人間の部屋 |
少年に押されて飛び込んだそのドアの向こうは、たいそう不思議な部屋だった。 部屋を取り囲む壁はどこまで目を凝らしても存在せず、四方八方、まるで永遠のように果てしなく広がっている。上を見上げると天井もまた、その先は闇に霞んで見えないほどに高かった。 広い広い、広すぎる部屋。この世のものではないように。 篤志はその部屋に立ち、ぞくりと背筋に悪寒を感じ、震えあがった。 広すぎる部屋が恐ろしかったわけではない。怖かったのは、その部屋に置かれていた無数の白い人形だった。 篤志の立っている場所から半径二メートルほどをのぞいて、部屋はたくさんの人形で埋め尽くされていた。 真っ白な人形……。フランス人形やアンティックドールのような、鑑賞用として華麗に細工されたものではなかった。もっと大きくて人と同じぐらいの姿形をしていたが、マネキンのような人間臭さを感じさせるものでもなかった。 それは目も口も描かれていない、髪もない、まっさらな顔をしていた。遠い中世においてヴェネチアで作られた仮面のように、端正に美しく整えられた顔立ちながら、表情は一切なかった。目もとの部分はぽっかりと空洞になっており、その向こうに深遠なる闇が広がっている。まっすぐに閉じられた形良い唇は、見つめていると今にも口の端が持ちあがってニヤリと微笑みそうであった。 人形たちはどれも裸で、衣服を着けているものはひとつとしてなかった。どれもが、のっぺりとした体に四肢をだらりとぶら下げて立っていた。 それは糸が切れたマリオネットを連想させた。生気のない無機質なガラクタの山。だが、だからこそ、突然ふいに動き出した時の限りない恐怖を感じさせた。 篤志は独りごちた。 「……な、なんなんだ、ここは?」 問うてみたところで答えが返ってくるとは思えなかったし、自分自身にも到底見つけられるものではなかった。それがただの小さな部屋ならば、使用されなくなった人形の物置かとも考えたかもしれない。だが今目の前に広がっているのはそんな程度のものではない。理屈で理由をこじつけられないほどの、無限なる存在だった。 篤志はおそるおそる足を踏み出し、人形へと近づいた。手を伸ばし、一番前の一体にそっと指先を触れてみる。それはヒヤリと冷たかった。 ……と、ふいに篤志が触れた人形の輪郭がぼうっと霞んで、それは別の形へと変化した。篤志がとてもよく知っている、一人の人物の顔かたちに……。 人形の唇が薔薇色に染まり、うっすらと開いたかと思うと、やがてニッコリと微笑んだ。 篤志は蒼白になってあとずさった。 「……夕日?」 それは、誰よりも愛しい者の顔だった。彼が愛して止まぬ、一人の少年の姿だった。 「ど、どうして……?」 思わず逃れるように後退して、どんと後ろにあった人形にぶつかった。冷たい肌に手が触れ、ビックリして引っ込めた。無意識に振り返ると、そこには別の見知った顔があった。 「兄……貴?」 それは海外出張中の懐かしい兄の顔だった。そしてその横には父親の顔が、更にその逆には、今はもういない母の姿があった。 気がつくと、周りの人形たちはすべて誰かの顔をしていた。 クロスオートの店長の顔、スタッフたち、それに新城や理香もいる。その他にも学校のクラスメートやら昔の友達やら、教師、バイト先の仲間、近所の者たちなど、どこかでいつか出会ったはずの、様々な人間たちの顔をしていた。 篤志はぐるりと四方を見回し、口の中に溜まった唾をごくりと飲み込んでつぶやいた。 「……これはいったい……なんだ?」 それは……まさしく人間の部屋だった。 篤志が産まれてからこれまでの間に出会ってきた、すべての者の顔があった。もちろん忘れていたり記憶にない顔もたくさんあったが、見つめていると、不思議と一度出会った者はどこかで互いに過去を共有する存在であったことが感じられた。 だが一方で、どうにもなにも感じない者たちも多くいた。だがすぐにその理由を理解した。それらは、多分これから先に出会うであろう者たちの顔。過去ではなく、未来において人生を共有する者たちなのだ。 (それじゃあこいつらは、俺が生きている間に出会うすべての人間たちだっていうのか……?) 篤志は改めて自分を取り囲む無数の人形たちを見渡した。たくさんのたくさんの。顔、顔、顔。中には道ですれ違っただけの顔もあったかもしれないし、産まれてまもない新生児室で、隣に寝ていた顔もあったかもしれない。あるいは、行く末において深い関わりを持つ者もいるのかもしれない。 それは篤志の一生そのものであった。彼が産まれて死ぬまでの、すべての足跡の形だった。 ふと、篤志はそのたくさんの顔の中に、一体だけ誰の顔をもしていない人形を発見した。 まっさらな人形のまま。表情のない、仮面のような顔のまま。篤志が怪訝に思って見つめていると、その人形はやがてゆっくりと歩を進め、篤志の元へと歩いてきた。居並ぶ他の人形がスルスルと道を開ける中、それは静かに静かに近づいてきた。 そして、やがて篤志の真ん前まできて足を止めた。ほんの1メートルほど前に立ち、黙って篤志を見つめている。まるで、なにかを待つように。 篤志はコクンと息を飲んだ。 さきほど、一番先に変化したのは手を触れた時だった。ならば、これも触れれば誰かの顔へと変わるのだうか? 誰の顔に? たくさんの顔の中で、いまだ変化することなく最後まで残っているこれは、一体誰に変わるというのだろう? 最後に出会うのは、一体誰なのだろう……? ……触れてはいけない感じがした。それは、絶対に開いてはいけない箱のようなものに思えた。だが同時に、耐えがたい衝動にもかられた。好奇心なんて生易しいものではない。もっと強い、脅迫めいた衝動。押さえがたい欲求。 篤志はぶるぶると震えながら、そっと手を伸ばした。 その時――くん、と背後から服を引っ張られた。ハッとして振り向くと、そこには夕日の顔をした最初の人形が立っていた。 人形は、その目に一杯の涙をためて、ゆっくりゆっくりと首を左右に振っていた。まるでそれは、『ダメ……、ダメ……』と語っているようであった。 「夕日……」 篤志は思わず伸ばした手を引っ込め、自分を引き止める人形を見つめた。夕日の顔をした人形。それが哀しげに自分を見つめている。その薔薇色の唇がうっすらと開き、かすかに微笑が浮かぶ。 その一瞬後に、人形はがららんと音を立てて床の上に崩れ落ちた。 冷たい床に奇妙な恰好で転がっている人形は、もう誰の姿でもなく、最初の無機質なガラクタだった。 篤志が目をむいてそれを凝視していると、今度は周りにいた人形たちがいっせいに激しい音を立てて床に崩れた。まるで吊り下げていた糸が切れたかのように、ガラガラと幾体もが重なり合って山となる。そのどれもが、真っ白な人形の姿へと戻って。 篤志は愕然としてその光景を見つめていた。やがてすべての人形が崩れ、壊れた後に、最後に残って立っていたのは、あの最後まで誰にも変化しなかった白い人形だった。 人形はじっと篤志に顔を向けたまま立っていたが、そのうち、その白い唇が妖しく歪んで開いた。 ――チェ、モウスコシダッタノニ…… そうつぶやいた途端、人形はやはり同じように、ガタンと音を立てて床に転がった。 人形の顔には、もうなんの表情も浮かんではいなかった。ただの冷たい塊だった。 無限に広がる広い部屋に、無限に横たわる白い人形。誰でもない者たちの転がった部屋……。 そこで、篤志はたった一人……立ち尽くしていた。 |