『ヒサシ』    by 名古屋あき



 風俗店が並ぶむさ苦しいこの界隈にも、初秋の午後にはときおり涼風が吹き抜ける。
「ちわーす、吉田製氷でーす」
 氷の入った重たいプラスチックケースを抱えたまま重厚な木製の扉を背中で押し開け、いつものバイトの少年が店内に入ってきた。小柄な体に大きめの服、野球帽。勢いよくまくりあげたトレーナーからのびた細い腕に力こぶが浮かんでいる。
―――目の毒だ。
 コオはやわらかい布でグラスを磨き、気づかれぬように透明なガラスを通して配達の少年をちらりとのぞき見た。
「カウンターの中に置いといて」
 いつもならすぐドアのところまで行ってケースを受け取るのに、今日に限って店の奥まで運ばせる。少年は怪しがりもせず、
「はい」
 と元気よく返事をして身軽に動き始めた。磨きこまれたバーの床を白のナイキがきゅっきゅっと歩いていくのをコオは目で追う。
 ここは裏街の男性専用バー『カオス』だ。客はみなゲイで、従業員もその例に漏れない。男しか愛せない男たちが一夜の恋人を探しにくるこんな場所に、見るからに幼い未成年が入り込んでくるという反道徳的な光景が、コオの近頃のささやかな楽しみだった。
 流し台の下までケースを運んできた少年は、
「ここでいいですか?」
 とコオを見上げた。
 十代独特の精力のみなぎったきらきらした丸い目が、コオの細い瞳をまっすぐにとらえる。コオはこの目をキャンディにして舐めたらどんな味がするかしらと思った。
「いいよ。よかったら冷凍庫に入れてもらえると助かるんだけど」
「やりますよ」
 少年はジーンズのポケットからきれいな軍手を出して両手にはめ、流し台の下の氷入れにケースの中身を移した。身のこなしになんとなく弾むようなリズムが感じられる。若い。
「高校生?」
「はい」
「何年?」
「2年です」
「バイト大変でしょう」
「はい、でも学費のためですから…親に専門学校行くの反対されてるんで」
 親身な口調にのせられて、少年は聞かれもしないのに身の上をしゃべった。
 コオは大柄で目つきが鋭いが、その点をカバーして「いい人」に見せる技術を持っている。ちょっと目を伏せがちにして長いまつげを強調し、口元を微笑ませて愛想を言えば、客はたいてい機嫌をよくする。低くソフトな声はこのバーの雰囲気にしっくりとなじみ、夜をなおさら深くする。その声欲しさにわざわざ枕元へ誘う客もいるほどだ。もっとも、この店のオーナーはバーテンと客が個人的に親しくなることを嫌うので、コオはそういう誘いは常に断るようにしている。だがそのせいで「コオはミステリアスだ」とますます一部の客たちの興味が増しているのも知っている。
「ふうん。いまどき殊勝だねえ」
 物わかりのいいおじさんのふりは得意だ。
「そんな、当然っすよ」
 少年はほめられることに慣れていないらしく、野球帽を押し下げてはにかんだ。
「何の専門学校に行くの?」
「調理師です」
「へえ。いいじゃないか。どうして親御さんが反対するのか、わからないな」
 少年が氷を移し終わると、コオはさりげなく彼の背中に手を回し、一緒に歩いて行って入り口のドアを開けてやった。
「がんばってね」
「はい。それじゃ、毎度」
 少年はキャップを取って会釈をすると、外においてあった業務用の自転車にまたがった。
 体を弾ませるようにペダルをこぎながら昼間の裏通りを走り去っていく少年のジーンズの尻を、コオはなんとなく目で追っていた。




 街に不穏な空気が流れ始めたのはそれから一週間もたたないころだった。
 よくある暴力団どうしの抗争。嫌でも事情に敏くなる水商売のコオの耳にはいろんな情報が入ってきていたが、要するに、なわばり争いだ。
 発端は、よそから流れてきた新興の組が土着の組の若い者に命にかかわるケガをさせてしまったという事件だ。加害者は警察につかまって刑務所に送られたが、それで決着がつくわけがなく、こじれにこじれて今や全面戦争が起こりかねない事態になっている。
 コオはその日もひとりで開店準備をしていた。暴力団の出入りくらいでビビるようでは裏街のゲイバーなどやっていけない。
 ひととおり店内を掃除したあとスツールのひとつひとつを完璧な位置に据え直し、ふきあげたグラスを並べ終えてコオは一息ついた。
 今日はあの子が遅い。もう4時を過ぎているのに氷が届かないなんて、これまでなかったことだった。『カオス』の開店時間はこういう店にしては少し早い夕方5時だ。開店までにロックの準備ができないと困る。コオは吉田製氷に電話をかけようと受話器を取った。
 そのときだった。
 パンとはじける乾いた音。そしてほとんど同時に何かがたたきつけられるようなガシャンという派手な音がした。
 コオは頭で考えるよりも速く、勘で動いた。入り口のドアをまず細めに開け、それから肉食獣のように敏捷な身のこなしで外へ出る。西日の差した路地裏にコオの細長い影がのびた瞬間、2発目の拳銃が鳴った。
 店の前には、荷物を運ぶためのごつい自転車が横倒しになっていた。そしてあの少年が足から血を流しながらその下敷きになっている。辺り一面に氷のかけらがとびちっており、2発目の弾は氷に命中したことがわかった。
「撃つな!」
 コオは両手を広げて丸腰であることを示しながら見えない敵に叫んだ。
 風俗店の派手なネオンの影から、ダブルのスーツを着てピストルを持った男たちが出てきた。その筆頭は、コオも顔なじみのやくざで、地元の桐生組の若頭だ。
「この街で商売してェなら邪魔はしねェほうがいいぜ。店の中へ引っ込んでな。俺たちゃ、そいつに用があるんだ」
 桐生組の若頭はピストルの先を少年のほうへぴたりと向けた。
「兄さん、その野暮なもんはしまってくださいよ。まだほんのガキじゃありませんか」
 コオは倒れている少年に近づいた。
「うるせえ!!かばいだてすると撃つぞ!!」
「撃つなら撃ってみろ。チャカが怖くてゲイバーやってられるか。俺の店の氷が台無しだぜ、まったく…」
 凄みも度胸もコオのほうが数段上手だった。こういう修羅場では度胸のいいほうが勝つものだ。やくざたちはお決まりの捨て台詞と唾を吐きながらすばやく事務所の方向へ去っていった。
 コオは少年を店内の従業員休憩所へ運び、傷の手当てをした。脱がせたジーンズの下の脚は期待にそむかない美しさで、コオを不謹慎に喜ばせた。
 少年のケガは思ったより軽く、包帯をすれば一人で歩いて帰れそうだった。弾がふくらはぎをわずかにかすっただけだ。運がいい。
 休憩所のソファーに二人並び、濃くいれたコーヒーを飲みながら、少年はわけを語りだした。
「実は俺…長谷川組の組長の息子なんだ」
「そうだったのか」
 長谷川組は新しくこの街をなわばりにしようとしているほうの暴力団だ。この街に何十年も根を生やしている桐生組の若い者を半殺しにしてしまったため、桐生組から宣戦布告を受けている。この子が長谷川組の組長の息子なら、桐生組のやつらが狙うのも納得がいく。
「それで調理師に反対するわけだ…」
「うん。俺、暴力団の親分のあとがまなんかイヤなのに。でも、もう大丈夫」
 少年はコオに見せたことのないやくざな表情でにやっと笑った。
「今日撃たれてやるって条件で独立したんだ。…それでさ、住むとこもないの」
 長谷川組の組長は、騒ぎを小さくするために自分の息子を犠牲にするような人物らしい。息子に将来の夢と引きかえに命を賭けさせるなんてまともな親のすることではない、とコオは腹を立てた。しかしこの少年、そんな父を持ったからなのか、年に似合わず肝が据わっている。賭けに勝って運良く生き残ったその30分後には、数回会って話しただけの男に命をあずけようとしているのだ。
「…それは大変だね」
 コオは少年を家に連れて帰ることにした。




「いらっしゃいませ」
 店がゲイでにぎわう夜。シェイカーを振るコオの横で愛嬌をふりまく少年の姿があった。
 常連のジャズシンガーが興味津々といったようにカウンターの中へ身を乗り出す。
「コオ、誰?この子」
「だめですよ」
「何それ。質問に答えてない〜」
 コオは唇に微笑が浮かんでしまうのを止められない。少年は確かに魅力的だ。いや、前よりずっと男を惹きつけるようになった。それが自分の手柄だと、誰かれとなく言いふらしたくなってしまう自分にコオは困惑していた。
「じゃあこの子の代わりに新作のカクテルをプレゼントしましょう」
「ほー、久しぶりじゃない、新作なんて」
 見ているだけでほれぼれする鮮やかな手つきのあとにすっと客の前に差し出されたカクテルは、不思議な構造をしていた。
 下半分は血のように真っ赤な酒、その上にクラッシュされた氷が浮かんだ透明な酒の層がある。
「何ていう名前?」
「“ヒサシ”」
 コオは少年に聞こえないよう、低い声でささやいた。

                                            ≪終≫

 

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