている啓太をちらりと見やると、今夜何度目になるかわからない溜め息を漏らした。
「もう……本気で襲いますよ、風倉さん……。いいんですね?」
 そしてしばし寝顔を見つめていたが、やがてくるりと背を向けると再び夜具の中へと戻った。なるだけ啓太から離れるようベッドの端っこに身を寄せて。
 勿論、その夜は長い間眠りにつくことはできなかった。燃え上がりかける衝動を何度も理性で抑えつけ、その度に唇からは深い溜め息が零れ落ちる。
 だが森太郎は、そんな苦労に満ちた今宵の一夜が、これから始まる壮大な狂想曲のほんの序曲であることに、いまだ気づいてはいないのであった。


 注:overture……オペラやバレエなどで初めに演奏され, 導入の役割をする管弦楽曲。序曲のこと。
 
     
                                            ≪続く≫

次の章へ
目次に戻る
感想のページ