バラードは聞こえない

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 いつの頃からだったのだろう……。

 毎週木曜日のその時間、彼はあそこに立っていた。

 どこかの会社の小さなビル。
 もう事務所の電気も何もかもが消えて、街灯だけが寂しく照らすほの暗い軒下に、いつでもぽつんと立っていた。

 その姿があまりにも儚くて、寂しくて、ずっと心に引っ掛かっていた。
 ずっと心が揺さぶられた。

 あの人は……どうしてあんなに泣きそうな顔をしているんだろう……。




「おーい、水くれないか?」
「はい、ただいま」
 奥の席の客に声をかけられて、俺は慌てて水差しを持って走っていった。
 ガラスのコップを満たして渡したのも束の間、別の客に清算を催促されて、慌ててレジまで駆け戻る。もう一人のウェイター仲間は、先ほどから厨房と客席を何度も往復しては注文の品を運んでいた。
 まったく、今夜も戦争みたいに忙しい。
 俺のバイト先のそのカフェは、繁華街からちょっとだけ外れた通りの、角地の一階に位置していた。
 場所柄そう混むことはないかと高をくくって始めた仕事なのに、実際には店はたいそう繁盛していて、客はひっきりなしに訪れ、店内のテーブルは常にびっしりと埋まっていた。
 不況の折、ギリギリの店員で切り盛りさせようと企んでるせこい店長のおかげもあって、俺たち従業員は本当に忙しくって大変なんだ。休憩を取るどころか、ちょっと裏で一服する暇もありはしない。ましてや、足を止めて外に目をやるゆとりなんてこれっぽっちもなかった。
 カフェは壁一面に大きなガラス窓が広がっていて、内からも外からも見晴らしがとても良かった。ほとんどオープンカフェといった雰囲気だ。
 夜ともなると、明るい店内の様子が煌々と暗い街並みに浮かび上がり、鮮やかに目を引く。
 繁華街の店が途切れ、少し寂しくなりかけたたここいらの風景に、そんな華やかさは妙に暖かく映って酒に疲れた者たちを惹きつけるのだろうか。アルコール類は置いてないにも関わらず、深夜遅くまで客足が途絶えることはなかった。
 大学生の俺は月曜から金曜までの間を、夜シフトの夕方6時から11時までウェイターとして働いていた。
 忙しいけれどそれなりに時給が良いし、職場の雰囲気も和やかだったので、もう半年近く続いている。仕事にも慣れ、大変な中にも少しだけ余裕を持てるようになった俺は、いつの頃からか毎週木曜の夜を密かに待つようになっていた。
 彼が来ることに気づいていたから……。
 

 彼は、いつもぽつんと一人で立っていた。
 時間にすると九時から九時半ぐらいの短い間。
 いつの間にかやって来ていて、店と道路を挟んだ向かい側のビルの軒下に、寂しそうに佇んでいた。
 ぼんやりとこちらを見ながら、だけど決してその視線は何かをとらえている訳ではなく、どこか遠いものを、遠い誰かを追っている。
 最初は客引きか、出なければ売りを目当てに立っているタチンボなのだと思った。
 だがすぐに思い直した。だってこんな時間にこんな場所で、いったい誰を引っ掛けるというんだ。そんな目的なら、もっと人通りの多い場所や、その手の女――もしくは男が集まってくる通りを狙うだろう。
 だいたい服装からして違ってる。ごくごく普通の、いかにも若いサラリーマンという感じの安っぽいスーツに、脇に抱えた小さなセカンドバッグ。地味な色のネクタイ。くだけすぎてないヘアスタイルは少し長めの薄茶色。どう見てもただの男だ。
 いや……ただの男と呼ぶには、少しだけ語弊があるかもしれない。
 彼はとても奇麗な顔をしていた。ほっそりとした顎や、すっと通った鼻筋が、遠目にもはっきりとわかるほどに整っていた。
 だけど俺が目をひかれたのは、そんな容姿のせいじゃなかったんだ。
 立っているその光景が、あまりにも辛そうだったから。見ているだけで胸が痛くなったから。
 彼はほの暗い軒下に、いつもぽつんと一人で突っ立っていた。
 何故そんなところにいるのか、どうしてそんなに泣きそうな顔をしているのか、俺は気になってしょうがなかった。気になって気になって、いっそ駆け寄っていって尋ねてみようかと思うほど心に残って……。
 だけど、それはいつも忙しさの中でうやむやにかき消されてしまっていた。
 立っている彼を見つけては、だけどじっとその動向を見守る暇もなく、気がついたら、いつのまにか姿を見失っている……。
 だから俺の疑問は、もうずっと持ち越されたままだった。心の中で密かに膨らんでいく想いと共に。
 そう、俺はいつしか彼の訪れを待ってたんだ。それが俺の為の行為じゃないことはわかってはいたけれど……。


 ――その日は、朝からずっとぐずついた天気だった。
 時が経つほどに空模様は怪しさを増し、ぱらぱらと冷たい雨を幾度か落とし、やがて宵も深まる頃にはいよいよ本格的に降りだして、カフェの窓を一面の雫できらめかせた。
「やだ、降ってきちゃった。私、傘持ってこなかったのに、どうしよう」
 なんて、客のぼやく声がちらほらと聞こえていた。
 いつもの夜。いつもの木曜日。
 カフェの銀色の時計は、そろそろ九時を過ぎようとしていた。
 さすがにこの天気とあって、店もいつもほどに混雑はしてなくて、俺は時々ちらちらと外を窺っては道を挟んだビルの軒下を探していた。
(……こんな夜にも来るのかな? あの人……)
 ストーカーよろしく毎週彼の訪れを窺っていた俺は、その行為があまり天気には関係ないことを知っていた。雨だろうがなんだろうが来る時は来たし、来ない時もあった。そこにどんな法則があるのかなんて、もちろん知る由もなかったが。
 何人か客が帰って後片付けに追われ、ふと気がついたら既に彼が来ていて、いつもの場所に一人寂しく立っているのが目に入った。だけどその姿を見つけた時、俺は思わず凍りついた。
 その夜の彼は……傘も指さずに雨の中に立ち尽くしていたから。
 どんどんひどくなる降りの中、すでにぐっしょりと髪を濡らして、ぼんやりと足元を見つめている。
 もう少し奥に立てば少しは雨も凌げるのに、まるで自分を苛めるみたいに、わざと冷たい雫に身をさらしている。したしたとそぼ降る雨が彼の全身を包み込む。
 おまけに、これまでは30分ほどで何処かに行ってしまっていたのに、今夜に限っていつまでたっても消える気配はなかった。
 明らかにいつもと何かが違っていた。
 時折脇を通り過ぎる人たちが、さすがに訝しげな視線を向けていく。だけどそんなことにも関係なく、その人は長い間雨に打たれていた。
 それは、まるでもういらないからと路地に置き去りに去れた小さな子犬みたいだった。
 どこにも行くところがなくて、だけどそこから離れることも出来なくて、ただずっと待ち続けている。誰かを……。
 ……誰を?
 俺は仕事の合間中、まだ立っている彼を見確かめては、せつなさにいたたまれなかった。
(もういい……もういいだろ? 早く帰れよ。帰ってくれよ? なあ……!)
 訳もわからぬまま何度もそう心の奥で叫んでは、届かぬ思いに胸が張り裂けそうだった。
 俺は、バイトがひけると同時に慌しく着替えて、店にあった誰かの傘をひっ掴み、一目散に彼の元へと走っていった。
 俺が前に立ったら、彼は気づいてゆっくりと顔を上げた。
 初めて――彼と向き合った。思っていた以上に美しくて、哀しくて、まるっきりの無表情なのに全身が泣いているみたいで、一瞬にして心の全てを奪われる。
 俺は持っていた傘を差し出しながら、たどたどしく言葉をとぎらせて言った。
「あの……これ、を」
 それしか言えなかった。だって他に何を言えるだろう。俺はずっと彼を見ていたけれど、彼は俺をこれっぽっちも知らないのだ。突然目の前に現れた男が、どうしたのなんて、深い事情を尋ねられる訳もない。
 もしかしたら傘すらも拒否されるかもしれないと思っていたが、彼は素直に受け取って、そしてじっと僕を見た。訝しんでる様子もなく、ただ本当にじっと見つめていた。
 雨に潤んだ薄い瞳。何を語るでもなく向けられる寂しい眼差し。
 あまりにも一心に見つめてくるので俺はいたたまれなくて、そこから離れようと背を向けかけた。その時、突然彼が口を開いた。
「ありがとう」
 意外なほど穏やかな一言だった。だけど、その穏やかさがそぐわなかった。
 俺は無言のまま小さく会釈をし、すぐに身を翻した。これ以上彼の世界に踏み入ってはいけないような気がしたから。
 しかし彼が返してきたのは、俺のそんな心遣いとはまるで反対のものだった。
 立ち去りかける俺に、彼がぼそりと声をかける。
「ねえ……」
「え?」
「暇ならさ……つきあわない? 俺と」
 俺は返す言葉もなく、黙って突っ立っていた。
 突っ立って彼を見つめていた。彼も俺を見つめていた。
 俺たちの上に、容赦なく雨が落ち続けた。冷たい雨のバラードを響かせながら。


 彼に誘われるまま連れて行かれたのは、あの場所からそう遠くはない、安くて薄汚れたラブホテルだった。
 結局全身ずぶ濡れになってしまった俺たちは、冷えた体を温めるのに順番に風呂に入った。
 彼が先に入り、俺が次に済ませてタオルを巻いた姿で部屋へと戻ったら、彼はベッドの上に素っ裸のまんま座って、缶ビールを飲んでいた。
 足元にはもう二つほど殻になったのが転がっている。彼は俺を見ると、うっすらと微笑んで新しい品を差し出した。
「飲むだろ? はい」
 俺は小さく頷いて受け取った。
 そのまま、どうしてよいかわからなくて突っ立っていた。目の前には白い素肌を曝け出している男がいる。飛び込んでくる彼の裸体に心惑わせながらも、男とこんな場所に入ったことのない俺はどう振舞えばよいのか見当もつかなかい。
 所在無く立ち尽くしている俺に、彼は顔を上げると、座ればと横を指差さして静かに言った。俺はおとなしく従った。
 二人して黙って啜るビールの音が、静寂の部屋に滑稽なほど大きく響いた。
 なんだか奇妙な感じだ。
 決してこんな風になることを期待していたわけじゃないのに、断ることもできずについてきてしまった。
 苛立ちと動揺と戸惑いと、そしてほんの少しの興奮。彼の横に縫い付けられたかのように身動きも適わず、だけど何も出来ぬまま、ただ一緒にビールを啜るだけ。
 俺は一体ここで何をしているのか。何をする為にきたというんだろう。 
 彼は俺の困惑を察してか、チラリと顔を向けて哀しげに笑った。
「ごめんね、いきなりで」
 俺は無言のまま首を振った。
「男と……寝たことある?」
 俺はやっぱり首を振るだけだった。
「そっか……。ごめん」
 それ、何に謝っているの……?
 初めて会ったばかりの俺を、こんなところへ連れてきたことへの後悔? それとも、本当に欲しいものの代役として、誰でもいい「誰か」に俺を選んでしまったことへの謝罪なんだろうか。
 そうだ、俺はその頃にはわかっていた。俺は、誰かの代役なんだ。今宵彼といる筈だった誰かの、ただの代わりにすぎないんだ……。
 黙り込んで飲み干したビールはすぐに空になって、俺は掌の中で手持ち無沙汰に弄んだ。
 長い時間を無為に過ごし、そしてようやく低く呟いた。
「……どうすればいい?」
 彼は視線を足元に向けたまま少し間無言でいたが、やがて顔を上げて俺を見つめた。
 じっと見て……静かに言った。
「抱きしめて」
 俺は手の中の缶を床に落とし、腕を伸ばして彼の背中にまわした。
 細くて白い肩を抱き、そっと引き寄せて自分の胸に誘い入れ、もう一方の手でその身をしっかりと包み込む。女の柔らかな感触とは違う男の体。だけど彼の肌は、驚くほど滑らかで奇麗だった。しっとりと吸いつくような手触りがした。
 彼がそっと俺の体に手をまわし、少しの力を込めてすがりつく。俺たちは物も言わずに抱きあった。
 窓の外ではきっとまだ雨が降っている。ずっとずっと止むことなく降り続いている。
 だけどビルの中、厚い壁のこちら側にはなんの音も聞こえてこない。ここにあるのはそれぞれの鼓動と、静かな息づかいだけ……。
 俺は彼を抱きしめたまま、もう一度尋ねた。
「……この後は? どうするの?」
 彼は俺の胸に顔を埋め、消え入りそうな声で応えた。
「いいよ」
「なにが?」
「このままでいい……。これでいいから」
 彼が続きを拒んだのは、俺に遠慮をしたんだろうか。
 それともやはり代役であることが許せなかったからなのかな?
 どっちかなんてわからなかった。だけどその一言とともにきゅっと力の増した腕がせつなくて、俺はいっそうその体を強く抱きしめた。
 欲望に火がともる。もっとこの先に進みたくて、もっと彼を知りたくて、体の中で血が滾る。じりじりと何かが燃える音がする。
 てもそれは性への欲望ではなかった。俺はただ、彼が欲しかったのだと思う。俺の胸の中にいながら、俺ではない誰かのために震えているこの人を、自分のものにしたかった。奪いたかった。彼の、心の中の誰かから。
 だけど俺にできるのは、結局ただの形でしかなかった。
 俺はゆっくりと彼の体をベッドの上に押し倒すと、下から見上げる瞳を見つめながら、静かにささやいた。
「いい?」
 彼は何も言わず、頷くことも首を振ることもしないで、ただ黙って見つめ返していた。
「いやだったら……言って」
 抵抗とイエスの代わりに、その人は俺の背中に手をまわした。
 俺は彼にキスをした。
 何度か真綿みたいに唇を重ね、幾度目かの時に熱く押しつけ、歯列を割って深く舌を差し入れた。すぐに彼がそれに応え、熱っぽく絡みつけてくる。互いに分け合う唾液は甘く優しく、苦く……鼻の奥をつんと刺激した。
 彼の首筋に舌を這わせ、柔らかな耳たぶをそっと前歯に挟み込む。軽く噛んで、ふわりと息を吐きかけたら、小さな吐息が返ってきた。
 男の抱き方なんて知らない……。
 どうすれば一番気持ち良くしてやれるのか、どこが一番感じるのか、何も知らない。知らないけど……。彼の名前だって知らないけど……。
「なんて……呼べばいい?」
「……え?」
「あなたの名前……。なんて言うの?」
 彼は一瞬ためらい、そして逆に俺に問い返した。
「きみは?」
「俺? 俺は……直弥(なおや)」    
「直弥……」
 彼は呟くと、俺の首に腕を絡め、自ら唇を押しつけてきた。荒々しいほどの情熱で俺の唇を吸い、舌で内部を掻き乱した。そんな彼に誘われるように、俺もまた細い体を力一杯抱きしめた。
 もらえなかった答えの代わりに、強く胸の中に閉じ込めた。
 

 熱く滾ったものが、口の中で妖しくうごめく。
 柔らかな先っぽから漏れる苦い雫が、舌の上に広がって俺に続きをねだる。
 もっと、もっと、もっと。
 早く、早く、早く。
 誰でもいいから最後までいかせてよと、せつなそうに訴える。
 俺はそれを知りながら、先に進むのをためらっている。
 いかせてしまったらそれで何もかもが終わる気がして、すべてが失われて行く予感がして、いつまでも中途半端に焦らし続ける。
 俺の口の中に彼を留め置く。
 無意味なことだと知りながら。


 彼が、少し苦しそうにささやいた。
「ね、ねえ……もう、いい。いいよ……やめて」
 細い指が髪に触れ、大事な部分から俺を引き離そうと遠慮がちに押しやった。焦らされ耐え切れなくなったのだろう。せつなそうに顔をしかめてる。
 俺はその手に逆らって、咥えていた唇に力を加え、少し荒っぽくしごいた。突然の強い刺激に、彼の腰が跳ね上がり、頭上から細い悲鳴が響く。きゅっとひそめられた眉は、先ほどとは別の感情を表していた。
 彼は逃げるように体をよじり、かすれた声で訴えた。
「あ、あ……やめて……。あっ……はぁ。イ、イく。イっちゃうから、もういい……」
 俺は唇を浮かせて、くぐもった声で呟いた。
「イきたかったら、イっていいよ」
 彼は悩ましげに唇を噛みながら、いやいやするように首を振った。
「……だめ。慣れないと……気持ち悪く、なるよ」
「平気だよ……」
 俺はかまわず口撫し続けた。
「あっ、直弥……! やめ……て! くうっ……」
 びくんと大きく腰が跳ね、直後、いきなり喉の奥に熱いものが溢れて、俺は危うくむせ返りそうになった。必死にこらえて、初めて味わう男の精を、味と匂いを封じるように大急ぎで飲み下す。
 不思議といやだとは思わなかった。その激しさに驚き、圧倒されたけれど、抵抗は何も感じなかった。何故だか当たり前の事のような気がしていた。
 慌てて放り出してしまった彼のものをそっと口に戻しては、優しく舌で舐めあげたら、彼が微かに声を漏らした。
 すっかり小さくなって、しなだれている彼の分身。まるでそれは雨に打たれていた彼のように、哀れで物悲しい。妙に胸が痛くなる。
 彼は荒い息をつきながら、両手で俺の頭をそっと抱えて、泣きそうな声で呟いた。
「ごめん……、ごめんね。こんなことさせて、ごめん」
 俺は困った顔で微笑み返した。
「なんでだよ? 謝んないでよ」
 唇を噛んで首を振る彼の瞳から、ぽとりと一滴の涙がつたう。胸がきゅっと苦しくなった。
「泣くなよ」
 俺は上にずり上がって、泣いている彼の顔を掴まえた。
「泣くなって。そんな顔しないで。頼むから。ねえ、次はどうしたらいい? どうして欲しいんだ? 教えてよ。俺なんでもするからさ。だから、泣かないでよ。頼むよ……」
 だが彼は俺の胸にすがりついて、その肩を震わせた。こらえていた感情を爆発させるように、途切れ途切れに声をあげる。胸を熱い涙で濡らす。俺はただもう、抱きしめるしか術はなかった。
「なあ、泣くなよ。泣くなってば。ねえ……」
 俺の子守唄みたいな囁きと彼の嗚咽が、部屋の中にいつまでも響いていた。


 彼は遠い何処かを見つめながら、ゆっくりゆっくりと言葉を紡いだ。
 まるで独り言のように、歌のように、朗読のように、悲鳴のように、静かな声で雨に代わるバラードを聞かせてくれた。


 ねえ、知ってる?
 このホテルってさ、入り口が二つあるんだ……。
 俺が表通りから、あの人は裏通りから……いつもそうやって入るんだ。
 誰にも一緒に入るところを見られたくないから、そうするんだ。
 汚くて古い所だけど、都合がいいって、あの人が決めたんだ……。
 だからここだけが、許された場所。
 通りに立ってあの人を待ち、通りの向こうにあの人を見つけて、
 必死にその背中を追いかけて……。
 ここでやっとひとつになれる。ここだけは一緒でいられる。
 そして……また別々に帰るんだ。
 別の出口から、時間をずらして、独りっきりで出ていくんだ
 あの人の背中を見送ることも叶わない……。
 さようならも言わせてくれない……。
 次の約束も交わせない……。

 どうしてこんなに……辛い恋をしてしまったんだろう?


 俺は、俺の胸の中で語られる詩篇のような言葉を聞きながら、震える肩を抱きしめ続けた。
 彼が辛い恋に泣いてるように、俺の心も辛い想いに泣いていた。どうにもできないやるせなさに泣いていた。
「……俺と、しよう?」
 彼の耳元で、精一杯の気持ちを込めて囁きかける。
「一緒にここから出て行こう。手を繋いで、同じ入り口をくぐろう。地下鉄まで一緒に歩いていって、笑ってさよならって、お互いの笑顔に手を振ろう。次の約束を大声で交わそう。俺がそうしてやるから、全部叶えてやるから……だからもう、そんな恋は忘れろよ。そんな男は忘れろ。もういいだろ? な……?」
「あ、あっ……うあ、あ……」
 彼の細い泣き声が身に染みる。
「俺は絶対にあなたを泣かせない。絶対一人にしない。だから……俺と恋をしようよ。俺と……一緒にいよう? もう……泣かないでよ」
 奪えるものなら奪いたかった。
 だけど無理だということもわかってた……。


 目が覚めたら、そこにもう彼はいなかった。
 ベッドの俺の脇は冷たくて、部屋はしんとし、枕もとには脱ぎ捨てた俺の服が奇麗にたたまれていた。
 その上に置かれていた紙幣が二枚。
 他には何もなかった。
 さようならも、次の約束も、ありがとうもごめんなさいも何もない。
 俺たちの間にはなんにも残ってない。
 俺は置き去りにされた金を掴んで握り締めながら、唇を噛み締めた。
「なんでだよ……? どうして一人で帰るんだよ?」
 俺じゃ駄目なんだってわかってはいたけれど、何の力も持たない自分が悔しくてせつなかった。哀しくて、泣けてきた。
「ばかやろう……。俺が、俺が幸せにしてやったのに。俺が、俺が……」
 涙がボロボロとこぼれ落ち、声をあげて泣いた。どうにも止まらなかった。
 俺は生まれて初めて、ただ辛いだけの恋があることを知ったのだ。希望も期待も、何も持たない絶望という名の恋愛を。


 それからも俺は、あの店で働き続けた。
 だけど、木曜の夜に彼があそこに現れることはもう二度となかった。
 そこは彼と誰かの、密やかな待ち合わせの場所だった。だから秘密を他人に知られてしまったら、価値はなくなり、意味も失われる。もう、そこが使われることはないのだろう。多分、あの古くて汚いホテルと同様に……。
 俺は時々仕事の手を止めて、窓の向こうを窺い見た。
 時計が九時をさしても、雨の日も、晴れた日も、ほの暗いビルの軒先にはひっそりとした静寂があるだけで、誰も立ってはいなかった。
 寂しい顔で待つ人はもういない……。
 だけどこの街の何処かで、きっと今でも彼は同じように一人佇んでいるに違いない。
 木曜になったら、まるで辛い恋を確かめるように、寄り添っては歩けない誰かを待つんだ。そして別々にホテルに入って、別々に出ていくんだ。さようならも言えないまま。
 絶望という恋に囚われて、逃げることを拒んだから……。
 それって俺があまりに非力だったから? だから彼を救ってやれなかった、彼を奪い取ることができなかったのか?
 ……いや、そうじゃないよな。だってもともと彼の目には俺なんか映っちゃいなかった。あの人が見ていたのは、俺の知らない誰かだけだ。求めていたのは違う胸の温もり……。
 それでも俺は、願わずにはいられなかった。
 いつか彼がまた俺の前に現れることを。
 あの通りを挟んだビルの軒下ではなく、今度はカフェのこの広いガラス窓のすぐ向こうで、笑って俺に手を振ってくれるのを。
 我慢できなくなって、少し照れ臭そうにドアを開け、店の中へと入ってくるのを。
 俺は毎晩忙しく働きながら、ずっとずっと待っていた。


 カフェは今夜も忙しくて、ひっきりなしにドアが開く。
 俺はその度に、扉の向こうを見つめていた。

 

                                                                                                                ≪終≫

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